パンケーキ さまざま
(本編255話前後の出来事)
※度量衡には重度の翻訳が掛かっています。あしからずご了承ください。
【寄宿舎の場合】
「よし! パンケーキ焼こう!」
食堂で勉強をしながら唐突にがたんと椅子を揺らして立ち上がったミアに、向かいの席で一応勉強を見てやっていたジョアンは呆れた目をした。
「お前、いきなりなんなの?」
「スサーナが前言ってたよ、ひとは時々甘いものを食べないと頭が働かないんだって」
「お前の理解、多分なんか間違ってると思うけど……。まあ、そろそろ休憩してもいいころだよな。」
「うん。えへへ、実はね、
時間は夜9時頃。灯りに使う油を惜しむ寄宿舎の学生たちは夜遊びに出ているのでなければ、一番遅くまでランプが灯される食堂でダラダラしているか部屋に引っ込む頃合いだ。
ジョアンはうんと背伸びをし、焼くなら半分よこせよ、と言った。
「むうっ、半分だなんてジョアンの欲張り!」
「お前、明日の課題
気色ばんだジョアンにミアはぶうっと膨れ、しかし言っていることに一定の説得力は見出したらしい。しょうがないなあ、と言いながら台所で片付けをしていた寮母さんのところに顔を出す。
「パンケーキ焼きたいんですけど、かまどを借りてもいいですか?」
「ええいいですよ。あとの始末はして頂戴ね。」
はいと良いお返事をしたミアはまずかまどの燃え残りに細めの薪を数本突っ込む。
冬が近づいてきた今、台所のかまどの火は一晩中消さず、炭に灰をかけて保たせるやり方に変わっている。
ふうふうと息をかけ、火が薪に移ったところで食堂に取って返し、鞄から小籠に入れた卵を引っ張り出した。
台所に戻ると木のボウルに卵を割り入れ、傷んでいないことを確認して棚から粉と糖蜜を出す。
これは学生たちの共有財産だ。とはいえなんとなくミアとジョアンに優先権がある、ということになっている。
夏の王都での騒ぎの際。
結局エルビラには戻ってこなかったスサーナは自室に置いてあった食材について、ミアとジョアンに傷んでしまうだろうから食べてくれ、と言いおいていった。
二人は結局スサーナが置いていった上等の食材を寮母さんに渡すことにした。
たっぷりの白砂糖と白い小麦粉を見た寮母さんは驚き、結局それは売ってしばらくの食費になった。一部はミアとジョアンに渡されたが、二人はなんとなく学費や生活費にするのははばかられ、相談して雑麦粉(小麦だけではなく大麦や黒麦が混ざっていて安い)と廃糖蜜の大瓶を買って台所に置くことにしたのだ。
麦粉はよく腹を減らした先輩たちが麦焦がしにして舐めているし、廃糖蜜は醸して酒にしようとか、無駄に先輩たちのチャレンジ精神を誘っている。
糖蜜を卵と混ぜて粉に注ぐ。水を少し足してゆるめ、ぐるぐると混ぜる。
それからミアはそれをお玉ですくって、火の上の五徳に載せたフライパンにどろっと注いだ。しばらく待ってからひっくり返す。
「なあミア、それまだ中、生なんじゃないの?」
「大丈夫だよ。気になるならこっちを長く焼いたらいいもん」
後ろから覗き込んだジョアンがぶうぶう言ってくるのをスルーしつつもうしばらく火にかける。
――スサーナがしたみたいにはならないなあ。
乾き焼けた面の生地を見ながらミアは考える。スサーナは寄宿舎に居た時分、ミアが勉強中などにお腹が減ったとしょんぼりするとパンケーキを焼いてくることがあった。
それはなんだかやたらとふっくら膨らんで心浮き立つような見た目だったものだが、自分で焼いてみてもなかなか真似ができない。きっと、なにか秘密があったのだろう。あれだけお菓子を作るのが上手だったのだから何か秘技めいたものがあってもおかしくない。
――帰ってきたら聞こうね。
