第2話

 次の日、旅館内を見回っていると、受付のところに、昨日一緒に話した男性がいた。どうやらチェックアウトの手続きをしているらしい。僕はチェックアウトを済ました彼に話しかけた。

「昨日はどうも。色々お世話になりました」

 すると、彼は優しい笑顔で僕にこう返してくれた。

「いえいえ、こちらこそ、楽しい時間をありがとうございました。旅行楽しんでください。白いワンピースの子に会えるといいですね」

 そう僕に言い残し、彼は入り口に向かい旅館を後にした。名前も知らない人と初対面で酒まで交わして、あまつさえ自分のプライベートまで明かしてしまった。これが旅の一期一会というものなのだろうか。

 その後、僕は旅館の人に鍵や荷物を預け、旅館を後にした。これから琵琶湖やその付近の森など色々なところを探検するのだ。

 

 最初に行ったのは、旅館から近い余呉湖だ。ここは琵琶湖ほどではないが、とてもきれいな湖で滋賀の観光名所の一つにもなっている。自転車をこいでいるうちにものの数分で余呉湖についてしまった。

 水面は太陽の光に反射して、輝きに満ちている。その輝きは夏を感じさせ、昔自分が子どもだった小学生時代を思い出す。あの頃は何も考えず、ただひたすらに遊びつくしていた。カブトムシを捕まえては友達と大きさを競い合ったり、木にとまっているセミを捕まえたり、セミの抜け殻を集めてみたりなど、一つ思い出すと、芋づる式に色々なことが思い出される。いくつになっても、あの時に感じた音や感動は忘れられないものだ。

 余呉湖を歩いていると、見覚えのあるシルエットを見つけた。それは神社で見た白いワンピースを着た女の子だ。女の子は元気に走り周っている。髪は腰の長さまで伸びており、その様子はまさに草原を走り抜ける女の子そのものだった。

 しばらくその子を見つめていると、女の子が僕の存在に気付き、僕へ近づいてくる。このご時世、小さい女の子と僕みたいなおじさんが一緒にいることはためらわれるため、本来なら距離をとるべきなのだろうが、どういうわけか、その時の僕はそういった「大人の感覚」のようなものを容易く無視することができた。その間に、その子は僕の目の前にまで近づいてきていた。彼女は口を開き言葉を発する。

「お兄さん、こんにちは。ひょっとして遠くから来た人?」

 おそらく見慣れない人間だったので、気になって話しかけてきてくれたのだろう。僕は腰を下ろして「東京から観光に来たんだよ」と答えた。

「そうなんだ。ねぇ、お兄さん、遊ぼうよ。たぶん暇でしょ」

 僕は後先のことなど考えずに気持ちだけでうん、と答えてしまった。

「それじゃ、行こうよ。近くに飛び込むのにちょうどいい川があるんだよ」

 僕は言われるがままにその子についていった。余呉湖から少し離れたところにある小さな川だ。とても水がきれいで、周りには田んぼしかないようなまさに田舎道だ。川の上には橋が架かっている。

「手本を見せるから、お兄さんも私の後に続いてね」

 そういうと、彼女は橋から川に飛び降りた。その様子には少し戸惑いもなく、まっすぐと川に落ちていく。僕は慌てて、彼女が落ちた先を見る。すると、少したって彼女が水面から顔を出した。水の輝きと彼女の笑顔は夏のわんぱく少年を彷彿とさせるものだった。

「お兄さんも早く」

 彼女は僕を急かす。僕も勇気を決めた。僕は橋の欄干へと昇り、視線を前へ向ける。それはいつもより少しだけ背の高い景色で、いつもより視線が高い。川の先には大きな森が広がっており、その手前には小さな木造の家が点在している。辺りは全て緑だ。

 僕は川を見下ろす。意外と橋から川までは高さがあり、一歩間違えば死んでしまうのではないか、と僕の頭の中で恐怖感がよぎった。というか飛び込みは禁止なのではないのか、と色々と不安材料が積み重ねられていく。

「お兄さん、大丈夫だよ。元気に飛び込んで」

 彼女は満面の笑みで僕にそう言う。彼女の言葉は僕を不思議な気持ちにさせる。今ならどんなことでもできてしまえるような気がした。僕は欄干を蹴り上げる。両足が一気に宙に浮く。その感覚はまるで今まで押し付けられていたものから解放されたような、今なら昔読んだピーターパンのように空さえ飛んでいけそうな気持になる。やがて僕は少しずつ川に向かって落ちていく。これからくる青の世界へのワクワクに胸を躍らせていた。

 次の瞬間には僕の体は青の世界の中にあった。川は見た目以上に澄んでいて、中には小さな生物が青の世界で暮らしている。水面から顔を出すと、とてもきれいな水面が僕のまわりで輝いている。彼女は笑顔を僕に向けていった。

「ね、大丈夫だったでしょ」

 その後は、川から出て、近くにカニがいるのに気付いた。あまり食べる時以外にお目にかかることは少なかったため、とても新鮮に感じられた。はさみは意外と痛そうで、最初は少し怖かったが、すぐに慣れてしまった。最終的には自分から他にカニがいないか探し回ってしまうほどに楽しんでいた。

 

