第8話 稲荷神社の一日
聞き慣れたスマホのアラームで目が覚めた。
「あれ、アラームセットしてたっけ……」
半分寝ぼけながら昨夜の記憶をたどり、やがて昨夜のことを思い出した僕は慌てて起き上がった。
「やばっ」
昨日は僕は酔っ払って動けなくなり、宮司に部屋まで運んでもらうという大変な迷惑をかけてしまったのだ。
目が開けられなかったので見てはいないが、あの時の感じだと間違いなくお姫様抱っこ状態だった。
「うーわー、初日から何てことを……」
焦りつつも早く謝らなければと、ご飯が炊けるいい匂いがしている台所へ行ってみると、やはり宮司は台所に立っていた。
「おはようございます」
焦りつつも僕があいさつすると、宮司は振り返った。
「ああ、おはようございます。
二日酔いは大丈夫ですか?」
「あ、はい、あまり飲めない分、次の日までは残らない体質なので。
それより昨夜はすみませんでした。
部屋まで抱き上げて運ばせてしまって。
重かったですよね」
僕がそう言って頭を下げると、宮司は「え?」と不思議そうな声をあげた。
「いえ、私は抱き上げたりはしていませんよ?
肩はお貸ししましたけれど、中芝さんはちゃんと自分の足で歩いておられましたよ」
「え? でも確かに昨日、抱き上げられたような覚えが……」
僕がそう言うと、宮司がはははと笑った。
「中芝さん、だいぶ酔っておられたのですね。
考えてもみて下さいよ。
私が中芝さんを持ち上げられるはずがないじゃないですか」
「そう言われてみれば……」
確かに宮司は小柄で、身長は僕よりも10センチ近く低いし、特に鍛えているようには見えない。
年齢のわりには体は動くように見えたが、それでも僕をお姫様抱っこして部屋まで運ぶのは到底無理だろう。
「そうですね、酔ってて思い違いをしたみたいです。
けど、どっちにしろ迷惑をかけたことには変わりないですね。
すみませんでした」
「構いませんよ。
私の方こそ、弱いとうかがっていたのに飲ませ過ぎてしまってすみません。
それよりも、二日酔いでないのなら、お風呂に入ってきてはどうですか。
追い炊きしておきますから」
「あ、そうさせてもらいます。ありがとうございます」
酒を飲んで寝てしまった体のままで神社に出るわけにはいかない。
僕は宮司の言葉に甘え、風呂に行くことにした。
────────────────
宮司が作ってくれた、ほうれん草と油揚げの味噌汁と玉子焼きの朝食をいただき、白衣と袴に着替えて2人で社務所に向かった。
宮司だけそこで狩衣を着て拝殿に移動し、2人で朝拝をした後、宮司は昨日賽銭箱から回収した祈祷依頼の分の祝詞を読んだ。
「明日からは中芝さんにやってもらいましょうかね」
「はい」
そんな会話をしながら社務所に戻り、宮司に教わりながら準備をして、授与所の窓口を開けた。
昨日もそうだったのだが、参拝者はそれなりにいるのだが近所の人が多いらしく、お守りなどを求める人は少なくて授与所は暇だ。
暇な間に一般的なご祈祷の祝詞を作ったり、宮司に声をかけて境内の清掃に出たりしていたが、そのうちにやることがなくなってしまった。
「暇でしょう?」
「えーと……はい」
宮司の質問に迷いつつも正直に答えると、宮司はちょっと笑った。
「うちの神社はいつもだいたいこんな感じですよ。
土日はもっとお守りや御朱印が出ますが、ご祈祷はあまりないですね。
そろそろ
うちが忙しいのは毎月1日くらいですね。
1日は毎月5軒ほどご祈祷を頼まれているお店があるので、朝からそちらを回って、午後からも神社の方でご祈祷をされる方が多いので」
「ああ、稲荷神社だから、ご商売をされている方が月参りに来られるんですね」
「ええ、そうです。
まあ、うちはそう大きな神社でもありませんし、そこの商店街のお店の方がほとんどですけれどね。
まあ、そういうわけですから、中芝さんも普段はのんびりしていてもらってもいいですよ」
そう言う宮司は今日一日コタツに入って本を読んだり、顔なじみの参拝者の方を招き入れて一緒にお茶を飲んだり、宮司を訪ねてきたおじいさんと将棋を指したりして過ごしていた。
おそらく宮司は毎日休みなく社務所に出ている代わりに、暇な時間はのんびりと自分の好きなことをして過ごす習慣なのだろう。
考えてみれば、僕も前の神社で季節的に暇な時期には、自分の席で本を読みながらご祈祷が入るのを待っていたことがある。
神社というのは、どうしても暇な時と忙しい時のムラがあるものなので、そういうふうに待っているだけの時間ができてしまうのは、ある程度仕方のないことなのだ。
宮司が社務所に置いてあった歴史雑誌を貸してくれたので、僕は残りの時間はその雑誌を読みつつ、たまに窓口を訪れる参拝者の対応をして過ごした。
──────────────
結局窓口を閉める午後5時までに、厄払いの祈祷が1件あっただけだった。
今日一日で一番時間をかけた仕事は、もしかしたら参拝者へのご挨拶と自己紹介だったかもしれない。
「肉屋の奥さんがわざわざ見に来ていましたから、きっともう商店街中に中芝さんのことが伝わっていると思いますよ」
宮司は笑いながらそんなことを言う。
肉屋の奥さんはいわゆる「スピーカー」で、商店街でも有名な噂好きらしい。
窓口を閉めた後、昨日と同じように賽銭箱の中身を回収して精算をし、自宅の方へと戻った。