多分、公のご令嬢だとか言っても寄宿舎にもう近づかない、なんてことはないはずだし。偉そうな召使いみたいな人たちが付いているかもしれないが、こっそりすればいい。何事も帰ってきたら、帰ってきたらだ。色々と一緒にすることはあるのだ。
考えているうちにだいたい焼き上がりでいいだろう、という具合になる。
「おい、ミア、そろそろ上げないと焦げるぞ」
焦ったジョアンが声を上げる。
「分かってるよ。この間みたいに焦げ焦げになっちゃったら勿体ないもんね」
「ほんとにな。お前、よくアレをお貴族様に食わせたよな……」
糖蜜をたっぷり混ぜた甘いパンケーキの生地はさいしょから黒く、焦げたかどうかはうまく判断が付きづらいし、まずもって焦げやすい。
先日ミアが焼いた際には片面が大体黒く焦げて、物によっては苦くて仕方なかったものだ。ミアの忘れ物を届けにそっと忍んできたテオフィロは目の前に出されて文句も言わずに食べていったが、絶対に貴族が口にして良いものではないとジョアンは思う。
ミアは頷くと、二股のフォークで皿にパンケーキを移し、次の生地をフライパンに流し込んだ。
「どう? ジョアン!」
食堂の長机に戻り、皿に積み上げたパンケーキを前にミアは胸を張った。
それを手づかみにしてもちもちと食べているジョアンは指をなめてしばらく考え、それから言った。
「いいんじゃないの? 焦げてないし。」
「むーっ! そうじゃなくて、美味しいとかそういう感想があっていいと思うよ!?」
もう一口噛みとり、ジョアンはもう一思案して言った。
「甘くて。糖分は取れるよな。」
「むーーーっ!!」
ミアは力いっぱいのふくれっ面になると自分も一枚パンケーキを取り上げ、口にぐいと押し込んだ。
◆ ◆ ◆
【魔術師の場合】
温室の一つから塔の中に戻ってきた第三塔は呆れ返ったように半眼になる。
私室のソファの上にぐったり同族の一人がひっくり返っていたためだ。
「……いつ入った?」
「おー。さっきな。お前は手を離せなさそうだったんで勝手に待つことにした。あの穀物の品種改良、ずいぶん掛けるな?」
「一体何の用だ」
「なんか食わせ」
言った第八塔に第三塔は頭痛でも堪えるかのように額を抑える。
「まさかまた魔術人形を壊したのか」
「いんや、単純に塔まで戻るのが面倒でな。外地からの帰りよ。俺の塔よりこちらのほうが近い」
「帰れ」
けんもほろろに言った第三塔に第八塔は帰るまでに体力が保たん、と嘯く。
「携帯糧食の量を見誤って3日ばかり食いそびれているものでな。騎獣の上で目眩がして平衡感覚が飛んだ時には死んだかと思ったぞ」
「何をやっているんだお前は」
「もとを正せばアイヌーラ師のご依頼をこなしていて日程がずれたせいで天候がなあ。」
胸を張った第八塔に呆れ返った声で返し、更に戻った返答に第三塔は一つ諦めきったため息を吐いた。
第八塔が今わざわざ名で呼んだのは前の第三塔。王宮魔術師。彼の師匠に当たる人物の名前だ。普段はそちらの師匠殿となど呼び慣わし、改まって名を呼ぶことはあまり無い。常日頃は別の個人として分けて考えたがるくせに、こういう時にはその名から生まれる義務感を頼りにしようとするのだから困ったものだ。普段はただタカリにだけ来る、ということは稀なので――彼にしてみれば迷惑極まりないが、一応酒だの肴だのは大体所持してやってくる――まあそれだけ空腹なのだろうが。
もしかすると口実を付けて病み上がりの人間を見舞いに来ている、という理由もあるのかもしれないが、どちらにせよ迷惑なことには違いない。
「そのような理由で第八塔の守り番が消えたら稀代の椿事として歴史に残りかねないな。……今調理設備は保守整備中だからパンケーキぐらいしか出せないが。」
