第12話 入江聖の思い出


     12.


 入江いりえひじりが、その『能力』に気づいたのは小学生の頃である。

 それは、ある夏休みのことだった。毎朝のラジオ体操に行って、スタンプをもらって帰ってきたところで、玄関先の虫かごに何か入っていることに気づいた。

 三匹のクワガタムシと、カブトムシが一緒に入れられてあった。

 それは昨晩、ふたつ上の兄と父親が一緒に出掛けて捕まえてきた昆虫である。

 入江聖は、その虫の名前をカブトムシとクワガタムシ程度にしか認識していなかった。正確な名前まではわからない。ハサミ(正確にはアゴというのだが)があるほうを、クワガタムシ。角のあるほうをカブトムシ。

 これくらいの認識だった。

 名前なんてわからないけど、興味があったから、虫かごを開いた。

 毎朝ラジオ体操を欠かしたことのない入江聖とは違って、ふたつ上の兄はよく寝坊をする。お昼くらいまで、ゆっくりと寝ていることが多い。

 だから、今しかないと思った。

 きっと兄が起きてきたら、この昆虫たちには触らせてもらえない。

 そう考えた入江聖は、一匹を手に取った。

 自分の手くらいある大きなクワガタを見て、このとき、何気なく思った。

 無意識だったが、こんなことを思った。

 ほかにも何匹もいるクワガタムシとカブトムシ。

『みんなが戦ったら、誰が勝つんだろう』――と。

『やっぱり、今手に取ったこの大きなクワガタが勝つのだろうか』――と。

 そんなふうに思いながら、虫かごの中に戻した。

 リビングに行って、夏休みの宿題を始めた。

 しばらくして、兄が起きて来た。顔も洗わず歯も磨かず、真っ先に虫かごに向かった。そして悲鳴をあげた。

 もしかして、クワガタムシを勝手に触ったことがばれたのではないかと、内心焦った。

 母親と一緒に玄関先にある虫かごに行って、騒然とした。

 カブトムシの角は折れていて、羽はもがれていた。クワガタは八つ裂きで、ばらばらになっていた。

 唯一、その虫たちの中で一匹だけ生き残りがいた。

 さっき、入江聖が触れたクワガタだけだった。


 今になって思えば、初めて『能力』を使ったのはこのときだ。

 彼女が自分自身の『能力』を自覚したのはこの瞬間だった。

『能力』――『チェリーチェリーブロッサム』。

 その出来事があってから、十数年経った今。彼女は、あまりこの『能力』を使いたがらない。本心ならば使いたくない。

 虫を操るためには、虫に直接触れなければならないからである。

 クワガタムシを操ろうと思うなら、クワガタムシに直接触れなければならない。

 スズメバチを操ろうと思うなら、スズメバチに直接触れなければならない。

 小学生の頃ならまだしも、高校生になった入江聖は、この『能力』を使いたがらない。だけど、今は仕方ないと思いながら使っている。

(これは、生きるためだから仕方ない)

(生き残るためには仕方ない)

 と思っている。


『マザーグース』という正体不明の何かが女子のあいだで囁かれている。

 言ってしまえば仲良しグループでしかないわけだが、それが組織的に形成されているという印象を入江は受けていた。

『みんな仲良く』という、まるで小学校の学級目標みたいなものが、あるいは会社のコーポレートスローガンのようなものが掲げられていた。

(…………胡散臭い)

 これを受けて、最初に入江はそう感じた。

『みんな仲良く』には何か別の意味が、一歩踏み込んだ意味があるような気配を感じながらも、それを汲み取るだけの能力はなかった。

 ただ――『これに関わらないといけない』と、直感的に受け取っていた。

 その直感が正しいことを、すぐに実感した。

『みんな仲良く』というのは、わかりやすく明確な理念ではあるが、逆に『仲良くできない人間はどうするのだろうか』という疑問がある。

 その疑問は、すぐに晴れた。

『仲良くできない可能性』のある人物を、潰していた。

 仲良くできないかもしれないなら、潰す。潰されたくなければ、仲良くしろというのは、なかなかの恐怖政治でありながら、排他的な考え方である。

 それに対して、異を唱えたくとも、それが幅を利かせているのならば、それに準じるしかない。少なくとも入江聖は、自分自身を守るために、『マザーグース』の理念に沿うことにした。

 そのために、入江聖は『能力』を使うことを決意した。

 仲良くするつもりではいるが、それが上手くいくとは限らない。ひょっとすると大多数の人間から敵だと思われるかもしれない。

 だとしたら、当人がどれだけ仲良くするつもりであったとしても、『潰されてしまう』ことになる。

 入江聖は自分自身に自信がなく、周りと仲良くすることが上手くいかない。

 よかれと思っても角が立つことばかりである。

 ついつい言い過ぎてしまったり、ついつい余計なことを言ってしまったり、だ。

 それは彼女自身が素直に物事を受け止められず、被害妄想で捉えていることが原因として挙がるわけだが、入江聖は周囲と馴染むことが苦手な少女である。

 人間社会が苦手である。

 故に『マザーグース』から『潰されやすい位置』にいる。

 それは本人も自覚できていた。

 空気を読むことが苦手で、顔色を伺うことができなくて、周りに馴染むことが困難で、人と仲良くすることも上手くいかない。

 そんな彼女は、『これはまずい』と思った。

 だから『マザーグース』にとって役立てる存在であると、示すために彼女は『能力』を使うことにした。

 そのために『能力』――『チェリーチェリーブロッサム』を使うことを決めた。


 そうして知り合ったのが、日根尚美である。

『何か呼び名がないと不便よね』と言って、日根尚美が『チェリーチェリーブロッサム』と名づけた。

『桜』を意味する名前にどのような意図があるのかまでは聞いたことがないが、その名前はなんとなく気に入った。

 名前こそ気に入ったが、この『能力』を使いたいわけではなかった。

 この『能力』は直接対象である虫に触れなければならない。

 あの夏休みの出来事が、きっかけだ。

 入江聖は、虫が嫌いなのである。





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