第一話 魔法使いの弟子

「痛った……」


 僕は倒れたまま顔面を手でおさえる。ひどくぶつけてしまったみたいだ。

 ぬるっと嫌な感触。顔から手を離して見ると血がついている。


「鼻血が……」


 最悪だ。


「だ、大丈夫ですか!」

「え?」


 僕の真横で声がした。

 若干ぼやけていた視界が明らかになってくると、その姿が確認できた。女の子だ。だいぶ若い。十歳くらいか? っていうか、なにが起きてるんだ。


「ちょっと、なに、これ。どこ、ここ」


 ふらつきながら立ち上がって周囲を見るが、僕の部屋じゃない。どこかの森だろうか? 辺りは木が茂っている。僕はその森の中の、すこしだけ開けた場所に立っていた。頭上には月が見える。


「うそ、エメラルドグリズリーに殴られたのに」


 よく分からないが隣の女の子が驚いている。


「エメ……なんだって?」


 まだ痛む顔をおさえながら問いかけた時――


「あぶないっ!」


 再び顔面に物凄い衝撃。僕は後方にぶっ飛び、草地に転がった。


「ちょっ、マジで何」


 立ち上がって前を見る。

 熊だ。巨大な熊が二本足で立ち上がり、僕のほうへ歩いてくる。身長二メートル超はあるだろう。どういうわけか額に緑色の宝石が埋め込まれており、月光を受けて輝いている。マジかよ、どうすんだよ。


「あの、大丈夫ですか?」


 女の子が再び駆け寄ってくる。


「大丈夫じゃない……」


 僕はよろめきながら答える。


「すごい。こんなに頑丈な人はじめてみた」

「いや、聞いてよ」


 よく分からないが隣の女の子がまたしても驚いている。しかし、今は驚いてる場合じゃない、よく状況がつかめないけど、とにかくはやく逃げないと。


「不思議……あなたから物凄い魔力を感じます」


 魔力? この子は何をいってるんだろう。わけのわからない場所に、わけのわからない人物。きっと僕は転んで気絶したまま夢でも見ているんだな。そうでなければ説明がつかない。

 そう考えて無理に納得していると、女の子は肩に提げた小さな鞄を探り、一つの指輪を取り出した。小さな赤い宝石が取り付けられたそれを、僕の前に突き出して言う。


「この指輪をつけて、あいつに魔法を放ってください」

「魔法?」

「大丈夫です。この指輪は魔籠まろうですから。魔力を通して呪文を唱えるだけでいいんです」

「はあ……?」


 そういうことを聞きたかったわけじゃないんだが。よくわからない単語も出てきたし。

 とりあえず僕は指輪を受け取って、少し迷ってから右手の中指にはめた。カットされた宝石が月光を反射して光る。


「さあ、呪文を!」


 女の子が両手を握り締めて急かす。

 熊はこちらの様子を伺うようにじりじりと寄ってきていた。


「なんて言えばいいの?」

「ファイヤー! です!」

「ずいぶん安直なんだね」

「いいですから、はやく!」

「ふぁ、ファイヤー……」


 正直、めっちゃ恥ずかしい。いい歳したおっさんが指輪をかざしてファイヤーだよ。こんなん笑うしかないでしょ。


「もっと元気に!」

「ファイヤー」

「ちゃんと心を込めてください!」

「ファイヤー!」

「気合が足りない!」

「ファイヤーーーーーーーーー!」


 指輪の宝石が煌いた。

 熊に向けた掌に、テニスボールほどの火球が発生する。熱風が吹き荒れて肌が焼けるように熱い。火球はあっという間にバスケットボールほどの大きさに巨大化すると、僕の手を離れて熊のほうへと突撃して行った。

