夏懐古

としやん

第1話


「てめえの店の教育がなってねえんだろうが」

 怒号が店内に響き渡る。それは店内の空気を瞬く間に支配し、チクチクとした雰囲気が店内を包む。

 なぜこのようなことが起きてしまったのか。新人の男の子がレジの操作を誤ってしまい、謝罪の言葉もなく対応したからだ。

「もういい。この店は二度と使わん」

 そういい捨て、そのお客さんは店を後にする。その後の空気は変わることなく居心地が悪く、後ろに並んでいたお客さんも気まずそうな様子で会計を済ましていた。

「ねえ、なんで謝らなかったの」

 お客さんの波が落ち着き、店員同士で会話ができるほどになった時、僕はミスをしたバイトの子に問いかけた。

「……レジをミスって焦ってしまったので」

 スタッフの男の子は、面倒くさそうに僕の質問に答える。

「そうなのか。でも一応もう入って三ヶ月ぐらいだよね」

「はい、すみません」

 彼はその後、ただ謝ることしかしなかった。結局、次からは気を付けてね、というありきたりなアドバイスしかできず、次もまた同じようなことが起きないか心配な気持ちが残る。

 自分の勤務時間が終わり、お店をフリーターの人たちに任せる。家に帰って風呂に入った後は、テレビを観ながらコンビニで買ってきた弁当を食べながらお酒を飲む。お酒を飲んでいないと、日々のクレームの対処などやっていられない。

 僕は手元にある缶ビールを一口飲み、苦みを口の中で転がしながら、惰性の時間を過ごす。

「ああ、この芸能人、結婚したのか」

 僕でも知っているような芸能人が幸せそうな表情を浮かべて、コメントを残している。目の前にあるコンビニ弁当やお酒に視線を移す僕は自身の惨めさを感じずにはいられなかった。

 僕は缶ビールを飲み干し、中身が空になったのを確認すると、それを投げ捨てる。ひょっとしたら中身が少し残っていたかもしれない。でもそんなことはどうでもよかった。


 それから数日後、上長から勤務中にメールが来ていた。

『お疲れ様です。この前入社した新人の子がようやく戦力になってきた。最近休めていないだろう。来週の水曜から金曜までは体をゆっくり休めることにしなさい』

 僕はメールを読み終える。

「僕って休日にいつも何をしてたっけ」

 僕は数年ぶりに本棚から漫画を取り出す。大学時代はよく漫画を読んでいた。

「あの時はずっと読んでた気がするな」

 そういいながら、僕はページをめくっていく。

「……」

 ――なぜだろう、面白いと感じられない。


 次の日、僕は退勤後に何かきっかけを得られるかもと思い、本屋に立ち寄る。ひょっとしたら自分が気に入る漫画があるかもと思ったのだ。それに加えて、ここで面白い小説や雑誌でも見つけられたらいいなと思い、店内を歩き回っていると、旅行コーナーにある雑誌の表紙が僕の目に映った。そこにはおそらく琵琶湖の美しい写真が載っているのが見える。僕は吸い込まれるようにして、その雑誌のもとへ歩み寄る。

 その本の中には美しい風景が立て続けに掲載されていた。滋賀県といえば琵琶湖ぐらいのイメージしかなかったが、ページをめくると、そこには僕が見たことのない滋賀の美しい風景が並んでいる。僕はその雑誌をカウンターへ持って行った。

 

 連休初日、僕は旅行コーナーの雑誌を見て、滋賀に行くことにした。琵琶湖を眺めようとも思っていたが、それよりも雑誌で紹介されていた余呉湖というところが気になったのだ。幸い滋賀の天気もこの二日間は快晴だ。僕は新幹線に乗り、滋賀まで向かう。    

 とにかく田舎に行ってみたいと思い、大津駅から琵琶湖を北東に向かった長浜や彦根あたりまで電車で移動することとした。ここでなら琵琶湖はもちろん余呉湖や彦根城など色々な観光スポットがあるからだ。僕は大津に着き、一時間ほど電車に揺られ、長浜へと向かう。

 電車の中は都内ほど混んでおらず、久しぶりに電車の座席に座ったような気がした。窓から見える景色も緑と青が調和した素敵な色合いだった。

 長浜駅の改札口を出ると、それは今まで東京にいたときには見られなかった景色だった。たくさんの車が立ちならんではいるものの、ビルなどの大きな建築物などが一つもない。

 自転車に乗りながら、心地よい風が僕を迎えてくれる。今は八月なので、やはり暑いが、滋賀の暑さは東京のそれとは異なる。東京は体に張り付くような暑さで、滋賀は体をさすような暑さだった。

「これは帰ったら日焼けがやばそうだな」

 車の音や信号の音などの人工物のもたらす音などが非常に少なく、風邪に揺られてなびく葉の擦れる音、セミのうるさい鳴き声や、田んぼの独特の匂いは自分が小さかったころの思い出をよみがえらせる。


 道の途中で、小さな神社の入り口があった。そこはまるで秘密基地の入り口のようにひっそりとしている。せっかくだということで、僕は近くの駐輪場に自転車を止め、神社に向かう。階段を昇っていく。階段の周りは木々に囲まれており、木々の間から小さな太陽の光が差し込む。そこは木々がアーチのようにして僕を迎えてくれているような場所だった。

 階段を昇り切り、僕は神社に到着する。お賽銭箱にお金を入れて、鐘を鳴らし、願い事を思い浮かべる。一体どんなことを祈ろうか。給料は上がってほしいな。それとお店の売り上げも上がってほしいな。いや、でも売上げを上げてお店の赤字を回復させれば、給料も上がるんではないか。ならお店の赤字回復を願っていたほうがいいか。あ、そういえばお店の蛍光灯替えてなかったな。今度替えておこう。

 気づけば、自分が頭の中で考えていることは仕事のことばかりで、純粋な願い事など一つも思いつくことができなかった。乾いた鐘の音が鳴り響く。木々の乾いた音が聞こえる。僕はもと来た道を戻ろうと後ろを振り返る。すると風が強く吹く。その一瞬、自分の目に白い物体が映った。それは階段の方に動いていた。そしてそれはどうやら人の形をしており、白いワンピースを着た小さな女の子だということに気付いた。階段を降りる彼女の姿を僕は目で追う。僕は引き寄せられるようにして階段の方へと向かうが、そこにはもはや彼女の姿はなかった。

「何だったんだ?」

 特に足音もしなかったし人の気配もしなかった。不思議に思いながら僕は神社の階段を降りる。


 広がる限りの自然を感じて、僕はようやく目的地の旅館に着いた。

「自販機もない。コンビニもない……まじか……」

 僕は田舎の洗礼を浴びながら、カラカラに乾いた喉から言葉を発する。旅館でチェックインを済ませ、お風呂に入り、夕食を済ませる。一服したいなと思い、喫煙所に向かう。一人僕と同じくらいの年齢に見える男性が座っていた。少しひげが伸びており、髪は疲れのせいか白髪が混じっていた。近くに僕も腰掛ける。タバコを吸いはじめる。夜の暗闇にたばこの紫煙が溶け込む。しばらくするとその男性が僕に話しかけてきた。

「旅行の方ですか」

 突然の質問に少し動揺したが、体勢をただし、しっかりと答える。

「はい、東京のほうから旅行で来まして」

「へーそうなんですね。意外と少ないですよね。僕らみたいな人」

「ははっ。そうなんですね。私はあまり旅行に行った経験がないので、これが初めてでして」

 ふと、自分の頭の中に上司とのやり取りが頭をよぎった。いつもこびへつらって、上司の機嫌を損ねないよう、顔色をうかがいながら、楽しくもない話に愛想笑いを浮かべ、あたかも面白く感じるように自分に言い聞かせる。今自分は同じことをしているのではないかと心配になる。しかし、その男性はそんな僕の様子など気にも留めず、続けて言葉を続ける。

「もしかして、仕事で嫌なことがあって、その喧騒から離れようと思ってここにきた、とかですか」

 僕はまるで心を読まれたのかと思い、とっさにその人のほうを向いた。口には出していなかったはずだが。

「実はね、僕もそうなんですよ。色々仕事でうまくいかなくて」

 そういって彼は口から紫煙を飛ばす。

「――どうですか、この後私が借りている部屋で一緒に飲みませんか」

「ああ、お酒お好きなんですか?」

「ええ、最近あまり誰かと飲むという事が意外と少ないものでして。仕事先の若い子たちを誘ったりもするんですけど――今の若い子たちは本当にお酒を飲まないんですよね」

 彼は心底驚いたとでも言いたげな様子で僕に会話を振る。そういえば、確かに今までお店でスタッフとお酒の話になったこともなかったな、とふと思いつく。まぁこれは僕が彼らとのコミュニケーション不足の可能性もあるが、いずれにしても、問題があるのは間違いない。

「確かにそうですね。それに普段は仕事の事ばかり話しているから、意外と腹を割ってといいますか、プライベートのことを誰かに話すこともなくなってしまいまして……せっかくですし、この話の続きはお部屋でしましょう」

 僕は指で挟んでいたタバコを灰皿に入れる。彼とはもっと話してみたい、そんな直感が僕を動かしていた。

 彼の部屋に到着すると、彼は僕に発泡酒を手渡してくれる。

「えっ?そんな悪いです。いくらでした?せめて自分の分くらいは……」

 僕がそう問いかけ、財布を取り出そうとすると――

「いいんですよ。私が好きで誘っていることなので。財布なんて今はしまってくださいよ」

「すみません」

「ははっ。今くらい大人の世界の常識なんか忘れさせてください」

 缶ビールを開けると、プシュッとおいしそうな音が部屋に響く。お互いの缶ビールをぶつけ合い、乾杯をする。

「……しかしまさか旅先でこういう風に誰かと一緒にお酒を飲むとは思っていませんでしたよ」

「ふふっ私もです。でもね、あなたが隣に座ったときからなんとなく私と似たものを感じたんですよ」

「似たものですか?」

「はい、なんといいますか――私と同じで仕事に疲れて、ようやく取れた休みで何をしたらいいのか分からないけど、何かをしないとまずいと思い、その結果、旅行をすることにしたって感じですかね。そんな雰囲気を感じたんですよ」

「あなたはエスパーか何かですか……」

 全く僕と同じような考えを言うものだから、まるで自分の心を読まれたのかと疑うほど、僕と彼の考えは似通っていた。

「ははっ。まぁ私はこういう自然だらけの場所に来られただけで幸せですけどね。中々来られませんから。それに中々プライベートのことを話せる人もいないですからね。あなたのように一緒にお話しできる人はかなり珍しい」

「ははっ。それはこちらもですよ。僕も忙しすぎて、中々バイト先のスタッフとも意思疎通がとれていない状態なので、案外話し相手はいないですね」

 僕はふと、この前見た芸能人のニュースを思い出す。あの時、僕は自身がテレビの前で、コンビニの弁当を食べながら、お酒で愚痴を流していた自分との埋められない程の大きな差に胸が苦しくなったのを思い出す。

「この前の、例の芸能人が結婚したってニュース観ました?」

「ああ、観ましたよ」

「なんというか結婚している人はみんな幸せそうな表情をしますよね」

「そりゃあそうですよ。自分が愛する人と一緒に結ばれる日ですからね。私もいつかは結婚したいですが、経済的にも出会いという面でも厳しいですよね」

 俺たちは話し続けた。やがてその内容は昔の恋愛までいき、やがて今の仕事の話に落ち着いていた。

「――でもね、仕事ってやっぱ大変ですよ」

 突然、彼がそんな言葉を口にした。

「私ね、実は飲食店の店長をやっているんですが、バイト君はいきなりばっくれるし、上司からの圧力はすごいしで、友達とかに愚痴を言いたいけど、なかなか時間が取れなくてねえ。それよりもゆっくり寝ていたいって思ってしまうようになったんですよね」

 彼の言葉に僕は耳を傾けていた。この人も自分も同じなんだと感じたからだ。

「実は僕もコンビニの店長をやってまして。バイトの子が勤務時間になっても来なかったり、上司の方々とも少しうまくいっていないところもあったので、すごくわかります」

「あー、あなたもなんですね。店長と呼ばれる業務はなかなか大変ですよね。しっかりと休みをとれるかどうかもわからない。なのに給料は良くない。結局きつくなって、こんな風に旅行をして気晴らしをしている状況ですもん」

 そういって、彼は新しい缶ビールを手に取り、口元に運ぶ。よほどお酒が好きなのだろう。おいしそうに飲む。

「でも、最近がんばらないとって思うようになりましたね」

 不意に彼はそう呟く。

「なんだかんだ、頑張っていかないと、見えてこないものってあると思うんですよ。それに普段の頑張りがあるから、誰かからの感謝がとてもうれしいと感じられるんですよね。接客業なんか特にそうだなって思いますもん。後、大事なのは、自分を捨てるようなことをしたらいかん、ってことですね」

 僕は彼の言葉に相槌を打つ。ふと僕は入社当時のことを思いだす。入社式では、うちの会社の社長が企業理念やら、何やらを熱く語っていたのを思い出す。僕はその言葉に感化されて、日々雑用から何まで一生懸命頑張った。やがて上司から「店長やってみたいか?」と声がかかり、僕は晴れて店長に就任した。あの時は楽しさと若さと体力ですべてを押し切っていたような気がする。あの時は目の前のお客に対する感謝をしっかり持って対応できていたような気がする。

「そうなのかも……しれませんね」

「ところで今日はどこに行かれたんですか?」

「長浜とかその辺ですね」

「あーあの辺はいいところですよね」

「それと―今日ここまでくる間に、神社があって参拝してきたんですが、白いワンピースを着た女の子に出会いまして」

「へー。実はそこに住む神様だったりしてね」

「いやー、どうなんでしょうねー」

 そしてその後、僕は彼に気になって質問してみた。

「いつ頃ここを発つんですか?」

「明日です。さすがにこれ以上いるのは経済的にも厳しいところがありましてね」

 彼は手元にあるお酒をグビグビと飲み干す。

 やがてお互いにお酒がまわってきたところでお開きになった。

「今日はありがとうございました。おやすみなさい」

 そういって俺は寝床に就いた。


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