アステール神話の断章 砂漠から海を渡ってきた勇者とルドール攻防戦

和泉茉樹

アステール神話の断章 砂漠から海を渡ってきた勇者とルドール攻防戦

     ◆


 それは神代の時代。魔王軍が世界を蹂躙した時代。

 南の海と接する港湾都市ルドールは悪魔の脅威に晒されていた。

 やがて来る魔王軍の大攻勢を前に、この街に一人の男がやってくる。


     ◆


 私は無限に続く砂漠で生きてきた。

 両親は幼い頃に盗賊に殺され、広大な砂漠に点在する緑地から緑地へ移動する、旅する商人に育てられた。

 屈強な男たちがその商隊を守り、そんな男たちが私を鍛えた。

 剣を教わり、槍を教わり、体術を教わった。

 旅の間に繰り返される激しい訓練が私の日常であり、終わることのない旅が私を鍛え上げた。

 命知らずの盗賊を討ち取る一方、私を鍛える男たちも倒れていく。

 自分の年齢も知らないまま、私は闘って生きてきた。

 その時は唐突に訪れた。

 緑地の一つで、少女を見た。見かけた、と言ってもいい。

 飢えて、道の隅に座り込んでいる。

 私は屋台で食物を買い、その少女に与えた。

 気まぐれだ。私にそんな慈愛のようなものとは、私自身がその時まで気づかなかった。今も、慈愛だったのか、わからない。

 少女は私の手から食物を奪うように手に取り、無様な様子で口へ詰め込み、咀嚼した。

 少女とはそれきり、二度と出会わなかった。私が属する商隊は緑地を出て、次の緑地へと向かう、ひたすら砂漠を歩き続ける旅に戻った。

 少女のことなど、すぐに忘れた。

 どれほどが過ぎたか、緑地の一つで夜、隊の荷車に近づくものに気づいた。

 私は見張りの一人で、相手に気づいてそっと近づいた。

 だが、思わず動きを止めた。

 そこにいたのは子どもだった。二人の少年が、荷物を奪おうとしている。

 声をかけてもよかった。殴り倒してもよかっただろう。

 だが私は黙って彼らを好きにさせた。

 頭には少女の様子、必死に食物を口に押し込む姿が、浮かんでいた。

 少年たちが逃げる寸前に、私の仲間が彼らに気づいた。

 私は反射的に仲間を押しとどめた。少年たちは逃げた。

 少年たちの盗みの罪を、私は背負うことになった。その上で、商隊への裏切りの罪も加わり、拘束され、緑地のはずれにある牢に放り込まれた。

 私も噂では知っていた。どこの緑地にも牢があり、それは言ってみれば、飢えて渇いて死なせるための、牢というよりは処刑場だった。

 狭い牢の中で、私は考えていた。

 誰が正しかったのか。この砂漠の、神々に見捨てられた土地では、正しさなど意味を持たないのか。

 数日は飢えに苦しんだ。誰も食べ物など運んでこない。次に渇きがきた。水など一雫もなかった。渇きも去ると、もう体は動かなかった。

 死を覚悟した。

 だが、神はいたのだ。

 ある夜、微かな物音の後、牢の扉が開いた。

 そこにいたのは、二人の少年だった。

 彼らは何も言わずに逃げた。

 私も、逃げた。

 必死だった。なりふり構わず、水を求め、食物を求め、服を手に入れ、武器を手に入れた。

 そして砂漠へ走った。

 方角などわからないまま、走りに走った。夜、凍えそうなほど寒いはずが、体は熱かった。

 太陽が昇る。汗が信じられないほど流れた。それでも私は走った。目の前に緑地が見える。

