後編

 【八月二十一日 ○○新聞朝刊】


 八月二十日午後四時ごろ。N県□□町の国道××号線△△峠で、大型観光バスが反対車線に飛び出し、対向車線を走っていたトラックと衝突した。乗員乗客合わせて三十五人が重軽傷を負い、七人が死亡。現場は、緩やかなカーブが連続する下り坂で、警察は、バスの運転手が何らかの理由により運転操作を誤ったとして、現在捜査を進めている。





 ❊ ❊ ❊





 すずの一日は、母と朝食を作ることから始まる。

 朝は決まって米飯。主菜は卵焼きや焼き魚、副菜は胡麻和えや酢の物といった、純和風の献立だ。

 今朝の献立は、米飯にしじみの味噌汁、それから、白菜の浅漬けに昨夜の残りのきんぴらごぼうである。

 本日十二月二十四日はクリスマスイブだが、月宮家の食卓は相も変わらず日本色で彩られていた。

 母と二人で座る、四人掛けのダイニングテーブル。もともと母とは隣同士で座っていたが、父が亡くなってからは対座する形となった。顔を合わせて食べたいという、母のたっての希望だった。

 現在母が座っているのは、父が生前座っていた椅子。二人だけの食卓は、早いもので、もう七年になる。

「冬休み、いつからだっけ? 明後日?」

 チンッ、カチンッと、食器に箸がぶつかる音の合間。

 母——しほりの問いかけに、すずはこくりと頷いた。

「いつまで休みなの?」

『六日の月曜まで』

「そっか」

『お母さんは? 仕事納めいつ?』

「二十八日。今週の土曜日まで。みんな部活があるからね。怪我しちゃうといけないから、一応保健室は開けてるの」

『仕事始めは?』

「六日の月曜日。その日はもしかしたら、帰るのいつもより遅くなっちゃうかも」

 わかった、と再度頷き、ここで会話はいったん終了した。

 母との会話では主に手話を使用しているが、食事中は右手に箸を握っているため、左手だけで簡易なやり取りをしている。どうしても長くなるときは箸を置く必要があるけれど、たいていの場合は片手、もしくは首を振れば成立するのだ。

 声が出せなくなったとき、手話での会話を提案したのは母だった。支援学校に勤務した経験のある母は、手話をほぼ完璧に理解できていた。その経験を生かして娘に手話を勧め、教えたのである。

「今日は千鶴くんと会うの?」

 次の会話は、朝食を食べ終わったあとに始まった。

 栗色の髪を一つにまとめながら母が尋ねる。娘よりも少し短い、肩までのセミロングヘア。それを左耳の下で緩くゴムで束ねると、上から冬らしいボア生地のシュシュで二重にくくった。

 髪の色をはじめ、薄茶色の瞳も鼻の形も、何もかもが娘と瓜二つ。すずと姉妹に間違われるほどの童顔で、かつ、天然である。

 すずが千鶴と交際していることは、付き合い始めた頃からすでに知っていた。すずを家まで送ってくれた際、何度か話したこともある。

 初対面で、「どうしよう。お母さん、英語話せない……」と、本気で青ざめたしほりにすずが赤面したという珍事は、千鶴のお気に入りエピソードだ。

『今日、千鶴くんバイトなの。明日は一緒に過ごす予定』

 母の質問に、すずはふるふるとかぶりを振った。

 本日、千鶴は午前中の講義が終わるとすぐに、レストランへ赴くことになっている。すずが受講している講義は午後からなので、残念ながら顔を合わせるタイミングはない。仕方がないとわかっていても、やはり内心は曇ってしまう。

「そうなんだ。千鶴くん、ほんっとかっこいいわよねー。バイトって、たしか叔父さんのフレンチレストラン……だったっけ?」

『そう』

「叔父さんって、お父さんのほうの? それともお母さん?」

『お母さん。フランス人とのハーフなんだって。おじいちゃんが日本人で、おばあちゃんがフランス人って言ってた』

「へー。千鶴くんのお父さんは? 日本人?」

『ううん、スコットランド人』

「スコッ……え?」

 ここまで実にテンポよく会話をしていたが、最後の返事が完全に予想外だったらしく、しほりは目をしばたかせた後に閉口した。スコットランドが世界地図のどこに位置するか、もちろん知っている。だからこそのリアクションだった。そんな母に、『今は日本人だけどね』と、すずがこともなげに付け加える。

