曖昧模糊 蛯谷-1
釆原に喧嘩で負けた蛯谷は河川敷で大の字になって転がっていた。殴られた影響で鼻血も出ているが今は体を動かす気力もなく、頬を伝って地面を赤く染めていた。
――クソッ! 釆原があんなに強ぇなんて聞いてないぞ。あの野郎実力を隠してやがったな。ムカつく野郎だ。
倒れたまま何とか腕を振り上げ、拳を地面に落とす。拳は当然のごとく地面に弾かれ、鈍い痛みが拳から伝わってくる。
――この痛みが釆原を殴った時の痛みだったらな。……鷹木さん、やっぱり俺と付き合ってくれた訳じゃなかったんだ。
蛯谷自身もなんとなく分かってはいたのだが、そんな不安を振り払うように釆原に付き合っていると伝えたのだ。
拳の痛みが残るまま、蛯谷は上半身を起こすと頭がくらくらした。釆原に殴られた影響と言うよりは急に起き上がった事による影響だった。
「雪止まねぇし、こんな所に何時までも居たら風邪ひくから帰るかな」
独り言ちる蛯谷が立ち上がろうとして正面を見た時、一人の女性が立っているのに気が付いた。正確に言うと今、気が付いた。先ほどまではその場所には誰も居なかったはずだ。
「あら? もう行ってしまおうとするの? 先ほどの戦い、見ていて面白かったわ」
コテンパンに負けた戦いを面白かったと言われても蛯谷は面白くない。なんだか不気味な感じのする女性は白い髪に赤い瞳をしており、本当にこの世に存在する人間なのか疑ってしまうほどだった。
蛯谷がそう思うのも無理はない。なぜならその女性はアン=エクハルトという名のヴァンパイア族の女性だったからだ。
「それで? アンタは俺に何の用だ? ただの冷やかしだったらすぐにどっかに行ってくれ」
蛯谷が鋭い視線を投げかけるが、アンの方は意に介した様子はない。アンにとって蛯谷は恐怖の対象でも何でもないからだ。普通に戦えばまず間違いなく負ける事はない。それが蛯谷に対しアンが持った印象だ。
「連れないわね。さっきの戦い、なぜあなたが負けたのか教えてあげようとしたのに」
――負けた理由? そんなのは俺の方が釆原より弱かったからに決まっている。
再び嫌な画像を思い出してしまった蛯谷は渋い顔をする。女性との会話を楽しみたいとも思わない蛯谷は早く女性にどこかに行ってほしかった。
「あら? その顔良いわね。なかなかそそられるわ。そんな顔を見せてくれるなら教えてあげましょう。相手の男の子は何か特別な力を使っていたわ」
――特別な力? 超能力とか魔法とか言った類の物か? なんだそれ。やっぱりこの女性は信用できないな。
あからさまに疑いの表情を浮かべる蛯谷だが、アンは構わずに話を続ける。チラつく雪がアンの体をすり抜けている事に蛯谷が気付かないまま。
「男の子の近くに女性が居たでしょ? あの女性、何か不思議な感じがしなかった?」
――確かに、釆原の後ろに飛び切り綺麗な女性が居たな。不思議な感じか……。したようなしてないような……。
蛯谷の表情に迷いが出るとアンは行けると感じた。実際、釆原が力を使っていたかどうかなんてアンは知らないがそんな事はどうでも良いのだ。蛯谷が話を聞いてくれるための方便なのだから。
チラついている雪が降ってくる量はそれほど変わらないが、
――なんか雪が体を通り抜けてるように見えるんだが気のせいじゃないよな? 釆原がどうこうよりそっちの方が気になるんだが……。
蛯谷の顔を見てアンは笑みを強める。その笑みは降っている雪と同等かそれ以上に冷たい。
「気付いてしまったかしら? そう。私もあの女性と同じこの世界の人間ではないのよ」
腰を付いたまま後退りする蛯谷をゆっくりと追いかけるようにアンは近づいていく。アンとしては距離が離れてしまうと話しづらいので近寄っているだけなのだが、蛯谷にとっては幽霊に近づいて来られているみたいで恐怖を感じているのだ。
「あなた。あの男の子に勝ちたいと思わない? 私なら男の子に勝たせてげる事ができるわよ。ねぇ……。私と……しない?」