 幻であってくれるな。

 念じる私の前に、緑地が確かに現れた。

 また奪い、盗んだ。女を殴り倒しさえした。

 また砂漠だ。夜になり、昼になり、夜になる。

 飢えと渇きがやってきて、緑地がそれを癒す。

 やがて私の目の前には、巨大な、一面の水が現れた。

 その時も、私は渇いていた。だが、目の前の大量の水は、普通の水ではない。

 いつか、私を鍛えた男が言っていた。

 世界には飲み尽くせないほどの水たまりがあり、それは塩水なのだという。

 私はその水たまりの際までやってきたのだ。

 やっと砂漠という地獄から解放される。それに静かに興奮した。

 どうなってもいい。

 逃げ出したい。一時でも早く、逃げ出したかった。

 私は海に足を踏み入れ、すぐに膝、腰と深くなっていく。

 構わなかった。

 やがて首まで水が来た。泳ぎ方は習ったことがない。がむしゃらに先へ進み、ついに足が砂から離れる。

 服が重い。武器も重い。どちらも捨てた。

 泳ぎ始める。さぞかし無様だろうが、構うものか。

 泳いでも泳いでも、陸地などない。

 泳げるだけ、泳ぐ。それしかない。

 いつか、陸地にたどり着けるだろう。

 体がすぐに疲れる。だが休める場所はない。

 泳ぎながら休む。ほとんど休めないが、そうしないと、溺れる。

 時間の感覚がついに完全に消え去り、私はひたすら体を動かし続けた。

 どこかで人の声がしたのは、いつだったか。

 見ることもできない。気のせいかもしれない。幻聴が聞こえても、おかしくはない。

 また誰かの声がした。何かがすぐそばに落ちた。

 綱だ。

 反射的に掴んでいた。するとぐっとその綱が引っ張られる。

 今度はそばに何か、木の板のようなものが飛んできた。思わず、捕まえる。もう泳がなくても、沈まなくて済む。そう気付いた。

 どうにか姿勢をとる私の前で、小さな船が浮いている。乗っているのは老人だ。力の限り綱が引かれ、私はその船にゆっくりと近づいていく形になった。

「あんた! こんなところで何をしている! 死にたいのか!」

 声がはっきり聞こえて、やっと相手が人間、正真正銘の現実の人間だとわかった。

「泳いで、きました」

 そう答えたのは、老人に船に引っ張り上げられてからだった。船の中には網があり、魚が少しだけ入ったカゴも置かれている。

 私はまだ息が乱れていて、老人が差し出す水筒をどうにか受け取れる有様だった。

「兄さん、訛りがあるな、どこで聞いたかな」

 老人が船の櫂を漕ぎ始める。とても陸地から遠く離れられる力強さではないので、そばに陸地があるのかもしれない、と私はやっと気づいた。

「そう、南の連中だ。砂漠の民が、そんな訛りで喋る」

「砂漠から、きました」

「本当か? 海の向こう側だぞ」

 私はどう答えることもできなかった。私自身が、信じられなかった。

 私は海を泳いで渡ったようだ。

 本当に、信じられない。

 あの砂漠から、逃げだせたのだ。

「しかし、こっちに来て何をするつもりだ? 砂漠の連中は知らないのか?」

「何、を、ですか?」

 全身にだるさ、それを通り越した強張りを感じながら、どうにか訊ねる私に、老人は顔をしかめる。

「最果ての島から悪魔の大軍勢が押し寄せているんだ。だいぶやられているよ。人間は滅びるかもしれん」

 悪魔? 大軍勢?

