アステール神話の断章 砂漠から海を渡ってきた勇者とルドール攻防戦
和泉茉樹
アステール神話の断章 砂漠から海を渡ってきた勇者とルドール攻防戦
◆
それは神代の時代。魔王軍が世界を蹂躙した時代。
南の海と接する港湾都市ルドールは悪魔の脅威に晒されていた。
やがて来る魔王軍の大攻勢を前に、この街に一人の男がやってくる。
◆
私は無限に続く砂漠で生きてきた。
両親は幼い頃に盗賊に殺され、広大な砂漠に点在する緑地から緑地へ移動する、旅する商人に育てられた。
屈強な男たちがその商隊を守り、そんな男たちが私を鍛えた。
剣を教わり、槍を教わり、体術を教わった。
旅の間に繰り返される激しい訓練が私の日常であり、終わることのない旅が私を鍛え上げた。
命知らずの盗賊を討ち取る一方、私を鍛える男たちも倒れていく。
自分の年齢も知らないまま、私は闘って生きてきた。
その時は唐突に訪れた。
緑地の一つで、少女を見た。見かけた、と言ってもいい。
飢えて、道の隅に座り込んでいる。
私は屋台で食物を買い、その少女に与えた。
気まぐれだ。私にそんな慈愛のようなものとは、私自身がその時まで気づかなかった。今も、慈愛だったのか、わからない。
少女は私の手から食物を奪うように手に取り、無様な様子で口へ詰め込み、咀嚼した。
少女とはそれきり、二度と出会わなかった。私が属する商隊は緑地を出て、次の緑地へと向かう、ひたすら砂漠を歩き続ける旅に戻った。
少女のことなど、すぐに忘れた。
どれほどが過ぎたか、緑地の一つで夜、隊の荷車に近づくものに気づいた。
私は見張りの一人で、相手に気づいてそっと近づいた。
だが、思わず動きを止めた。
そこにいたのは子どもだった。二人の少年が、荷物を奪おうとしている。
声をかけてもよかった。殴り倒してもよかっただろう。
だが私は黙って彼らを好きにさせた。
頭には少女の様子、必死に食物を口に押し込む姿が、浮かんでいた。
少年たちが逃げる寸前に、私の仲間が彼らに気づいた。
私は反射的に仲間を押しとどめた。少年たちは逃げた。
少年たちの盗みの罪を、私は背負うことになった。その上で、商隊への裏切りの罪も加わり、拘束され、緑地のはずれにある牢に放り込まれた。
私も噂では知っていた。どこの緑地にも牢があり、それは言ってみれば、飢えて渇いて死なせるための、牢というよりは処刑場だった。
狭い牢の中で、私は考えていた。
誰が正しかったのか。この砂漠の、神々に見捨てられた土地では、正しさなど意味を持たないのか。
数日は飢えに苦しんだ。誰も食べ物など運んでこない。次に渇きがきた。水など一雫もなかった。渇きも去ると、もう体は動かなかった。
死を覚悟した。
だが、神はいたのだ。
ある夜、微かな物音の後、牢の扉が開いた。
そこにいたのは、二人の少年だった。
彼らは何も言わずに逃げた。
私も、逃げた。
必死だった。なりふり構わず、水を求め、食物を求め、服を手に入れ、武器を手に入れた。
そして砂漠へ走った。
方角などわからないまま、走りに走った。夜、凍えそうなほど寒いはずが、体は熱かった。
太陽が昇る。汗が信じられないほど流れた。それでも私は走った。目の前に緑地が見える。
