あめかんむりのガーランド
那月 結音
前編
タートルネックから漏れる白い息。
まだ昼間だというのに、どんよりと曇った空は暗い。まるで墨汁のような空。今にも落ちてきそうだ。
今夜は雨が降るかもしれません——朝の情報番組で、お天気キャスターのお姉さんが、明るくこう言っていたことを思い出す。念のため、折り畳み傘は持参してきた。仮に天気が崩れたとしても、今日は大丈夫だ。
レトロな喫茶店。その軒先に佇むこと、およそ十五分。
「すず」
自身の名前を呼ぶ声に、
すずの名前を呼んだのは、絵に描いたような美青年。灰色とも金色ともとれる髪の毛を揺らしながら、足早に近づいてくる。名前を呼んでから、ものの二、三秒で彼女の前に立った彼は、頭一つ分以上低い彼女の頬を両の手で包んだ。
「寒いから中で待っててって言ったのに」
心配そうに、若干不満そうに、彼——
桃色に染まった頬、光を宿した薄茶色の瞳、上がったままの口角——こんなにも嬉しそうな顔を見せられてしまえば、小言など言えるはずもない。
二人揃って店内へ。
ドアを開ければ、ベルの音がノスタルジックに鳴り響いた。そのまま奥の定席へと移動する。
席に着くと、すずはバッグの中から一番にスマホを取り出した。必需品であるそれを、自身の体の前に置く。けっして忙しなく確認するためではない。
「今日はノートじゃないんだ?」
すずのスマホを見た千鶴が一言。これに対し、すずが恥ずかしそうにこくりと頷く。
理由を尋ねようとしたタイミングで店員がやってきたため、とりあえず「いつもの」とだけ注文を伝えた。商品名は口にしていないが、ロイヤルミルクティーとブレンドコーヒーが、十分以内に到着するはずだ。
しっとりとしたジャズミュージックが流れる。平日の昼間だからだろうか。客足はまばらだった。
先ほどからずっと、千鶴しか話をしていない。千鶴しか声を発していない。すずに話しかけるのも、店員とやり取りをするのも、すべて彼。
おもむろにスマホを手にしたすずが、スリープを解除する。メモアプリを起動し、慣れた手つきで文字を入力していった。
数秒後。千鶴に向けられた画面には、ゴシック体でこう記されてあった。
『家に忘れてきちゃった』
すずは、声を出すことができない。
七年前、事故で喉元を負傷して以来、言葉を音にすることができないのだ。
頑張れば、囁く程度に話はできる。が、著しく体力を消耗してしまうため、筆談か、今のようにメモアプリを活用することにしている。
「そっか。けど、お母さんには手話で話してるんだろ? 家でノート使う機会あるの?」
「……」
千鶴のこの質問に、すずはスマホを手に取るも固まってしまった。明らかに、文字を打つのを躊躇っている。……そわそわしている。とはいえ、気持ちが翳ったわけではない。
一度だけ、千鶴のほうをちらりと見遣る。灰色の前髪から覗く琥珀色の双眸。日本人離れしたその顔からすぐさま視線をスマホに移すと、すずは迷いながらも指を動かし始めた。
『千鶴くんと、その日どんなお話したか、確認したくて』
今度は、千鶴が固まる番だった。ぽかんと、思わず瞠目する。
「それって……俺と会った日は、ほぼ毎回ノートを見返してるってこと?」
こくり。
「そう、なんだ」
破壊力抜群のこの愛らしさに、千鶴の胸中は穏やかではなくなっていた。くすぐったいような、焦げつくような、なんとも形容しがたい情動が押し寄せる。こんなことは初めてだ。
知り合って四ヶ月。付き合い始めて三ヶ月。
可憐で優しい彼女への想いは、日を追うごとに大きくなっていく。
同じ大学に通う二人。すずは看護学科、千鶴は保健学科と、専攻は異なるが、ともに医学部の二年生である。
接点があるようでなかった二人が始めて言葉を交わしたのは、大学の外だった。
今年の八月某日。その日、すずは講義後にレポートを纏めていたため、大学を出るのが遅くなった。たしか、午後七時半を回っていたと思う。
頭上に広がる嫌な雲を仰ぎながら駅に向かっていると、案の定にわか雨に襲われた。俗に言うゲリラ豪雨である。
いつも携帯している折り畳み傘も、そんな日に限って不携帯という残念な始末。コンビニまではちょっと遠い。
仕方がないので、申し訳ないと思いつつ、とあるフレンチレストランの軒先にしばらく厄介になることにした。少し待てば、雨足は弱まるだろうと見越して。
だが、すずの期待も空しく、雨足は弱まるどころかますます強くなるばかり。
これ以上ここにいると迷惑になる。覚悟を決めたすずが、一歩を踏み出そうとした。
そのとき。
——まさか走るの? この雨の中?