 老人は私の顔を見て、知らんようだな、と呟く。

「とりあえずは、陸地へ連れて行ってやる。あとは好きにしな」

「ありがと、ございます」

「礼を言われても、悪魔が消えるわけじゃない。俺の懐が潤うわけでもない」

 どう答えていいかわからず、私はじっと彼を見た。

 老人が前を見ながら、投げやりに行った。

「俺はドッケン。兄さん、あんたの名前は?」

 名前。

「ジ・リー、です」

「ジ、がお前の名前か?」

「わかりません」

「よし、ジ・リー。この老いぼれが船を漕ぐから、休んでろ。空でも見てな」

 空。

 見上げると、砂漠の空とはどこか違うが、確かに空がそこにある。

 不思議に思ったけれど、何が不思議かはわからなかった。

 日が暮れかかる頃、船は港に着いた。

 その街はルドール、と言うらしい。

 私が初めて見る、砂漠ではない世界だった。


     ◆


 ドッケン翁は私に服を与えてくれて、「三日だけだぞ」と自分の部屋に連れて行ってくれた。

 港に程近い、輸送船に荷物を積み下ろしする労働者が大勢、生活しているような場所らしい。

 食事として硬いパンが出た。しかし砂漠で食べたものとはまるで味が違う。

「兵隊達を見物に行くぞ、ジ・リー。お前に現実を教えてやらなくちゃならん」

 そう言って食事が終わるとすぐに、私はルドールの街の北側、陸側の方へ向かった。

 それはすぐに見えた。土塁だ。人の背丈ほどもある。しかも何筋もある。

 兵士が大勢いて、今も工事の真っ最中だ。

「すぐそばの街、レヘナが魔王軍に押し潰されたと聞いている」どこか投げやりな様子でドッケン翁が言う。「ここもいずれは同じ運命だろう。ただ、ルドールには海がある。人は無事に脱出できるはずだが、兵士はそうもいくまいな」

