第9話 もっとずり下げたい




 真っ白な世界に包まれた俺は、再び過去に舞い戻った。


 やはり先程の騒然とした車内とはちがって、今は穏やかな空間へと戻っている。


 すし詰め状態の車内には、俺と小羽と花野井が周囲から圧されて密着している状態だ。



 よし、戻ったな……。



 戻ったはいいけど、あまり考えは纏められていない。



 バスが揺れて、ベルト外されて、ホック壊されて、ズボンがずり下がった。


 この一連の中の、どこかに事象を誤魔化せる部分があるはずなんだが……。



 どこだ……?



 やはり、最終部分のズボンがずり下がった所を別の事象に、というのが順当なところか……。




「正ちゃん、潰れてしまいますっ」



 後ろから圧されて俺の肩の所に顔を埋めていた小羽は、ぷはっと顔を上げて「えへへ」と笑う。



 いや、こんな天使のような笑顔にかまけている場合じゃない。


 早くどうするか考えないと!



「ちょっと桐山君、そっちでイチャつかないでくれるかしら?」


「すまんが、今それどころじゃないんだ。俺が生きるか死ぬかがかかっているんだよ」


「貴方は何を言っているの?」



 今はこいつにかまけている場合じゃない。


 どうする、どうすればこの地獄から抜け出せる……?



 うーむ……。



 ズボンがずり下がってしまうんだから、別の物がずり下がったらどうだろう?

 

 ちょっと試してみるか。



「そんなことより槙城さん。さっきは私から桐山君の男の子の日情報を提供したわけだから、今度は槙城さんの桐山君情報を提供する番よ」



 うっ、悩んでいる間にどんどん時間が過ぎていくな。


 もう考えている暇はない、思いつく事は色々試していったほうが良さそうだ。



 とりあえず、ずり下がるのは何もズボンじゃなくても良いんじゃないかと、うっすら思ったりしてるんだよね。


 

 例えば、この鞄を。



 俺は肩から下げていた鞄を、ずり下げるようにして床へと落下させた。




 …………うん、何も起こらないね。



 というか、成功かどうかってその時が来るまで分からなくないか?




「何をしているの桐山君?」


「いや、何でもない。ちょっと鞄を落としただけだ」


「そう、そんな事よりも桐山君情報よ。……そうね、桐山君の子供の頃の話とか」



 こいつは何故そんなに俺の情報を知りたがるんだ……。


 弱みでも握ろうとしてるんじゃないだろな。



 そんな事より、もうおちんちんエピソードの件まで来ている。


 どうする、止めるか……。


 いや、下手に止めてまた新しいエピソードが出てきても嫌だしな。



「子供の頃の正ちゃんは、それはもう可愛かったです」


「お、おい、その話はやめろ……」



 ――しかし。


 ダメ元で話を遮ろうとしたのだが、上手く声が出なくなってしまった。



 くそっ、改変できないものを変えようとすると謎の力が働いてしまう。


 何なんだよこの力は! 理不尽だぞ!



「昔、私を遊びに誘いに来た正ちゃんが『これが今流行ってるんだぜぃ』とか言ってサドルを外した自転車に乗ってやってきて、暫くしたらサドルを外してるっていう事をすっかり忘れてその上に座ってしまい、お尻がそこに突き刺さってしまったのです。それで私が痛いの痛いの飛んでけってお尻を擦ってあげたら、何故か正ちゃんのおちんちんが腫れあがって、二人で泣きながら帰ったりというような事が――」


「ぬあああああぁぁ!! その話はやめろぉぉ!!」



 ようやく声が出た時には、既に全部話した後だった。



 やっぱりかぁぁ!! やっぱりこのエピソードは止められないのかぁぁ!!



 くそ~~~……。



「……さすが桐山君ね」



 お前も何がさすがなんだよ!! 褒められるようなエピソードなんてどこにもねぇよ!!




 そしてその時、バスがカーブに差し掛かり、車体が大きく揺れる。



「「きゃぁ!」」



 バスが揺れたせいで密着してくる二人。



 き、来た、もうそんなに時間が経ったのか。


 ここで花野井の鞄が引っ掛ってなかったら、さっきの実験は成功だけど……。



「ご、ごめんなさい正ちゃん」


「あら桐山君、案外しっかりした体をしてるのね。ずっとこうして掴まってようかしら」


「悪いが今はそれどころじゃない、早く離れてくれ」


「あら、つれない言い方ね」



 花野井は渋々といった感じで俺から体を離そうとするが、それと一緒に俺の下半身もそちらに引っ張られた。



 だめだ、失敗だ! 


 やっぱり鞄をずり落としただけじゃだめか……。



 そしてまたもやバスが揺れて、花野井の鞄が俺のベルトを奪っていってしまった。



 くそっ、次にバスが揺れるまでがリミットだ。


 早く何とかしないと、地獄がもう目の前までやってきている。



 取り敢えず、ずり下げられる物を片っ端から落としていけば、何かヒットするかもしれない。



 そう思った俺はポケットからペンを取り出し、ズボンに這わせるように落としてみる。



 何となくだけど、違う気がするな……。


 まあ、思いつくものは何でもやらないとな。



 それから俺は持ってる物を次から次に、バスの床に落としていった。



 例えば携帯を、例えばハンカチを、さらにはポケットの中のレシートや、財布の中の必要ないのに入れている避妊具……は、やめておこうか……。



「桐山君、貴方さっきから何をしているの?」



 どきぃぃ!!