幻であってくれるな。
念じる私の前に、緑地が確かに現れた。
また奪い、盗んだ。女を殴り倒しさえした。
また砂漠だ。夜になり、昼になり、夜になる。
飢えと渇きがやってきて、緑地がそれを癒す。
やがて私の目の前には、巨大な、一面の水が現れた。
その時も、私は渇いていた。だが、目の前の大量の水は、普通の水ではない。
いつか、私を鍛えた男が言っていた。
世界には飲み尽くせないほどの水たまりがあり、それは塩水なのだという。
私はその水たまりの際までやってきたのだ。
やっと砂漠という地獄から解放される。それに静かに興奮した。
どうなってもいい。
逃げ出したい。一時でも早く、逃げ出したかった。
私は海に足を踏み入れ、すぐに膝、腰と深くなっていく。
構わなかった。
やがて首まで水が来た。泳ぎ方は習ったことがない。がむしゃらに先へ進み、ついに足が砂から離れる。
服が重い。武器も重い。どちらも捨てた。
泳ぎ始める。さぞかし無様だろうが、構うものか。
泳いでも泳いでも、陸地などない。
泳げるだけ、泳ぐ。それしかない。
いつか、陸地にたどり着けるだろう。
体がすぐに疲れる。だが休める場所はない。
泳ぎながら休む。ほとんど休めないが、そうしないと、溺れる。
時間の感覚がついに完全に消え去り、私はひたすら体を動かし続けた。
どこかで人の声がしたのは、いつだったか。
見ることもできない。気のせいかもしれない。幻聴が聞こえても、おかしくはない。
また誰かの声がした。何かがすぐそばに落ちた。
綱だ。
反射的に掴んでいた。するとぐっとその綱が引っ張られる。
今度はそばに何か、木の板のようなものが飛んできた。思わず、捕まえる。もう泳がなくても、沈まなくて済む。そう気付いた。
どうにか姿勢をとる私の前で、小さな船が浮いている。乗っているのは老人だ。力の限り綱が引かれ、私はその船にゆっくりと近づいていく形になった。
「あんた! こんなところで何をしている! 死にたいのか!」
声がはっきり聞こえて、やっと相手が人間、正真正銘の現実の人間だとわかった。
「泳いで、きました」
そう答えたのは、老人に船に引っ張り上げられてからだった。船の中には網があり、魚が少しだけ入ったカゴも置かれている。
私はまだ息が乱れていて、老人が差し出す水筒をどうにか受け取れる有様だった。
「兄さん、訛りがあるな、どこで聞いたかな」
老人が船の櫂を漕ぎ始める。とても陸地から遠く離れられる力強さではないので、そばに陸地があるのかもしれない、と私はやっと気づいた。
「そう、南の連中だ。砂漠の民が、そんな訛りで喋る」
「砂漠から、きました」
「本当か? 海の向こう側だぞ」
私はどう答えることもできなかった。私自身が、信じられなかった。
私は海を泳いで渡ったようだ。
本当に、信じられない。
あの砂漠から、逃げだせたのだ。
「しかし、こっちに来て何をするつもりだ? 砂漠の連中は知らないのか?」
「何、を、ですか?」
全身にだるさ、それを通り越した強張りを感じながら、どうにか訊ねる私に、老人は顔をしかめる。
「最果ての島から悪魔の大軍勢が押し寄せているんだ。だいぶやられているよ。人間は滅びるかもしれん」
悪魔? 大軍勢?