店内から出てきた千鶴に、呼び止められた。
黒の蝶ネクタイに黒のカマーベスト。そして、黒のサロンエプロン。
外国人かと思い、一瞬いつも以上に身構えてしまったすずだったが、流暢な日本語にほんの少しだけ安心した。物言いは、かなりぶっきらぼうだったけれど。
質問にこくこくと首肯し、両手を合わせて「ごめんなさい」と頭を下げる。例に漏れず不思議そうな色を湛えた千鶴に対し、すずはスカーフを巻いた喉元を指差したあと、両の人差し指で罰点を作った。
——ああ、なるほど。声が。
抑揚のない語調で納得を示すと、「ちょっと待ってて」と言い残し、千鶴は店の中へと入っていった。疑問符を浮かべながらも、すずは言われたとおりその場で待つことに。
すぐさま戻ってきた彼の手には、真白いフェイスタオルと、群青色のメンズ雨傘が握られていた。その二つを、すずの前に差し出す。
——これ使って。どっちも返さなくていいから。
不愛想に、こう言葉を添えて。
もちろん、すずは断った。首と両手をぶんぶんと振りながら、受け取れないとばかりに後ずさる。
——俺もう戻らないと。ほら、受け取って。
千鶴の強引さに押し切られ、すずはタオルと傘を受け取ってしまった。
声が出せていたら、もっと上手く断れていたかもしれない。こういうケースに遭遇するたび、いつも心苦しさを覚えてしまう。
胸の前に持ってきた左手の甲から、右手を縦に垂直に上げる。はっとし、とっさに「ありがとうございました」と囁いた。
つい、いつもの癖で使ってしまった手話。
声だってきっと、雨音に掻き消されていたはず。
——どういたしまして。
ふわりと微笑んだ千鶴に、どきりと高鳴ったすずの心臓。
これが、二人の出会いだった。
「俺、びっくりしたんだよね」
喫茶店でティータイムを堪能し、とくに目的もなく街でぶらぶらとデートをしているとき。
「すずが意外とアクティブで」
唐突に、千鶴からこんなことを言われた。
クリスマス用のグリーティングカードを手に取ろうとして引っ込める。きょとんとした目を千鶴に向ければ、代わりにカードを取ってくれた。
青と白のシンプルな色合いが美しい、繊細で緻密なデザイン。箔押しされた雪と星が、光を反射して輝いている。
カードを持ったまま、すずは左手の甲を上に向けた。そうして、人差し指を立てた右手をくぐらせ、その人差し指を左右に振る。
基本的な手話は、千鶴も少し理解できるようになった。
これは、理由を尋ねる表現だ。
「タオルと傘返すために、俺のこと追いかけてきただろ? あのとき後ろから急に背中叩かれて、めちゃくちゃびっくりした」
千鶴が話しているのは、二人が出会った翌日の出来事。
再度レストランに赴くつもりだったすずは、タオルと傘を持って大学に来ていた。返さなくていいと言われたものの、平然と自分のものにはできなかったのだ。
カフェテリアでランチを食べながら、親友に事情を話していた昼休み。窓ガラス越しに、友達数人と構内を歩く千鶴の姿を見つけた。
あっと思ってから千鶴の背中を叩くまで、自分でも驚くくらいに早かった。それくらい必死だったのだ。声が出せない自分には、直接触れるしか気づいてもらう術がない。
そのときのことをつぶさに思い出し、すずは赤面した。
「まさか同じ大学に通ってるなんて思わなかった。嬉しかったよ。すずが俺のこと見つけてくれて」
身長差三十センチ。頭上から降り注いだ「ありがとう」の言葉に、すずは顔を上げてはにかむように笑った。
出会いから一月後、すずのほうから告白した。二十歳にしてようやく訪れた初恋。声を出せない自分に、初対面であんなにも優しくしてくれたのは、千鶴が初めてだったのだ。
成就するなんて思いもしなかった。けれど、千鶴からの意想外の返事に、その日の夜は眠れなかった。
——俺も、一目惚れだったから。……同じ気持ちで嬉しい。
大切にしたいと思った。彼が同じだと言ってくれたこの気持ちを。彼とのこの関係を。
