遠い耳鳴り

ミツ

遠い耳鳴り

  「オゼルの海は本当に赤かったの?」と私はカシハラ中佐に尋ねた。同じ質問を投げかけた大人たちは、長年鬱積させた沈黙の重さに身を委ね、質問の出所すら確かめようとしなかった。

 「君はどう思う」

 「質問をしているのは私よ」

 カシハラ中佐は、君の言うとおりだと苦笑いし、居住まいを正した。

 「海は確かに赤かった。しかし、君が思い描いている姿とは少し違うだろう」と中佐は恥じ入るように目を細めた。中佐の瞳は急激な老化のために白濁していたが、まだ視力を失ってはいなかった。

 「どういうこと?」

 中佐は、私の質問に答える代わりに窓辺に目を向けた。

 細かい雨がガラスを濡らし、夕闇に沈むオゼルの街並みが霞んで見えた。まるで街全体が赤い海の底に沈んでいるようだった。ときおり映り込む通行人の影は、幽霊のように虚ろだ。オゼルの人々はいつから顔を上向けて歩かなくなったのだろうと私は思った。

 「今日はもう帰るといい」中佐はいつの間にか私に向き直っていた。

 「母さんと帰るもの」

 「それならば、遅くならないうちに帰りなさい」

 「平気よ。夜に道を歩けるようになったと母さんが言っていたから」

 「ほう、ユーローのクソ共が逃げ帰ったからか?」ジェギンズ将軍が声をいからせた。

 「ステイツの荒くれ者たちが出て行かない限り安心とは言えないでしょうね」シュマツクフ同志のつぶやきはジェギンズ将軍ただ一人に向けられたものだ。

 「何だと」将軍は声を怒らせながら、嬉々として身を乗り出した。

 「ステイツも、ユーローもグレートチャイナも、それに、もちろんジャパネッシュも、共同体連合ネイション・ユニオンの兵士たちはみんな引き上げていったそうよ」

 「残っているのは俺らみたいな死に損ないの糞共だけか?」ジェギンズ将軍は大げさな動きでベッドに倒れ込んだ。

 「しかし、まだ幾ばくかの人間が残っているのではないでしょうか?」とシュマツクフ同志がか細い声で言った。

 「オゼルの飛行場はなくなってしまったの。最後まで残っていた人たちも、みんなヴヴに移ってしまった」

 「ヴヴだと!」ジェギンズ将軍はベッドサイドを叩いた。「ヴヴなどただの経由地に過ぎなかったはずだ。老婆みたいに乾いているのに辛気くさい糞みたいな土地だ。どの共同体ネイションも見向きもしなかっただろう。ヴヴとは!!」

 「何もヴヴに暮らそうと言うわけでもなかろう」中佐は将軍に対して物怖じせず発言をした。二人は、今や仲の良い旧友のような掛け合いをするが、半年前ではあり得ない光景であったし、今ですらあり得るべきではないと、それぞれが心の内では思っていた。

 「たとえ一時的なものであろうと、ヴヴに留まることを選ぶとはな。どいつもこいつも正気だとは思えんね」

 「皆、判断力をなくしているのだろう。いや、あるいは最初から正気ではなかったのかもしれない」

 「お前たちジャパネッシュが、誰にも劣らず熱に浮かされていたのを俺は覚えているぞカシハラ。極東の田舎から出てきた小兵共が、よくよく騒ぐと思っていたさ!」ジェギンズ将軍は一息にまくし立てると、呼吸を整えるために深い呼吸を繰り返した。

 「大国の猿共も変わりないでしょう」とシュマツクフ同志が言った。

 「なんだと!」ジェギンズ将軍はぜえぜえと荒い呼吸を続ける合間に、あらん限りの声で喉を震わせた。

 「我々は等しく熱に浮かされていたのだろう。オゼルに魅せられた者たちが、だからこんなに集まってしまった」

 「懺悔のつもりでしょうか?」シュマツクフ同志は額の上で十字を切った。

 「オゼルは我々の予想を遥かに超えて美しかった。私がオゼルの地を踏んで驚いたのはそのことだ。新天地開発の名目で私は左遷されたも同然の状態でこの世界に来た。それこそ地の果てに飛ばされたつもりでね」中佐はベッドの上から私をまっすぐに見つめていた。

 「俺だって美しいと思ったさ。これは最高のリゾートになるとね!」ジェギンズ将軍は両手を高々と掲げ、目に見えない空気の固まりを支えてでもいるかのようにぴくぴくと痙攣させた。「糞が、糞が、糞が!」

 同室に暮らす老人たちが、宙に吠えるジェギンズ将軍をちらと見やったが、ため息ひとつつくでもなく各々のふける空想に戻っていった。

 「ああ、お許しください。お許しください」シュマツクフ同志が涙を流しながら毛布に潜り込んだ。声の裏返った祈りの言葉は、ジェギンズ将軍の罵倒よりも耳障りに聞こえた。

 「さあもうお帰り」中佐は微笑みを浮かべ私に退室を促した。

 「明日も来ていい?」

 中佐は逡巡の後、明日は検査がある日だから来ない方が良いと答えた。

 部屋の出口で振り返ると、部屋中の老人が、私を見ていることに気がついた。私は行儀良くみんなに手を振った。老人たちは一斉に目をそらし、カシハラ中佐だけが私に手を振り返した。その手は、私が中佐の下に通い始めた頃よりも、いっそう細くなっているように感じられた。

 

 職員部屋では料理係であるノジコとネリが、自宅で用意できる食事よりも施設の夕食の方が立派だと文句を言っていた。彼女たちは、食材を都合する立場を利用して、家に食材を持ち帰ることもできたが、しなかった。施設の食事に使われる食材が、汚染や腐敗や、その他口にするのもはばかられる理由によって穢れていることを知らない者は、老人たちの中でさえいなかった。日々施設の裏口に集められる食材を乱暴に扱いながら、穢れを口にするのは他ならぬ彼女たちだ。

 「あなたの血族トーアは、巡回に出ているわよ。ほら、これでもどうぞ」とノジコは私を見つけると嬉々としてお菓子をくれた。

 「ありがとう」私はノジコから飴を受け取り、さっそく口に放り込んだ。

 「そろそろ戻ってくるんじゃないか」ネリはソファの背を伝ってこちらまでやってくると、悪くした左脚をかばうためにノジコに寄りかかった。

 「東棟が昨日で閉鎖されたの。だから、いつもより早く戻ってこられるんじゃないかしら」

 「どうして?」

 「引っ越しがあったから」

 「東はねぇ、明日から畜獣管理組合ゴスク・カラバルの事務所になるんですって」ノジコは動きの鈍い右手を掲げ、指を動かす代わりに手首を東棟の方に向けた。

 「もうじき、本棟にもどこかの管理組合カラバルが入るらしいよ」

 「でも東棟の人たちがこっちに移ってきたんでしょう。そんな場所があるの?」

 「さあ?」ネリは眉を上げ、くすくすと笑いながらノジコを見た。

 ノジコはネリを支えていない方の肩をすくめ同じように笑った。

 二人は、お互いの体の悪い場所を支え合うように体をより密着させた。

 「トーアゥゼ・ルヴ・オゼル(私たちのオゼル)」とネリは酔ったように言い、ノジコの頬にキスをした。

 「トーアゥゼ・ルヴ・オゼル」ノジコはネリの髪をかき上げ、唇で触れた。

 私はそれ以上追求するのもばからしくなり、舌の上で飴を転がすことを楽しんだ。

 「あなた、今日も3号室にいたの?」ノジコは瞳だけを私の方に向けて言った。

 「そう」

 「ねえ、あの連中、何かくれたりするわけ?」

 「そういう聞き方は好きになれないわ、ネリ」

 「連中が贈り物上手なのは誰もが知っている」ネリは自身の左脚を叩き口元を不敵に歪めた。

 「この子に当たらないでよ」

 私は小さくなった飴をかみ砕いてしまわないように舌下に収め、口を開いた。

 「私は物をねだったりしない」

 「そりゃそうよ」ノジコはうんうんと頷いた。

 「そもそもあの連中は何も持っていないからね」

 「じゃあ、何で私に聞いたの?」

 「悪かったよ」とネリは素直に謝った。

 「ごめんなさいね」ノジコは身をかがめると私の額にキスをした。

 「気をつけるといいよシュシュ。あんたが3号室に通うのを好ましく思わないやつだっているんだからさ。割を食ってるのはあんたの血族トーアだよ」ネリはしかつめらしく言った。

 部屋の隅で壊れたカラクリ時計が、ぎぃぎぃと狂った音を上げた。仕掛けの木扉が片側だけ開き、人形の青い目が覗いた。

 オゼルに夜が訪れた。

 控えめに扉を叩く音がして、母さんが扉を開いた。

 ノジコとネリは、母さんに一言挨拶をするなり落ち着きなく部屋を出て行った。二人は、老人の食事作りに手を抜くことで、母さんから良い印象を持たれていないことを知っていた。二人は、他人に気を遣うことも、小言を言われることも、何にせよ人から干渉されたり、反対に干渉することを極端に嫌っていた。もう誰一人として、私たちに影響、、しないのだと二人はよく口にしたが、母さんは、そのような物言いをする者が増えていると言って余計に眉をひそめた。

 「シュシュ、帰り支度はできているの?」母さんはロッカーを開け、作業衣を脱いだ。肌着がめくれて、骨張った背中が覗いた。

 私は母さんに見つからぬように急いで飴を飲み込んだ。母さんは私の肉付きがよく見えないようにと神経をとがらせている。共同体連合ネイション・ユニオンがオゼルに戻って来て、再び私たちの血を供出させることを恐れているのだ。私は実際に、採血所に並ぶ人の列に、痩せた人間の姿を何人も見たことがあるし、母さんは隠そうとするけれど、私に近い年頃の女の子が何度も採血所に赴いたことを知っている。それでも母さんからしてみれば、ファド・ハー(子を守ることを司る)の継族メーアに名を連ねながら、子供を<善意の奉仕>に差し出すことは信仰を放棄することに等しかった。

 「いつでも帰れる」と私は答えた。

 「そう」母さんはすでに身支度を調えていた。

 