老人は私の顔を見て、知らんようだな、と呟く。
「とりあえずは、陸地へ連れて行ってやる。あとは好きにしな」
「ありがと、ございます」
「礼を言われても、悪魔が消えるわけじゃない。俺の懐が潤うわけでもない」
どう答えていいかわからず、私はじっと彼を見た。
老人が前を見ながら、投げやりに行った。
「俺はドッケン。兄さん、あんたの名前は?」
名前。
「ジ・リー、です」
「ジ、がお前の名前か?」
「わかりません」
「よし、ジ・リー。この老いぼれが船を漕ぐから、休んでろ。空でも見てな」
空。
見上げると、砂漠の空とはどこか違うが、確かに空がそこにある。
不思議に思ったけれど、何が不思議かはわからなかった。
日が暮れかかる頃、船は港に着いた。
その街はルドール、と言うらしい。
私が初めて見る、砂漠ではない世界だった。
◆
ドッケン翁は私に服を与えてくれて、「三日だけだぞ」と自分の部屋に連れて行ってくれた。
港に程近い、輸送船に荷物を積み下ろしする労働者が大勢、生活しているような場所らしい。
食事として硬いパンが出た。しかし砂漠で食べたものとはまるで味が違う。
「兵隊達を見物に行くぞ、ジ・リー。お前に現実を教えてやらなくちゃならん」
そう言って食事が終わるとすぐに、私はルドールの街の北側、陸側の方へ向かった。
それはすぐに見えた。土塁だ。人の背丈ほどもある。しかも何筋もある。
兵士が大勢いて、今も工事の真っ最中だ。
「すぐそばの街、レヘナが魔王軍に押し潰されたと聞いている」どこか投げやりな様子でドッケン翁が言う。「ここもいずれは同じ運命だろう。ただ、ルドールには海がある。人は無事に脱出できるはずだが、兵士はそうもいくまいな」
「悪魔、とは、何ですか?」
「知らんよ。元は神だったとか、妖精だったとか、言う奴もいるがな。遥か大昔、俺たちの知らない時代の話だ」
「神? 妖精? 私、どちらも見たこと、ない」
「俺はあるよ。妖精をな。海の上でだ」
「どんな、形ですか」
スッと肩をすくめて、忘れた、とドッケン翁は応じる。
「一瞬だけ見えた。不思議な感覚さ。いないはずなのに、いると確信が持てる。わかるか?」
「わからない」
「お前もどこかで会えるさ。神や妖精が人間を見捨てないならな」
そんな言葉を最後に、帰るぞ、とドッケン翁は私を連れてその場を離れた。
「何か仕事ができるか? 砂漠では何をしていた?」
「戦うこと、できる」
そうか、と答えたきり、ドッケン翁は無言だった。
彼の部屋で三日過ごし、事前の話の通り、自由にしろと放り出された。
金がない、住む場所もない、それを簡単に手にするには、一つの手段しかない。
もちろん奪ってはいけない。私がこれからここで生きていくのだから。
街の外周、兵士たちを指揮している男に声をかけた。
「邪魔をするな、離れていろ」
そっけなく追い返されそうになるが、踏みとどまった。
「私を、兵士、してください」
「お前を兵士に?」
指揮官はじっとこちらを見て、必要ないよ、と一言で一蹴した。
「力を、見てください」
「そんな暇はない」
「力になります」
「会話ができている自信があるか?」
私はじっと彼を見た。彼もこちらを見ている。
ため息を吐くと、ケゴル! こっちへ来い! と急に声を上げた。
土塁の方から体格のいい男がやってきて、泥だらけのまま私の前に立った。
「この男が兵士にしろとうるさい。力を見せてやれ」
「本気ででやっていいんですかい? 総隊長」
「当たり前だ」
その声と同時に、私はケゴルと呼ばれた男に襟首を掴まれている。
投げられた。
だが、空中で腕を振りほどき、私は猫のような身のこなしで、両足で地面に立った。
もちろん、ケゴルはそれで動きを止めたりしない。
組みついてきて、腕を極めようとする。
訓練で繰り返し食らった技だ。返しの技を知っている。
腕が極まる寸前に私の足がケゴルの両足を鮮やかに払った。
攻守が入れ替わる。
私の投げがケゴルを地面に叩きつけるが、もちろん、ちょっと息が詰まる程度で済む威力だ。
ケゴルは地面に横になったまま、こちらをポカンと見ていた。
