第8話 五里霧中




 目の前が真っ白になったかと思うと、すぐに視界はその色を取り戻す。



 も、戻った……のか?


 

 すし詰め状態のバスの中は、先程の騒ぎが嘘のように日常そのものだった。


 混雑するバスの中で、俺と小羽、そして花野井が三角形のような形で密着している。


 まさに、バスに乗った当初と同じ光景だ。



 これは、どうやら成功したみたい……だけど、どの辺りに戻ったんだ?



「正ちゃん、どうかしましたか?」


「えっ!? いや、なんでもないぞ。それよりも、小羽は大丈夫か? 圧されて苦しくないか?」



 小羽は俺の言葉に表情を崩すと、「えへへ」と笑いながら。



「潰れてしまいます」



 と、天使のような子が俺に笑みを向けてくる。



 それを見ていた花野井が。



「ちょっと桐山君、そっちでイチャつかないでくれるかしら?」



 そう口を挟んでくる。



 なるほど、やっぱりまだバスに乗ったばかりの所だな。



「別にイチャついてねぇよ」



 さて、ここからだ。



 これはまだ一回目だから、まだ色々と余裕はある。


 まずは冷静に今回の事案を分析するべきだ。


 

 えーと、まずバスが揺れて、ベルト外されて、ホック壊されて、ズボンがずり下がった……と。



 うん……何でこうなったんだ?



 いや、そこに疑問を抱くのは後にしよう。


 とにかく最終的な場面に行く前に、阻止できるところ探さないと。



「そんなことより槙城さん。さっきは私から桐山君の男の子の日情報を提供したわけだから、今度は槙城さんの桐山君情報を提供する番よ」



 ぐっ、こんなのもあったな……。


 これも出来れば阻止したい案件ではある、このままだと俺に対する風評被害が広まりかねないからな。



「待て待て、俺の話なんてつまんないだろ。世の中にはもっと楽しい話がだな……」


「あら桐山君、私と槙城さんは今日が初対面なのよ。共通の話題である桐山君の話をするのは自然な事でしょ?」



 ぐぅぅ、やっぱり変わらないのか……。



 そこに小羽も被せるように。



「正ちゃんの話がつまらないわけないです」



 そう言って俺に笑いかける。


 その笑顔はまさに天使のようである。



 そんな天使のような笑顔を向けられても、この後の事を知ってるだけに全然喜べない!



「い、いや、俺の話なんて、どうせろくな話しないはずだ……」


「あら、失礼ね。私は桐山君の子供の頃の話でも聞かせてもらえないかと思っただけなんだけど、ダメだったかしら?」


「俺の子供の頃の話とか……」



 いや待て、ここは先手をとって俺が話題を誘導するべきところか。


 そうだよ、相手に主導権を握らせるから話が変な方向に行くんだよ。



 よし、子供の頃の俺の深いい話をしてやる。 



「……そうだな、子供の頃の話といえば俺昔ミニバスやっててよ。地区大会なんかでは結構活躍――」


「地区大会といえば、こんな話があるのです。試合中に正ちゃんがパスを取り損ねてボールがおちんちんを強打してしまったのですが、蹲って痛がる正ちゃんに私が痛いの痛いの飛んでけって正ちゃんのおちんちんを擦ってあげたら、何故か正ちゃんのおちんちんが驚くくらい腫れあがってしまって、それで二人で泣きながら保健室に――」


「人の話遮って何て話してんだよっ!!」



 何だよ!! 結局これかい!!