 次に彼女に連れられてきたのは、不思議な田舎道だった。周りには民家もなく、もちろん自販機などもない。本当に何もないところだった。周りは田んぼだけが広がっており、おそらく地平線が見えるのではないかというくらい平らな場所だった。

 小さい子道を抜けると、草木が仲良さげに過ごす小さな草原が広がっていた。自然の住処という言葉がふさわしい場所だった。虫が木々にとまり、風に揺れる草木はそれぞれがまるで生きているかのように揺れている。僕と彼女はそこに座る。それは今までみてきた自然の中で一番きれいで、そして一番居心地の良い場所だった。ふと彼女はつぶやく。

「ここにいるみんなは強く生きているよ。がんばって根を生やし、生き続けている」

 彼女の言葉が僕の心にこだまする。

「君はこの辺の子かい」

 僕は彼女に話しかけた。とても気になっていて、ようやく自分の口で聞くことができた。

「そうだよ。ずっとここに住んでる」

 彼女は草木に腰掛け、上半身を倒す。

「ここにいる人たちは好きだな。みんな一生懸命で、忙しいのにめげない。そして人への優しさと若いころの気持ちを忘れたりはしない。たまに愚痴を吐いたりはしてるけど、一日一日を全力で生きている。そういう人間って誰の目から見ても、とても魅力的に映るよ」

 彼女は子どもに似つかない発言をしていた。彼女はいったい何者なんだろうか。僕は聞いてみようと口を開こうとするが僕の心がそれを許さなかった。今のこの素敵な空間が終わってしまうような気がしたからだ。今は彼女の正体よりもここで感じられる不思議な体験を一秒でも長く感じていたい。

「こうやって草原で寝転ぶのって何年ぶりだろう。たぶん小学校の時に行った自然教室以来かな」

「……懐かしい?」

「懐かしい……か」

 僕は彼女の言葉に少し考えあぐねる。

「お兄さんも大変だよね。きついと思うけど、めげないでね。お兄さんに助けられた人、お兄さんのおかげで喜んでいる人は間違いなくたくさんいるから。どんなにきつくても、自分を見失ったり、捨てたりしないでね」

 彼女の言葉は僕の心の中に響き渡る。水面に浮かぶ波紋のように体中に響き渡っていく。やがてその波紋が目元にまで及ぶのに気づくのにあまり時間は要さなかった。


 気が付くと、夕方になっていた。どうやら眠ってしまっていたようだ。周りを見渡すと、近くに彼女の姿はなかった。帰ってしまったのだろうか。僕はあちこちを探し回ったが、やはり彼女の姿を見ることはできなかった。

 僕はもと来た道を歩き、近くに止めていた自転車にまたがって、旅館に戻った。あの女の子はいったい何だったのだろうか。頭の中は彼女のことばかりで、心ここにあらずの状態だ。僕は時々その場所の方向を振り返りながらも、その田舎道を後にした。


 旅館に帰った後はすぐに眠ってしまい、今は朝のチェックアウトの時間だ。僕は受付の人にありがとうございました、と感謝の言葉を伝えて旅館を後にする。自転車に乗り、最寄り駅まで向かう。

 帰る途中に、例の神社があった。僕はもう一度、神社に向かって、お賽銭箱にお金を入れて、願い事を考える。その時、この二日間を彩ってくれた人々との思い出とともに色々な願いがあふれ出てきた。健康でいられますように。そういえば大好きだった、釣りもまた始めたいな。明日もいいことがありますように。でてくる願いはいっぱいあれど、今この神社で願うべきことはこれだけだと思った。

「この思い出をいつまでたっても忘れませんように」

 僕は神社を後にして、もう一度振り返ろうとしたとき、白いワンピースの女の子が階段を下りていくのが見えた気がした。僕は走って階段のほうへ向かったが、やはりいなかった。

 その後は、電車に乗って新幹線に乗って、長い旅路の末、ようやく家に着いた。一気に日常に戻ってきたような気がした。そして明日には出勤しなくてはいけないという気持ちから少しだけ現実に引き戻される。しかし、不思議と気持ちはとても晴々としていて、何かに背中を押されたかのようなほどに元気がみなぎっていた。

「明日もがんばろう」


 翌日、僕は普段通り勤務先のコンビニで働く。昨日までの自然の風景が嘘のように感じられる。

 忙しい時間帯を終え、お店が空いてきたとき、一緒に入っているバイトの子が休憩に行く。店にいるのは自分一人だ。僕はその時間を使って、書類の記入をしていた。

 突然、お店の入店退店音が店内に響いた。それに合わせて、いらっしゃいませ。と元気に挨拶をする。しかし、そこには誰もいなかった。なんだったんだろうと思った矢先、白いワンピースの女の子がレジから見える店の奥に立っていた。女の子は首をかしげて微笑みながら口を開いて何かをしゃべっていた。僕からは何を言っているのか聞き取れなかった。彼女は気づくと消えていて、店内を見回ってもやはり見つけられなかった。彼女が何を言っているのかは分からなかった。でも彼女が言った言葉を僕は直感的に理解することができたような気がした。

「よし頑張るか」

 僕はもう一度その書類に目を通して仕事に取り組んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏懐古 としやん @Satoshi-haveagoodtime0506

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