「もういい、ケゴル、仕事に戻れ」
信じられない、という表情で立ち上がったケゴルが土塁の方へ小走りに去った。
「名前は?」
指揮官が訊ねてくる。
「ジ・リー」
「剣術の技能はあるか?」
「使えます」
良いだろう、指揮官はまた別の兵士を呼んだ。その兵士はキナクというらしい。
「この男はジ・リーという新入りだ。兵舎に案内し、すぐに仕事を割り振れ」
キナクが頷き、私を促す。
彼に導かれて兵舎の一つに入る。その途中で、キナクが説明してくれた。
「さっきの指揮官が千人隊、つまり全隊の総隊長のイシリダさん。俺はキナク。百人隊の隊長だ」
「よろしく、お願いします」
「悪魔はすぐそこだぜ」
兵舎は急造らしいと私にもわかった。
そこで服を渡され、武器も与えられた。なんのことはない剣と槍、盾だ。
「今やっているのは土塁作りだ。他の仲間に教わって作業してくれ。頼むぞ。午後には交代で剣術の稽古、集団戦の訓練をやる」
「はい、お願いします」
他の兵隊達に顔を合わせ、土を積んで土塁を作っていると、すぐに訓練の時間になった。
一対一の棒を使った稽古では、誰も私に勝てなかった。最初こそ、新入りを叩き潰してやろう、遊んでやろう、という雰囲気だった兵士たちが、途端に本気になった。それでも私は全員を押し返した。
次に集団で陣形を組む訓練。鉦に合わせて前進したり、停止したり、後退したりして、その上で陣形を変えることもあれば、事前に決められた通りに二つに分かれ、三つに分かれたりもする。もっと複雑な動きもあった。
それには私が一番ついていけていなかった。
やったことがない、初めての体験で、ただ困惑するだけだ。
キナク隊長がしきりに怒鳴るけど、怒鳴られて身につくものでもない。他の兵士たちも険悪な雰囲気になる。
時間になり、訓練は終わった。
「集団というものを知らないのか?」
作業しながら、近づいてきたキナク隊長が声をかけてくる。
「初めてでした。やったこと、ありません」
「そうか。あまり時間もないが、覚えてもらうぞ」
「はい」
それから似たような日々が一週間ほど、続いた。
私は徐々に集団での動きにも慣れ、兵士たちも私に目くじらを立てたり、怒りを滲ませることも減った
一対一では、やはり私は誰にも負けなかった。この時だけは、誰もが私を恐れたようだ。
事前の話もなく半日の休暇が与えられた時、兵士たちは不安そうな顔になり、そこここで囁きあっていた。
どうやら決戦が近い、と彼らは見ているようだ。
私は一人で兵舎を出て、ドッケン翁を訪ねる気になった。海に出ていなければ、例の部屋にいるはずだ。
ルドールの街を歩いていく。平和だ。争いなどほとんどない。ただどこか悲壮な雰囲気はある。悪魔のせいだろう。
悪魔というものを、私はまだ見たことがない。
どんな姿をしているのだろう。強いのだろうか。数が多いのだろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、通りで、目の前に立った女がいた。
すれ違うつもりで横へ踏み出すと、女も私の前へ移動してくる。思わず足を止めた。
「あなた」どこか猫のような雰囲気のある顔をしている。「海を渡ってきたでしょ」
「それが?」
不思議な女だな、と私は思っていた。どことなく、超然としている。
にっこりと笑みを見せ、
「私はあなたを選びました。あなたは私の選んだ英雄よ」
何を言っているか、わからない。私が知らない言葉ではないが、筋がわからない。
「失礼します」
すれ違おうとした。
そのすれ違う瞬間、ぐっと手を捕まえた。
ぐらりと、体が傾く。平衡感覚が失われる。
頭の中にその光景が浮かんだ。
楽園。そうとしか言えない。現実にあったとは思えないほどの理想郷の全貌が、頭に流れ込んでくる。そこでは神も、妖精も、人間も亜人も、等しく満ち足りた生活を送っている。
夢か。
夢のはずなのに、手に取れそうだ。
大量の情報の後、何かが私の体を書き換えるのがわかった。
幻想がブツリと途切れ、私はルドールの街角に戻っていた。
まだ私の手を掴んだまま、そこに女が立っている。