 話を変えようとしても、別のおちんちんエピソードに塗り替わってしまう。つまり、この事象を変えるには別の形のおちんちんエピソードを用意しなければならないということだ。



 だめだ、どっちにしても俺がダメージを食らってしまう……。



 無念だが、もうこれは諦めよう。


 そんな事よりも俺にはやらなきゃならない使命があるんだ。



「……さすが桐山君ね」



 さっきは聞き逃してたけど、お前そんな事言ってたのか……。



 いや、そんな事気にしている場合じゃない。


 この後すぐにバスが揺れて、そこから怒涛の蟻地獄に陥るんだった。



 ――そして。



 バスがカーブに差し掛かり、その車体を大きく傾かせた。



「「きゃあ!!」」



 右から花野井が、左から小羽が、俺に向かって押し寄せてくる。



 やっぱり来た!



 まだ何も考えついていないのに……。


 くそっ、このままじゃまずい、何とか花野井の鞄が引っ掛るのを防がないと!



 しかしここで、俺はあるミスを一つ犯してしまった。



 花野井の鞄から俺のベルトを守らなければならなかったのに、右手で吊り革を掴んでしまったのだ。


 左手があるだろって思うだろ? 


 その左手は、なんと左側から密着してくる小羽にしっかりと掴まれてしまったのだ。



 ちょっ、さっきそんな事しなかったじゃねぇか!



「ご、ごめんなさい正ちゃん」



 ぬぅぅ、やっぱりだよ。



 やっぱり、花野井の鞄が俺のベルトに引っ掛かっている!!



「あら桐山君、案外しっかりした体をしてるのね。ずっとこうして掴まってようかしら」



 そうしてくれるとベルトが外れなくて有り難いんだが。



 そんな事を言えるはずがない……。



「ば、馬鹿言ってないで離れなさい……」



 花野井は「つれない言い方ね」と言いながら俺の体に掴まっていた手を離す。



「正ちゃん?」


「な、なんだ小羽!?」



 見ると小羽が眉を寄せて口を尖らせていた。



「正ちゃん、顔が残念そうです」


「えっ!? 違う違う! 違うぞ小羽、残念とかじゃなくてだな、ちょっと今大変な事になってんだよ」


「大変なこと……?」



 そうだ何も隠すことはない、ベルトが引っ掛る事なんてことはよくある事だ。……ん? あるのか?



 むしろ三人で協力すればこの引っ掛ったベルトも解くことができるかもしれない。


 その際に、二人の視線が俺の下腹部からその下にまで集中する事になるかもしれないが、背に腹は代えられない!



「ああ、実は――」



 しかし、間に合わなかった。



 俺がそれを言い終わる前に、バスは大きく車体を揺らすのだ。



「「きゃあ!!」」



 遠ざかる花野井の鞄と共に俺のベルトは錠が外れ、スルリと抜けて俺の腰から離れていく。



 くそぉぉ!! まずいまずいまずいまずいまずいまずい!!



 このままじゃ、さっきと何も変わらないじゃないか!!


 貴重な過去改変の一回目だというのに、何も得るものがないまま終わってしまう!



 考えろ! 次はズボンのフロントホックだ! 


 どうやったらこれを回避できる!?


 


 ………………。




 くそっ!! 何も思いつかん!!



 と、とりあえずフロントホックを守らねば!



 そう思って、フロントホックを死守すべくズボンのホック部分を掴んでいると。



「ちょっと桐山君、バスの中で何を堂々と行おうとしているのかしら? さすがの私もそれには引いてしまうわ」


「違うわっ!! 変な事言うんじゃねぇよ!!」



 こんな混雑した中で滅多な事言うんじゃねぇよ!


 そういう無責任な発言で、どれだけの男たちが犠牲になっているか……。



 いや、そんな事は今はどうでもいい。



 もうすぐ次の揺れがやってくる。


 この次の揺れでホックに引っ掛ってしまったら、もう最後まで止まらなくなるだろう。


 逆にそれを阻止する事ができれば俺の大勝利となるわけだ。


 このままホックを握ってさえいれば鞄が引っ掛ることもない。



 このままの状態なら大丈夫だ、……大丈夫なはず……だ……。



 そんな甘い考えを抱いていると、次の揺れがやってくる。



「「きゃあ!!」」



 その悲鳴と共に俺に迫りくる小羽と花野井。



 さっきは右手で吊り革を掴んでいたために右側の花野井を防ぐ事が出来なかった。


 しかし、今回は左側の小羽の鞄が対象だ。


 

 大丈夫だ、左手があれば小羽の鞄を防げる。



 何故なら、俺の左手は今もズボンのフロントホックをしっかりとにぎっ……て……、な、……なんだと……!?