「なるほどだからあのルックスなわけね」

 頭のてっぺんから爪先まで、整い過ぎているほどに整っている千鶴。〝眉目秀麗〟とは彼のためにあるような言葉だ。加えて文武両道と、どの角度から凝視してみても非の打ち所がない。

 そんな彼にますます興味を抱いてしまった母の質問は続く。

「千鶴くんって、専攻してるのは何なの?」

『理学療法』

「へー。理学療法士さん目指してるのかしら」

『たぶん』

「理学療法士さんも、大変だけど、とっても素敵なお仕事だからね。千鶴くん、優しいからぴったりだと思うわ」

 やけに納得したように、しほりは「うんうん」と頷いた。理学療法士がどういう職種であるかは、しほり自身よく知っている。懇意にしている理学療法士も何人かいる。皆等しく立派なプロフェッショナルで、患者の痛みに寄り添い、前に進めるよう日々懸命に支えている。

『……そうだね』

 母のこの言葉に、すずは同意を示した。

 母の言うとおり、だと思う。千鶴は賢くて優しい。こまやかな心遣いのできる、素敵な人だ。……大好きな人。

 だが、すずは、千鶴がときおり浮かべる憂愁の表情が気にかかっていた。

 ふとした瞬間に見せる表情。それも、進級や専攻の話になったときに、ほんの一瞬だけ。

 気にかかっている。でも、聞けない。どんなふうに聞けばいいのかわからない、というのが正直な気持ちだ。

 ただでさえ、会話をするのに手間をかけさせてしまっているのだ。そのうえ、おそらくセンシティブであろう内容を聞かせてほしいだなんて、そう簡単に言えるはずがない。

 もどかしい。

 上手く話せない自分に、腹が立ってたまらない。


 ぐつぐつと煮立つ黒い感情が吹きこぼれたのは、その日の夕方のことだった。

 五限目の授業が終わって外へ出ると、すでに明々と街灯がともっていた。薄明の空に低く落ちる厚い雲。冬の夜は、おとないが本当に早い。

 風が冷たい。痛いほどに。

 そういえば、明日の夜から明後日の朝にかけて、今シーズン初の降雪が見られるらしい。お馴染みの情報番組で、お天気キャスターのお姉さんが「ホワイトクリスマスになるかもしれません」と、いつもの調子で明るく言っていたことを思い出す。

 千鶴と初めてともに過ごすクリスマス。できれば雪を一緒に見てみたい。

 美味しい夕食を食べて、プレゼントを渡して、カードを添えて……笑って過ごしたい。

 そんなふうにひっそりと心を温めながら、帰路につくために正門を目指した。

「あ。ねえねえ、アレ見て。千鶴の彼女だよ」

 不意に、少し離れた場所から、三人の女子の会話が聞こえてきた。

 全員看護学科ではないけれど、見覚えがある。彼女たちは、千鶴の元取り巻きたちだ。

 三人は、すずとの間に距離があるのを、いいことに、わざとすずの耳に入る大きさで会話を続けた。

「ちょっと可愛いからって調子に乗り過ぎじゃない」

「つーか千鶴可哀想だよね。一方的に喋らされてさ」

「そうそう。あんま喋るの好きじゃないのにね」

 これだけ言うと満足したのか、きゃらきゃらと笑いながら、愉しそうに去っていった。笑えるものなら、言い返せるものなら、「やってみろ」と言わんばかりに。

『……』

 悔しかった、とても。

 大学に入るまでも、数え切れないほどの嫌味を言われてきた。涙を流したことだって、一度や二度じゃない。

 けれど、過去に受けたどんな仕打ちよりも、今彼女たちから受けた言葉が悔しくて苦しくてたまらなかった。あんなふうに一方的に言われて立ち去られてしまえば、何も返すことができない。