「私はリーオ。神と呼ばれる存在よ」
「神?」
「東の山脈へ逃げなかった、はぐれものだけどね」
言葉とは裏腹に、誇らしげにリーオは笑った。
私が言葉を返そうとすると、遠くで鉦が打たれるのが聞こえた。
敵襲だ。
いつの間にか片膝をついていたので、立ち上がった。
そこでやっと気づいた。
リーオの姿は消えていた。
通りにいる住民がそれぞれに逃げ出す中で周囲を見て、彼女が影も形もないことを確かめてから、私は兵舎の方へ駆け出した。
◆
ルドール守備隊は全部で千人と少ししかいない。
全体を統括するのが例の千人隊長だ。その下に百人隊長が十人いる。百人隊長の一人がキナクで、私はその指揮下だった。
百人隊がそれぞれ土塁に配置され、二つの隊が最外周の土塁に配置される。そのうちの一つがキナク隊だった。
前方から黒い波が押し寄せてくる、と思ったが、それが悪魔だった。
異形としか言えない。真っ黒い肌、赤い瞳。角があり、翼があるものもいる。巨大な体躯を持つものもいる。
私たち守備隊は、隊列を組み、短い槍を片手に、もう一方の手には丸い盾を持っている。腰には短めの剣が二本あった。
私たちの背後にいる守備隊の一角、弓隊から矢が射られる。
頭上を越える大量の矢が黒い軍勢に降りかかり、倒れる者が続出するが、勢いは止まらない。
「盾を構えろ! 槍を出せ!」
キナクの号令で、兵士たちが一斉に盾を構え、隙間から槍を突き出す。
悪魔が土塁に衝突する。乗り越えさせないように、槍が突き出され、悪魔が叫び声をあげる。
悪魔たちが喚くのが聞こえた。聞き取れない濁った声。不気味だった。
しかし私は冷静だった。真っ黒い血飛沫が舞う。
「押し返せ!」
兵士たちが盾で悪魔を押し返す。
しかし、長い時間は耐え切れない。悪魔が一体、また一体と土塁を越えてくる。
「耐えろ! 下がるな!」
数が全く違う。崩壊は一瞬だった。
土塁の内側を悪魔が蹂躙し、兵士たちが後退していく。キナクが何かを叫んでも、もう聞こえない。
私のすぐ横にいた兵士が倒れこみ、そこに悪魔が乗り込んできた。
盾で殴りつけ、槍で突き倒す。
槍が抜けない。捨てる。剣を抜いた。
倒しても倒しても、悪魔は押してくる。ついに周囲は全てが敵になった。
どこかで人間の悲鳴。
風が唸り、剣が私の腕を切り払う。左肩を深く斬られる。腕が動かない。
右腕だけで抵抗。一体を切って、さらに二体を切った時、剣が折れた。
次の剣を引き抜いた時、異変に気付いた。
左腕の感覚が蘇っている。痛みもない。
動くのか考える暇もなく、私の左腕はそばに落ちていた剣を手に取り、悪魔を切り捨てた。
今度は悪魔の槍が脇腹を刺し貫く。激痛と灼熱。呼吸が止まる。
悪魔を断ち割り、左手の剣を投げ、切っ先が別の悪魔の頭に突き立つ。
腹に刺さったままの槍を引き抜き、捨てる。
痛みがみるみる引いた。
何が起こっているか、理解が及ばない。
理解できることは、戦うしかない、ということだ。
どれくらいが過ぎたのか、悪魔が鳴き声を交わし、後退していく。
私の周囲に人間の兵士が押し寄せ、どうやら悪魔は撤退したらしい、と気付いた。
兵士たちがこちらを何か異質なものを見る目で、見ている。
倒れている人間の一人が目に入った。
キナクだった。
死んでいた。
なぜ私は死なないのか。私は何度も死んだはずだ。
「ジ・リー」
目の前に総隊長であるイシリダが立った。
「お前は、英雄だ。神の守護を得た、英雄だ」
どう答えることもできない。頭が回らない。言葉が出ない。
「お前に百人を預ける。どうか、ルドールを救ってくれ」
私は悪魔の血で固まっている指を無理やり動かして、握ったままだった剣を手放した。地面に軽い音を立てて、それが落ちた時、意識を失った。
夢を見ることもなく、一瞬で目が覚めた。
兵舎のうちの一つで、私は寝台に横になっていた。
すぐそばにいるのは、例の女だ。リーオ。私に笑みを向ける。
「神の権能をみだりに使ってはいけないのだけど、あなたは不死者になった。完全ではないけれど、だいぶ死にづらいはず。その力で、この街を救って」
死にづらい? 不死者?