「悪魔、とは、何ですか?」

「知らんよ。元は神だったとか、妖精だったとか、言う奴もいるがな。遥か大昔、俺たちの知らない時代の話だ」

「神? 妖精? 私、どちらも見たこと、ない」

「俺はあるよ。妖精をな。海の上でだ」

「どんな、形ですか」

 スッと肩をすくめて、忘れた、とドッケン翁は応じる。

「一瞬だけ見えた。不思議な感覚さ。いないはずなのに、いると確信が持てる。わかるか?」

「わからない」

「お前もどこかで会えるさ。神や妖精が人間を見捨てないならな」

 そんな言葉を最後に、帰るぞ、とドッケン翁は私を連れてその場を離れた。

「何か仕事ができるか? 砂漠では何をしていた?」

「戦うこと、できる」

 そうか、と答えたきり、ドッケン翁は無言だった。

 彼の部屋で三日過ごし、事前の話の通り、自由にしろと放り出された。

 金がない、住む場所もない、それを簡単に手にするには、一つの手段しかない。

 もちろん奪ってはいけない。私がこれからここで生きていくのだから。

 街の外周、兵士たちを指揮している男に声をかけた。

「邪魔をするな、離れていろ」

 そっけなく追い返されそうになるが、踏みとどまった。

「私を、兵士、してください」

「お前を兵士に?」

 指揮官はじっとこちらを見て、必要ないよ、と一言で一蹴した。

「力を、見てください」

「そんな暇はない」

「力になります」

「会話ができている自信があるか?」

 私はじっと彼を見た。彼もこちらを見ている。

 ため息を吐くと、ケゴル! こっちへ来い! と急に声を上げた。

 土塁の方から体格のいい男がやってきて、泥だらけのまま私の前に立った。

「この男が兵士にしろとうるさい。力を見せてやれ」

「本気ででやっていいんですかい? 総隊長」

「当たり前だ」

 その声と同時に、私はケゴルと呼ばれた男に襟首を掴まれている。

 投げられた。

 だが、空中で腕を振りほどき、私は猫のような身のこなしで、両足で地面に立った。

 もちろん、ケゴルはそれで動きを止めたりしない。

 組みついてきて、腕を極めようとする。

 訓練で繰り返し食らった技だ。返しの技を知っている。

 腕が極まる寸前に私の足がケゴルの両足を鮮やかに払った。

 攻守が入れ替わる。

 私の投げがケゴルを地面に叩きつけるが、もちろん、ちょっと息が詰まる程度で済む威力だ。

 ケゴルは地面に横になったまま、こちらをポカンと見ていた。

「もういい、ケゴル、仕事に戻れ」

 信じられない、という表情で立ち上がったケゴルが土塁の方へ小走りに去った。

「名前は?」

 指揮官が訊ねてくる。

「ジ・リー」

「剣術の技能はあるか?」

「使えます」

 良いだろう、指揮官はまた別の兵士を呼んだ。その兵士はキナクというらしい。

「この男はジ・リーという新入りだ。兵舎に案内し、すぐに仕事を割り振れ」

 キナクが頷き、私を促す。

 彼に導かれて兵舎の一つに入る。その途中で、キナクが説明してくれた。

「さっきの指揮官が千人隊、つまり全隊の総隊長のイシリダさん。俺はキナク。百人隊の隊長だ」

「よろしく、お願いします」

「悪魔はすぐそこだぜ」

 兵舎は急造らしいと私にもわかった。

 そこで服を渡され、武器も与えられた。なんのことはない剣と槍、盾だ。

「今やっているのは土塁作りだ。他の仲間に教わって作業してくれ。頼むぞ。午後には交代で剣術の稽古、集団戦の訓練をやる」

「はい、お願いします」

 他の兵隊達に顔を合わせ、土を積んで土塁を作っていると、すぐに訓練の時間になった。

 一対一の棒を使った稽古では、誰も私に勝てなかった。最初こそ、新入りを叩き潰してやろう、遊んでやろう、という雰囲気だった兵士たちが、途端に本気になった。それでも私は全員を押し返した。

 次に集団で陣形を組む訓練。鉦に合わせて前進したり、停止したり、後退したりして、その上で陣形を変えることもあれば、事前に決められた通りに二つに分かれ、三つに分かれたりもする。もっと複雑な動きもあった。

 それには私が一番ついていけていなかった。

 やったことがない、初めての体験で、ただ困惑するだけだ。

 キナク隊長がしきりに怒鳴るけど、怒鳴られて身につくものでもない。他の兵士たちも険悪な雰囲気になる。

 時間になり、訓練は終わった。

「集団というものを知らないのか?」

 作業しながら、近づいてきたキナク隊長が声をかけてくる。

「初めてでした。やったこと、ありません」

「そうか。あまり時間もないが、覚えてもらうぞ」

「はい」

 それから似たような日々が一週間ほど、続いた。

 私は徐々に集団での動きにも慣れ、兵士たちも私に目くじらを立てたり、怒りを滲ませることも減った

 一対一では、やはり私は誰にも負けなかった。この時だけは、誰もが私を恐れたようだ。

 事前の話もなく半日の休暇が与えられた時、兵士たちは不安そうな顔になり、そこここで囁きあっていた。

 どうやら決戦が近い、と彼らは見ているようだ。

 私は一人で兵舎を出て、ドッケン翁を訪ねる気になった。海に出ていなければ、例の部屋にいるはずだ。

 ルドールの街を歩いていく。平和だ。争いなどほとんどない。ただどこか悲壮な雰囲気はある。悪魔のせいだろう。

 悪魔というものを、私はまだ見たことがない。

 どんな姿をしているのだろう。強いのだろうか。数が多いのだろうか。

 そんなことをぼんやり考えていると、通りで、目の前に立った女がいた。

 すれ違うつもりで横へ踏み出すと、女も私の前へ移動してくる。思わず足を止めた。

「あなた」どこか猫のような雰囲気のある顔をしている。「海を渡ってきたでしょ」

「それが?」

 不思議な女だな、と私は思っていた。どことなく、超然としている。

 にっこりと笑みを見せ、

「私はあなたを選びました。あなたは私の選んだ英雄よ」

 何を言っているか、わからない。私が知らない言葉ではないが、筋がわからない。

「失礼します」

 すれ違おうとした。

 そのすれ違う瞬間、ぐっと手を捕まえた。

 ぐらりと、体が傾く。平衡感覚が失われる。

 頭の中にその光景が浮かんだ。

 楽園。そうとしか言えない。現実にあったとは思えないほどの理想郷の全貌が、頭に流れ込んでくる。そこでは神も、妖精も、人間も亜人も、等しく満ち足りた生活を送っている。