 私は母さんの後ろにぴたりと張り付いて夜を歩いた。オゼルの街は月の明かりに照らされて骨のように乾いていた。風は、廃屋の割れた窓ガラスや、ひしゃげて閉じることのなくなった扉や、裏路地の隙間を縫って、道行く人々を揺すぶった。風が強く吹くと、くたびれたコートを纏った私たちは、ぼろ布のように力なく街路を行くことになる。私は風にあおられないように母さんのコートの裾を常に握っていなくてはならなかった。

 私たちは家までの道すがらを黙りで歩いた。夜道はおしゃべりをするにはあまりに暗く、物音がしなかった。沈黙は長い抑圧により生み出されたオゼルの新しい習慣だった。外界人オーファが去ったときでさえ――一人の若者が、外界人オーファの退去する長い列の最後を見送って、ファーラ・オゼル(オゼルの自由)を叫んだあの瞬間でさえ――人々は沈黙で若者を包み込み、言葉を発しようとはしなかった。私には、外界人オーファではなく、まるで私たちの方がオゼルから去り行くように思えてならなかった。若者は私の脇を通り過ぎる際、ちらと私に目を向けると、自由ファーラと唇を動かした。でもそれは、血族トーアと言いたかったのかもしれないし、過呼吸パァーアや、別離ファーラブアラと続いたかもしれなかった。

 「あれは、クォノじゃない?」母さんは父さんの名を口にした。

 私は母さんの背中越しに、その姿を見つけた。父さんは、家の外壁に背を預けるように立っていた。近づく私たちにまるで気がついていない。母さんの歩みが少し早くなったように感じられた。父さんの視線の先には、かつてベイロンの血族トーアが暮らした空き家があった。ベイロンの血族トーアは、いつの間にかオゼルからいなくなってしまった血族トーアのひとつだった。ヴヴに移り住んだのだと噂されていたが、彼らがいなくなったのはオゼルの封鎖がまだ続いていた時期だ。

 父さんは私たちに一向に気がつく様子がなかった。

 「父さん」と私は声を掛けた。母さんが父さんの前で立ち尽くし、黙りになったからだ。

 「やあ、シュシュ」と父さんは弾かれたように言い、私を力いっぱい抱きしめた。首筋に回された手のひらは氷のように冷たく、雨に濡れた髪からは落ち葉の様な匂いがした。父さんはいつから私たちを待っていたのだろうと、私は思った。

 「ミラも、よく無事で帰ってきてくれた。ファド・ハーのご加護だろう。さあ、こっちにおいで。家にお入り。ファド・ハーのご加護だ。さあ、さあ、さあ」

 父さんは血族トーアの前では、他人のような振る舞いを決して見せるまいと心に決めたかのように、過剰な熱を持って私たちに接する。共同体連合ネイション・ユニオンの下で働いていた父さんは、長い期間を空けて家に帰ってきた。「オゼルの約束に背き、継族メーアを他人とすることで生きながらえたのだ」と自嘲の笑みを母さんに向けると、まるで見知らぬ人の家に招かれたかのように、ぎこちなくソファに腰を下ろしたことを覚えている。

 私は父さんの力強い手にひかれて家に入った。家の中は、外と変わらないくらい冷えきっていた。

 「火を点けるわ」と母さんは言った。

 父さんは答えを返すでもなく、ふらふらと自室の闇に消えてしまった。

 

 ***

 

 灯台を管理する者がいなくなって長い時間が経つけれど、灯器には未だに火が灯った。火種を投げ込むと、炎はすぐに燃え上がる。でも私の見つめるこの小さな炎が、遠い海を行く船を導けるとはとても思えなかった。かつて炎は、もっと明るく、天を焼くほどの勢いで燃えていたのだろう。夜を照らし、冬を暖め、船を導く兆したりえたのだろう。今では、私を温めるだけで精一杯だけれど。

 灯台の辺りには滅多に人が訪れなかった。元々は中佐の共同体ネイションが占有していた場所で、彼らが去ってからは、私の他に訪れる者はいない。中佐は灯台の上階を高官の執務室に使った。灯器のある頂上の吹き抜けは、主にタバコを吹かす場所だった。タバコの吸い殻は、中佐から鍵をもらったその日に、すべて炎の中に投げ入れてしまった。腰丈ほどの細長いベンチには、オイル染みや軍靴の物々しい足跡がたくさん残っていて、これらの痕は繰り返し見る悪い夢のように、拭ってもぬぐっても落ちなかった。

 「みんなと一緒に行きたかった?」と私は中佐に尋ねたことがある。中佐がいつも窓の外を眺めている気がしたからだ。

 「いいや、自分の所属した共同体ネイションに対してまるで未練がない。無責任な発言に聞こえると思うが、共同体ネイションから切り離されてむしろせいせいしているくらいだ」

 「じゃあ故郷に帰りたいの?それとも外を散歩したい?」

 「どうしてそう思う」

 「だっていつも窓の外ばかり眺めているから」

 「私は海街の生まれでね。ときおり無性に海を眺めたくなる。君が言うように故郷が恋しいのかもしれない」

 「残念だけど、私にはどうすることもできないわ」

 「それはそうだ。海は私たちが涸らしてしまったのだから」中佐は困り顔で頭を掻くと、サイドボードからマッチ箱を取り出して私に手渡した。

 「ほらこれを耳元で揺すってごらん」

 私はマッチ箱を手早く揺すった。

 「雹が降ったような音がするわ」

 「もっとゆっくり、微睡むように」中佐は動いていることがわからないくらいゆっくりと手を傾けてみせた。

 私は中佐が示すリズムに従って箱を動かした。

 「あまりにお粗末な代物だが、私にとっては波音の代わりだ」

 目をつむりながら、灯器の温もりを背にマッチ箱をゆっくりと揺すぶっていると、目を開けばそこに、在りし日の海が見えるのではないかと期待を持つ瞬間が訪れる。

 何度期待を裏切られてきただろう――それでも私はゆっくりと目を開く。

 海は、遠い地平の先まで灰色の砂にけぶっている。かつての海岸線を辿る錆び色の線が、海水の赤かったことを想起させる唯一の名残だ。

 海から巻き上がる灰色の砂は、私たちみんなの体に害を及ぼすのだと中佐は言った。毒は、オゼルと外界の人間を分け隔てたりはしないのだそうだ。カシハラ中佐は他の大人たちと違って、灰色の毒を理由に私を海から遠ざけたりはしなかった。私がそのことを尋ねると、中佐は、もはや海を取り上げる力も残っていないのだと渋面を浮かべ、私はお前たちの血肉を奪い、骨だけを残したのだと続いた。

 「老いは渇きに似て、人の体から言葉をひとつひとつ奪い取ってしまうものだ」と中佐は言った。渇きは、人や物に依らず言葉を奪い、故に沈黙の占める割合が年を経ることに増していくのだと言う。

 中佐の言葉を後押しするように、乾いた風が三つくらいの方向から順番に吹き寄せ、灯台の吹き抜けスペースに迷い込み、狭い空間をグルグルと回りながら音を響かせ、そして唐突に気配を消し、別の方角から吹く風に場所を譲った。炎は風に揺すぶられないようにガラスの覆いをかぶせられていたが、吸気口を完全に塞ぐわけにも行かず、強い風が吹くと音もなく踊った。

 柔らかな雨が少しだけ降って止んだ。

 海の土が湿って灰の色を強めた。

 分厚い雨雲が街から離れていくのを確認してから、私は灯台を後にした。

 

 半ば開けられた扉の隙間から蜜を煮詰めたような甘い香りが漂っていた。嗅ぎ慣れない匂いに私は思わず鼻を覆った。部屋に入ることが躊躇われた。廊下の向こうから、言葉を交わしたことのない施設員がやってくるのを見つけて、私はようやく部屋に潜り込んだ。

 「何かあったの?」私はなるべく平静を装ってカシハラ中佐に尋ねた。

 ひどく間の抜けた時間を空けて、中佐は私の方に顔を向けた。

 「今日は来ない方が良いと私は昨日言ったつもりだったが」中佐の声はぼんやりとしていた。

 「どうかしたの?」

 すべてのベッドがカーテンで仕切られていた。そんなことは今までなかった。薄い布ごしに透ける老人たちは眠っているかのように大人しく、いつも何かと騒がしいジェギンズ将軍ですら一言も声を発しようとしない。

 「検査があったと言っただろう、それに……オーワンスが今朝亡くなった」中佐は冬枝のように細った指を差し向けた。

 私は中佐が指さす方に目を向けた。その老人が占めていた場所はたしかに空っぽになっていた。

 「アウマクゥエ・フジュ(安らかな眠りを)。みんな悲しくて静かなのね」

 「老人に死は付きものだよ」と中佐は大したことではないように言った。

 中佐があまりに眠たそうなので、語りかけることが躊躇われた。じっと中佐を見つめていると、重力に負けた瞼がゆっくりと落ちてくる。

 「眠ってしまったの?」私は小さな声で呼びかけつつ、そっと腕に触れた。くたびれた部屋着ごしに、骨張った肉体が感じられた。

 中佐がきちんと呼吸を繰り返していることを確認してから部屋を後にした。もうすぐ施設は昼食の時間で、配膳のためにやってくるネリたちと出くわしたくなかった。人目につかないように注意しながら施設の裏庭に移動した。裏庭にはちょっとした雑木林があって、僅かな時間身を潜めるには都合が良い。雨雲はすでに遠ざかっていたが、雨が林のいたる所を濡らして、葉が揺れる度に雨粒よりも大きな水滴が落ちてくる。頭の上に落ちた水滴が額を伝って、頬を濡らした。涙を拭うように水滴を払うと、今朝亡くなったオーワンスという老人のことを思い返した。私は、その老人のことをほとんど何も知らなかった。ただ一度だけ、窓から見える景色を確かめに窓辺に近づくと、彼は私に話しかけた。

 「この部屋は息が詰まるね」

 オーワンスは、肌の色も、髪の色も、瞳の色もオゼルの人間とはまるで違っていた。

 「少し窓を開けましょうか?」と私は尋ねた。

 オーワンスは、君が窓を開けたいのでなければそのままで良いと答えた。私は窓を閉めたままにしておいた。窓から覗く街路は、見慣れた場所であるはずなのに見知らぬ土地のように見えた。