 感情が、体の奥底から迸る。どんなふうに蓋をして抑え込めばいいのかわからなかった。

 こんなところで、泣きたくなんかないのに。

『……っ』

 腹が立ってたまらない。

 しかし、何よりも腹が立ってたまらないのは、自分自身に対してだ。

 言い返せなかったことじゃない。彼女たちの言葉を、自分の中で否定できなかったことに対して、すずは泣きそうになっていたのだ。

 千鶴の気持ちを疑いたくはないし、彼のことを信じている。自分と同じだと言ってくれた彼の気持ちを、彼との関係を、大切にしたいと思った。

 それでも、どうしても考えてしまう。自分なんかが、千鶴のそばにいてもいいのかと。千鶴は、自分なんかと一緒にいて楽しいのかと。

 自分は、千鶴の大事な時間を、ただ奪ってしまっているだけなのではないかと。

 すんと空気を吸い込めば、鼻の奥がじんじんした。

 冷気のせいなのか、それとも涙のせいなのか……何もかも判然としないまま、すずは静かに歩き出した。

 頬に触れた風は、なぜかとても痛かった。





 ❊ ❊ ❊





 喉元が焼けるように痛い。全身が砕かれるように痛い。

 痛い痛い痛いいタいイたいイタいイタイ…………アタタカイ。

 自分の上半身に覆い被さった父の体。

 かろうじて感じる熱。

 おびただしい量の鮮血。


 ——……、……っ。


 父の体を揺らしたかったのに。声を出して呼びたかったのに。

 できなかった。何もできなかった。

 父は自分のことを守ってくれたのだと、そのことはすぐに理解できたのに。

 遠のく意識の中で、動かなくなった父を、ただ見ていることしかできなかった。


 ごめんなさい。

 わたしのせいで。

 ごめんなさい。

 お父さん、ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごメンなサい。



 ゴメンナサイ——





 ❊ ❊ ❊





「すず?」

『……』

「すーず」

『……』

「おーい」

『!』

 千鶴に顔を覗き込まれ、すずはようやく我に返った。眼前でちらちらと揺れる琥珀色の瞳。そこに映った自分は、なんとも間抜けな顔をしていた。

 完全に上の空だった。直前まで千鶴が話してくれていた内容も、全然頭に入っていない。慌てて謝罪すると、心配そうな面持ちでこう尋ねられた。

「もしかして具合悪い? 大丈夫?」

 寒波のせいで急に冷え込んだからねと、千鶴はすずの体調を気遣った。

 眉を顰める千鶴に、すずはにこりと笑って返す。指先を揃えた右手を、左胸に当てた後に右胸へと当てた。

『大丈夫』

「そう? ならいいけど」

 すずが「大丈夫」だと言ったのでとりあえず引っ込んだが、正直なところ、千鶴はまだ納得できていなかった。現に、すずはまた自分から目を逸らし、下を向いている。箸は持ったままだが、食べ物を口に運ぶ様子もない。

 十二月二十五日、クリスマス。

 以前から約束していたとおり、この日二人は一緒に過ごしていた。平日で通常どおり講義があったので、それが終了した夕方から。

 クリスマスディナーは、千鶴の希望で創作和食になった。毎日のように洋食の匂いを嗅いでいると、どうしても和食が恋しくなるらしい。

 事前に予約していた料亭の個室。机の上や棚の上に飾られた和風ランタンが、落ち着いた雰囲気を演出している。四人掛けの掘り炬燵に二人で対座し、食事を開始したのがおよそ半時間前。

 食べれば「美味しい」と顔を綻ばせるすずだが、とにかく沈んでいる時間が多かった。明らかに何かを考え込んでいる。それも、彼女にとって、あまりよろしくないことを。

 大丈夫との彼女の言葉を尊重してあげたい。けれど、やはりこのままでは良くない気がした。年末になれば、父の里帰りに付き合うことになっているため、会える時間が減ってしまうのだ。こんな状態のまま、何日も離れていたくない。