 ちらりと視線を下ろして自分の左手を確認した俺は驚愕した。



 お、俺は……、一体なにを……、ナニを握っているんだぁぁ!!!???



 そ、そうか、さっき花野井が言ったことはこの事だったのか……!!


 違うわって叫んじゃったけど、何も違わないじゃないか俺のバカ!!



 と、とにかく、こんなとこ握ってたらズボンがずり下がる前に事案発生になってしまう!



 俺は慌ててそこから手を離し、再度フロントホックを握ろうと手を伸ばす。



 しかし、時すでに遅し。



 俺のフロントホックには小羽の鞄がしっかり引っ掛かってしまっていた。



 ぬぁあああああ!!!



 ダメだったぁぁぁ!!!




「えへへ。今日はよく揺れるのです」



 俺に体を寄せて少し頬を染めている小羽。


 その小羽の天使のような笑顔を、俺はもう直視する事ができなくなってきていた。



 もうすぐその時がやってくる。


 もう逃れることの出来ないその時が……。



 くそぅ、またあんな痴態を晒すのかぁ!!



 どうにか、どうにかならないのか!



 ううぅ、こんな鞄が引っ掛っただけで……。



 なんだ、こんな物!!



 俺はホックを掴んで強引に小羽の鞄を引き離そうとするが、何分にも片手は吊り革で塞がれた状態だ。


 思うようにならず、ただ時間だけが過ぎてあの悪夢の瞬間が近づいてくる。



「そうだ桐山君、私ったら昨日携帯電話を替えたのよね」



 そう言いながら花野井はその携帯電話を取り出してくる。



 せ、迫ってきている……。


 その時が着々と……。



「い、言っておくが、……それで俺を撮ろうとかするなよ?」



 俺がそう言うと、花野井はキョトンとした顔をこちらに向けた。



「あら、どうして私が今からしようかと思ってる事が判ったのかしら?」



 そりゃ二回目だからね!



 と、こんな事言っても、花野井が写真を撮るのを止めるとも思えない。


 そんな事よりもこの状況をどうにかする方法を何か考えないと……。



「私はただ、桐山君がいかがわしい事をしそうだから写真に撮っておこうかと思っただけなんだけど」


「ぐぅ、返す言葉も無い……」



 だめだ、もう止められない……。


 こんなやり方じゃダメだ。


 もっと考えるんだ。


 事象を誤魔化す方法を……。



「さあ桐山君、携帯電話を新しくした記念に撮ってあげるから、アヘ顔をこっちに向けてピースでもしてくれるかしら?」



 さっきと言ってることが微妙に違うじゃねぇか!!



 ――そしてその時がやってくる。



 その歯車は決して止める事はできない。


 俺を嘲笑するかのように、残酷な時が刻まれていくのだ。



 誰しもが思う、こんな筈ではなかったと……。



 バスは無情にも大きく揺れ動き、小羽の鞄が俺の体から離れていく。



 それと共に、さっきと同じようにズボンのホックはぶっ壊される。



 そして、チャックが全開になった後、ズボンはずり下がっていくのだった……。



「……あら、桐山君」



 カシャリという花野井の携帯が写真を撮る音がしたのを皮切りに、バスの中は悲鳴と怒号に支配される。



 その中のどこかに聞こえるはずの小羽の声は、二回目も聞き取る事はできなかった。




 ちくしょー、次ぃぃーー!!




「かこかいへーん!!」





 

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