 食い入るように窓の外を覗いていると「もう少し離れた方が良い」とオーワンスは唐突に言った。

 「どうして?」

 「ガラスが汚れているから」

 窓ガラスの汚れを認める前に、ガラスに残った息の白い跡を見つけると、私は何だか恥ずかしくなった。

 本当に窓を開けないで良いのかと私は尋ねた。オーワンスは「ダンケェーン」と言いながら悲しげに首を横に振った。後で中佐に聞いたところ、その言葉は彼のやって来た地方で感謝を意味するのだと知った。

 雑木林からは施設の苔むした石壁が見える。東塔はノジコが昨日言っていた通り、閉鎖されたようだった。東塔の窓からは空っぽの室内がうかがえ、畜獣管理組合ゴスク・カラバルの引っ越しがまだ行われていないことが知れた。本来、老齢者保護施設クレードルは私たちオゼル人――このような言い方を母さんは好まない――のための施設のひとつだった。まだオゼルと共同体連合ネイション・ユニオンの関係が家主と訪問者であった頃の話だ。母さんは、オゼルのために働き、施設が共同体連合ネイション・ユニオンに接収され採血所と変わったときに離れた。私は母さんが何故、外界人オーファの世話をするために再び施設に戻ったのか不思議に思ったけれど、母さんが言うには、取り残された老人たちを助けることはオゼルのために働くことと同じだった。

 母さんの用意してくれた軽食を食べて、少し林の中を散歩してから部屋に戻った。食器はすでに下げられていた。部屋にはまだ甘い香りが残っていて、食事の匂いをかき消していた。

 「まだ居たのかい」

 中佐ははっきりと目を覚ましたようだった。

 「いるわ。いけない?」

 「私は昨日、君に来てはいけないと伝えたはずだが、それなのに、こうして私の目の前にいる。今更だめだと言ったところで何が変わるだろう」

 「何も変わらないわ」

 「ならば何も言わないよ」

 「昼食はしっかり食べられた?」

 「ああ」

 私は中佐が嘘をついていることにすぐに気がついた。彼の息には、朝に飲む薬の匂いが残っていた。

 「私は今日、灯台に寄ってから来たの」

 「気に入ってもらえたようで嬉しいよ」

 「まだ屋上の大きな洋燈に火が点くのよ。知っていた?」

 「火を点けると屋外なのに温かく過ごせる。よく炎を眺めながら夜を明かしたものさ」

 「本当に?私もあの場所で夜を明かしてみたい」

 「じきにできるようになるだろう」

 「海は夜になるとどんな風に見えたの。月の光に赤く輝いて見えた?」

 「君の期待に添えれば良かったが、残念ながらそうではない。月が光るほど海は色を飲み込み闇を蓄えたようになる。不思議なもので、海と比べることで却って夜の色がよくわかる」

 「夜の色なら私だって知っているわ」

 「それならば、夜をずっと暗くすれば夜の海を思い描ける」

 「まるで海が溶け出して夜になったようね」

 「どんな物だって始めは海から来るんだ」

 中佐は更に言葉を続けるために口を開き掛けたが、突然の大声に遮られた。

 「大嘘つきめ!俺たちは海から来たわけじゃない」ジェギンズ将軍は喉に唾を詰まらせながら、それでも罵倒の言葉を引っ込めようとしなかった。

 「大嘘つきの糞野郎が!俺たちは海から来なかった――糞が!それどころか、俺たちが海を涸らしたんだ」

 「だから私たちは異端なのだろう」中佐は、なおも咳き込むジェギンズ将軍の方を気遣わしげに伺い、私に目配せを送った。

 「そいつの言うことなど無視しろ。海に色などとぬかすようなやつを信用するな。あんな物はただのどでかい水たまりだ。明かりがなけりゃ、何だって暗く見えるさ」

 カーテンを引くと、ジェギンズ将軍は目玉だけをぎょろりと向けて私を見た。口元から舌を出し、苦しげに喘いでいる。悪いことだと思いつつも、外界人オーファが飼っていた犬に似ていると思った。

 「誰か呼びましょうか?」

 「糞食らえ!」

 ジェギンズ将軍は体を起こそうと腕を振るわせて健闘を続けたが「糞が」と罵り言葉を吐き出すと、私に手を貸すことを求めた。

 将軍の体は私が想像した以上に軽かったけれど、痙攣じみた咳を繰り返すために体を起こすことが難しかった。私は結局、施設員を呼びに廊下に出た。

 「順番を間違えたかもな」ジェギンズ将軍は、施設員から与えられた薬を苦労して口に含むと、流し込こもうとした水にむせ、息を喘がせながら言葉をこぼした。

 「順番?」と尋ねても答えは返ってこなかった。将軍は面倒くさそうに手を振り私を追い払うと、薬の力を借りるために強く目をつぶった。

 施設員は私に出て行くよう言いはしたけれど、私の返事を聞く前に部屋を出て行った。ジェギンズ将軍の咳は収まりつつあった。老人たちは主人に従える犬のように沈黙を守った。部屋中がジェギンズ将軍の息づかいに耳を傾けているように思えた。ふと部屋中の老人の視線が私に集まっていることに気がついた。彼らは息を殺して私を見ていた。どきりとして据わりが悪い気持ちになった。足早に中佐の下へ戻る。

 「みんなに見られているように感じる」と私は小声で言った。

 「皆、君を見ている。当然のことさ」

 「どうして?」

 「様々な理由がある。ある者は君を恐れているし、ある者は君に安らぎを見出している。またある者は騒がしいだけのジェギンズが君に世話されていることを妬んでいる。何にせよ、君が私たちを訪れる最後の客人であることを理解しているのだろう」

 「私は中佐に会いに来ているのよ」

 「そうだとしても、最初に君がこの部屋に迷い込んだときから、君は我々全員の客人なのだよ。まともにもてなすことも出来なくて申し訳ないと思うがね」

 「私はもっとみんなに声を掛けた方が良いのかしら?」

 「それは君次第だ」

 それから日が暮れるまで中佐と話をした。部屋を辞すとき、なるべくみんなに聞こえるようにさよならを言った。ジェギンズ将軍を皮切りに老人たちはぽつりぽつりと返事をくれた。

 

 施設の入口で母さんを待っていると、夕陽に照らし出された集団が東塔に向けて荷車を牽いて横切った。荷車は四台続いた。飼い桶をいくつも詰んだ荷車が長い影を引き延ばしながら進んでいく姿を眺めていると、何だか不安な気持ちに襲われた。

 「今日も来ていたのね」と呼びかけられた時、思わず体をすくませたのはそのためだ。

 「あら驚かせた?」とノジコは言った。

 「何か悪巧みでもしていたの?」ネリはクスクスと笑いながら、ノジコの腕にもたれかかった。

 「母さんを待っているだけ」

 「もうすぐ来るはずだよ。私たちとすれ違いに戻って来たから」

 「今は飴玉を持っていないのよ。エプロンの中にしまってあるの」ノジコは、ごめんなさいねと言いながらネリに目を向けた。

 「私は何も持ってないよ」ネリは眉をひそめた。

 私は二人に向けて、ありがとうと言った。

 「まだ仕事とはご苦労なこったね」ネリは荷車を目で追った。

 荷車の車輪は形が悪いのかときおりゴトンと大きな音を立てた。

 「向こうの仕事も手伝うように言われるのかしら」

 「何でさ」

 「私たち手が空き始めているでしょう」

 「まだまだ仕事は腐るほどあるさ」

 「でも、もう少しで……」

 ノジコが話を続ける前に、ネリが鋭い視線でねめつけた。ノジコは、悪かったわとなぜか私に向けて謝った。

 「どうかしたの?」

 「おちびには関係のない話さ」ネリの声音が、話はこれでお終いだと告げていた。

 二人はお互いを支え合いながらひとつの長い影を伴って家路についた。二人は恋人のようにも仲の良い姉妹のようにも見えるけれど、本当は二人で一人の人物と見る方が正しいのかもしれない。

 陽が更に傾き、オゼルの街を影が覆った。

 「来てたのね」母さんは私を見つけても驚かなかった。

 「母さんを迎えに来ただけだよ」

 「また灯台に行ったでしょう」母さんは私の姿を上から下まで眺めやり眉をひそめた。

 「行ってない」

 「膝に煤が着いてる。あれほどダメだと言ったのに、また灯台に行ったのね」

 私は返事に困った。膝の汚れは、裏庭の土が付いたのだと言い訳することもできたけれど、裏庭にいたことを教えたくなかった。

 「ごめんなさい」私は正直に謝ることにした。

 「今日、裏庭もいたわね?」

 私はびくりとして母さんの手を強く握った。

 「ずるい……」

 「始めに嘘を付いたのが悪い」

 それから母さんは、外を出歩く危険についてお決まりのお説教をすると、施設には来ない方が良いと話を結んだ。私は、どうして来てはいけないとはっきり禁止しないのかと尋ねた。

 「あなたのためを思って私が言っていることを理解して欲しいからよ」

 「でもどうして?」

 母さんは不意に立ち止まり、私と目の高さを合わせるために膝をついた。母さんの瞳は不規則に明滅する街灯の明かりを反射して震えていた。唇が開きかけ、戸惑い、そして引き結ばれた。母さんは首を横に振ると、あなたが決めなさいと言って立ち上がった。

 母さんは私の手を強く引いて歩き出した。施設を訪れてはいけない理由をどうして説明してくれないのだろう。母さんは、私が外界人オーファに近づくことを単に嫌がっているだけなのかもしれないし、ネリたちが教えてくれたように私の訪問をよく思っていない施設員が血族トーアである母さんに対して何か悪口を言ったのかも知れない。

 もやもやした気持ちを抱えて歩いていると「クォノ」と母さんがつぶやいた。

 街灯の下に父さんが立っていた。父さんは私たちを迎えるために通りに出てくれたのだろうけれど、意識は通りの向こうにある崩れた外壁に向いていていた。その場所はとっくの昔に取り壊された大きな屋敷の跡地で、かろうじて残された家の土台に沿って共同体連合ネイション・ユニオンがテントを並べていた。彼らが去った後は、中途半端に残されたテントの骨組みに、雨水の重さに負けた天幕がだらしなく垂れ下がり、荒れるがままとなっていた。