 夢か。

 夢のはずなのに、手に取れそうだ。

 大量の情報の後、何かが私の体を書き換えるのがわかった。

 幻想がブツリと途切れ、私はルドールの街角に戻っていた。

 まだ私の手を掴んだまま、そこに女が立っている。

「私はリーオ。神と呼ばれる存在よ」

「神?」

「東の山脈へ逃げなかった、はぐれものだけどね」

 言葉とは裏腹に、誇らしげにリーオは笑った。

 私が言葉を返そうとすると、遠くで鉦が打たれるのが聞こえた。

 敵襲だ。

 いつの間にか片膝をついていたので、立ち上がった。

 そこでやっと気づいた。

 リーオの姿は消えていた。

 通りにいる住民がそれぞれに逃げ出す中で周囲を見て、彼女が影も形もないことを確かめてから、私は兵舎の方へ駆け出した。


     ◆


 ルドール守備隊は全部で千人と少ししかいない。

 全体を統括するのが例の千人隊長だ。その下に百人隊長が十人いる。百人隊長の一人がキナクで、私はその指揮下だった。

 百人隊がそれぞれ土塁に配置され、二つの隊が最外周の土塁に配置される。そのうちの一つがキナク隊だった。

 前方から黒い波が押し寄せてくる、と思ったが、それが悪魔だった。

 異形としか言えない。真っ黒い肌、赤い瞳。角があり、翼があるものもいる。巨大な体躯を持つものもいる。

 私たち守備隊は、隊列を組み、短い槍を片手に、もう一方の手には丸い盾を持っている。腰には短めの剣が二本あった。

 私たちの背後にいる守備隊の一角、弓隊から矢が射られる。

 頭上を越える大量の矢が黒い軍勢に降りかかり、倒れる者が続出するが、勢いは止まらない。

「盾を構えろ! 槍を出せ!」

 キナクの号令で、兵士たちが一斉に盾を構え、隙間から槍を突き出す。

 悪魔が土塁に衝突する。乗り越えさせないように、槍が突き出され、悪魔が叫び声をあげる。

 悪魔たちが喚くのが聞こえた。聞き取れない濁った声。不気味だった。

 しかし私は冷静だった。真っ黒い血飛沫が舞う。

「押し返せ!」

 兵士たちが盾で悪魔を押し返す。

 しかし、長い時間は耐え切れない。悪魔が一体、また一体と土塁を越えてくる。

「耐えろ! 下がるな!」

 数が全く違う。崩壊は一瞬だった。

 土塁の内側を悪魔が蹂躙し、兵士たちが後退していく。キナクが何かを叫んでも、もう聞こえない。

 私のすぐ横にいた兵士が倒れこみ、そこに悪魔が乗り込んできた。

 盾で殴りつけ、槍で突き倒す。

 槍が抜けない。捨てる。剣を抜いた。

 倒しても倒しても、悪魔は押してくる。ついに周囲は全てが敵になった。

 どこかで人間の悲鳴。

 風が唸り、剣が私の腕を切り払う。左肩を深く斬られる。腕が動かない。

 右腕だけで抵抗。一体を切って、さらに二体を切った時、剣が折れた。

 次の剣を引き抜いた時、異変に気付いた。

 左腕の感覚が蘇っている。痛みもない。

 動くのか考える暇もなく、私の左腕はそばに落ちていた剣を手に取り、悪魔を切り捨てた。

 今度は悪魔の槍が脇腹を刺し貫く。激痛と灼熱。呼吸が止まる。

 悪魔を断ち割り、左手の剣を投げ、切っ先が別の悪魔の頭に突き立つ。

 腹に刺さったままの槍を引き抜き、捨てる。

 痛みがみるみる引いた。

 何が起こっているか、理解が及ばない。

 理解できることは、戦うしかない、ということだ。

 どれくらいが過ぎたのか、悪魔が鳴き声を交わし、後退していく。

 私の周囲に人間の兵士が押し寄せ、どうやら悪魔は撤退したらしい、と気付いた。

 兵士たちがこちらを何か異質なものを見る目で、見ている。

 倒れている人間の一人が目に入った。

 キナクだった。

 死んでいた。

 なぜ私は死なないのか。私は何度も死んだはずだ。

「ジ・リー」

 目の前に総隊長であるイシリダが立った。

「お前は、英雄だ。神の守護を得た、英雄だ」

 どう答えることもできない。頭が回らない。言葉が出ない。

「お前に百人を預ける。どうか、ルドールを救ってくれ」

 私は悪魔の血で固まっている指を無理やり動かして、握ったままだった剣を手放した。地面に軽い音を立てて、それが落ちた時、意識を失った。

 夢を見ることもなく、一瞬で目が覚めた。

 兵舎のうちの一つで、私は寝台に横になっていた。

 すぐそばにいるのは、例の女だ。リーオ。私に笑みを向ける。

「神の権能をみだりに使ってはいけないのだけど、あなたは不死者になった。完全ではないけれど、だいぶ死にづらいはず。その力で、この街を救って」

 死にづらい? 不死者?

