第7話 朝日に誓った日
どうして人というのは、それをそう思ってしまうのか。
特別な日、勝負の日、記念の日、等々。
まるでそこに何か意味があるように、途方もない価値を見いだそうとしてしまうのだ。
その想いは果てしなく、形の無いものに形を与え、言葉にし、他者と共有する。
そしてそれは、やがて真実というものに変わっていくのかもしれない。
朝の光を浴びた俺は、そんな心境を詠っていたのだろう。
だがそれは、やがて後悔へと変わるのだ。
バスの中は多くの人ですし詰め状態となっている。
車内は人と人が押し合い圧し合いとなっており、その中に俺たちも潰されるようにくっついて乗っている。
俺の左側には小羽が、右側には花野井が、そして後ろには小太りのおっさんが。
すまない、おっさんは離れてくれないか!
そんなわけで、俺と小羽と花野井は三角形を作るように身を寄せ合っている。
どうもこのバス、俺がいつも乗るものよりも運転が荒々しいみたいで、バスが揺れる度にその密着度合いが増してしまうのだ。
「おい、そんなにくっつかなくてもいいんじゃないか?」
「あら桐山君、無理を言わないでくれるかしら? それに、そういう台詞は女の方が言うもんじゃない?」
バカお前、こんなに女の子に密着されると、男の子はあれがあれして大変なことになるだろうがよ。
どうするよ、こんなとこでそんな事案が発生したら。
言っとくけど、その際はお前も共犯だからな。
一方、反対側の小羽の方は。
「正ちゃん、潰れてしまいますっ」
後ろから圧されて俺の肩の所に顔を埋めていた小羽は、ぷはっと顔を上げてそう言った。
そして、表情を崩して「えへへ」と笑う小羽。
何この天使みたいな子は。
「ちょっと桐山君、そっちでイチャつかないでくれるかしら?」
「べ、別にイチャついてねぇよ」
こいつ変な事言うんじゃないよ、また小羽と微妙な感じになったらどうするんだ、まったく。
ちらっと小羽を見ると、少し頬が赤くなっている気がする。
嫌がってはいない……よな?
「そんなことより槙城さん。さっきは私から桐山君の男の子の日情報を提供したわけだから、今度は槙城さんの桐山君情報を提供する番よ」
「でたらめな情報で変な取引してんじゃねぇ!」
小羽がえっと言って反応する。
「正ちゃん、違うのですか?」
「いつ俺がそれを肯定したんだよ、俺はそんな怪しげな日じゃないから安心しろ。……ていうか、俺の情報なんて交換しなくていいから、もっと女の子らしい話題をだな――」
「あら桐山君、私と槙城さんは今日が初対面なのよ。共通の話題である桐山君の話をして何が悪いのかしら?」
うっ……。こいつ、意外な正論を……。
「そ、そう言われるとそうかもしないが……。じゃあ、もっと普通のエピソードを話せよ。男の子の日とかそんなんじゃなくてよ」
「そうね、それじゃあ桐山君の子供の頃の話とか、それだったらいいでしょ?」
子供の頃の話って……。
嫌な予感しかしないんだが……。
ちらりと小羽を見ると、それはもう得意満面な笑みが浮かび上がっていた。
「子供の頃の正ちゃんは、それはもう可愛かったです」
やめろ! その続きはだいたい予想がつく!!
「いやちょっと待て、その話は――」
「昔、私を遊びに誘いに来た正ちゃんが『これが今流行ってるんだぜぃ』とか言ってサドルを外した自転車に乗ってやってきて、暫くしたらサドルを外してるっていう事をすっかり忘れてその上に座ってしまい、お尻がそこに突き刺さってしまったのです。それで私が痛いの痛いの飛んでけってお尻を擦ってあげたら、何故か正ちゃんのおちんちんが腫れあがって、二人で泣きながら帰ったりというような事が――」
「やめろぉぉ!!!」
案の定だよこんちきしょー!!