 私たちが同じ街灯の下に入っても、父さんはテントの残骸から目を離さなかった。

 「何を見ているの?クォノ」

 「あの場所に並んだ人々を数えるのが僕の仕事のひとつだったんだ」

 「そうね」母さんは父さんが視線を向ける先に一度も目を向けなかった。

 母さんは私の手を離し、代わりに父さんの手を取った。

 「もうすべて終わったのよ。帰りましょう、家に帰れるのだから」

 「家に?」父さんは精気のない青白い顔をしていた。

 私は母さんが重ねた手の上から父さんの手を取った。

 「やあ、シュシュ」父さんはようやく私に気がつき、突然その顔を満面の笑みに変えた。

 「よく無事で帰ってきてくれた。ファド・ハーのご加護だろう。さあ、帰ろう。さあ、さあ」父さんは私を抱きかかえ「さあ、家に帰ろう」ともう一度言った。

 父さんの声は、がらんとしたオゼルの街路に場違いなほど大きく響いた。

 

 ***

 

 ここ数日施設に行っていない。一日は、父さんが体調を崩して母さんの代わりに看病をしていた。また次の日は、遠方のハスマーからオゼルに戻った友人一族の出迎えに出ていた。

 オゼルの門にはヴィザの継族メーアが集っていた。固唾を呑んでにらみ合うぎこちない対面から始まった再会は、大人たちが「オゼル・ルヴ・ウィグゥ(オゼルはひとつ)」と言って抱き合うことでようやく笑顔が生まれた。大人たちに習ってオゼル・ルヴ・ウィグゥと唱えながら私たちは抱き合い、お互いの近況を語り合った。話が暗い方向に向かうことを避ける暗黙の了解が私たち子供の間ですら結ばれ、話はもっぱら友人のハスマーでの生活と、移動にまつわるエピソードに占められた。

 私は友人が戻ってきたことが単純に嬉しかった。これまでに、一人、また一人と会えなくなってしまった人の数は、両手の指を使っても数えきれない。

 一通りの挨拶が済むと、友人一族は彼らがかつてオゼルで暮らした家とは別の方向に歩いて行った。向かう先は共同体連合ネイション・ユニオンの残していった簡素なテント群だ。彼らの家は、彼らがハスマーに逃れた後、どこかの共同体ネイションが接収し、共同体ネイションが去った今では別の一族が暮らしている。

 帰り道、ヴィザの継族メーアの一人が、よく帰って来られたものだと悪態をついた。誰もが口を閉ざし、男の言いたいままにさせておいた。男のまき散らす悪態の内いくつかは、誰かの心に浮かんだ言葉なのだろう。

 「ヴィザの継族メーアから追放する決議に掛けることを考えたらどうだ」と男が言ったとき、回りの大人たちがようやく反応を示した。

 「言い過ぎだぞ」

 男を諫める声が続いた。

 「継族メーアから追放したところで、お前の不満は解消されまい」

 「ヴィザ・ハーがお許しにならないわ」

 「オゼルの教えに背く気か?」

 「でもよ」と男は人々の戒めに応えた風もなく訴えた。「俺が言っているのはヴィザの名誉だけじゃないぜ。オゼルが外界人オーファにやり込められていたとき、あいつらはハスマーに逃げ出していたんだ!オゼルの血族トーアよ等しく助け合いたまえという教えに背いたのはあいつらの方じゃないのか。あいつらがハスマーにいた間、俺たちはどうしていた?見ただろう、あの肌つやを。あいつらが安全な場所で食卓を囲んでいた頃、オゼルでは毎日たくさんの血が流れていた」

 人々は無意識の内に自身の腕を見下ろしていた。衣を一枚剥がせば、腕のそこかしこに<善意の奉仕>の跡が刻まれていることが目に見えていた。

 「十分な量の血がオゼルの地に流された」ヴィザの継族メーアを束ねる長老シュスが重い口を開いた。

 最前まで勢いの良かった男が息を飲んだ。大人たちの目がヴィザの長老シュスに向いた。

 「我らは立ち上がろうとしている。再びオゼルの地に生きようと心を決めている。だが我らには足りていないのだ、血も肉も、それらから興る気力も意思も。外に逃れた者が多くを持つわけではない。ヴィザ・ハーはこのような時こそオゼルのために財を成すことを望むだろう」

 「しかし長老シュス、俺たちは継族メーアとして助け合い、オゼルの輪のひとつとなって耐えてきたじゃありませんか。その輪の外にいた者を簡単に受け入れられるでしょうか」

 「オゼルはもう十分に人を減らしたよ。ウースの継族メーアが残り二つの血族トーアになってしまったことを知っているだろう。これ以上オゼルの血族トーアを減らしてどうする?お前の悔しさは、我らの悔しさ。お前の悲しみは、我らの悲しみ。共に分かち合うことしか我らは知らんだろう」

 「それでも、俺は。俺の血族トーアは……」

 うなだれた男を励ますように大人たちは彼の体に軽く触れていった。

 「オゼル・ルヴ・ウィグゥ・バ・ミドゥラ(オゼルの輪はひとつに閉じる)」と長老シュスは言った。

 「オゼル・ルヴ・ウィグゥ」と私たちは唱和した。

 男は、男一人で暮らしている家屋をハスマーから帰還した一族に受け渡すと涙ながらに約束した。

 

 翌日私は血族トーアの代表として、オゼルの書をファド・ハーの継族メーアに届けに行った。オゼルの書は鍵と鎖で固く閉じられ、それぞれの継族メーアを司る悪魔ヌゥクが眠っていると言われている。書は継族メーアの信仰を繋ぐ輪の結び目であり、十二の悪魔ヌゥクに対してそれぞれ一冊しか存在しない。今まで私たちはヴァニアの血族トーアにオゼルの書を運んでいたが、ヴァニアの血族トーアに名を連ねる者はオゼルに一人も残ってはいなかった。<善意の奉仕>から末の娘を逃すためにオゼルの門をくぐったヴァニアの血族トーアは、鉄道に辿り着く前に共同体連合ネイション・ユニオンに拘束されたと噂されている。私たち――それは、ファド・ハーの下に繋がる血族トーアだけでなく、オゼルの輪を形成する十二の継族メーアすべてに言えることだ――は支えの折れた車輪のようになってしまったが、それでもオゼルの繋がりは途絶えていない。それを証明することが私に託された仕事だった。

 新しい書の届け先は南の政治区画カラバ・ブロックに邸宅を構えるオッシュの血族トーアだった。オッシュはファド・ハーの継族メーアを束ねる長老シュスを擁する。長老シュスの下を訪れることは名誉なことだ。オッシュの年長者は私の父よりも年若い女性だと聞いている。本来その地位にいるべき老人たちは共同体連合ネイション・ユニオンへの抗議の際、全員処刑されてしまった。

「よく来てくれました我が継族メーアよ」血族トーアの長女である長老シュスミマ・オッシュは、小さな伝書者である私を慇懃な態度で出迎えてくれた。ミマはオゼルの人間らしく痩せていたが、元は肉付きが良かったのだろう、女らしい体の線を保っていた。

「ファド・ハーの力を継族メーアに託す――」私は定められた一連の言葉と所作を行った後、オゼルの書をミマに渡した。

「オゼル・ルヴ・ウィグゥ・バ・ミドゥラ」と私たちは唱えた。

 ミマはしきたりに習って私を家の中に招き入れると、席を勧め、自身はお茶を入れに立った。ミマに引き継がれたオゼルの書は祭壇に安置された。祭壇はうちにある物よりも遥かに立派だった。十二の悪魔ヌゥクが円となって描かれた織物がその中心を飾り、オゼルの大聖堂を彷彿とさせた。子を守ることを司るファド・ハーの長老シュス家らしく、木の玩具や人形が家のそこかしこに飾られていた。

 「寂しく見えるでしょう。この家には今私しか住んでいないの。あなたが訪れてくれてとても嬉しいわ。やはりファドの家には子供がいないと格好がつかないから」

 「お招きいただき感謝いたします、ミマ」

 「さあ堅苦しいのはこれでお終いにしましょう。伝書者はしっかりともてなされないといけないわ」ミマはカップを私の前に置くと、丁寧に配置を整え、熱いお茶を時間を掛けて注いだ。

 「ありがとうございます」お茶を一口すすると、夕方に咲く花の香りが広がり、香りを追いかけるように苦みが広がった。ミマが蜜壺を渡してくれたので少しだけ蜜を注ぐ。

 「このお茶はうんと甘くする方がおいしいの」ミマはにこりと笑みを浮かべると、私の手から蜜壺を取り上げ、私が本来望んでいた量の蜜を注いでくれた。

 「母さんが太らないように甘い物は控えなさいと言うので」私はもごもごと言い訳を言った。

 「共同体連合ネイション・ユニオンはもうオゼルを去ったわよ」

 「知っています。母さんが老齢者保護施設クレードルに手伝いに行っているので、私も話を聞くことがあります」

 「あらそう」ミマは軽く眉をひそめると、自分のお茶に蜜を足し、指でさっとかき混ぜた。「もうオゼルには私たちを支配する者は残っていないわ。そのことは長老会議シュス・コーマの報告として皆に届いているはずよ。あなたくらいの子供が大きくならなくちゃオゼルの再建が遠のくばかりだわ」

 ミマは席を立つと、焼き菓子の詰まれた皿を持って戻ってきた。

 「食料の供出も、家屋の接収も、ましてや<善意の奉仕>なんて、もうオゼルでは起こらない。私たちはもう何も奪われないし、私たちの誇るべき物を隠す必用もない。ここは私たちの土地よ。始めからそうであるように」

 「トーアゥゼ・ルヴ・オゼル」と私はネリたちを真似て言った。

 「トーアゥゼ・ルヴ・オゼル。ファドの伝書者に最大の敬意を」

 ミマが始めからずっと私を大人の伝書者と同じように扱ってくれることが嬉しかった。背伸びを笑われることほど、恥ずかしいことはない。私がそのことを彼女に伝えると、ミマは改めて背筋を伸ばし、書を運ぶ者に年の隔てはないのよと答えた。