「私は、人ではないのか」
「あなたは人よ」
「本当にあなたは、神なのか?」
信じないの? とちょっと拗ねたような表情になるリーオ。
「あなたの傷は全てが治癒している。それでも信じない?」
信じるしかないのを、私は気づいていた。いくつも深手を負ったのに、私は今も生きている。
「英雄になりなさい、ジ・リー。戦いの結果が、あなたを英雄にするわ。戦って」
リーオが立ち上がる。
まだ聞きたいことは多くあった。だが、私はそれを口にできなかった。
若い女性がやってくる。白い服を着ている看護師だ。
「どこか、違和感のある場所はありますか?」
「いえ、ないです」
起き上がる。確かに体は万全だった。
ただ意識がどこか濁っている。
看護師に断って、一人で私は外へ出た。
私は戦場へ行ってみた。
だいぶ遠くに悪魔たちの集団が見えた。とてもルドール守備隊が対抗できる数ではない。
しかし戦わなくてはいけない。
この世界に神はいないのか?
リーオが本当に神なら、あの悪魔を滅せるはず。
それ以前に、この世界から悲劇と絶望を消せるだろう。
神は全能ではないのか。
私を不死者にできるのに?
全てがチグハグだ。
私は自分が生活していた兵舎に戻った。そこには新しい武具が用意されていた。
同じ兵舎にいた兵士が、
「お前が百人隊を率いるそうだ。出世したな」
どう答えることもできず、私は寝台に座り込み、新しい剣を手に取った。
鞘を払って、その刃を見る。
銀色に輝くその冴え冴えとした光に、私はしばらく視線を注いでいた。
◆
悪魔の攻勢を五度、押し返した。だが、土塁は全て抜かれた。
ルドール守備隊の百人隊は六つに減り、全員が決死の覚悟を決めた。
住民は港から輸送船に乗って離脱している。
戦場は地獄だ。
光のない、真の闇。悪魔が跋扈する彼らの世界。
隊長は誰も、自分たちが逃げることについて、口にしなかった。悪魔と戦い、敗れることに、何かを見出しているのかもしれない。
兵士たちに同じ気概があるか、私には分からない。
生き延びることをやめれば、戦えるか。
生き延びることができるからこそ、戦えるのではないか。
守備隊が配置につき、悪魔の七度目の攻勢を受け止めた。
私の率いる隊は最前線だ。
悪魔の剛力の乗った斧が、盾を斬り飛ばす。
私の槍が悪魔を二体、まとめて刺し貫く。
槍も盾も捨て、剣を抜いた。
縦横無尽に剣を振るう。切って、切って、切り続けた。
悪魔の剣が俺の胸を抉る。
口から血が噴き出すが、構わずに相手を切り捨てた。
咳き込む私に悪魔の剣が、ギラリと輝き、落ちてくる。
光の筋が走った。
部下の兵士の一人だった。悪魔を倒しつつ、私を守っている。
やめろ、構うな。言葉にならず、咳き込むだけ。
悪魔の一撃がその兵士を捉え、首が飛んだ。
私の剣がわずかに遅れて、悪魔の首をはねる。
思わず叫んだ。
胸の痛みが完全に消えることがないまま、戦い続けた。
悪魔の槍が脇腹、右肩を同時に貫く。剣が一閃し、槍を斬り払い、私の剣は悪魔を容赦なく倒した。
部下が私の周囲に集まり、壁を作るが、その向こうは全て悪魔の群れだ。
他の隊はどうしている?
