immediately after

 肩を撫でた冷気に、ぶるっと身を震わせる。

 何時なのだろうか。夜はもうすっかり更けていた。

「大丈夫?」

『!』

 少し掠れた低い声。それと同時に、背後からそっと抱き締められる。

 布団の中で、すずは下着越しに千鶴の逞しい腕の熱を感じていた。

 いったい何に対しての「大丈夫?」なのか。寒さに身震いしたことに対してなのか。はたまた、内側に残る鈍い痛みに対してなのか。

 いずれにせよ、自身の体を労ってくれていることに変わりはないため、すずは高速で数回首肯した。

 頬が熱い。

 恥ずかしくて、心臓が痛くて、千鶴の顔をまともに見ることができなかった。今目を合わせれば、先ほどまでの情事が容赦なく脳内で再生されてしまう。

 だが、不思議と心は満たされていた。

 大好きな人と肌を重ねるということ、その意味を、幸せを、大切に胸奥で温め反芻する。

「事故のこと……お父さんのこと、話してくれてありがとう」

 頭頂部に、千鶴の吐息がふわりと当たった。回された腕に力がこもるのを感じる。

 眠りにつく前、すずは千鶴にすべてを話していた。

 中一の夏休み。父と二人で旅行を楽しんだ、その帰り。

 乗っていたバスが事故に遭ったこと。割れた窓ガラスで喉元を負傷したこと。父のおかげで大きな衝撃を免れ、結果生き残ることができたということ。

 今までずっと、父に対して罪悪感を抱いていたということ。

 悲しみや痛みが癒えることはない。けれど、千鶴にすべてを話したことで、心が軽くなったのは事実だ。安心した、とても。それは、素直に喜んでもいいと……喜びたいと、そう思う。

「これからは、俺になんでも言って。すずの言葉、全部受け止めるから」

 まるで蝋燭に火をともすように、千鶴の言葉一つひとつが、胸の中に広がっていく。熱くなった目頭をこしこしと擦ると、すずは千鶴のほうへと向き直った。

『……どうしたら、千鶴くんみたいに、強くなれるのかな?』

「え?」

 橙色のベッドサイドランプが、二人の顔を淡く照らし出す。

 すずの口から転がり出た言葉に、千鶴は困惑した。それは、あまりに唐突だったため……というよりも、彼女に対し、普段からまったく逆の認識を抱いていたためである。

「ははっ。その言葉、そっくりそのまますずに返すよ」

『?』

 千鶴の笑みの理由も、言葉の真意も、すずにはまったくわからない。不思議そうな面持ちで千鶴を見つめていると、急に彼が起き上がった。

 いつの間に着替えたのだろうか。ルームウェア姿の彼は、そのままベッドサイドへと腰掛けた。

「起き上がれる? ……あ、寒いから毛布被ったままでいいよ」

 疑問符は積み重なるばかりだが、千鶴に言われるまま、すずは毛布を体に纏い起き上がった。

 彼は、すずに何かを見せたいらしい。

「すずが勇気を出してくれたから……今度は俺の番」

 切なそうに笑ってそう言うと、千鶴は穿いていたサルエルパンツの裾をつまみ、ゆっくりと持ち上げた。

 仄かな明かりに露わとなった、彼の右脹脛ふくらはぎ

『……っ!?』

 およそニ十センチ。

 しなやかに引き締まったそこに縦に走った、まるで稲妻のような傷痕に、すずは目を見開いた。

「派手だろ? 俺、インターハイの決勝前日にバイクに撥ねられてさ。……これは、そのときの手術の痕」

 左手の人差し指で、引き攣り、膨れ上がった傷痕をなぞる。「すずの怪我に比べたら全然たいしたことないけどね」と、こともなげな様子で当時の状況を語った。

「次の日が決勝戦だって、ちょっと興奮してたのかもしれない。信号が青になって、ろくに確認もしないで横断歩道渡ってたら、左からバイクが突っ込んできて……」

 高三の八月。滞在先のホテルの近くで夕飯を食べた、その帰り。

 あと数十メートルでホテルに到着するというところで事故に遭った。バイクの運転手は、前方不注意の信号無視。かなり取り乱していた、と思う。

 一瞬のことで、何が起こったのか理解できないまま救急車で搬送された。衝撃よりも痛みよりも、蒼白となった顧問の顔が頭に焼きついて離れなかった。

 インターハイの結果は、準優勝。欠場による不戦敗だった。

 最後の夏は、あまりにもあっけなく終わりを告げた。

「手術して、二ヶ月入院して……もう空手できないのに、なんのためにリハビリしてるんだろうって、腐ったりして……今思えばほんと情けないけど、『もうどうでもいいや』って、将来さきのことを考えるのもやめた」

 こんなにも空手が好きだったのかと思い知らされた。突如として奪われた日常。自身を蝕んでいた負の感情さえもなくなり、空虚さだけが残った。それでも、現実は残酷で。

 何をすればいいのか、何がしたいのか……担任の薦めで今の大学の学部を受験し、合格したものの、目標も希望も見つけられないまま、ただ時間だけが過ぎていった。

 まるで空蝉のような世界。叩けば、いとも容易く粉々に砕け散りそうな世界。

 そんな自身の脆い世界を救ってくれたのは、すずだった。

「すずのおかげで、情けない自分とようやく向き合うことができた……やっと決心できたんだ。理学療法士の国試を受けようって」

 あの日。初めてすずと出会った、あの雨の日。

 からっぽだった世界で何かが——大粒の雫が、音を立てて弾けた。

 気づけば、すずのことばかり考えるようになった。告白されて、生まれて初めて迸るほどの喜びを感じた。

 何に対しても一生懸命で、誰に対しても優しくて、いつも可憐に笑っていて。

 そんなすずを見ていて思った。強く、強く、思った。

 この子の隣にいたいと。

 この子に相応しい自分になりたい——と。

「俺の背中を押してくれたのは、すずだよ」

 強さは優しさ。すずを見ていると、改めてそう感じる。

 毛布ごと抱き締め、耳元で「ありがとう」と囁けば、すずも両腕を背中に回してきた。胸元に顔をうずめ、泣いている。

 胸の奥底から込み上げてくる「愛おしい」という情感。灼けそうになるほど熱くなった体を、その熱を、二人で分け合う。

 あなたに出会えて良かった。きみに見つけてもらえて良かった。

 あなたが、

 きみが、

 生きてて、本当に良かった。






 ——今夜は神谷と一緒に過ごしてるのよね? 年内にもう一回会いたいね。また連絡する。Merry Christmas!


 ——不良娘へ。遅くなるなら連絡しなさい。帰ってこないなら、なおさら連絡しなさい。千鶴くんに迷惑かけちゃだめよー。朝ご飯はちゃんと作ってあげること!


 テーブルの上でひっそりと光るスマホ。その隣には、二つの小箱と一枚のクリスマスカードが置かれている。

 窓の外は雪。

 真白く輝く雪。

 心地好い静寂と甘やかな寝息が、夜の帳をそっと揺らした。


 <END>

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あめかんむりのガーランド 那月 結音 @yuine_yue

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