 「私だってあなたと同じ年の頃、伝書者の一人と見なしてもらって嬉しかったわ」

 ミマが皿の上に山と積まれた焼き菓子を率先して切り崩し始めたので、私はあまり遠慮をせずに、焼き菓子をつまむことができた。

 「おいしい?」とミマは尋ねた。

 私は力強く頷いた。

 「残念だけどそれはもう食べられなくなるの。だからたくさん食べていってね」

 「どうしてですか?」

 「焼き菓子を焼いてくれた人がヴヴに移ってしまったの。これからはヴヴに商機があるからと言ってね。あれだけの仕打ちを受けながら、よく外界人オーファに着いていこうと思ったものね」

 「私の家の周りにもオゼルを出て行った人たちが大勢います。でもその反対に帰ってきた人もいます」

 「オゼルは安全よ。ファドの長老シュスとして皆にそう伝えているわ。悪い者は遠く離れて行った。オゼルに残った外界人オーファがどうなっているかは私よりもあなたの方が詳しいわね。じきに彼らも居なくなることでしょう。故郷から遠く隔たった異国の地で、迎える人も土地もなく、老いた体が悲鳴を上げる音を聞きながら朽ちていくのよ。もうすぐ元のオゼルを取り戻せるわ。完全なひとつの輪のような私たちだけのオゼルを」

 ミマの瞳の奥深くで炎が燻っているのを私は見た。彼女は長老シュスという立場から、他の人間よりも多くの家族を奪われたのだろう。私は老齢者保護施設クレードルに横たわる老人たちを思った。中佐はオゼルの地から多くを奪った外界人オーファの一人ではあるけれど、今やその手には何一つ残されていなかった。私は中佐を恨んではいない。中佐の下を訪れるのは復讐のためでも、ましてや中佐の死を見届けるためでもない。ミマの目に確かに宿る敵意を感じて私はすくみ上がった。オゼルの総意は老人たちの死であると言われたような気がした。老人たちを悪し様に言うネリやノジコでさえ、彼らを世話しているという点で変わり者に違いないということに今更ながら気がついた。

 ミマは帰りがけに貴重な焼き菓子をたくさん持たせてくれた。中佐にも分けて上げようと思ったけれど、彼女の前では決して口に出せなかった。

 政治区画カラバ・ブロックの出口で母さんが待っていた。灯台に寄ってから帰ろうと考えていたせいもあって、お使いを任せられないほど未熟に見えるのかと強い口調で当たってしまった。母さんは、オゼルは未だに子供を一人で歩かせられるほど安全ではないといつもの調子で言った。

 「でも長老シュスミマが、オゼルはもう安全だと言っていたわ」

 母さんは不意に歩みを止め私を見つめた。その目は、長老シュスと母さんと、どちらを信じるのかを問うているようだった。

 「外界人オーファがオゼルにやって来た時、今のオゼルの姿を想像できた長老シュスが一人でもいたかしら。長老会議シュス・コーマの決定と未来への展望は楽観的でありすぎたのよ。でも文句を言うべき当時の長老シュスたちはオゼルの輪から外れてしまった。私たちは、慎重に慎重を重ねるくらい臆病になる必用があるの」

 「それじゃあ、私たちはいつ安全だと言うことができるの?」

 「オゼル・ルヴ・ウィグゥ・ア・リヴァ(オゼルの輪が回り続けるかぎり)。私たちには災厄ノゥクを避ける術はないわ」

 

 ***

 

 「海が波の音ばかりだと思うのは間違っています」と教えてくれたのはシュツマツクフ同志だった。「海が凍り付くと、水面を覆う氷が更に膨張を続ける音が丘の上まで届いたものです。夜、布団にくるまって耳をすませてみると、寒さに軋む窓ガラスの音に交じってそれは聞こえます。氷の息づかいはクジラの鳴き声のように聞こえる時があり、またその大きな腹を膨らませる音のようにも聞こえました」

 「クジラ?」

 「海を飲み込んで生きる、大きな生き物のことですよ」

 シュツマツクフ同志のベッドテーブルには、彼が彫ったクジラの置物が残されていた。

 「そいつはお前さんにだとさ」ジェギンズ将軍は喉をがらがらさせながら言った。

 「クジラだよ。俺の目から見てもそいつはよく似ている。あのうじうじ野郎にもひとつくらいは特技があったというわけだ」

 「クジラは海と同じくらい大きな生き物なんでしょう?シュツマツクフ同志が教えてくれたわ」私はクジラの尻尾と思われる二股の先を撫でた。全体的に荒い彫りで仕上げられたクジラは尾っぽの辺りだけ滑らかに丸められていた。

 「お前さんなんて真っ先に丸呑みにされちまうさ」ジェギンズ将軍はひとしきり咳き込むと毛布をかぶってしまった。

 私が老齢者保護施設クレードルを訪れなかった数日の間に、シュツマツクフ同士が亡くなっていた。病室の老人の数は五人になってしまった。老人たちのベッドは離ればなれのまま、お互いを遠ざけるようにカーテンが引かれている。部屋には例の甘い匂いが少しだけ残っていて、この匂いは何かと私はカシハラ中佐に尋ねた。

 「臭い消しにまいているのだろう」と中佐は答えた。

 「シュツマツクフ同志はどうして亡くなったの?」

 「死を避けることができなかったのだ。私たちは急速に老いている。死もまた歩みを早めた。いたって簡単な話だよ」

 「でもこの前来たときには元気だったわ」

 「しかしそのことが明日のことを保証してくれるわけではないのだよ。残念ながらね」

 「彼は私にクジラを残してくれたの」私は中佐の手にクジラを置いた。

 「よくできている」クジラに触れる中佐の指は、荒く彫られた木の断面よりも乾いて見えた。

 「オゼルの海にもクジラはいたの?」

 「わからない。私は見たことがない。灯台から見晴らせる距離にはいなかったのかもしれない。この辺りではクジラが生きるには海の深さが足りないんだ」

 「とても大きいからでしょう」

 「とてもとても大きいからだ」中佐はクジラの大きさを表すために腕を大きく広げてみせた。

 「鳥にしか見えないわ」

 中佐が両腕を振り動かし、広がった衣服の裾が風を起こした。そのような振る舞いは中佐らしくないと思いながら私は一緒になって腕を動かした。私の振り上げた腕がサイドボードをはたき、その上に乗っていた小物が転がり落ちた。騒がしさを聞きつけてジェギンズ将軍が顔を覗かせたが、またすぐに毛布をかぶってしまった。

 「そのまま放り出しておいてくれ」と中佐はすぐに言った。

 「大丈夫よ」私はカーテンをくぐり抜け、老人たちの間を移動した。陽の光にうっすらと照らされた薄布がひらひらと漂う。老人たちがその奥で静かに横たわる様は、オゼル寺院を思い起こさせた。

 「もうこの部屋には誰も移って来ないの?」私は中佐に拾い物を手渡しながら尋ねた。

 「人数は減るばかりだ。増えることもないのだから当然だろう」

 「それなら、部屋の真ん中にみんなで集まればいいのに」

 「私たちは互いに寄り添う術を知らないのだよ」

 中佐はそのように言うが、老人たちが互いに話し相手を求めていることはわかっていた。ジェギンズ将軍の悪態ですら一人では成り立たない。

 「カーテンが邪魔なら私が開けるよ」

 「いいや、このままにしておいてくれ。私たちが部屋を区切ってくれと頼んだんだ」

 「どうして?」

 「皆、最後になって各々の領地を定めたくなったのだろう」

 「でもここはオゼルよ。共同体ネイションはあなたたちを置いて行ってしまったじゃない」

 「そうではない。悪魔像スコーが私たちの手によって奪われた後でも、オゼルの信仰は失われなかった。それと同じことだよ」

 「わからない」中佐の答えに私は納得できなかった。

 「所属とは心の内で定められているものなのだよ。誰にも奪えないし、誰にも犯せない。他人によって変えることはできないものだ」

 「でも、ベッドのカーテンを引くと自分たちで決めたのでしょう?」

 「そうだね」

 「それなら自分の気持ちひとつで変えることができるはずだわ」

 「他のあらゆる決定と同じように、このことは私一人で決めたわけではない。事を為すには他の者の同意が必用だ」

 「じゃあみんなに聞いて回るわ」

 カーテンを開けると老人たちはそろって気がつかない振りをしたが、それが振りであることを誰も隠せなかった。目をつむっていても、毛布をかぶっていても、あらぬ方を向いていても、私がカーテンを開けると老人たちは体を小さく震わせた。

 老人たちは一人を除いて快い返事をくれた。

 「来てたのか。どうりで周りがうるさいと思った」ジェギンズ将軍は熱でもあるように目を血走らせていた。私が風邪でも引いたのかと尋ねると、深夜にちょっと散歩に出掛けたらこの様だと言った。糞寒い夜なんかにどうして散歩に出掛けたりしたのかと私は将軍風に尋ねた。将軍は目をきょとんと丸くすると、糞みたいな夜に自分を温めてくれる物を探していたのさと言った。

 「それで、何のようだ?」

 私は、仕切りのカーテンを開けたらどうかと尋ねた。

 「どうしてそんな面倒なことをしなくちゃならんのだ、おちびさん」ジェギンズ将軍は心底面倒くさそうに顔をしかめた。

 「でも、カーテンを開いて回るのは私よ」

 「翌朝にはまた仕切られてる。俺らの仕業じゃない、それが世話役共の仕事なんだ」

 「私がもうそうしないでくれって伝えておくわ。そもそも、みんなで決めたことなんでしょう?中佐が教えてくれたもの」

 「俺の知ったことじゃないね」

 「じゃあ良いのね」

 「そうは言ってない」

 押し問答の末、ジェギンズ将軍のベッドだけそのままにしておくことに決まった。将軍が耳を貸すつもりはないと思いつつ「一人で寂しい思いをするはずよ」と私は言った。

 「本望だ。死に損ないのじじい共と仲良くしたいと思ったことなどないね」将軍はいつものクセかシュツマツクフ同志のいなくなったベッドを一瞥し、慌てて視線をそらした。

 「ほら、一人は寂しいわ」

 ジェギンズ将軍は再び、シュツマツクフ同志の空いたベッドを見た。

 「それが何だって言うんだ!」

 突然、将軍は声を張り上げた。「糞みたいな連中と糞みたいな輸送機に詰め込まれたときから俺は一人だった。いや、そのずっと前から俺は一人だったんだ。今更何を恐れろって言うんだ。俺が不死を望んだとでも?――まさか!俺は死を目指してこの糞みたいな土地に来たんだ」