 熊が呆気に取られて立ち止まっていたところに、火球が命中。熊の顔面で爆発が起こり、周囲が一瞬明るくなる。


「やった! すごいですよ!」


 轟音と熱波の中、横で女の子が興奮している。正直、内心では僕もちょっと興奮している。

 爆風がおさまると、熊のいた場所は草が焼き払われて土が円形にむき出しになっていた。その中心にはブスブスと煙を上げる熊の骸と、砕け散った緑色の宝石が落ちていた。


「おじさま、すごいです! 天才です!」


 女の子が僕の両手をとってぶんぶんと振る。

 危機から脱してちょっと落ち着くと、ゆっくりと相手を見る余裕が出来る。改めて見ると、かわいらしい子だ。腰までかかるほどの金髪が、はしゃぐ女の子と一緒にさらさら揺れる。青い目が月光を受けてキラキラ。興奮しているせいかちょっとだけ紅潮したほっぺたは餅みたいだ。ちょっとだぶついている外套のせいで、ただでさえ小柄なこの子が、ますます子どもっぽく見える。


「おじさまは命の恩人です。何かお礼をさせてください」


 ひとしきり喜び終わった女の子は、ようやく僕の手を離して言った。


「お礼の前に、ここどこ?」


 自分としては、やはり夢というのが一番しっくり来る。しかし目が覚める気配はない。むしろ落ち着いてみれば周囲の様子にますます強いリアリティが感じられる。


「ここは魔物が出る、とっても危ない森です」

「ええ? 僕は自分の家にいたはずなんだけど」

「わたし、ここでエメラルドグリズリーに襲われてて、殴られる瞬間に、もうダメだと思って思わず目を瞑ったんです。でもわたしは殴られてなくて、かわりにおじさまが殴られてて……。だからおじさまがここに来た瞬間のことは見てないんです」


 転んで床にぶつけたものだと思っていたけれど、あの時すでに殴られてたのか。興奮が冷めたからか、痛みがもどってきた。まずはケガの治療が必要だ。そして今の状況を把握しなければ。とりあえずついて行ってみるか……。


「とりあえず、顔のケガ、なんとかしたい」

「そうでした! すぐ町に行って手当てをしましょう。お礼はそれからで」


          *


 僕は女の子に案内されるまま、森を出た。これから近くにあるという町へ向かう。


「すげえ……」


 森から出ると、頭上には満天の星。天の川なんて初めて見た。あたりに人工の灯りは一切なく、月明かりと星明りだけに照らされた景色が目の前に広がっている。月並みな言葉だけれど、感動した。


 道中もここは夢じゃないかといろいろ疑ってみたが、やはり覚める気配が無い。さっきの熱波で少しひりついた肌の感じも、今も鼻から垂れてくる血も、すべてがリアリティに満ちていて、夢のように思えない。僕の目の前を歩くこの子も現実そのものだ。念のため頬をつねってみたが、何の参考にもならなかった。


「あっ、いけない。自己紹介がまだでした。わたし、ルルといいます。十歳です。魔法使いの見習いをしてます! おじさまは?」

今川信広いまがわのぶひろ。三十五歳。フリーターです……」

「ノブヒロさんですか! よろしくおねがいしますね」


 何をよろしくされたのかわからないけど、女の子に名前を呼ばれたのは人生で初めてだ。なんかちょっと恥ずかしいけど、嬉しいな。


「どうぞ、わたしのことは遠慮なくルルと呼んでくださいね。わたしはおじさまのこと、おじさまって呼びます!」


 名前で呼ぶんじゃないのか……。しかも、僕っておじさんなんだ。無精ひげはやしたままだったのも見た目のおっさん感に拍車をかけているんだろうな。

 そんなくだらない話をしながらしばらく歩いたけど、町にはまだ着かない。


「ねえ、町はまだ? ちょっと、っていうかだいぶ疲れてきた。足が痛い」


 軽快に歩くルルについていくのが正直しんどい。我ながら情けないけど、大学中退以来、ろくに運動してないんだから、仕方ない。それに問題はもう一個ある。


「そりゃそうですよ。だって、おじさま裸足じゃないですか! 足、痛くないのかな? ってずっと思ってました」

「靴なんて履くまもなかったから」


 ルルは「うーん」と、しばらく考えてから、続けた。


「では、靴を買ってあげます。それがお礼ということでいいですか?」

「うん」

「わかりました。そうと決まれば、町まで急ぎましょう!」


 そう言ってルルは駆け出した。


「だから靴がないんだってば……」


 僕は足の痛みをなんとか堪えながら、必死でルルについていった。

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