「……さすが桐山君ね」
「うっせぇ! 聴くな聴くな!! 俺の恥ずかしい過去を聴くなぁ!!」
ん? 今、花野井がなんか言ったか?
い、いや、今はそれどころじゃない!
「おい、小羽っ! それは言っちゃダメなやつだろ!! しかもこんなバスの中で――」
その時、バスがカーブに差し掛かり、車体が大きく揺れる。
「「きゃぁ!」」
むぎゅうっと俺に密着してくる小羽と花野井。
俺は、その圧力に倒れまいと吊り革を強く握りしめる。
二人分の若干の良い匂いと、柔らかい感触が圧し掛かって来るのを感じて……。
うん、なんか恥ずかしい過去とか、どうでもよくなる瞬間ってあるよね。
「ご、ごめんなさい正ちゃん」
バスが安定すると、小羽は俺にもたれ掛かっていた重心を元に戻す。
「あら桐山君、案外しっかりした体をしてるのね。ずっとこうして掴まってようかしら」
「馬鹿言ってないで、今すぐその手を離せ」
「あら、つれない言い方ね」
花野井は渋々といった感じで俺から体を離そうとする。
しかし、それに合わせて俺の下半身が花野井の方に引っ張られるのを感じた。
――ん? なんだ?
引っ張られる先に目線をやると、原因はすぐに分かった。
どうやら密着した拍子に、花野井の鞄が俺のベルトに引っ掛かってしまったのである。
くそっ、どうやったらこうなるんだよ!
「桐山君、どうかしたの?」
「ああいや、ちょっとお前の鞄が――」
その時、バスはさっきとは逆方向にカーブする。
「「きゃあ!」」
ああ!!
バスの揺れに花野井の体が俺から離れる。
すると当然、花野井の鞄も俺から離れていくわけで……。
ベ、ベルトがぁ!! 俺のベルトがぁ!!
それは、勢いよく引っ張られたことによって起こった悲劇。
どうしてこうなったかは分からないが、花野井の鞄が離れると共にベルトの錠が外れてしまい、花野井の鞄と一緒にズボンからベルトがスルリと抜けてしまったのだ。
ええええええ!!
んなバカなっ!!!
ちょっ、俺のベルト返せっ!
手を伸ばして自分のベルトを取り返そうとするが、混雑したバスの中で思うようにベルトを掴むことができない。
「ちょっと桐山君、何を堂々と痴漢行為に及ぼうとしているのかしら?」
「おいっ、妙な誤解を生むようなこと言うな! これは違うんだよ、さっきの揺れで俺のベルトがお前の――」
すると、またもやバスが大きく揺れる。
その揺れのせいで、波が寄せてくるように小羽が俺の体に密着してくる。
「えへへ。今日はよく揺れるのです」
俺に体を寄せながら、こちらに笑顔を見せる小羽。
その少し頬を染めた笑顔に胸の鼓動が早くなるのを感じたが、それと同時に下半身に更なる違和感も感じた。
何だろうと視線を下に向けると。
そこには、小羽の鞄が俺のズボンのフロントホック部分に引っかかっているという光景があった。
まずい!! これはダメだ!!
このホック部分が外れたら確実にズボンがずり下がってしまう!
この混雑したバスの中でそんな事になったら、確実に俺は死ねる!
それだけは! それだけは、あってはならない!
