第二十一話 湖上に舞う
未だかつてない力の高ぶりを感じる。水中の寒さも巨体の重さも気にならない。伝説の魔物、クラーケンの名に恥じない性能だ。
魔法によって水中でクラーケンへと変貌した僕は、頭上のマニベルを狙う。
人智を超越した魔物としての感覚が湖上の状況をつぶさに捉えている。
僕は数多の触手を水上へと高く伸ばし、マニベルを取り囲む。敵が警戒して足を止めたのが分かった。まずは足止めだ。
橋脚と桁に触手を一斉に絡ませて締め上げる。橋の構造が絶望的な軋みを響かせ、稲妻のように亀裂が走った。もう一息力を加えると、橋の崩壊が始まった。頑強な橋だったようだが、クラーケンに絡みつかれることなど想定していないだろう。歴史的建造物っぽいが、知ったことか。
マニベルの足場も崩落。瓦礫と化した部材が湖面に落ちては沈んでゆく。剣を手にしたマニベルも数多の残骸と共に湖面へと迫ってきた。このまま水魔法で追撃する。
マニベルの落下地点に巨大な渦を生み出す。水中に引きずり込めばこっちのものだ。しかし、マニベルは落下しながらも表情を一切崩すことはなく、ただ冷静に何かを唱えた。
「星の下、地も川も等しく汝の路である。その歩みを阻むことなし」
その小柄な全身を淡い光が包み込んだ。果たして、マニベルの体は水に飲まれることはなかった。まるでそこが陸地であるかのように易々と湖面に着水。渦を一跳びに抜け出して水の上を優雅に駆けてゆく。何らかの魔法で水の上を歩けるのか……。
僕は伸ばした触手でマニベルを全方位から取り囲み、連続で打撃を仕掛ける。暴れ牛のように波打ち荒ぶる湖面で、マニベルは器用に跳びながら僕の攻撃を回避し続けた。僕の攻撃は水面ばかりを滅茶苦茶に打ち付け、飛沫を上げるばかりだ。
一つ一つが無駄のない動き。祭服をはためかせて跳び回る姿は、激しい近接戦闘の最中とは思えない優雅さすら感じる。
「天つ剣は裁きの秤、その腱を以て己が罪を試すべし」
マニベルの大剣が白く輝き、攻撃を仕掛けていた触手に向かい合って構えるのが見えた。まずいと感じて触手を引っ込めようとしたが、後の祭り。白い軌跡が夜を切り裂く。教会の尖塔ほどはありそうな触手の二本が一瞬で切断されていた。切り離された端部が魔力を失って夜の闇に溶けてゆく。大丈夫だ、まだ戦える。
水中から大波を引き起こす。水の上に立てるようだが、足場がぐらつけばどうだ? しかし、マニベルは壁のような高波にも涼しい顔で対応してきた。荒波の上を自在に跳び移り、水面を蹴って触手攻撃を回避する。
まだまだ。
僕はマニベルの真下に移動。可能な限り強力な水流を集中して一気に突き上げた。
噴き上がる水柱、空気が逆巻き、雪が舞い上がった。マニベルは足場にしていた湖面もろとも上空高くに放り出された。水上でもダメならば空中で攻めてやる。
頼るべき足場のないマニベルは雪と共に落下するのみ。僕は四本の触手を伸ばし、空中のマニベルめがけて多方向から殺到させる。今度こそいけるか。
「標は遠く、その手は届かぬ。祈れ。祈りのみが標へ至る」
マニベルが剣を掲げると、その輝きが一際増した。光は水中の僕にも眩しいほどに強く、それは広がってマニベルを守るような球状の膜となった。僕の攻撃は光の膜に弾かれる。今度は防御魔法か……。
「北星動かず、故に求道曲がらず。はだかるものよ、疾く退くがよい」
湖面へと落ちてくるマニベル。その視線は深い水を通して、間違いなく僕を貫いていた。まさかあそこから攻撃してくるのか。
着水寸前、マニベルが剣を振るった。
湖が割れた。
凄まじい輝きと衝撃。圧を持った光の奔流が湖水を丸ごと退け、水底に潜む僕の姿を露わにした。ギリギリで回避を始めていたが遅い。腹部の側面を光が焼き、触手の付け根を丸ごと四本消し飛ばした。激痛に意識が飛びかけるが、根性だけで保つ。
水は水であることを忘れたかのように道を譲り、湖面に空いた大穴へとマニベルは風を切って落下してくる。赤い瞳は揺らぐことなくこちらを捉えている。光り輝くその姿は、僕にとっての死そのもの。
これ以上の追撃はまずい。触手のほとんどを失い、こちらの攻撃は防ぎきられ、敵は水の上を易々と動き回るどころか、湖を割って湖底まで斬りかかってくる。人間の仕業とは到底思えない。実力の差は明らかだった。
僕は痛む体に鞭打ってマニベルの射線から辛うじて逃れる。さらに魔法が飛んでくるかと気が気でなかったが、さすがに水に横穴を開けるほどのことはできないようだった。魔法によって退けられていた湖水が崩落するように戻ると同時、マニベルも水上へと戻っていった。
頭上から睨めつけられている気配を感じながら、僕は湖底の闇に隠れて逃走した。どこか目立たないところで岸に上るしかない。悔しいが、完敗と言うほかなかった。今はとにかく、ルルたちと合流しなければ……。
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