 箸を置いた千鶴は、咳ばらいを一つすると、気持ちを整え口を開いた。

「今すずが考えてること、聞かせてもらえないかな」

『……!』

 予想外だったのだろう。千鶴のこの申し出に、すずは目を見開いて固まった。

 音が耳から入ってきそうなほど速まる鼓動。血圧が上昇し、耳の後ろまで熱が込み上げてきたのがわかる。

 昨日、あの三人に言われたことが、ずっと耳にこびりついて離れない。ますます嵩を増した黒い感情は、もはや抑えることができなくなっていた。

 口にしたところで、どうしようもないと思っていた。千鶴に嫌な気持ちをさせてしまうだけだと。迷惑をかけてしまうだけだと。

 だが、自分に注がれる千鶴の真っ直ぐな眼差しに、誤魔化すという選択肢を選ぶことはできなかった。ここで話さなければ、余計心配をかけてしまう。彼は、優しい人だから。

 彼には……彼にだけは、嫌われたくない。

 覚悟を決めたすずは、バッグの中からA5サイズのノートとペンを取り出した。そうして、躊躇いがちにペンを動かし始める。

 力なく紙を引っ掻く音が室内に響く。

 数秒後。紙面の端に弱々しい筆跡で書かれてあったのは、偽りのない率直な気持ちだった。

『千鶴くんは、わたしと一緒にいて楽しい?』

「え? 楽しいよ」

『わたし喋れないから』

「なんで? 喋れてるよ」

 すずの言葉が、訥々と紙面に浮かび上がる。

 これに対し、千鶴は思ったままを伝えた。戸惑いつつも、すずの不安が少しでも和らぐようにと柔和な表情を浮かべる。

「……誰かに、何か言われた?」

 そっと傷口に触れるようなこの問いかけに、すずの体がびくっと跳ねた。ペンを握り締めた指先に力がこもる。

 書くべきか迷った。書いてしまえば、千鶴が読んでしまえば、なかったことにはできない。

 それでも、すずは千鶴といる未来さきを選ぶことに決めた。

『千鶴くん、喋るの好きじゃないって聞いて。わたしと一緒にいると、どうしても喋らなくちゃいけないから。嫌な思い、させてるんじゃないかなって』

 すずの指先が震える。不揃いな文字の粒、その上に、ぽたりと水滴が落とされた。

 じわりと滲み、色の変わったインク。慌てたすずがバッグからハンカチを取り出し、顔を覆う。ハンカチの隙間からは、声にならない潤んだ声が漏れ出ていた。

 泣きたくなんかない。泣き止みたいのに。感情が、上手くコントロールできない。

 そんなすずの心を撫でるように、千鶴がゆっくりと語りかける。

「俺はね、すず。喋るのが好きじゃないってわけじゃないよ。確かに、口数は多くないけどね。そのことで、すずを不安にさせちゃったなら申し訳ないけど……でも、俺はすずと一緒にいて嫌な思いしたことは一度もないよ」

 まるで空気に乗せるかのような優しい声音。

 すっと腕を伸ばし、ハンカチの隙間からすずの頬に触れれば、彼女の涙がぴたりと止まった。顔全体を覆っていたハンカチを鼻元までずらす。露わとなった目、その周囲は、腫れて赤くなっていた。

「すずとは、どんなことでも話したい」

 大きな手のひら。長い指先。触れた部分から伝わる温もりが、すずの心に痛いくらい染み渡る。

 いったい彼は、どれだけ自分が欲しい気持ちを——言葉を、与えてくれるんだろう。

「……ねえ、すず」

 突然、改まった千鶴に名前を呼ばれた。鼻を啜り、小首を傾いで疑問符を返す。

「今夜、すずのこと聞かせてもらってもいい?」

『!』

 彼の口から出た問いかけに、すずの胸がきゅっと縮まった。

 驚きと緊張が綯い交ぜとなった瞳に注がれる、揺るぎない眼差し。この眼差しに、自分は応えなければならない。彼といる未来を選ぶのなら。

 過去の恐怖に怯えながら、すずは静かに頷いた。


 ❊ ❊ ❊


「ソファに座って待ってて。今ココア淹れてくるから」

 エアコンの電源を入れ、遠赤外線ヒーターをすずのそばまで持って行くと、千鶴はキッチンへと向かった。緊張で固まるすずに、「適当に寛いでて」と言い残して。

 ここは千鶴が一人で暮らしているマンション。間取りは1DKで、一人で暮らすには十分過ぎるほどの広さだ。

 目につく大きな家具といえば、テーブルにソファ、チェストにベッド。調度品は必要最低限といった程度で、全体的に落ち着いた色合いで纏められてある。

 何がどうしてこうなってしまったのか。千鶴に言われるがままソファに腰を下ろしたすずは、両手を乗せた膝に視線を落とした。男性の部屋に上がるという未知の体験に戸惑いつつも、ひとまず精神の安定を試みる。