 ジェギンズ将軍は体を激しく揺すぶり、ベッドが軋んで悲鳴を上げた。

 「糞が!糞が!糞が――」と将軍は顔を真っ赤にしながら吼え続けた。「俺はやつのような臆病者じゃない。自分の正体を偽ったりしない。俺たちはオゼルに沸いたウジだ。欲望のまま食い散らかして惨めに死んでいく虫だ。糞ほどの価値もない!」

 将軍が咳の発作によって口を閉ざすまで、私は言葉を発する事ができなかった。ごめんなさいと私がようやく口にすると、将軍は私の方に頭を向けた。彼は、まるで私の存在に気がついていないような反応を示した。

 「後は死ぬだけだ。次は俺の番だ」と将軍は呟いた。

 ゆっくりと身を横たえたジェギンズ将軍は天井を見上げたまま黙りになってしまった。

 「シュツマツクフがいなくなって動揺しているのだろう」と中佐は私をなぐさめた。

 ジェギンズ将軍を囲うカーテンは、オゼルの書にある<異土の霧>を思わせた――霧は生者を覆い隠し、代わりに死の世界を覗かせる。窓から強い風が吹き込めば、ベッドを覆う霧と共に将軍が消えてしまうような不安を覚えた。

 「まだ怒っているかな?」と私は中佐に尋ねた。

 「明日になれば元通りにうるさくなるさ」中佐はあまり気にしないようにと言って私を送り返した。

 

 ***

 

 朝、今年初めての雪が降った。頬が張り詰める寒さにぱちりと目を覚ますと、窓ガラスに触れた雪の一片が涙のように流れた。寝床には誰もいなかった。余分な掛け布団が私の上に載せられて、ずっしりと重く、それでいて人の温もりよりも温かくは感じられなかった。

 母さんは、臨時の長老会議シュス・コーマが行われたため、その報告を聞きに出掛けて行くところだった。父さんは雪が本格的に降り始める前に市場に買い出しに出掛けたらしい。私は家の中で大人しくしているように言われたけれど、母さんが温めてくれたスープをかき込むとすぐに家を飛び出した。

 雪はすでに止んでいた。身を切るような冷たい風が通りを吹き抜けていく。通りには人の姿がなく、しんと静まりかえっている。人の住んでいない家の数は日に日に増えているけれど、あの家も、向こうの家も、そして私たちの隣の家にもまだ人は住んでいるはずだった。共同体連合ネイション・ユニオンを見送った若者が自由ファーラと叫んだあの日から、私たちの暮らしは陽気に――人と物が溢れ、騒がしく、慌ただしい――変わるはずだった。ファドの長老シュスミマはすでにその時は訪れていると言う。でも私にはむしろその反対に、オゼルが少しずつ形をなくしているように思える。

 海へと続く道では、オゼルらしさよりも共同体ネイションの兵士たちが残した破壊の跡を見つける方が簡単で、海に至ってはそのすべてが奪われたまま、立ち入りが禁じられている。

 海岸を塞ぐバリケードは中佐たちが海沿いを占領していた時に使用していた物をそのまま引き継いで利用していた。初めてバリケードをくぐり抜けた時、私の衣服はボロボロになった。そのままの格好で中佐の下を訪れると、彼はこっそり秘密の抜け道を教えてくれた。灯台の扉を開ける鍵はその時に中佐がくれたものだ。中佐は、若者の興味を押しとどめることの難しさを外界の飲料の器を用いて説明した。

 「この缶を強く振ってみるといい」と中佐は言った。

 「私はそれが振ってはいけない物だと知っているわ。振れば振るほど強く泡が吹き出るのでしょう?」

 中佐がいたずらを仕掛けるのはこの時が初めてだった。中佐はにやりと口元を歪めて、知っていたのかいと言った。私は、少しだけ彼との距離が縮まったようで、いたずらに抗議することも忘れて、それくらい知っているわと誇らしげに答えていた。

 「若者の好奇心を力ずくで抑えるのは、缶を一振りすることと同じだよ。繰り返し否定をすることで缶の中の圧力がどんどん高まると言うわけだ」そう言って中佐は何の気なしに缶を数回振った。

 「止めて」と私は言い、ベッドの隅に体を隠した。その様子を見て老人たちは息を殺して笑った。

 「おちびちゃんをグレネードで脅すなんてお前も酷いヤツだな」とジェギンズ将軍はにやついた笑みを浮かべた。

 「脅すつもりなど私にはないのだがね」

 「唯一の解決策は刺激を与えず置いておくことですね。もっとも缶ジュースは一時間もあれば落ち着くが、人となると何年もくすぶったままいつ弾けるともわからない。私の息子なんかその一例ですね」とシュツマツクフ同志が言った。彼だけは私を笑いものにしなかった。

 「ほら、意地悪はもう止すから」と中佐は缶を机に置いた。

 私はしばらく返事をしなかった。

 「今にもまた海岸に向けて走り出しそうだ。あの場所はそんな気分に合うことを私も良く理解している。ほら、これを君に渡そう」

 耳元で金属の響き合う音がした。私は好奇心に負けてゆっくりとベッドの影から顔を出した。

 「これで灯台の鍵を開けることができる。傲慢にも我々はこのひとつを除いて鍵をすべて破棄してしまった。あの場所は今から君の物だ。海岸に出る抜け道も教えて上げよう」

 私は鍵と、抜け道の場所と、飲み物の缶をもらってさっそく海岸に向かった。

 灯台の扉を初めて開けたとき、かび臭い風が漏れ出してくることを覚悟して息を止めていたことを覚えている。扉の向こうの空気は、あの日も今日も変わることなく、砂っぽい乾いた空気を吐き出した。

 らせん階段を上っていくと、吹き抜けの部分には雪が少し残っていた。塗装がはげて錆びた金属が剥き出しになった場所はすべて水に変わっている。灯台は冬の見張り番を務めるかのように海から届く冷たい風を一身に受け、街中よりもずっとずっと寒かった。暖をとるために普段よりも多くの燃料を灯器に注いだ。灯器は私が予想したよりもずっと大きな炎を燃やした。熱がガラスの覆いを震わせ、それこそ雪解けのように大気に染みこんだ。

 海はいつもより暗く、重く見えた。海原の白い砂は、水を吸って黒く沈んでいる。

 「夜更けの海は鉄よりも重く見える時がある」と中佐が教えてくれたことがある。

 中佐は私が想像するのを待って話を続けた。

 「重油のようでありながら粘っこさを微塵も感じさせない。色の濃いガラスが水のように動く様に近いのかも知れない。宝石のように光を留め、波のうねりが光を散らす。その上を歩いて行けるような錯覚を覚える。しかし、よくよく観察してみると何もかもが海に沈んでいくことがわかる」

 今なら中佐の表現した海の重さが分かる気がした。雲を透かして届く奇妙に均一な光が海原を一枚の大きな石のように照らしている。

 シュツマツクフ同志が残してくれた木彫りのクジラを吹き抜けの縁に置いた。そこは海を見晴らすことのできる一番の特等席で、いつの間にか私の宝物を並べる場所になっている。クジラの隣には、中佐から貰った飲料の缶や置き時計、ジェギンズ将軍が捨てるよりはましだと言って譲ってくれた洒落たブローチが並んでいる。どれも家に飾っておくことのできない外界由来の物ばかりだ。膝が水に濡れるのも厭わずにクジラの高さまで目線を下げると、クジラは夜を固めたような黒い海原に軽々と身を浮かべた。その巨大な生き物は海を泳ぐよりも船のように海の上を滑る方が得意に見えた。

 中佐に船のことを尋ねたことがある。外界の船は、どのような大きさで、どのような形をして、どのように進むのかと。

 「船は時代によりその役割を変じてきた。始めは単純に水の上を進むために木の幹をくりぬいて船が作られた。船の上に様々な物を載せるようになると船は形も材質も変え、より大きくなっていった。未知への探究心が船を海原の先に進ませると、欲がその足を速めた。燃料も、人を駆り立てる希望のような意思の力から、もはや大半の人間が理解することもままならない化学燃料まで幅広く使われた。船は最終的に私たちをこの場所まで運んだ。私たちが乗り込んだ船は、形は扁平で、海に浮かんでいることが信じられなくなるくらい図体がでかく、とても船に見えなかったことを覚えている」

 中佐はオゼルの船と似た形の船はとうの昔になくなってしまったのだと申し訳なさそうに言った。

 「船が風を受けて進んでいた時代を私たちはとうの昔に通り過ぎてしまった。それでいて、どのような絡繰りで物が動いているのかを本当に理解している者がいなくなった。海が再びこの地に満ちるような事があれば、オゼルの人々はどうにか船を作り出すことができるだろう。ところが文明の先兵に置いて行かれた私たちは、向こうの世界に戻るための船を二度と作り出すことができない」

 私は中佐の説明を受けても中佐たちがどのようにオゼルへやってきたのか理解することができなかった。ジェギンズ将軍は月から来たのだと言ってゲラゲラとはやし立てた。普段、ジェギンズ将軍の軽口を諫めるシュツマツクフ同志ですら、あながち間違っていないかもしれないと言って眉をひそめた。中佐は出来るだけ言葉を噛み砕く努力を続けた後、我々はこの世界に現れた幽霊のようなものなのだと言った。

 「本来居てはならないもの。本来通ってはならない道を経由して来た者たち」

 中佐たちの世界を思う時、私は海の向こうを見る。かすれる地平線のずっとずっと先に彼らの帰るべき故郷があるように思う。

 

 ***

 

 母さんは老齢者保護施設クレードルに近づくことは許さないと強く言った。

 「いつ外界人オーファが戻ってくるともわからないの。今この瞬間、オゼルの門から外界人オーファがなだれ込んできたって何の不思議もないわ」

 長老シュスから継族メーアに伝えられた話では、ヴヴに拠点を移した共同体連合ネイション・ユニオンの一団がオゼルに向けて人を送り返していた。その目的はまだ誰にもわかっていなかったが、母さんが信じているのはオゼル人の虐殺だった。

 母さんが私たち血族トーアにその話を持ち帰ってから、非常にぴりぴりした空気が家の中に漂っている。父さんは目に見えて落ち着きをなくしている。じっと座っていることができなくて、数分おきに席を立っては窓の外を眺めたり、未だ聞こえることのない外界人オーファの靴音に耳をすませている。母さんは父さんを落ち着けるために寝室で薬香を焚いた。眠くなるので入ってはいけないと母さんに言われたけれど興味を抑えることができなかった。母さんがファドの継族メーアを訪れるために家を出るとすぐに私は寝室の扉を開けた。

 むっとするような甘い香りが扉の隙間から吹き出した。私は反射的に扉を閉め、急いでその場を離れた。窓を開けて冷たい風を吸いこみたかった。頭がくらくらとして朝靄の中を歩いているような気持ちがする。窓は母さんがはめ込んだつっかえ棒のせいで、簡単に開けることができなくなっていた。仕方なく水を飲もうとしたけれど、うまく口の中に流し込むことができず、こぼしてしまう。

 この匂いを私は知っていた。老齢者保護施設クレードルで嗅いだあの匂いだ。

 少し吐き気がする。

 中佐は臭い消しだろうと言ったが間違っている。ネリやノジコたち職員が老人たちを落ち着けるために薬香を焚いたのかもしれない。

 世話が面倒になったから?