「私は、人ではないのか」

「あなたは人よ」

「本当にあなたは、神なのか?」

 信じないの? とちょっと拗ねたような表情になるリーオ。

「あなたの傷は全てが治癒している。それでも信じない?」

 信じるしかないのを、私は気づいていた。いくつも深手を負ったのに、私は今も生きている。

「英雄になりなさい、ジ・リー。戦いの結果が、あなたを英雄にするわ。戦って」

 リーオが立ち上がる。

 まだ聞きたいことは多くあった。だが、私はそれを口にできなかった。

 若い女性がやってくる。白い服を着ている看護師だ。

「どこか、違和感のある場所はありますか?」

「いえ、ないです」

 起き上がる。確かに体は万全だった。

 ただ意識がどこか濁っている。

 看護師に断って、一人で私は外へ出た。

 私は戦場へ行ってみた。

 だいぶ遠くに悪魔たちの集団が見えた。とてもルドール守備隊が対抗できる数ではない。

 しかし戦わなくてはいけない。

 この世界に神はいないのか?

 リーオが本当に神なら、あの悪魔を滅せるはず。

 それ以前に、この世界から悲劇と絶望を消せるだろう。

 神は全能ではないのか。

 私を不死者にできるのに?

 全てがチグハグだ。

 私は自分が生活していた兵舎に戻った。そこには新しい武具が用意されていた。

 同じ兵舎にいた兵士が、

「お前が百人隊を率いるそうだ。出世したな」

 どう答えることもできず、私は寝台に座り込み、新しい剣を手に取った。

 鞘を払って、その刃を見る。

 銀色に輝くその冴え冴えとした光に、私はしばらく視線を注いでいた。


     ◆


 悪魔の攻勢を五度、押し返した。だが、土塁は全て抜かれた。

 ルドール守備隊の百人隊は六つに減り、全員が決死の覚悟を決めた。

 住民は港から輸送船に乗って離脱している。

 戦場は地獄だ。

 光のない、真の闇。悪魔が跋扈する彼らの世界。

 隊長は誰も、自分たちが逃げることについて、口にしなかった。悪魔と戦い、敗れることに、何かを見出しているのかもしれない。

 兵士たちに同じ気概があるか、私には分からない。

 生き延びることをやめれば、戦えるか。

 生き延びることができるからこそ、戦えるのではないか。

 守備隊が配置につき、悪魔の七度目の攻勢を受け止めた。

 私の率いる隊は最前線だ。

 悪魔の剛力の乗った斧が、盾を斬り飛ばす。

 私の槍が悪魔を二体、まとめて刺し貫く。

 槍も盾も捨て、剣を抜いた。

 縦横無尽に剣を振るう。切って、切って、切り続けた。

 悪魔の剣が俺の胸を抉る。

 口から血が噴き出すが、構わずに相手を切り捨てた。

 咳き込む私に悪魔の剣が、ギラリと輝き、落ちてくる。

 光の筋が走った。

 部下の兵士の一人だった。悪魔を倒しつつ、私を守っている。

 やめろ、構うな。言葉にならず、咳き込むだけ。

 悪魔の一撃がその兵士を捉え、首が飛んだ。

 私の剣がわずかに遅れて、悪魔の首をはねる。

 思わず叫んだ。

 胸の痛みが完全に消えることがないまま、戦い続けた。

 悪魔の槍が脇腹、右肩を同時に貫く。剣が一閃し、槍を斬り払い、私の剣は悪魔を容赦なく倒した。

 部下が私の周囲に集まり、壁を作るが、その向こうは全て悪魔の群れだ。

 他の隊はどうしている?