アンに覆いかぶさられるように迫られ、蛯谷は頷いてしまう。こんな綺麗なお姉さんに大人の階段を登らせてもらうなら、そこが河川敷であろうと女性の体が透けているように見えようが関係ない。
艶っぽい唇が蛯谷の顔の前まで近寄ってくる。蛯谷はその唇を触ってみたくなったが、
「手を伸ばすのはそこじゃないわ。もっと下。胸の方に手を伸ばしてみて」
優しく言葉で誘導させる蛯谷はアンの顔から視線を外さず手を胸の方に持って行く。たわわに実ったアンの胸は同い年の女性の胸とは迫力と言う点で比べ物にならない。
ゆっくりとだが確実に蛯谷の手はアンの胸へと向かっている。大人の階段にあと一歩で足が掛かるのだ。
「恥ずかしいから下を見ちゃ駄目よ。そのままゆっくり、ゆっくり手を伸ばしていって」
アンの顔を見ながら蛯谷は頷く。手元を見ていないとどこで手を止めたらいいのか分からないが、感触があったら止めれば良いだろうと考え、アンに言われた通り手元を見る事はしない。
蛯谷の感覚ではそろそろ胸の感触があっても良いのだが、そんな感触はな未だにない。流石に不安になり、下を向こうとした所、
「めっ!」
赤ちゃんや幼児が怒られる時のように蛯谷は叱られてしまった。今まで同じような年代の人たちばかりと接してきた蛯谷にとって今の怒られ方は非常に嬉しい物だった。
そんな蛯谷の指先に何かが当たったような感覚があった。思っていたよりも硬い感じはもしかして胸に当たったのではなく胸の先端にある桜色の所に当たってしまったのではないかと蛯谷は思った。
「そこよ。ゆっくり指を下に動かすの。そうすればどうなるか……分かるでしょ?」
アンの瞳に魅了された蛯谷は何度も頷く。思春期を迎えて初めて触る異性の胸。蛯谷はアンが痛くならないように優しく指を動かした。
「いッ!!」
痛くなったのは蛯谷の頭の方だった。急に襲い掛かって来た頭痛に蛯谷は頭を抱えて地面を転がる。何時まで経っても治まらない頭痛に蛯谷は舌を噛み切ろうかと思ったが、
『契約者には一つギフトを与える』
と変な声が頭の中に聞こえてきた。その声が聞こえた後、何事もなかったように頭痛は治まった。何が起こったのか分からない蛯谷に立ち上がっていたアンが声を掛けた。
「これで契約成立ね。契約してくれてありがとう」
アンが言っていた「したい」と言うのは契約の事だったのかと今更ながら蛯谷は理解した。やりきれない思いを拳に乗せ、蛯谷は何度も地面を叩く。
――それにしても契約って何の事だ? 俺は契約なんてした記憶がないんだが。
やっとショックから立ち直った蛯谷がアンの言った契約について考え始めた。だが、いくら考えた所で契約をした記憶がないためそれ以上は先に進めない。
「どうやら話せる状態になったようですね。私はアン。あなたの
伸ばしてきた手を掴み立ち上がった蛯谷にアンは先ほどとは違い、柔らかい笑みを浮かべる。
「あっ、はい、僕は蛯谷。
先ほどまで通り抜けていた雪はアンの体に当たると体温で溶けてしまっている。アンはそんな事に構いもせず、蛯谷に知っている事をすべて伝えた。
アンの話は正常の状態で聞くにはあまりに突拍子もなく、頭のヤバい人に騙されているのではないかと思えるほどだった。
「アンさんはそれでレガリアって言うのを集めるために俺に手伝って欲しいって事ですか?」
「アンと呼び捨てで大丈夫ですよ。正直言うと私はレガリアにはそれほど興味がありません。敵が来れば戦いますが、それよりももっと面白い物を見たいのです」
蛯谷はビクリと肩を動かした。それは大人の階段を登る手伝いをしてくれるのかと思ったのだが、そうではなかったようだ。
「先ほどの男の子と再戦はしないのですか? 男の子も
釆原との再戦は蛯谷の頭にはまるでなかった。先ほど負けたばかりなのにもう一度と言うほど接戦な訳でもなかったと蛯谷は思う。
それにアンがどれほど強いのかも蛯谷は知らない。知った所で男と男の戦いに加勢させる事はないのだが、そもそも強さを知らなければ話にもならない。