ルドールは陥落したのか?
「港へ」濁った声しか出ない。「港へ向かえ。逃げろ」
兵士たちが喚き返す。
「逃げろ!」
無茶です、と叫んだ兵士が、胸を貫かれ絶命する。
「急げ! 後退だ!」
私は一人で悪魔の真ん中に踊り込んだ。
剣は刃こぼれし、血にまみれて切れなくなる。捨てて、悪魔の剣を奪う。
すぐに切れなくなる。捨て、誰かの剣を拾う。
戦い続けた。全身に傷を負った。死が近づいてくる。
リーオは自分を神だと、権能を行使したと言った。
神の権能など、この程度か。
死という絶対原則は、私にも等しく訪れるようだった。
死だけを見据えて、私は死を撒き散らし、巨大な悪意の渦に敵を飲み込んでいく。
左腕が肘の上で切り飛ばされた。右手の剣で反撃。肩をやられていて、力が入らない。
二本の剣が胸を刺し貫く。
吠えた。
渾身の一撃で二体の悪魔を倒す。剣が折れた。
自分の腹から剣を引き抜き、その一本で、また悪魔を倒した。
終わるのか。いつ、終わるのか。
どこかで鉦が鳴っている。
終わりを告げる音か。
悪魔の剣が私の首筋を断ち割る。
意識が遠のく。曖昧な意識だけでも私の体は動き続けた。
目の前に砂漠が広がっていた。
何もない、一面の砂の丘陵を、商隊の荷車の列が進んでいく。
男たちが陽気に歌を歌っていた。そんなこと、現実にあっただろうか。
私もその列に加わった。
私は砂漠の民の服を着て、ゆっくりと足を送り、砂を踏みしめている。
穏やかな日々。
不意に強い日差しに気づき、思わず顔を上げた。
太陽が眩しく、輝いている。
視界が、真っ白に染まった。
◆
ルドールに三百騎からなる騎馬隊が到着し、悪魔の軍勢を打ち払った。
その騎馬隊に加わっていた槍を持った青年が、ルドール守備隊の総指揮官と堅く握手をし、その時、総指揮官は涙を流したという。この青年こそ、英雄の一人だった。
後続の部隊が来る前に、槍使いの青年は生き残った守備隊の兵士たちに声をかけ、労った。
その中で、青年はある兵士の話を聞いた。
一人で悪魔を三百体、切って捨てたというのだ。
どれだけ傷を負っても倒れなかったと聞いて、青年は一層、顔をしかめた。
「どこにいる? 死んだのか?」
答えは、戦いの中で消えた、というものだった。
戦場の跡へ行き、青年は馬上から遠くを見渡した。
「神の気まぐれで、人間を作り変えて、満足か?」
「気まぐれじゃない。私たちは人間の味方よ」
ちらりと青年は、いつからそこにいるかわからない女に視線を向けた。
「俺たちが戦うのは、俺たちのためだ。神のためではない。神の祝福を受けたとしても、俺たちには人間として戦う権利がある。神にはそんな主張など、わからないだろうが」
女はわずかに顔を伏せた。青年は吐き捨てるように言った。
「神も悪魔も、俺から見れば同類さ。異形の体を持つか、異形の精神を持つかだ」
青年が馬首を返した時、女の姿は消えていた。
ルドールを救った兵士は、リ・ジー、というらしい。
そう聞いて、青年は、彼を街を救った豪傑として弔うように指示した。
青年は一人で街へ出た。がらんとした街を抜けて、港で老人が一人、漁の支度をしているのに気付いた。老人は小舟に乗り込み、漕ぎ出して行った。
寄せては返す波を見て、青年は海の向こうの世界を夢想した。
(了)
アステール神話の断章 砂漠から海を渡ってきた勇者とルドール攻防戦 和泉茉樹 @idumimaki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます