リクエスト/300話前後でのとある魔術師の話

 ◆なんでもいいので特定某キャラの現状でのワンシーンをというリクエストを頂いたので。だいたい283話~315話周辺のなんらかのなにか。内容はない。


 ―――――――――


 精緻に組み上げられた魔術の構造に指先を浸す。


 介入を弾く魔術式に触れるまでの猶予は大体90秒ほどだろう。限界まで抑えた気配のままその揺らぎを追う。


 ひたひたと満ちるのは星幽の波。霊覚で視るそこは青い水底の色をしている。

 世界に刻まれた式の先、絶えぬ揺らぎと波がその形を定義する。


 幾層もに重なる認識のうちひとつとして。魔術とはその波を形作る行為だ。


 魔術式で上書きされた世界のはたらきは確たる形を定めて乱れぬ波形に定義されており、それはより正確で圧倒的なちからでなされた古い魔術の気配だ。


 意識下の水紋と泡。冬の最中であるこの土地の今を裏切ってその色は南洋の澄んだ水色で、結晶質の白砂の上にさんざめくぬるい海水のイメージを伴う。


 ――を成立させたのは果たしてどの時代の魔術なのか。

 構造の強固さは神々の時代の遺物、それそのものではないにせよ近い時代の構成物である可能性すら思わせた。


 彼は息を吐き、構築された術式に没入していく。


 逆らわず、流れに従って水底まで潜る。意識の端に浮遊感が渦巻き、規則的に繰り返す波が意識の周りを通り過ぎていく。水面から差し込む光の色の幻視。

 息を潜めたままわずかに自らの魔術を動かして介入の式を描く。

 ごくひそやかに足された揺らぎが波に合流し、その形を変え、一瞬の後に修正された。


 ぱちり、と光が指先ではぜたのが理解る。基盤術式から跳ね上げられた意識が基幹現実を主要認識先に戻す。

 嘆息を一つ。

 ずくりと痛む感触を確かめてから痛覚を切り落とす。

 手袋を外すと炭化した組織と無事な部分が見事に色分けされて視認できた。防衛機構に対処するための術式の働きは問題無いようで、灼かれたのは指先だけだ。指の一振りで炭化した皮膚とその下の構造を削り落とし分解しつくす。用意してあった治癒術式を動かすと数呼吸で再生が始まった。


 ――流石に、この程度の損傷であれば造作もないな……

 意識を向けて精査し、元の形に戻ったことに満足して手袋を嵌め直した。

 灼かれて試した防壁は素直な構築をされているように視えた。通常の治癒では用をなさない類の損傷を与えてくるようなことはないようだ。ということは複雑な防衛機構は動いてはいないのだということはこれで確定していいだろう。

 ――かつてはどうであったかは判らないが……今はこれ以上のものはあるまい。まずは僥倖。


 とはいえ、この機構は容易く掌握できるものではない。ろくに魔力を動かすことも出来ない以上、今の介入で仕込めたのはごく僅か。

 そのごく僅かを繰り返し繰り返し、魔術の歪みない円を描く循環に干渉する。


 ――手間だが――

 だが、仕方がない。

 これは自分で引いた道筋で、そうと望んで行う行為だ。対価と代償までも全て納得のうち。

 酔狂なことだとは思うのだが、自嘲はしてもなぜか違える気にはならなかった。



 術式に干渉していた場所を離れ、私室とされた領域に入る。

 厄介な呪いや障りの類は併用されては居ないと思ったが、念の為に肉体を洗浄することにした。

 このような場所で無防備になりたいとは思わないが、術式で退けることは極端に魔力が抑えられている今消耗が大きすぎる。練術杯の副次効果に頼っての洗浄が一番理に適っていた。


