第10話 危険な賭け




「「きゃあぁ」」



 バスが大きく揺れた事により花野井が密着し、その鞄が俺のベルトに引っ掛かる。



 もうこれも四度目になるのだが、為す術のない俺はただ茫然と立ち尽くし、黙ってそれを見つめているだけ。


 視界は歪んで虚ろとなり、なんだか小羽達の悲鳴も靄が掛かって、ずっと遠くの方に聴こえるのだ。



 只々、目の前に暗雲が立ち込めてしまったかのような、そんな世界に落とされた気分だった。




 何をする事も出来ない。



 何をしたらいいのかも分からない……。



 このまま時間だけが過ぎていけば、またあの惨劇をなぞるだけ。



 それが分かっているにも拘わらず、俺は何も出来ないままでいる。




「き、桐山君、汗が凄いけどどうかしたの?」


「え……?」


「正ちゃん?」



 小羽と花野井が怪訝な顔で俺を見ている……。



 み、見るな……!


 そんな目で俺を見るな!


 もうすぐ俺は痴態を晒しながら死ぬんだよ!



 頼むからそんな俺を見ないでくれ!



 そんな切迫感にかられた心の叫びが、俺の様相をより一層悲壮なものとしたようだ。




「しょ、正ちゃん……、大丈夫ですか?」


「……こ、小羽」



 小羽が心配そうな声を出して俺にそう訊いてくる。



 大きな瞳をこちらに向けて少し眉尻を下げた、何かを言いたげなその顔。

 

 何とも言えない、こっちまで悲しくなってくる顔だ。



 小羽にこんな顔をさせている、その事に罪悪感さえ抱いてしまいそうになる。


 その顔は、そう思わせる力のようなものがあった。



 それと同時、俺の頭の中にある記憶が蘇ってくる。



 そういえば俺は、過去にも小羽がこんな顔をしたのを見た事がある……。




 そうあれは俺たちが小学生の頃。



 夏の大人気授業、水泳の時間での事だ。


 俺は自分が重大なミスを犯している事にも気付かずに、その日の水泳の授業が楽しみで朝からソワソワしていた。


 そのミスというのは水着を持ってくるのを忘れているという事なのだが、とにかく俺がそれに気が付いたのが水泳授業が始まる直前だったのだ。


 もちろんその時すでに、取りに帰るという時間的な余裕なんてものは無かった。


 だが、どうしても水泳の授業を見学するのが嫌だった俺は、その時ある事を思いついた。



 マジックで塗ればいいんじゃね?



 ……と。



 とにかく黒く見えれば遠目には水着と区別つかないだろう。


 油性だったら水に入っても大丈夫だし、何の問題も無いだろう。



 そんな子供の浅知恵を思いついた俺に迷いは無かった。


 躊躇なくズボンとパンツを脱ぎさった俺は、マジックで自分の体に塗りたくったのだ。


 誰もいない教室で……。



 そして、一番見られてはいけない股間部分を入念に塗っていたときの事だった。

 

 いつまでもプールサイドに現れない俺を心配した小羽が、様子を見るために教室にやってきて……。



 その姿を見られてしまったのだ。



 その時の小羽の顔が丁度こんな顔だった……。



 俺はあのとき酷く反省をして、二度と小羽にこんな顔はさせるまいと誓ったのだ。



 俺は小羽にはこんな顔じゃなく、もっと笑顔にさせたいんだ。



 そうだ、こんなとこで死んだら、小羽がもっと悲しい顔をするじゃないか。



 ……するよな?



 いや、しろよ?




 ここまで考えが至ったとき、なんだか頭の中の靄のようなものが晴れる気がした。



 そうだよ、こんなとこで死んでる場合じゃないよな。


 しかも緊縛状態で。



 ふっ、と一つ口元に笑いが込み上げる。



 丁度その時、二度目の揺れが俺たちを襲った。



「「きゃあぁ!」」



 その揺れと共に二人の悲鳴が聴こえ、そして花野井の鞄が俺のベルトを奪っていく。



 これで、次の揺れが来たらもう終わりだ。


 それまでに決着をつけなければならない。


 そうしなければ、俺に待っているのは死だ。

 


 しかし、俺は妙に落ち着いていた。


 頭の中がスッキリしているというか、もの凄く冴え渡っている感じがする。


 こういうのを覚悟を決めるというのかな……。



 よしっ!