「構わんさ、と言いたいところだが…… まだあったのか、粉。」
「なくなる理由がどこにある」
魔術師二人は厨房に移動する。
通常調理に従事している「腕」と作業装置が整備中なのは本当のようで、残念げにつついた第八塔を尻目に人力で大体の事をまかなう作業台のほうに第三塔は立つ。
「手伝え」
足を組んで壁際の椅子に腰掛けた第八塔にツッコミを入れ、第三塔は計量ストッカーからカップに小麦粉を落とした。
「とはいえな。何をすれば?」
「
「数量は」
「400mlでいい……よほどでなければ誤差は構わない。卵は2」
指示に従って奥の貯蔵室から第八塔が食材を持って戻ると、第三塔は大ぶりの樹脂鉢に粉を入れ、人工乳を注ぎ、卵を割り入れてから卓上にあったワイヤートングで撹拌し、そこに砂糖と少量の塩を足し、全部一緒くたに雑に混ぜた。
多分撹拌にはもっと向いたやりかたがあるのではないか、と第八塔は思ったものの、水を向けた際に戻ってきた面倒だという返答には心から同意したので何も言わない。専用の道具を棚から探すのも面倒だし、細かい作業に魔術を使うのもそれはそれで面倒だ。違いない。
まあ、普段は――特に専門の分野なら――専用の器具を正確に使う事を厭わないし、精密な作業のためなら魔術をどんどん使う、という相手ではあるのだが、ともかくこれに関してはよほど何かうんざりしているのだろう。省力化極まりない。
続いて第三塔は炉を加熱すると上にフライパンを置いた。バターを落として広げる。
「ん? 加熱領域は空間指定せんのか」
「前回もこうだが。均一に熱変性させるより接触面から焼けたほうが好みでね」
常民の料理だぞ、と言った第三塔はそのままレードルで生地を注ぎ、フライパンを回して薄く広げた。
「そういやお前、なぜそんなもんに詳しいんだ。まさか粉を消費するために常民に師事したとは言うまいな」
怪訝そうな顔をした第八塔に向けて薄く眉をひそめる。
「どうでもいいだろう。塔に来る前に学習する機会があった、それだけだ」
あー、とふんわり納得したような表情をした第八塔を他所にふつふつしたところを裏返した第三塔は調理台の上の大皿を引き寄せ、焼き上がったものを雑に二つ折りにして大皿に乗せる。
「なんだ、今日のはこれだけか?」
これだけではちと寂しいな、と言った第八塔に第三塔は半眼になり、適当に白糖でも振るか嫌なら自分でなにか足せと言い、あとは無言で生地を焼く作業を繰り返すようだった。
第八塔はわざとらしくよぼよぼと立ち上がる。
ああ空腹で目眩が、などと言いながら貯蔵室に向かい、保冷庫からジャムの瓶と、ついでに
じゅうじゅうと脂が音を立てるものを皿の上に乗せ、パンケーキで巻くと一息に齧り付いた。
「うむ、酒が欲しくなるなこれは」
満足気に嘯いた第八塔に第三塔は呆れた目を向ける。
「いつもながらお前は遠慮というものを知らないようだな」
「自分で足せと言ったのはそちらだろう。それにこちらの塔の食料庫もお前も好きに使って構わんと言ったはずだが」
「丸焼きの仔羊が自分の足で飛び出してきたときから開ける気にもならぬ」
「あー、あったな、そんなことも」
ぽんと膝を打って笑い出した第八塔に舌打ちし、第三塔はすぐりのスプレッドの瓶を横から奪い取ると自分の皿にごっそり足すようだった。
「ところで麦酒か何か」
「茶すら淹れる気はない。 水 を 飲め 」
◆ ◆ ◆
【鳥の民の場合】
「ああ、パンケーキが焼きたい……」
そろそろ深夜、夜食に良い時間だな、という頃。スサーナはふと呟いた。
「食べたい、じゃなくて焼きたい、なんですね。」
やって来ていたレミヒオが小さく笑う。
スサーナは考えることが多いときや疲労したときなどに工程の少ない菓子を作るのが好きだ。