「それもそうですね。それでは私の力の一部をお見せしましょう」
アンが掌を差し出すとそこには小さな発光する物体がふわふわと浮いていた。その発光する物体をアンがもう片方の指で突くと蛯谷の方に向かってゆっくりと宙を移動してくる。
何となく嫌な感じがしたので蛯谷は避けようとしたのだが、
「動かないで! 動いてしまうと私の実力が分からなくなってしまいます」
蛯谷は避けるのを止めた。訳の分からない物体が迫ってくる恐怖があるが、我慢をしていると発光する物体は蛯谷のお腹にぶつかった。
鉄球を投げつけられたような痛みがお腹に走り、折角立ち上がったのに蛯谷はその場に両膝を付いて崩れ落ちてしまった。
――痛てぇ。何だあれ? 見た目ファンタジー感満載なのに当たると滅茶苦茶痛てぇ。
「これは単純に魔力の塊をぶつけただけです。私はこれを動きながら高速で打ち出す事ができるのです」
なるほどと蛯谷は思う。これほどの威力の物が高速で打ち出されれば避けるのは難しいだろう。アンの強さは分かった。けど、アンから説明されてない事があるのを蛯谷は分かっている。『ギフト』の事だ。
先ほど頭の中で響いた事についてアンは蛯谷に何も言っていないのだ。
「なぁ、『ギフト』って奴が貰えたって声が聞こえたんだけど、あれもアンの能力なのか?」
そうだとするなら教えて欲しいと蛯谷は思うのだが、
「『ギフト』ですか? 私は知らないですね。何が貰えたのですか?」
どうやらアンも知らないらしい。何となくだが使い方を蛯谷は知っている。試しに足に意識を集中させ、『ギフト』を行使する。その状態で動いた蛯谷は見た事もない光景に驚いた。
自動車、いや、新幹線に乗った時のように周りの景色が流れたのだ。蛯谷が貰った『ギフト』は高速化。高速で動く事ができるのだ。
「素晴らしいですね。それが『ギフト』と言う物の効果ですか? 身体強化の魔法の一種でしょうか?」
魔法と言われてもピンとこない蛯谷だが、この能力があれば釆原に勝てるかもしれないと思う。さっきの戦いでは攻撃が避けられたのだが、このスピードなら避けることなどできないだろう。
蛯谷は早速スマホを取り出し、釆原に再戦を申し込もうとしたのだが、蛯谷のスマホには釆原の電話番号もメッセージアプリの登録もされていなかった。
「あの野郎! 友達なら電話かメッセージアプリのどっちかを教えておけよ!」
今更ながら連絡先を知らなかった事に怒りが湧いてくるのだが、雪や気温の低さもあり体が冷えて来て震えが襲ってきた。
周囲は暗くなってきており、曇天で太陽は見えないが、どうやら陽が沈みかけているのだろうと推測する。そろそろ家に帰るかと蛯谷は思ったのだが、同時にアンはどこに寝泊まりするのだろうと疑問に思った。
「アンってこっちの世界に来たばかりでどこに寝泊まりするの? ホテルとか取ってるの?」
「いいえ、そんなものは取ってないです。私は行彦の家に泊まりますよ。他の
思わず蛯谷の体が後ろにさがってしまった。アンのように綺麗な女性が一緒の部屋に……と少々発想が飛躍しているが、それには問題がある。蛯谷は両親と一緒に住んでいるためいきなり女性を連れてなどいけないのだ。
「それなら大丈夫です。何か言ってきたら従僕化すれば大人しくなりますから」
そんな事されたら両親じゃなくなってしまうと思う。両親とは仲が良いとまでは言えないが、居なくなって良いとまでは思わないのだ。
仕方がないのでアンには留学生としてふるまってもらう事にする。どう考えても年上と言う感じがするが、外国人と言うのは年齢よりも大人びて見えたりするので何とか誤魔化せるだろう。
「じゃあ、行くか。よろしくな。アン」
そう言って蛯谷が手を差し出すと、アンは犬歯を見せながら手を握り返してきた。家に帰る途中もアンの知っている事だったり雑談だったりをしながら蛯谷は家に帰って行った。
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