 俺は一つ気合いを入れると、バスの車内を見渡した。


 さっきまでで分かった事は、俺の持っている物の中には正解は無いということだ。


 だから、きっとこの中にヒントがあるはずなのだ。



 どこだ……。



 どこにヒントが……。



 バスの後側、前側、目を皿のようにして周囲を見渡す。


 この何の変哲もないバスの中に何が……。



 右から左に目を動かし、前から後ろへと頭を振る。



 あるはずなんだ、この中のどこかに……。





 …………!?





 ……もしかして、これか?


 いや、でもこれは……。




 俺はついにそれを見つける事ができた。




 それについて、確信があるわけではない。確信は無いのだが、恐らくこれで間違いはない気がしている。


 しかしそれは、あまりにもリスクの高いものなのだ。



 くそ、これをやるのか。



 でも、やるしかない……。



 やるしかない。



 やるしかないんだよ!



 そう、やるしかないんだよっ!!



 小羽の笑顔を守るために! みんなの幸せを守るために! 俺の沽券のために! 俺の股間のために! 俺の股間のためにぃ!!



 

 もう躊躇している時間はない。



 俺はゆっくりと周囲を見渡した後、深く息を吐いた。



 そして、思いっきり息を吸い込んでから後ろに振り返り、張り裂けんばかりの声を出す。




「おっさん、済まない!!」




 そう叫ぶと、俺は後ろにいたおっさんに狙いを定めた。



 おっさんは突然目の前で大声を出されたために、驚きで目が飛び出るほどに見開いている。


 よし、おっさんがひるんでいる今がチャンスだ!

 


 素早くおっさんのベルトに手を掛け、一気にそのベルトを引っこ抜く。


 そして、フロントホックを壊すように前を開いたかと思うと、勢いよくそのズボンをずり下げたのだ。



 そこに顕になったのは、パッツンパッツンのおっさんのブーメランパンツだった。


 少し小太りのおっさんが穿くブーメランパンツは、まさにその形が解ってしまいそうな程にピチピチのもの。



 よし、条件は揃っているはずだが。



 どうだ……?




 数瞬の静寂が流れた。



 そして……。




「きゃあああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!」



 その静寂は、一気に怒号と悲鳴へと変化する。



 や、やったか!?


 同じ状況にはなっているが、まだ成功したかどうかは分からない……。



 と、そう思った時、バスが大きく揺れた。



 来た、この揺れだ!


 この揺れを回避出来ていたら間違いなく成功したといえる。


 どうだ、俺のズボンはどうなっている!?



 俺はすかさず自分のズボンのフロントホックを確認する。







 ……やった。








 やったぞっ!!






 成功だっ!!!




 成功だぁぁぁ!!!



 俺は成功したんだぁぁぁぁ!!!





 もちろん俺のズボンは無事だった。


 今までのようにずり下がっている事も無く、しっかりと俺の恥ずかしい部分を隠している。


 まさに完璧な姿だ。



 かなり危険な賭けだったけど、俺はその賭けに勝ったのだ。


 おっさんは俺の読み通り、見事にお誂え向きなパンツを穿いていたのだ。


 そうくると思っていたぜ、おっさん!! 

 

 お前はやると思ってたぜ、おっさん!! 


 ナイスパンツだぜ、おっさん!!




「き、き、ききき、君は、な、なななな……」



 あ……。



 俺は悦びに打ちひしがれていて、すっかりおっさんの状況を忘れていた。



 真っ赤な顔でわなわなと震えるおっさん……。



 うん、怒ってる……よね?




 ……どうしよう、超怖いんだけど。



 なんてことだ……。後の事なんて何も考えてなかったよ。


 もう過去改変は出来ないし、もう打つ手は無いよな……。




 ここはやっぱり、あれをするしかないか……。




「き、き、君は一体どういう――」



 俺は素早くその場で膝を着くと。




 一向にズボンを上げようとしないおっさんに対し。



 騒然とするバスの中で……。




「申し訳ございませーーーーん!!!!」





 全力で土下座を敢行したのだった。 


 




 

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