第二十三話 敗走、そして大喧嘩
ずぶ濡れの服が重い。
クラーケンの変身を解除した時点から水の重さと体の重さを感じ、そして魔法を受けた影響であろう脇腹の怪我が痛んだ。なるべく岸ギリギリまで変身を維持したまま近づいての解除だったが、凍てつく湖は少しの遊泳も地獄に変えた。とはいえ、クラーケンの姿で接岸するわけにもいかず、やむを得ない。強化魔法がなければ凍死していたかも知れない。
とにかく生き残るために必死だったから、自分が今どこにいるかも分からなかった。振り返ると遠く湖の上に途中が崩れた橋と、暗い十三星座教会が見える。橋の伸びている方向から大体の位置を把握すると、僕は歩き出した。目指すは駅前だ。
教会区を吹き抜ける風が濡れた服に当たって寒い。未だ舞い散る雪も分厚い雲も恨めしいくらいだ。すれ違う人々が僕の方をちらちらと見るのが分かった。真冬にずぶ濡れで歩いているなんて、それは目立って仕方ないだろう。
「もし、どうかされましたかな」
声をかけられ、振り向く。
祭服に身を包んだ教会関係者らしき老齢の男性が立っていた。一瞬警戒したが、つるぎ座の使徒のような雰囲気はない。祭服の種類も違うようだ。心配と訝しみが半々のような視線を浴びながら、僕は顎の震えを堪えつつ辛うじて応じる。
「大丈夫です。すみません、うっかり湖に落ちてしまったもので」
言いながら、さりげなく血の滲む脇腹を隠した。こんなところで足止めを食うわけにはいかない。
「貴方もあの光を見て行ったのですかな。何があるか分からないので、止めた方が良いでしょう……と言うのも遅かったようですが」
自分では馬鹿らしい言い訳だと思いながら言ったが、納得してもらえたようだ。なるほど、マニベルが放った一撃はかなり目立っていたらしい。何事かと見物に向かっている人もいるようだ。言われてみれば同じ通りには湖に向けて歩いて行く人がいくらか見られた。
「そうですね。もう懲りましたので、宿へ帰ります。ありがとうございます」
「ええ、それがよろしい。お気を付けて」
路上の雪を踏みしめて教会区を抜け、市街区へと入る。人通りが一気に多くなり活気が満ちる。通りを行く人の中には、湖の方面を指し示して会話している姿もあった。こんなにも遠くまで見えていたようだ。とんでもない一撃をもらったのだと、改めて思う。
雑踏に紛れて僕の姿も少しは目立たなくなっただろうか。濡れた服は表面が乾き始めた、というか凍り付き始めているように感じる。
星蒔きによって明るい通りを抜け、痺れも寒さも痛みもごちゃ混ぜで、体の感覚が分からなくなり始めた頃、僕はようやく駅前にたどり着いた。湖の反対側に上がっていなかったのは幸いだ。危うくとんでもない大回りをするところだった。
駅前の通りにララと打ち合わせた目印である焼けた木を見つけ、その前にある宿へと入る。
木製の扉を開けると、軽快なドアチャイムの音と共に暖かい空気が僕を迎えてくれた。凍りつつあった表皮が温めほぐされていくような心地よさを感じる。もしかしたら、実際にそんな状態だったのかも知れない。
そこは聖都で最初に泊まったところとは違う、大衆向けの安宿だった。三階建てで、一階のここはフロント兼酒場になっているようだ。あまり広くはないし、酒場の席も多くが空いていた。
酷い格好で入ってきた僕に数名の客がチラリと視線を送ったが、ほとんどはすぐに興味を無くしたようで自分の卓へと視線を戻した。そんな中、一人だけ駆け寄ってくる人物がいた。
「ノブヒロさん!」
「ララ……」
「大丈夫ですか? ……いえ、どう見ても大丈夫じゃないですね。部屋は取ってあるので、すぐ行きましょう」
ララに導かれるまま階段を上る。足下を確かめながら進んでいると、頭上からララの声が降ってきた。
「ここへ来る途中、湖の方から強い光が見えました。大きな音もして、周りがちょっとした騒ぎになるくらいだったんですよ」
「僕も同じようなこと言ってる人に会ったよ。……あいつ滅茶苦茶強かった。負けたよ」
「何言ってるんですか、私たちを無事に逃がしたんだから、勝ちですよ。お姉ちゃんも本当に心配してました」
「じゃあ、ララも心配してくれたんだ」
「当たり前です」
三階まで上ると、扉の前で立ち止まり、ララが「お姉ちゃん」とルルを呼んだ。すぐに扉が開き、ルルが姿を見せる。そして、僕の姿を見るなり目を見開いて悲痛な表情をした。
「おじさまっ! 大丈夫ですか? ……ううん、大丈夫じゃないです。早く入ってください」