とはいえ、ここ数年の結構新しい習慣であるのだが。考えることが少なく、とはいえ目を離せない菓子作りは思考を単純化するのに良い。
「たまに、無性に簡単なお菓子を作りたくなること、ありません?」
「僕はちょっと……そのあたりは理解し難いかなと。」
どうですネレーオさん、とレミヒオは控えたネルに声を掛けた。
ここのところネルは使用人の演技で街の賭場に入り浸っていて、あまり部屋には戻ってこないが、丁度報告のタイミングだったのだ。
「いや、俺にもよくは……だがお嬢さんがそう言う気持ちはわからんでもないな。」
条件反射のようにふと二の腕を擦ったネルがふと思案げな表情をする。
「あっちじゃ暇さえありゃ入り浸ってたってのに、お嬢さん、台所に入れなくてだいぶん長いだろ。」
習慣だったことが急に出来なくなったんだから、それは菓子も焼きたくなるだろう、と言ったネルにレミヒオがああ、と理解の色を登らせた。
「公のご令嬢では確かに料理人たちも厨房に入っていいとは言えないでしょうねえ……」
言ったレミヒオにスサーナは頷く。
「ええ、少し聞いてみたんですけど、料理人さんにすごくびっくりされまして……。『グリスターンではそのようなこともあったかもしれませんが、どうぞご勘弁ください』と全力でお断りされてしまったので今後とも望み薄ですね……。」
そうだろうな、と男性二人がなにやらしみじみとした表情で相槌を打つ。
「これから冬になりますし、部屋に火を置いてもらえるという話ですから、それでこっそりちょっとぐらいなにか焼けないかと思ってるんですけどね」
足を温めるために炭火を入れて使う陶器の器は、大体前世で見た行火か火鉢めいた形をしている。まあもちを焼くとはいかずとも、貴婦人たちも侍女に命じてちょっとナッツを焼くとかパンを温めるなどということはするものらしい。
「流石にパンケーキは無理かなあ……」
しょんぼり言ったスサーナにレミヒオがなにか思いついた、というふうに言った。
「小さな炉で焼くパンケーキ……みたいなものはありますよ。氏族の旅隊で移動中に作るんです。」
「へえ!」
スサーナは予想外の民族食っぽい情報にぱっと目を輝かせた。
レミヒオは少し得意そうな顔をする。ネルはそう言う生活をした経験がないので全く知らない、と首を振った。こちらは少し残念そうに見える。
少し後にやって来たカリカはスサーナが問いかけた所、こちらも食いつきよく頷いた。
「旅の途中に食べるものですからここの所作ってはいませんけれど。懐かしいこと。言われてみればパンケーキと言えないこともないですね。」
それは麦の粉や挽いたナッツ、時には粉にした堅パンやビスケットにヨーグルトを足し、蜂蜜を始めとする甘みを入れて作るものだという。生乳や卵があれば是非混ぜるが、無くても固まるとか。
「あれば干し果物を先にヨーグルトに入れておいて。生の果物を載せてもいいものですよ。……焚き火の熾や移動中使う小さい炉で焼くものなのですけど、浅鍋に生地を敷いて蓋をするのよ。それでじっくり数時間、串を刺して生地がついてこなくなったら完成。」
しばらく火を絶やさない前提のものですが。炉で焼くなら小さな浅鍋を選ぶのね、とカリカは言い、なるほど弱火で蒸し焼きにするものか、と、説明されたスサーナはなんとなくぐりとぐらのカステラを思い出した。
――スキレットサイズの小鍋に生地ほんの少しで一度試してみましょうか。
ちょっとしたことでも料理ができるのは希望だし、小さいスキレットにパンケーキが収まっているのは絵本めいていいものだ。
スサーナは少し楽しみにすることにした。
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