第36話 茄子原綾を追いかけろ。その①
36.
「…………あなたは?」
「誰でもいいだろ。そんなに名前ってもんが重要かね?」
「ええ、重要ですとも」
茄子原が返事をする。
「相手が何なのか。そのものが何なのか。それを知ることは大切です」
「そんなもんかねー。名前なんて些細な問題でしかないだろ。時間が経てば、どれもこれもごちゃごちゃに曖昧になってしまうんだから。そういうなら、おたくらは『それ』が何なのか理解しているのか?」
茄子原が持つ『それ』――小さめのアタッシュケース。
「それを知るために、私たちはここにいるんです」
「ああ言えばこう言う……」
「とにかく、それはおまえたちが手にしていいような代物じゃない。こっちに渡せ」
「お兄さんは、何なんですか? これを手にしていいような人だと?」
「少なくともおまえたちよりはな」
「ふうん。日根先輩」
隣にいる
「あとはお願いしますね」
「え?」
次の瞬間、日根の身体は膨れ上がった。
全身を波打つように蠢いて、内側から張り裂けるように爆発した。
五臓六腑が飛び散り、内側から大量の植物が溢れ出した。
植物の海が、宇井添石を呑み込まんと、迫ってくる。
「…………あの小娘」
ぽつりと呟いた宇井の手元には、いつの間にかチェーンソーが握られていた。グリップを引いて、エンジンを始動させる。爆発するような音と同時に、チェーンが動き始める。
植物を避けて、避けられないものは切り落としながら廊下を進んで行く。
(仲間を足止めのために使ったのか……)
廊下全体を埋め尽くすような植物の波を、あっさりと抜ける。
この植物を溢れさせる『能力』を使ったと思しき小娘は既におらず、『先輩』と呼ばれていた女子は、既に木っ端微塵に吹き飛んでいた。
(……この隔離病棟から直接外に繋がる道は限られている)
宇井の手元にあったチェーンソーはいつの間にか消えてなくなっている。
(窓から飛び降りて脱出できるというわけでもないだろうし――)
それに窓には格子がついている。
だとすれば、どこからどんなふうに脱出するのか先読みすることが可能だ――と、考えながら廊下を進んでいると、破壊されている窓があった。
残っている格子の部分には蔦が巻きつけられていて、蔦をロープのようにして降りて行く茄子原の姿があった。
「なんて、脱出の仕方を……!」
宇井も、その蔦を掴んで窓から飛び降りる。
両手で掴んで滑るように降りて行く。その途中で、手のひらを引き裂くような痛みがあった。
「これは、薔薇の棘か」
蔦が、途中から茨のようになっている。
下のほうで物音が聞こえた。どうやら茄子原は降り切ったようだ。
降り終えたから……植物を変化させたのか。
「まずい」
次第に蔦が枯れ始める。
「くそっ」
壁を蹴って跳躍し、庭に着地して受け身を取った。
その庭には、桜の木などが植えられていて、足場は煉瓦を並べたような地面になっている。立ち上がり、周囲を見ると、この庭から出て行く茄子原の後ろ姿があった。
追いかけようとしたとき、何かに引っかかった。
足元には、木の根が引っかかっていた。
ずずずずっ、と。
煉瓦が波打つように蠢き始め、木の根が地面を突き破って出てきた。
その根が、ぶんっ! と横薙ぎに動く。
「ぐ、ふっ……!」
脇腹を殴打され、庭を転がる宇井。
周囲の桜の木が、まるで化け物のように動いている。
「追いかけるにしても、まずは剪定だな」
無言で立ち上がる宇井。
彼の手元には、いつの間にか、チェーンソーが握られていた。
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