 ルドールは陥落したのか?

「港へ」濁った声しか出ない。「港へ向かえ。逃げろ」

 兵士たちが喚き返す。

「逃げろ!」

 無茶です、と叫んだ兵士が、胸を貫かれ絶命する。

「急げ! 後退だ!」

 私は一人で悪魔の真ん中に踊り込んだ。

 剣は刃こぼれし、血にまみれて切れなくなる。捨てて、悪魔の剣を奪う。

 すぐに切れなくなる。捨て、誰かの剣を拾う。

 戦い続けた。全身に傷を負った。死が近づいてくる。

 リーオは自分を神だと、権能を行使したと言った。

 神の権能など、この程度か。

 死という絶対原則は、私にも等しく訪れるようだった。

 死だけを見据えて、私は死を撒き散らし、巨大な悪意の渦に敵を飲み込んでいく。

 左腕が肘の上で切り飛ばされた。右手の剣で反撃。肩をやられていて、力が入らない。

 二本の剣が胸を刺し貫く。

 吠えた。

 渾身の一撃で二体の悪魔を倒す。剣が折れた。

 自分の腹から剣を引き抜き、その一本で、また悪魔を倒した。

 終わるのか。いつ、終わるのか。

 どこかで鉦が鳴っている。

 終わりを告げる音か。

 悪魔の剣が私の首筋を断ち割る。

 意識が遠のく。曖昧な意識だけでも私の体は動き続けた。

 目の前に砂漠が広がっていた。

 何もない、一面の砂の丘陵を、商隊の荷車の列が進んでいく。

 男たちが陽気に歌を歌っていた。そんなこと、現実にあっただろうか。

 私もその列に加わった。

 私は砂漠の民の服を着て、ゆっくりと足を送り、砂を踏みしめている。

 穏やかな日々。

 不意に強い日差しに気づき、思わず顔を上げた。

 太陽が眩しく、輝いている。

 視界が、真っ白に染まった。


     ◆


 ルドールに三百騎からなる騎馬隊が到着し、悪魔の軍勢を打ち払った。

 その騎馬隊に加わっていた槍を持った青年が、ルドール守備隊の総指揮官と堅く握手をし、その時、総指揮官は涙を流したという。この青年こそ、英雄の一人だった。

 後続の部隊が来る前に、槍使いの青年は生き残った守備隊の兵士たちに声をかけ、労った。

 その中で、青年はある兵士の話を聞いた。

 一人で悪魔を三百体、切って捨てたというのだ。

 どれだけ傷を負っても倒れなかったと聞いて、青年は一層、顔をしかめた。

「どこにいる? 死んだのか?」

 答えは、戦いの中で消えた、というものだった。

 戦場の跡へ行き、青年は馬上から遠くを見渡した。

「神の気まぐれで、人間を作り変えて、満足か?」

「気まぐれじゃない。私たちは人間の味方よ」

 ちらりと青年は、いつからそこにいるかわからない女に視線を向けた。

「俺たちが戦うのは、俺たちのためだ。神のためではない。神の祝福を受けたとしても、俺たちには人間として戦う権利がある。神にはそんな主張など、わからないだろうが」

 女はわずかに顔を伏せた。青年は吐き捨てるように言った。

「神も悪魔も、俺から見れば同類さ。異形の体を持つか、異形の精神を持つかだ」

 青年が馬首を返した時、女の姿は消えていた。

 ルドールを救った兵士は、リ・ジー、というらしい。

 そう聞いて、青年は、彼を街を救った豪傑として弔うように指示した。

 青年は一人で街へ出た。がらんとした街を抜けて、港で老人が一人、漁の支度をしているのに気付いた。老人は小舟に乗り込み、漕ぎ出して行った。

 寄せては返す波を見て、青年は海の向こうの世界を夢想した。





(了)

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アステール神話の断章 砂漠から海を渡ってきた勇者とルドール攻防戦 和泉茉樹 @idumimaki

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