「べ、別に何もしてないぞ……」


「混んでる車内で物を落としていくのはどうかと思うのよね。周囲にも迷惑よ?」


「いいか花野井、人生にはどうしてもやらなきゃいけない時ってのがあるんだよ。たとえそれが迷惑な事でもだ!」


「そ、そう……なの? 何をそんなに力説しているのかしら……?」



 そう、あの惨事に比べれば物を落とす事なんてのは、何てことのないただの日常にすぎない。

 

 言うなれば、俺のやってる事はこのバス内をあの悲劇から守るための正義の行動と言えなくもないのだ。



 ふっ、そう考えると何だか勇気が湧いてくるな。



 俺はその勇気のおかげか、大胆にも上着をずり下げるように脱いで床に落とす。



「ちょっと桐山君、何を堂々と露出行為に及ぼうとしているのかしら?」


「しょ、正ちゃん?」


「おいっ、妙な誤解を生むようなこと言うな! これはあれだよ、バスの中が少し暑いからよ」



 俺がそう言ったとき、バスは再び大きく車体を揺らす。



 そしてその揺れのせいで、小羽が俺の体にしっかりと密着してくる。



「えへへ。今日はよく揺れるのです」



 俺に体を寄せながら、こちらに笑顔を見せる小羽。


 それはまるで天使のような笑顔だが、今はこの天使のような笑顔よりも大事な事がある。



 そう、色々なものをずり落とした結果がここで出るのだ。



 俺は視線をゆっくりと下へと移動させ、小羽の鞄と俺のズボンのホックを確認した。




 …………。




 引っ掛かってるーー!!!



 何でだよ、何で引っ掛かってんだよ!! ちくしょうめぃ!!



 もう無理だ、これが引っ掛ってしまったらもう、後は転げるようにあの惨劇へとまっしぐらになる。


 くそ、俺が落とした物はズボンの替わりにはならなかったということか……。



 一体、……一体どうすれば……?



 何だよもう! わかんねぇよぉ!! おい、女神、何かヒントをくれよ!! このままだと、俺またそっちに行っちゃうよ!! 嫌でしょ、俺がそっちに行ったら!! 何とかしろよぉもぉぉぉ!!!



 だが、時間は残酷な程にどんどん過ぎていく。



「そうだ桐山君、私ったら昨日携帯電話を替えたのよね」



 き、きた……。


 もうすぐだ……。



 もうすぐまた、あの痴態を晒してしまう……。



「ほら、どうかしら。良い色でしょ? 新しくした記念に、桐山君を撮ってあげようか?」


「い、いや、俺は……」



 もう言葉が出なかった。


 ここからじゃもう何も変えられないという絶望感が、次の言葉を遮ったのだ。



 そんな俺を余所に、花野井はまるで台本を読むかのようにこのシナリオをなぞっていく。


 

「さあ桐山君、ラリ顔ダブルピースでこっちを向いてくれるかしら?」



 いや、シナリオ通りじゃなかった!



 何だよ、毎回ちょっと変えてくるんじゃねぇよ。


 つか、お前は何でそんな写真が欲しいんだよ……?



 い、いや、今はそれどころじゃ――



 そしてその時、最後の揺れが俺を襲う。



 ああ、やっぱりか。


 やっぱり俺のフロントホックはここでぶっ壊れる事になるのか……。



 小羽の鞄が離れると同時に、俺のズボンはフロントホックが壊れてその機能が果たせなくなる。



 そして、例によって俺のズボンは。



 この衆目の中。



 ストーンとずり落ちていったのだった……。




「……あら、桐山君」




 携帯を構えていた花野井がその言葉と共にカシャリとその音を鳴らすと、バスの中は一斉に悲鳴と怒号が支配する。



 その中のどこかに聞こえるはずの小羽の声は、やっぱり三回目も聞き取る事はできなかった。




 もうやだああぁぁぁぁ!!!!




 心の叫びと、涙を噴き出しながら俺はまたあの言葉を叫ぶ。



「が、がごがいへーーん!!」



 くそぉぉぉぉ!!!









   ☆








 そして俺は三度過去に舞い戻ってきた……。


 例によって混雑した車内で、小羽と花野井が俺に密着した状態だ。



 何度もループしていると、このバスの中の光景に拒否反応が起きそうだな……。



 もう嫌だ……。


 もうこのすし詰め状態嫌だぁ!!



 いっそ窓をぶち破ってこのバスから脱出してやろうか!



 だめだぁ、そんな事したら死んじゃう!! でもこのまま何もしなくても死んじゃう!! どっちにしろ死んじゃうぅぅ!!



「正ちゃん、潰れてしまいますっ」



 顔を上げて「えへへ」と笑う小羽。


 天使のような顔を向けてくるけど、俺のおかれている状況なんて知るはずもないよな。



 ごめん、俺もうすぐ死ぬかもしれない!

 


「ちょっと桐山君、そっちでイチャつかないでくれるかしら?」





 時間が……。



 時間がどんどん過ぎていく……。



 何をしたらいいか分からないまま、時間だけが過ぎ去っていく。



 時間が過ぎれば過ぎる程に心臓が早鐘を打ち、その音がバスの喧噪を完全に打ち消していく。



 小羽と花野井が何かを喋っているけど、それも今は遠くに聴こえる。



 ああ、あれは多分おちんちんの話をしているのか……。



 くそう、もうすぐ一回目の揺れがやってきてしまう。



 もう、どうしたらいいんだよぉぉ!!


 もぉぉやだぁぁぁぁ!!


 おしっこ漏れそうなんじゃぁぁぁ!!



 

 ――そして。




 バスは大きく揺れるのだった。




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