 自分のことを聞かせてもらってもいいかと尋ねられた。自分のこと——すなわち、自分の過去。

 大事な話だから、二人きりでじっくり話そうということになった。すずは実家暮らし。もれなくしほりがついてくる。ゆえに、ここで話すことを選択した。

「なんか不思議。俺の部屋にすずがいる」

 照れくさそうに笑いながら、キッチンから千鶴が戻ってきた。両手には二人分のマグカップ。差し出されたカップを両手で受け取ると、すずはぺこりと頭を下げた。

 すずと同様か、あるいはそれ以上か。意外にも、千鶴も緊張しているらしい。

「熱いから気をつけて飲んでね」

 千鶴はそう声をかけると、ソファではなくベッドのほうへと向かい、彼女に対してL字型に座した。上体を前に傾け、両膝に両腕を乗せる。

 手を伸ばせば十分触れられる距離。だが、少し距離を置くことで、彼女に気持ちを整理する余裕を与えてやりたかった。

『……』

 すずの過去をすべて受け止めようという、千鶴の覚悟と優しさ。それは、すずにもちゃんと伝わっていた。

 しだいに暖房が効いてきた室内。ココアのおかげで内側からも温まった。防寒具は、もう必要ない。

 すずは、着ていたコートを脱ぐと、畳んでソファ脇に寄せた。覚悟を決めてくれた彼に応えるために、自分も覚悟を決めなければ。

 ぐっと力を込めた右手を、首元のマフラーへと近づける。

 そうして、ついに、すずは千鶴に喉元を晒した。

「!」

 真横に走った傷痕。周囲は皮膚が引き攣り、その部分だけ肌の白さが際立っている。

 思わず言葉を失ってしまった千鶴に、すずが笑ってこう言った。

『ごめんね。気味、悪いよね。でも、見せなきゃ、前に進めないって思ったの。千鶴くんと一緒にいるために、ちゃんと見せなきゃって……ごめ……なさ……っ』

 その場に泣き崩れる。話していた両手で顔を覆い、音にできない声で泣いた。

 とうとう見せてしまった。晒してしまった。蘇る当時の恐怖。もう後戻りはできないというその現実が、すずの胸を強く圧迫する。

『……っ』

 呼吸が上手くできない。今にも押し潰されてしまいそうだ。

「……っ、気味悪くなんかない!!」

『!』

 叫びにも似た千鶴の声が鼓膜を叩くやいなや、すずの背中に痛みが走った。

 彼のいるベッドのほうへ抱き寄せられたのだと気づくまでに少し時間を要してしまったが、体は無意識に彼の胸元にしがみついていた。

「その傷痕は、すずが生きてる証だろ……!!」

 震えている。彼の声が。

「傷痕だけじゃない……恐怖も、痛みも、今すずの中に残ってるもの全部が、すずが生きてる証なんだよ!!」

 彼の、体が。

 千鶴は泣いていた。顔を確認することはできないが、彼がこれほどまでに感情を露わにしたのは初めてのことだった。

 きつく抱き締められた箇所の痛みが、つぶらかな熱に変わる。心身ともに彼の優しさに包まれたすずは、両手を彼の胸元から離し、その大きな背中へと回した。

 そうだ。自分は生きている。生きて、今こうして千鶴のそばにいる。あの日生き残れたから。

 父が、命を繋いでくれたから——。

 今なら受け容れられる。千鶴の温もりを感じられる今なら。

 父は、けっして自分の身代わりなどではなかったのだと。

『ありがとう、千鶴くん。……ありがとう……っ』

 千鶴の耳元に口を寄せ、嗄声で直接こう告げれば、さらに強く抱き締められた。これに応えるように、彼の背中に回した腕の力を強める。

 そして、しばらくした後、どちらからともなく腕の力を緩めると、シーツに二人体を沈めた。

 互いの口内に広がった涙の味は、少ししょっぱくて、ほんのり苦くて。

 とても、

 とても、

 甘かった——。

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