 僅かな魔力を使い、居室の外周に感知魔術を敷く。下級の者たちが身に付ける略式の術衣を脱ぎ捨て、髪紐を解くと形ばかり整えられた浴室に入る。

 この土地の常民達には入浴習慣が薄いことから設備は十分とは言い難く、普段ならば近寄る気にもならなかったことだろう。


 錬術杯を傾けて浴槽に浄水を満たし、温めもせずに浸かった。

 水を吸った見慣れぬ色の髪を掻き上げ、体を沈める。

 錬術杯の生み出す浄水は世界から一旦切り離され純化された水で、呪いや障りを溶かし剥がすのにも有効だ。

 現実の水の感触に無限の広がりの水底のイメージが薄れ、ああ多少は引き摺られたのかと意識したので、その意味でも有用であったのだろう。


 こればかりは塔から普段と同じものを持ち込んだ洗浄剤を開け、体を洗った。

 塔の主が手ずから調合して作り出す身拵えに関わる品は固有の性質を補助する側面を持つ。個体識別にも用いられるものであるので現在は芳香こそ抑えてあるが、それすら本来は彼自身の固有のものに近く、肉体の調整の助けになるものだ。

 また、洗浄剤自体にもある程度潤沢な防護の性質も帯びさせてあるし、作成時に馴染ませた多少の魔力が溶け戻ることも今この状態では意味があるかもしれない。


 痕跡を残さないように残り水を消去するのは術式付与品で行い、なんの変哲もない大判の木綿布で体を拭った。

 髪に絡んだ水を布に吸わせて落とし、ある程度水が飛んだところで結び直す。


「慣れないな」


 なんの気無しに呟いた声が意識したよりずっとぼやく色を帯びていて少し苦笑した。

 術式の補助のない生活というのはなんとも手間がかかるものだ。そんなことはもう長く忘れていたものだが。

 衣服を着け直すと荷物の底から小箱を取り出し、糖結晶を纏わせて保存した花を取り出し、口に押し込んだ。

 同族達のうちで一般的な嗜好品であるが、同時に調整のための品でもある。性質に合致して取り込みやすい植物はそうでない者にはろくに役立たない状態でも受け入れ自らのうちに溶かせば僅かに魔力を齎す。

 彼にとってはそれは接骨木と菫であり、愛らしいような糖菓は現状の彼の生命線の一つだった。

 ついでに補助食品カーセウムの薄板も取り出し、食事を済ませてしまうことにする。


「慣れないと言えば、これもか……」


 この場所で出てくる食事に手を付けず自前のもののみで賄うのはそれが良くない効果を齎すものだ、という確信に基づくものだが、いくらかはひたすらに口に合わない、という要素もある。


 居室の卓上に置き放しにした食膳を眺める。その内容は数種の木の実を煎り合わせたものと焼いた茸、揚げた芋に羊肉の燻製とスープ、それと肉のパイ。

 揚げた芋は安全と判断し、一度は少し齧ってみたものだが、場所の性質上のものだろうか、ひたすら無味で、そんな場合でないとは理解しつつも思わず常民の食文化というものに意識を馳せてしまったものだ。


 ――とはいえ、こればかりだと偏るか。

 また役に立つこともあるだろうから携帯に適して簡単に摂取できる食品を開発しておくべきかもしれぬ。流通品でいくらか近いものはあったのだが、多少かさばるので探索行に常用される携行優先のもので揃えてしまった。

 そう考えて、そういえば、とふと思考をそらす。

 あの子供はまともに食事をしているだろうか。放っておいたら補助食品カーセウムしか口にしないなどということは十分に有り得そうな話だった。

 あれはある程度嗜好性が高いようだったが、他になにか好みそうなものはあっただろうか。あの時もう少し届けておくべきだったかもしれない。

 ぱきりと噛み割った補助食品カーセウムはやはり均一な風味に甘く、長期間それだけ食べ続けるにはすこし向かない。


 ――……いや、場違いなことを思ったものだな……

 今思考に上らせるような要素ではないだろうに。彼は思考を切り替えると補助食品カーセウムを口に含み、浄水で飲み込む作業に集中することにした。

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