第三十五話 断魔の星剣
「これって……」
あれほど分厚く広く聖都を覆っていた雪雲が、今は一欠片もない。代わりに現れたのは満天の星空。地上に蒔かれた灯の星が霞んで見えるほどの夥しい光が降り注ぐ。そして、天頂に一際強く輝く一つの星座。
これとよく似た光景を海都で見た。空すら自らの領域に書き換える絶大な北星魔法。マニベルがこれを起こしたというならば、現れる存在は一つしかあり得ない。
「罪人にふさわしい裁定が与えられるでしょう。神をその目に映して逝ける幸運に感謝しなさい」
脚を砕かれて雪の上に仰向けで倒れたまま、マニベルが言った。
星が輝き、広場に一筋の光が降りてきた。光の筋は地面に突き刺さって辺りを強く照らした。僕はあまりの眩さに目を覆う。強い光が落ち着いてから前を見ると、それはいた。
教会の建屋ほどもある巨大な女性の姿だ。白磁のような肌は淡い燐光を纏って神々しく、深いひだを刻むドレープのドレスはオーロラのように裾を揺らす。広げられた翼は広場をすっぽり覆うほどだが、それ自体が白い輝きを放っており、影を落とすことはなかった。慈愛に満ちた顔が僕らを見下ろす。しかし、携えられた大剣は鋭く、限りなく冷たい。
これが、つるぎ座の神。しかも、魔籠で略式に喚んだものではなく、本家本元である北星教会の正当な儀式魔法によって降臨した神だ。
星座の神の強さは知っている。この目で見たからだ。どう考えても正面からやり合って勝てる相手ではない。なぜなら、神だから。敵に回すとどれほどの絶望を与えるのか、僕は今思い知った。
「ララ、ルルを連れて逃げろ……」
「逃げられると思ってますか? かっこつけにもなってませんよ」
ララが引きつった顔で言う。その通りだろうな。
教会の人間であるハリウスならばと彼の方を向いてみるが、短剣を取り落として頽れたままつるぎ座の神を見上げていた。打つ手のないことは伝わってくる。
神が宝石のような目で僕らを見下ろし、罪人を裁く剣がゆっくりと持ち上げられてゆく。僕らは、ただそれを見守ることしか出来なかった。
背後で小さな音がした。
振り返ると、教会の扉の前にルルが立っていた。手には何やら一冊の本を持ち、思い詰めた表情で神を見上げている。
「ルル、出てきちゃダメだ」
僕の言葉が聞こえているのか、いないのか。何も答えずにゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。背後では開かれた扉の陰に身を隠しながら、夫妻が信じられないものを見る目でルルの背を追っていた。今だけは僕も夫妻と同感だ。なるべく身を隠したまま、裏口かどこかから逃げ延びてほしかった。
僕の心配をよそにルルは黙って歩き続け、僕の前で立ち止まった。神に立ち向かうにはあまりにも矮小な背中。それが神々しい光を遮って僕の顔に影を落とした。
「大丈夫です。おじさま」
ルルが僕の方を振り向いて小さく呟いた。僕が何も言えずにいると、ルルは再び前を向き、神の背後に守られているマニベルへ向けて言葉を投げかけ始めた。
「マニベルさん。まだ間に合います。もう戦うのをやめてくれませんか?」
「悪魔の眷属ですか。自ら姿を現わしたことだけは評価しましょう。しかし、悪魔に与する身でありながら星の力を借りた罪、何より重いと心得なさい。貴女の罪はここで裁かれる」
「どうしてもやめてくれませんか?」
「答えるまでもないでしょう」
ルルは小さく息を吐いた。白いもやとなって流れてゆくそれが空気に溶け消えた後、その手に持った本を開いて、読み上げた。
「その矛先を違えたならば、刑吏もまた罪人なり」
場を静寂が支配する。ルルは何をしたのだろうか。その答えはすぐに現れた。
つるぎ座の神が、その剣を構えたままこちらに背を向けたのだ。そして、マニベルがいるのであろう、足下へとその顔を向けている。
「これは……儀式を書き換えたのですか!」
驚愕に満ちたマニベルの声が聞こえてくる。ここまで感情のこもった声は初めて聞いたかも知れない。ここになって、ルルがやっていた事前準備の意味が分かった。ここにしかない魔法がひとつだけあるという言葉の意味も。ルルは北星十三星座の儀式魔法すら読み解いていたということだ。
「おのれ、悪魔の眷属が! 許されない。許されない! こんなことは!」
あのマニベルの口から出ているとは信じられない罵倒の数々を、ルルは何も言わずに黙って聞いている。どんな顔をしているのか分からない。ただずっと前だけを向いていた。
「不届き者め、地獄へ墜ちろ! 地獄へ――」
神の剣が振り下ろされた。地面に刃が突き立てられると共に地響きと閃光が夜を白く染め、マニベルの声をかき消した。
音が収まると、つるぎ座の神は少しずつ光の塵となって天へ昇り始めた。逆に降る雪のように煌めく粒子が全て消え去ると、広場に残ったのは巨大な裂け目だった。マニベルの姿はどこにも見られない。
「終わったのか?」
「はい」
ルルはそう言ってこちらへ振り向いた。その顔は悲しそうだった。騒動の元凶がいなくなり、事態にけりが付いたというのに。俯いた顔は暗く、目の端には涙が光っていた。視線を落としてみれば、本を持つ手は強ばり震えていた。寒さのせいでないのは明らかだった。
「おじさま、わたしは……」
「気にするな。ルルに魔法は使えないだろ。あいつが自滅しただけだ。ルルがやったんじゃない」
僕の言葉がどれほどの慰めになったかは分からない。それでもルルはこくりと頷き、溜まっていた涙が頬を伝った。
気づけば空模様はもと通りだ。分厚い雪雲に覆われて、いかなる星座も見ることは出来ない。地上の星蒔きは再びその役目を取り戻していた。
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