  でも、老齢者保護施設クレードルの老人たちはいつだって大人しい。

 ――母さんに体を揺すぶられた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 「少し空気を入れ換えるわ。子供には効果が強すぎるかもしれないから」

 私は母さんに薬香はどこでも使われている物なのかと尋ねた。

 「外界人オーファが置いて行ったの」と母さんは顔をしかめて言った。「ヴヴで採れる薬草を煎じているの。元はヴヴの物だから外界人オーファの物とは厳密には言えないじゃない。だから使っているの」

 私が尻込みしたので母さんと一緒に寝室に入った。薬香の香りは薄れていたが、老齢者保護施設クレードルで嗅いだよりもずっと強い匂いが残っていた。

 その日は布団に入るとすぐに、夢も見ないで朝まで眠った。

 

 ファドの長老シュスミマの家に継族メーアの子供と老人たちが集められた。このような時のために長老シュスの屋敷は広いのだと言って、ミマは私たちを喜んで迎え入れた。ミマは、まるで外界人オーファの一団がオゼルに迫ってなどいないかのように明るく振る舞っていた。そのことが却って私たちを不安な気持ちにさせた。普段あまり顔を合わせることのない継族メーアがたくさんいた。漏れ聞こえる話によると、どの悪魔ヌゥクに属する継族メーアも同じように長老シュスの屋敷に集っているらしい。働き手の大人たちは朝と夜に血族トーアの顔を見に屋敷に寄ることになっていた。父さんはミマの屋敷には来ていない。その代わり、母さんは父さんに向けて、なるべく家を離れないようにと繰り返し伝えていた。

 継族メーアの老人たちは悪魔像スコーを取り囲んで輪になっていた。彼らは手と手を取り合い、呆然と悪魔像スコーを眺め、ぼそぼそと近況を交わし合った。祈りの言葉は誰の口からも発せられなかった。

 子供たちは二つの部屋に割り振られたが、自然とひとつの部屋に集まって過ごした。一番年長の女の子が袖をまくり上げ<善意の奉仕>の跡を見せびらかしていた。

 「代償が私たちを強くするわ」と大人たちの口ぶりを真似て女の子は語った。小さな子供たちが固唾を呑んでその腕を見ていた。私は自分の腕に<善意の奉仕>の跡がないことを恥ずかしく思う反面、採血痕を誇らないで済んで良かったと思った。袖をまくり上げた女の子は、実際の年齢以上に大人びて見え、ときおり浮かべる憂いの表情は大人のそれと大差なかった。私は中佐の言葉を思い出した。中佐は、急速に老いたことにより、掛かる年月が人を老いさせるわけではないと知ることができたと言い、また老いが肉体のみに寄らず人の精神からももたらされ得るものであると言った。

 「肉体と精神が相互に作用するが故に、老いが不可逆のものであることを痛感する」

 ミマが菓子を振る舞うと声を掛けると、子供たちがわっと散っていった。袖を元に戻す女の子が私の視線に気がついて、弱々しく笑みを浮かべた。彼女の笑みは、中佐が、私はもう若返ることはないと言って浮かべた笑みとよく似ていた。

 ミマの号令により皆が広間に集められると、私はこっそりと屋敷を抜け出して老齢者保護施設クレードルへ向かった。どの通りもいつも以上に人が少なかった。風が人々を急かすように白い砂埃を巻き上げながら通りを吹き抜け、手負いの獣が泣くような音が、もう人の住んでいない家の窓から絶えず聞こえた。オゼルは土の深いところから掘り返された骸のようだった。昔、共同墓地で一度だけ見たことがある肉のそげ落ちた骸は、思いのほか白く、美しくさえ見えたが、生命の終着を体現していた。

 外界人オーファたちは一体この街に何を求めて戻って来るのだろう。彼らはもう私たちの血を求めてはいないはずだった。私たちの血が彼らの体を害することがわかったあの日から、外界人オーファは私たちを害獣のように扱い、苦虫を潰したような目で眺めるようになった。

 外界人オーファの望みを満たすものがオゼルにあるとはとても思えなかった。中佐に聞けば何かがわかるのかもしれないけれど、そのような話を中佐としたくはなかった。

 老齢者保護施設クレードルの屋根が見えると雑木林に潜り込み、中庭に回った。ネリか、ノジコのどちらかが出てくるのを辛抱強く待った。ときおり廊下を行き来する母さんの姿が見えた。母さんの表情は険しく、嵐の前に遠方で膨らむ雷雲をにらんでいるかのようだった。

 長い時間待ってようやくネリが出てきた。彼女は林の隅にある一本の木に身を預けるとくるぶしの辺りまで伸びるエプロンのポケットから巻き煙草の缶を取り出した。

 「あら来ていたのね」ネリは私の姿を見てもさほど驚かなかった。

 「どれだけ待ったの?顔が真っ赤だよ」

 「中に入れてくれる?」

 「これを吸ってからね」

 ネリが吐き出す煙はのんびりと空に昇っていった。

 「ノジコがね、煙たいってうるさいのよ」とネリは尋ねもしないのに言い訳を口にした。

 「誰にも言ったりしないわ」

 「バカね、言わなくてもノジコには分かるわよ」

 ネリに肩を貸しながら調理場へと移った。入口に積み上がった食材の空き籠が私の姿を隠してくれた。調理場は私が想像したよりもずっと綺麗だった。

 「綺麗でおかしい?」とネリは私の考えを読んだかのように言った。

 中身が満杯になっているせいで蓋のずれた屑入れから、風の流れに乗ってすえた野菜の匂いが漂ってくる以外は、家の台所よりもずっと良い匂いがした。

 「美味しそうな匂いがする」香辛料と油の匂いを吸いこみながら私は言った。

 「そりゃここは調理場だからね」ネリは台に置かれた手近な野菜を手に取ってその大部分を乱暴に切り落とした。

 「ほとんど食べられたもんじゃない」

 「あらあら、やっぱり現れたのね」ノジコが鍋を抱えて奥の倉庫から出てきた。

 「秘密にしてね」と私は言った。

 「どうしようかしら」とノジコはネリにいたずらっぽい視線を送ったがネリは肩をすくめて取り合わなかった。

 「それにしても良く今日だってわかったね。順番を聞いていたのかい?」ネリが言った。

 「何の順番?」

 「あのうるさい爺さんが死んだから来たんだろ?」

 「ちょっと」ノジコが即座にネリを諫めた。

 「ジェギンズ将軍が?」私は自分の顔が引きつっているのを自覚できた。

 「仲が良かったの?悪い言い方をしたね」ネリはぶっきらぼうに言った。

 私は母に見つかるのも構わずにふらふらと調理場を出た。ネリもノジコも追いかけて来なかった。廊下には最後の夕日が窓から差し込み、額縁を並べたように連なっていた。私の影が悪魔像スコーのように光の祭壇に収まり、消え、また収まった。

 3号室を示す案内板は闇に埋もれて見えなかった。それでも独特な甘い匂いを嗅ぎ取ると、3号室に辿り着いたことがすぐにわかった。

 「もう君はここには来ないとお母さんから伝えて聞いていたよ」とカシハラ中佐は言った。

 「ジェギンズ将軍が亡くなったって本当?」

 「ああ本当だ」

 ジェギンズ将軍のベッドはカーテンで仕切られていた。中佐は、将軍が最後までカーテンを開こうとしなかったのだと説明した。私はベッドまで行き、カーテンを引いた。ベッドは空になっていた。サイドボードにいつも自慢げに飾られていたバッジや、帽子や、水を吸って歪んだままになった手帳といった、将軍がそこに居た痕跡を表す物は何ひとつ残されていなかった。

 「頑なに言葉ひとつ君に残そうとしなかった」と中佐は言った。まるでジェギンズ将軍が死ぬことを知っていたような口ぶりだった。

 「どうして?」と私は尋ねた。どうしてジェギンズ将軍が亡くなったのか、と。

 「意地を張ると決して引っ込めようとしない、それがジェギンズという男だった。最後までそれは変わらなかった」素晴らしいことだと思わないか、と中佐は言い出しそうだった。

 私は中佐に目を向けず、部屋に点々と散っている残りの老人たちを見回した。老人たちは彫像になったかのように気配を消していた。

 「どうして?」と私はもう一度尋ねた。それは中佐だけでなく部屋に居るすべての老人に向けた問いだった。

 「それは予め決められたことだった」

 私は中佐の瞳をまっすぐ見た。中佐は私の視線を受け止めて決してそらさなかった。

 「私たちは君たちの土地を破壊し、財産を奪い、あまつさえ血を啜った。にも関わらずオゼル人は私たちを裁かなかった。だから私たちは自分自身を罰する必用があったのだよ」

 「何を言っているのかわからないわ」

 「分かるはずだよシュシュ。私たちは老いてこの地に残された。この地で老いたる外界人オーファは例外なく君たちの血を飲んだ者たちだ。私たちは長寿に目が眩み血を飲んだ。体が見るみる若返ることを喜び、血を供出させ向こうの世界に売った。老いはひとつの罰であるかもしれないが十分ではないと私たちは考えている」

