第三十六話 密会

 また一つ、歓声と共に窓の外で光が弾けた。艶やかな黒檀の執務机に影が落ち、すぐに消える。普段は静かな一等地にまで人々の熱気は押し寄せてきている。この様子では朝まで騒ぎは収まらないかも知れない。


 剛堂仁也は魔籠技研の海都支部、その執務室にいた。

 そろそろ信弘たちが帰りの列車に乗った頃だろうか。見送りに行くつもりであったが、今は目の前の作業を優先することにした。机上に広げられているのは、鐘鳴を魔籠技研に迎え入れるために必要な書類や、マリンを水都の魔法学院へ編入させるための書類だ。

 剛堂にとっての必要事項は鐘鳴だけであったが、マリンがついてこなければ鐘鳴が移住しないのは分かりきっているので、どちらも手が抜けない。マリンの学力ならば編入に問題は生じないと思われるが、万一の失敗も許されない。金銭の使用も含め、あらゆる手を打っておくことにする。鐘鳴を引き抜かれることになる港湾ギルドにも一筆必要だろう。下っ端の労働者一人いなくなることを気にするような質のギルドではないが、万全を期す。加えて、いくらか金貨を握らせておけば後腐れもないはずだ。


 黙々と書類にペンを走らせていると、背中へ風が吹き付けた。視界の端でカーテンがはためき、潮の香りが部屋に満ちる。背後の窓は閉めてあったはずだが。

 剛堂は一度だけ手を止めたが、すぐに作業を再開する。そして書類から目を離さぬまま言った。


「遅かったじゃないか」


 また外で光と音が弾けた。熱狂した誰かが花火の代わりに打ち上げた魔法の輝きに照らされ、再び部屋に影が落ちる。剛堂のものと、もう一つ。


「ごめんなさいね。これでも手紙を読んでから急いできたのよ」


 女の声だった。剛堂は声の主に顔を向けることもなく、書き物を続けた。


「もう少しで何もかもが手遅れになるところだったんだ。部下の手綱くらい握っておけないのか?」

「生憎と、忠実な部下はほとんどへ行ってしまったから、残っているのはああいう手合いが多いのよね。実力は確かだけれど、困ったわ。でも、そのお陰で良いものが見られたでしょう?」

「……わざとそうさせたのか?」

「うふふっ、どうかしら」


 女の声に、剛堂は少しだけ不愉快そうに眉をひそめつつも話を続けた。


「悪いが、こちらで勝手に処分しておいたよ。あんな危険人物は残しておけない」

「あら、ありがとう。手間が省けたわ。ところで、もう御一方の様子はどう?」

「勧誘は続けているが、難しそうだ」

「そう。でも、過剰な心配は必要ないでしょう。とても強い守りがついているようだし、本人も中々逞しいと感じたわ」

「ああ、だが急がないといけない。あと一人、なんとしても……」

「それなら、見つけたわよ」


 剛堂が目を見開き、初めて後ろを振り返る。ちょうど窓の外で再び強い光が打ち上げられ、女性のシルエットが逆光の中に浮かび上がる。


「本当か」

「ええ、学都に一人ね。上手に隠していたようだけど、私の目を誤魔化せるものですか」

「そうか、そうか……!」


 剛堂の声には隠しきれない歓喜が滲み出ていた。知らずのうちにペンを持つ手に力が入り、微かに震える。女がもたらしたのは、これ以上ない朗報。悲願の達成まであと一歩に迫ったことを意味するものだった。静かに喜びをかみしめる剛堂を女は無言で見つめる。

 本当の意味で喜ぶには早い。なにせ、まだ長い準備段階の終わりが見えただけに過ぎないのだから。

 やがて落ち着いた剛堂は改めて女を見据えると、言った。


「準備を始めようか、フラウ」



 海神の継承者編 完

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