ララとあまりにも似通った物言いに、事態も忘れて噴き出しそうになる。それほど僕の見た目は酷いらしい。
宿の外観から想像できたように、部屋の質もそこそこと言った感じだ。二人部屋なのだろう、シングルのベッドが二つ並べておいてある。そこにルルとララ、そして二人の両親までいるものだから大変窮屈になっていた。
「座って休んでてください。下で何か温かい飲み物を買ってきますから」
ルルがそう言って出て行くのを見送り、僕は椅子に腰を下ろした。ベッドのひとつに、夫妻は並んで腰掛けていた。
「事情は聞いたぞ。大変なことに巻き込んでくれたな。あの場でお前らを突き出していれば、こんなことにはならなかった」
「僕のことが気に入らなければ、どこかへ離れてくれて結構ですよ」
かすれた声で吐き捨てるように言った。というより、余裕のある物言いが出来る状態ではなかった。ようやく寒さを脱して腰を落ち着けたら、今度は疲労と眠気がどっと押し寄せてきたからだ。
「なんだと? お前の方が離れるんだ」
「では、あれに襲われても、対処はお父様方がご自分で為さってくださいね。それでもよければ喜んで離れますが」
僕と夫妻の間にララが立ちはだかって言った。
「それは、今からでも事情を説明すれば……」
夫人が言うも、言葉は先細って自信は感じられない。
「話の通じるタイプには見えませんでしたけどね」
彼らも分かってはいるのだろう。オークマレット氏はララの言葉を受けて顔を伏せると、歯ぎしりと共に悪態をついた。
「そもそもの原因になった奴らが、偉そうに何を言うのだ。あの役立たずときたら、私の顔に泥を塗ったばかりか、よりによって悪魔などにかしずくとは、どこまで恩知ら――」
言葉はそこで急に途切れた。どうしたのかと顔を上げてみると、ララが杖を構えてオークマレット氏に向けているではないか。杖の周りには光で描かれた小さな模様がくるくると回っている。魔法を発動中だ。
氏はというと、両手で首周りの空をひっかき、顔を真っ赤にして目を見開いている。驚きと怒りのこもった視線をララの方へと向け、うめき声と共に口の端から唾を垂らしている。見えない何かに首を絞められているようだった。
夫人のほうは金切り声を上げながらララに飛びかかろうとしたが、やはり見えない何かに押し返されるようにして床に倒れ込んだ。
「やめろ、ララ」
僕の弱々しい言葉に、ララは振り向きもしない。
「そもそもの原因? それを言うなら、お姉ちゃんを家から追い出した貴方たちこそが真の原因でしょう」
言葉が震えているのは怒りの表れだろうか。依然としてこちらを向かないララの表情は知れないが、その背中は重く、そして暗く見える。
その時、部屋の扉が開いてルルが戻ってきた。飲み物が入っているであろう金物のポットを手にしている。
「おまたせしました。お茶を買ってきたので、これで――ララ、何してるのっ!」
部屋の惨状を見るなり、ポットを脇に置いたルルが血相を変えてララに掴みかかった。ほとんど抱きすくめるようにして覆い被さり、ララはそれでようやく杖を降ろした。それでも顔だけは夫妻の方へ向いたままだ。
魔法から解放されたオークマレット氏はうずくまって激しく咳き込み、言葉を出す余裕も無さそうだ。それを冷ややかに見下しながらララは続けた。
「貴方たちが守ってもらえるのは、お姉ちゃんがそう望んでいるからだと知るべきです。そうでなければ守る理由なんて無い。貴方たちが役立たずと蔑んだお姉ちゃんと、悪魔と罵ったノブヒロさんがいなければ今頃どうなっていたか、よく考えてください」
ララはそう言うと、部屋の出口を向いて歩き始めた。
「ねえララ……」
「お姉ちゃん。やっぱりもう一部屋取ろう」
こちらに背を向けたままそれだけ言って、ララは部屋を出て行った。もう一部屋取りにいたのか……っていうか、この人数で一部屋のつもりだったのか。
ルルはララの背を見送った後、深い溜息をついた。心労は察して余りある。
ちらと背後の両親を見るも、話しかけずに僕の方へ来ると小声で言った。
「おじさま、出ましょうか。たぶんララが別の部屋を取ってくれているので」
「わかった」
なんだか部屋に入った時よりも心なしか重たくなった気分を背負って、僕はよろよろとその場を後にした。
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