早く、この引っ掛かってるのを何とかしないと、今度またいつバスが揺れてホックをぶっ壊すかわからない。
焦燥感が全身を支配し、嫌な汗が滲み出る。
まさか、こんな事になるとは……。
何でこんな事が起こるんだ……。
何故だ……、どこかで俺は間違えた選択をしたのだろうか……。
そう、それは今朝のこと。
その悲劇は、目が覚めた時から始まっていたのかもしれない。
今日はとても心地の良い目覚めだった。
小羽との仲が改善し、また一緒に学校に通うようにもなれた。
その事に俺は胸が高鳴り、いつもよりもスッキリと目が覚める事ができたのだ。
部屋の窓から差し込む朝日に、まるで俺を祝福しているような温かさを感じ、俺は今日という日に感謝した。
そして、俺はある一つの事を誓ったのだ。
そうだ、今日を記念日にしよう。
俺だけが知る、俺の中だけの記念日。
誰にも邪魔されずに、そっと俺の中だけで祝福する記念日。
うん、悪くないな……。
ふっ、と口角を上げた俺は、徐に机の引き出しを開ける。
そしてそれを目視し、ゆっくりとそれに手を触れた。
俺が手を触れたそれ。
それとはそう、つまりは縄である。
俺は今日のこの記念日を祝して、自身の躰に縄という贈り物を施した。
下着の上からではあるが、躰を動かせる程度にしっかりと全身を縛りあげたのだ。
テンションの上がった俺は、特に股間部分を入念に巻き付けてしまった。
それは、下着の上からでもその形がはっきりと判るように、大した念の入れようなのだ。
つまり、今このズボンがずり下がってしまうと、それが白日の下に晒されてしまうという事だ。
それだけはダメだ!!
こんな大勢の目の前で、しかもクラスメイトまで目の前にいる状態で!
そんな痴態を晒してしまったら、明日からどうやって生きていけばいいんだ!!
くそっ、まさか制服の下にそんな秘密が隠されているとは誰も思うまいとほくそ笑んでいたのが失敗だった。
俺の心に完全に油断が生じていたのだ!
いや、まだだ! まだ露出したわけではないっ!
とりあえず、早くこのホックに引っかかった鞄を何とかしないと!
「そうだ桐山君、私ったら昨日携帯電話を替えたのよね」
そう言いながら花野井は鞄の中から携帯電話を取り出してきた。
携帯とか今はどうでもいいんだよっ!
そんな事より今はこの小羽の鞄を……。
くそっ、この満員バスの中では思うように手が動かせない。
しかも、片方の手は吊り革を握る必要があるので、片手で鞄を外さなくてはいけないのだ。
「ほら、どうかしら。良い色でしょ?」
「……あ、ああ、そうだな」
新しい携帯アピールとか、今はそんなの相手にしてられないんだよ。
くそっ、この鞄なんで外れないんだ!
あんまり下半身あたりで手をモゾモゾしてると誤解されるじゃないかっ。
「新しくした記念に、桐山君を撮ってあげようか?」
「……ん? ……ああ、いや、俺はいいよ……」
それどころじゃねぇっつぅんだよ!!
くそぅ、これどうなってんだ?
早くしないと……。
俺が鞄と格闘していると、花野井は携帯を弄りだす。
「さあ桐山君、決め顔でこっち向いてくれるかしら?」
「ちょっと待て、今それどころじゃ――」
――その時である。
運命というやつは常に残酷に微笑みかけるのだ。
俺の想いなんてものは無視されるためにあるように、バスは大きく揺れ始める。
そして、俺の体から離れていく小羽の鞄。
そのバスが揺れる力のせいで、小羽の鞄が無情にも俺のズボンのフロントホックを壊し、チャックを全開にしながら離れていったのである。
その瞬間、俺は下半身がスース―するのを感じるのだった。
静まり返る車内。
誰もが言葉を失うその静寂を破ったのは……。
「……あら、桐山君」
カシャリという、花野井の携帯が写真を撮る音だった。
「きゃあああああああああ!!!!」
一斉に悲鳴と怒号が飛び交う車内。
そんな耳をつんざくような喧噪の中、どこかに小羽の声も聞こえていたが上手くは聞き取れなかった。
ああ、終わった……。
そんな事を考えながら、俺はあの言葉を叫ぶのだった。
「か、かこかいへーん!!」
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