「そういえば、普段は晩ご飯はどうされているんですか?」
昨日の夜は歓迎会ということで出前の寿司で、朝は宮司の作ってくれた朝食、昼は商店街の弁当屋の日替わり弁当だった。
商店街には夜開いていそうな飲食店も少しはあるし、八百屋も肉屋も魚屋もあったから自炊するにしても買い物は楽そうだ。
「私は普段は夜はあまり食べませんから、晩酌しながら、これをつまめば十分です。
中芝さんは外食でも弁当でも好きにしてもらっていいですよ」
そう言いながら、宮司が掲げたのは、昼間来た参拝者のおばあちゃんにもらった、お下がりの油揚げが入ったビニール袋だ。
「え、油揚げだけですか?」
確かに宮司は昼間あまり動いていないし、お昼のお弁当は十分な量があって栄養バランスも良かったから、夜は軽くてもいいのかもしれないが、それにしてもお酒と油揚げだけというのはあんまりだと思う。
「あの、台所貸していただけるなら夕飯は自分で作りたいので、ついでにつまみになるものでも作りましょうか?」
「おや、中芝さんは料理ができるんですか?」
「はい、子供の頃から祖母と二人暮らしで、僕がご飯を作ることも多かったので」
「なるほど。それならお願いしましょうかね。
冷蔵庫の中のものは自由に使ってもらって構いませんよ」
宮司がそう言ってくれたので、とりあえず冷蔵庫をのぞいてみたが、もらい物らしき野菜が数種類と卵と油揚げくらいしかなかった。
たぶん宮司は朝ご飯しか作らないので、肉も魚も必要ないのだろう。
調味料も砂糖塩醤油味噌くらいしかないので、本格的に自炊するなら色々買い足したいけれど、そう長くこの家に置いてもらえるわけではないから、宮司が使わないようなものは買わない方がいいだろう。
「とりあえず今日はメインのおかずの材料だけ買えばいいか。
昼が魚フライだったから肉だな」
着替えて宮司に一声かけると、僕は商店街の肉屋に出かけた。
肉屋で応対してくれたのは、昼間あいさつした噂好きの奥さんだった。
「あら、神主さん。
私服でもイケメンなのね~。
若いのに自炊なんてえらいわね。
オマケしておくわね」
奥さんは話しながらもテキパキと品物を用意してくれたので、礼を言ってお金を払うと、僕は神社へと戻った。
──────────────
手早くできるメニューを中心にした夕食が出来上がると、宮司を呼んだ。
お酒は宮司に選んでもらうことにして、僕は料理を居間のコタツに運ぶ。
朝は台所の小さな食卓で食べたが、夜は宮司はいつもコタツでテレビを見ながら飲むと言うので、僕もそちらで一緒に食べることにする。
「中芝さんも飲みますか?」
「いえ、すみませんが、また酔っ払うといけないので、ご飯にしておきます」
「まあ、昨日の今日ですからね。
そのうちまた付き合ってください」
「はい、少しなら」
「それでは、いただきます」
「いただきます」
宮司は昨日とは違う銘柄の冷や酒に口をつけてから、僕の料理に箸を伸ばした。
「味付け、大丈夫でしょうか。
僕が作るのとどうしても関西風になってしまうもので」
前の神社の寮にいた時も、時々材料費をもらってみんなの分をまとめて作っていたが、関西出身の人には好評だったが、関東出身の人は「味が薄い」と言って醤油を足していた。
宮司は当然東京生まれだろうからと、コタツには一応醤油を持ってきている。
「いえ、美味しいですよ。
出汁がきいていますね」
「あ、はい。
お下がりの昆布と干し椎茸があったので、使わせてもらいました」
「この油揚げのネギ味噌焼きも美味しいですね。
いつもは焼いて醤油をかけるだけなので、これは一味違っていていいです」
幸いなことに、宮司の口には関西風の味付けも合ったようだ。
食後には「良かったら明日も作ってもらえませんか」と言われたので、僕は快く毎日朝晩のご飯を作ることを約束した。
夕食の後片付けをした後、宮司は書庫専用になっている部屋に案内してくれた。
「わあ、すごいですね」
書庫の中には本棚が何本もあり、普通の本だけではなく古そうな和綴じ本もたくさんあった。
「初代の宮司から代々の宮司の本が全部ここにあるらしいです。
とは言っても古くても江戸時代のもので、それほど価値の高い本もありませんから、自由に読んでもらって結構ですよ」
宮司がそう言ってくれたので、早速和綴じ本を1冊手に取って開いてみたが、中は当然のようにくずし字だった。
「うーん、これは辞典があれば読めなくはないけど、ちょっと大変そうかな」
「ああ、そうでしょうね。
まあ、こっちの
「あ、そうですね。
けどせっかくですから、この機会に少し覚えてみることにします。
前からちゃんと勉強してみたいとは思っていたので」
「それはいいですね。
残念ながら、ここにはくずし字の本や辞典はありませんので、今日のところは他の本にするといいですよ」
そう言って宮司は自分が買い揃えた本がある棚に案内してくれたので、その中から面白そうなものを何冊か選び、ありがたく借りることにした。
居間に戻って、BSテレビでやっていた歴史番組を流しながら、2人それぞれに本を読んだ。
時々テレビの内容について軽い議論をしあったりもしつつ、ゆっくりと時間を過ごし、風呂に入って、宮司に「おやすみなさい」とあいさつしてから、自分の部屋に戻って眠りについた。
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