 「年をとったから亡くなったわけではないの?」

 「老いたからといって死が訪れるとも限らない。オゼルの血の力を本当に知る外界人オーファはいない。一説には、君たちの血が私たちを老いたまま百年も生かすと聞いた」

 私は言葉を失った。

 「でも……」と私は何かを言いかけ口を引き結んだ。私は中佐が私たちの血を飲んだことを知っていた。そうでなければ掛かる年月の速度を越えて急速に体が老いたりはしない。まだ年若いはずの中佐が老人として老齢者保護施設クレードルのベッドに横たわる事がその証明だった。でも、だからといって、中佐に直接言われると私の心は揺さぶられてしまう。

 「中佐も、ジェギンズ将軍も、シュツマツクフ同志だって私に優しかったわ」

 「私たちがオゼルの海を枯らしたのだ」中佐の言葉は、私への今までの振る舞いが償いであったかのように響いた。

 「みんなが私たちの血を飲んだことを私は知っていたのに」

 「私はお前にここに来て欲しくなかった。私たちの最後を見せたくはなかった」

 「みんなどうやって死んでいったの?」私は、私が問いさえすれば中佐は全部話してくれるだろうと思った。私は問うことを迷わなかった。

 中佐は一瞬たりとも私から目をそらさなかった。そのぶれない瞳がずっと好きだった。

 「連合ユニオンがヴヴから多量に買い込んだ薬香を焚いたのだ。夜中、一人だけベッドを抜け出して薬香を焚き、皆が深い眠りに落ちたところで水に濡らした布を口元に掛ける。眠りの淵からより深い領域に落ちる。静かなものだ。いたずらに夜を乱したりしない」

 「みんな知っていたのね」

 「老齢者保護施設クレードルの職員のことを言っているのなら、彼らは気がついていただろうがそっとしておいてくれた。最初から最後まで君たちは慈悲深かった」

 「シュツマツクフ同志に布を掛けたのは、ジェギンズ将軍?」

 中佐は瞳を閉じて首を縦に振った。

 「それが誰であろうとルールに従ったまでだ。次に順番が回ってくる者が布を掛ける役割を担う約束だった」

 「ジェギンズ将軍に布を掛けたのは誰?」

 「それを君に教えるつもりはない。そもそも誰も知らないことになっている。この部屋の唯一の秘密なのだ。次を託された人間のみが真実を知っている」

 私は中佐をにらみつけた。にらみつけたところで、どうにもならないことは分かっていた。

 「逃げるの?」と私は尋ね、今からでも、そんなことを尋ねたいわけではなかったのだと言い訳をしたくなった。

 中佐は答えなかった。

 沈黙が二人の間に見えない壁を築いていくようだった。静寂に耳がきんきんと鳴って、息が詰まる苦しさを覚えた。中佐はじっと私を見つめて動じなかった。私はそのことをずるいと思った。中佐の瞳は誠実であると共に、力強く、また同時に臆病であり、許しを乞うているようでもあった。私は深い喪失を感じていたが、中佐もまた同じ気持ちであることがわかっていた。

 「君に出会うことができて良かった」長い沈黙を越えて、中佐が口を開いた。

 彼が私に別れを告げていると気がつくまでに長い時間が掛かった。

 「さようならカシハラ中佐」と私は震える声で伝えた。

 「さようならシュシュ・ウント。オゼルの友人。君の未来が誰からも脅かされないことを常に祈っている」

 

 調理場にはまだネリとノジコが残っていた。二人は私を見かけると腫れ物を扱うように馴れなれしい態度を取った。私は二人を無視して調理場を後にした。何もかもが愚かしく感じられた。母さんはこのことを知っていたのだろうかと考え、知っていたところで何も変わりはしなかっただろうと思った。どうしてか自分が許せない気持ちがした。怒りはジェギンズ将軍や中佐よりも自分に向いていた。怒りを覚えることが正しいのかわからなかった。ただ、何かに怒っていなくては自分がばらばらになってしまいそうな気がした。

 

 ミマの屋敷に戻らなくてはならないのに気がついたら家の前にいた。当て所なく街を彷徨い、長い時間を掛けて政治区画カラバ・ブロックの入口に辿り着くと母さんが待っていた。私は、そもそもの始めから屋敷で大人しくしていなくてはならなかったのに、無断外出のうえ、遅い時間に戻ったのだから母さんが私の頬を張ったのも無理はなかった。母さんは今がどのような状況にあるのかを目に涙を溜めて諭した。ヴヴを出発した外界人オーファの一団はオゼルまでほんの数日の距離に迫っているらしい。早ければ先遣隊が明日にでもヴヴの門に到達するかもしれなかった。

 母さんは私をきつく抱きしめた。頬の痛みも、母さんの体温も私を温めた。私の体はすっかり冷え切っていた。

 翌日、母さんにきつく言い聞かせられていたにも関わらず、ミマの屋敷を抜け出していた。足は自然と灯台に向かった。海を眺めていたかった。水が干上がり、寄せる波もなく、何も運ばない海であっても。

 「海は音です」と言ったのはシュツマツクフ同志だ。「たしかに波の音は支配的です。でも、耳を澄ますと様々な音が幾重にも幾重にも重なって海の音を成している事がわかります。動物を飼ったことはありますか?その息づかいを観察したことは?――そうですか、機会があれば注意深く耳を傾けてみるといいですよ。呼吸が生み出す反復と変化の波は、まさに海が生きていると考えさせるに足る示唆を与えてくれます」

 灯台に吹き付ける風は遮る物が何もないせいでいつも強い。吹き抜けかららせん階段に流れ込んだ風は、怪物のお腹の中に居るような音をこだまさせる。空はどんよりと曇り、頭を押さえ付けられている感じがした。

 ジェギンズ将軍は海が嫌いだと言った。「子供の頃に家族で海に出掛けたんだ。キッズみたいにはしゃいだ糞親父がゴムボートの上から俺を放り投げた。ガブガブガブ!俺はしこたま海水を飲んでげーげー吐いた。その後一週間、肺の奥から鼻を抜けて海の臭い匂いが残り続けた。それから、海に近寄るのも嫌になった。潮の匂いが風に乗ってくると、海の匂いがすると言って大きく息を吸い込むやつがたまにいるが、俺から言わせりゃ糞の匂いがすると言って便所の前で息を吸い込むのと同じことだね」

 オゼルの海岸に漂う匂いは、ジェギンズ将軍に言わせれば漂白された匂いだった。大量に何かが散布されたのだと中佐が教えてくれたが、それがどんなもので、どんな理由のために捲かれたのか教えてもらえなかった。

 灯台の吹き抜けにまで上がると匂いは届かなくなる。燭台のオイルや、煤や、床に置きっぱなしのカーペットを踏みつけた時に漂う雨の残り香が、海の匂いの記憶をかき消してしまう。

 「海」と聞くと途端に口を閉ざしてしまうオゼルの大人たちと違って、老齢者保護施設クレードルの老人たちは様々な海の姿を私に語ってくれた。私は彼らの言葉でもってオゼルの海を甦らせようとしたがうまくいかなかった。それらは外界の海を表す言葉でオゼルの海を現しはしなかった。

 「炎の揺らぎを通して海を眺めるとまるで波が揺れているように見えることがあるの」と私は中佐に語ったことがある。中佐は、海とはまさにそのような捉えどころのない事象の連続だと言って私を笑わなかった。

 「海は言ってしまえば巨大な水溜まりに過ぎないのかもしれない。しかし古今東西、数多の人間が海について言葉を残してきた。海は人の数どころか、そこから観測される様々な事象の数だけ存在し、その総体を成している。君の見る海もそのひとつに含まれると私は思うよ」

 私は中佐の語る海が好きだった。私の拙い想像ですら飲み込んでしまう力があった。

 「老齢者保護施設クレードルを出られるようになったらどうするの?」と私は中佐に尋ねたことがある。

 「若返りでもしない限りここから出て行くことは不可能だろう」と中佐は答えた。中佐が言うには、老齢者保護施設クレードルの老人たちは急速な老いのために筋肉が衰え、歩くことすらままならなかった。でも、今ではそれが嘘だと分かっている。老人たちは動けなかったのではなく動かなかったのだ。

 「だが君が尋ねているのは仮定の話だから、この答えは違うとわかっている。もし、再びこの足で歩くことが出来るのならばオゼルに対して償いをしたいと思っているよ。それがどのような形になるか私にはまだわからないがね」

 オゼルから去ることが中佐の向きあった償いの答えだったのだろうか。それは中佐らしい考えのようでもあり、中佐なら絶対に選択しない考えのようにも思えた。

 私は中佐がまだ生きているにも関わらず、すでに死んでしまった人間を想うように考えていることに気がつき、はっとした。老齢者保護施設クレードルを訪れれば今までと同じように中佐は私を迎えてくれるだろうか――わからない。中佐と私との距離がこれほど離れていると感じたことは今までなかった。

 空に足を投げ出して、灯台の縁に座った。そんなことをするのは初めてのことだった。恐ろしさよりも投げやりな気持ちの方が勝った。私の隣りには外界の物品が、まるでそれぞれの持ち主の魂を宿しているかのように鎮座していた。私は、木彫りのクジラや、飲料の缶や、ブローチや、そのほか細々した物を丁寧に並べ直した。

 体がふらふらと揺れていることに気がつく。高所にいる恐れか、風に揺さぶられたせいか、理由は分からないけれど。

 私は船の上にいて、海に揺られているのだと思いこもうとした。

 じっと真っ直ぐに海を眺めていると答えが見つかりそうな気持ちになる。

 この足で中佐の下を訪れてみようかと考えながら、いつものように中佐の言葉を思い返す。

 「願わくば波の音の心地よさを君に届けられれば良いのだがな」

 私はマッチ箱を取り出して、耳元にあてがう。

 パラパラとマッチが動く音が聞こえる。

 繰り返すと、段々と波の音に変じる。

 瞼を閉じて空を仰ぐ。

 雲間から差し込む太陽の光を透かして赤い海を思い描く。

 ――と、オゼルの門から警笛が轟き、波の音は容易くかき消される。

 警笛が止んだ後には、耳に痛いほどの静けだけが残った。

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遠い耳鳴り ミツ @benimakura

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