二枚一組になっているクリスマスカードを購入し、帰宅の途につく。時刻は午後六時。外はもうすっかり夜になっていた。すずを自宅へ送り届けるため、これから二人、駅へと向かう。
青と白。赤と緑。クリスマス色に染まった街を、手を取り合って並んで歩く。イルミネーションで彩られた街路樹は、まるで星が咲いているように綺麗だった。
時間が時間だからだろう。しだいに人が集まり、小さな波ができるようになった。買い物や外食といった目的のために、往来が激しくなる。
だが、悲しいかな、そんな純粋な目的で動いている人ばかりではない。
駅前に差し掛かったとき、二人の後方が騒がしくなった。女性の悲鳴と男性の怒鳴り声。なにやら揉めているようだ。
すずと千鶴が振り返ると、いかにも怪しげな全身黒ずくめの男が目に飛び込んだ。ものすごい勢いで、こちらに向かってくる。
「ひったくりっ!!」
男のさらに後方で、女性がこう叫んだ。男の小脇には、てんで似つかわしくない女性物のブランドバッグ。嫌でも状況が把握できてしまう。
「どけっ!!」
通行人を片っ端から撥ね飛ばした男が、ついにすずと千鶴の目前まで迫ってきた。
三メートル、
「どけっつってんだろっ!!」
二メートル、
「どけっ!!」
一メートル——
「ぐあ……っ!!」
一瞬の出来事だった。
踏み込んだ男の右脹脛を、対峙した千鶴が左足で蹴り上げた。そうして男の体を掬い上げ、腰から地面に叩き落とすと、すぐさまうつ伏せに押さえ直して両手首を捻り上げたのだ。
「すず! そこの交番に行って、警官呼んできてっ!」
ざわざわと、
恐怖で足が竦んでいたすずだったが、初めて聞いた千鶴の大声に突き動かされ、すぐそばの交番へと駆け出した。
思うように地面が蹴れない。冷たい空気が肺に刺さる。焦る気持ちに泣きそうになりながらも、鼻を啜りながらとにかく直走った。
一分も経たないうちに、交番には辿り着いた。……ここからが、本番だった。
入り口のドアを開け、中に駆け込む。若い警官が心配そうに声をかけてくれたが、嗄声でいくら叫んでも詳細を的確に伝えることができなかった。手話を使っても、理解してもらえるかどうかわからない。スマホを取り出して文字を打つのは時間がかかってしまう。
もつれる気持ちをどうにか抑えつけ、滲む目で使えそうな何かを必死に探す。
「……っ!」
そして、見つけた。
壁に掛けてあったホワイトボード。一月分の予定が書かれてあるそこに、黒いマジックを取ったすずは、猛スピードで書き殴った。
『ひったくり 彼が捕まえた 早く来て』
それからは、あっという間だった。
すずの誘導で現場に到着した警官に、黒ずくめの男は逮捕された。警官が到着するまでのあいだ、千鶴と何名かの通行人が一緒に取り押さえてくれていたおかげで、それ以上被害が拡大することはなかった。
連行される際も、男はいっさい抵抗を見せなかった。
被害に遭った女性は、ストッキングの膝の部分が盛大に破れてしまったものの、バッグが無事に戻ってきたことに安堵しているようだった。「何かお礼を」という彼女の申し出は、二人で丁重に断った。
「……ん?」
揺れる電車の中。
隣に座る千鶴の袖を、すずがくいくいと引っ張った。
『どこも怪我してない? 大丈夫?』
すずのスマホの画面には、千鶴の体を気遣う文言が並んでいた。眉を顰め、至極不安そうに千鶴の顔を見つめる。
千鶴が空手の有段者であることは知っていた。高校時代、インターハイで、見事準優勝を飾った経験があるということも。
でも、それでも、心配しないというのは無理だ。
「大丈夫。どこも怪我してないよ。すずは? 大丈夫だった?」
『わたしは大丈夫。交番までの三百メートルがきつかったから、運動しなきゃって思った』
「ははっ。一緒に運動する?」
『千鶴くん走るの速そうだよね』
「そこまで速くないよ。どっちかっていうと、長距離のが得意」
『でも、50メートル6秒台で走れるでしょ?』
「うん。すずは?」
『自己ベストが7秒ジャスト』
「え。それ、速くない?」
笑いながら、肩を寄せ合いながら、努めて緩い会話を意識した。
あんな事件に巻き込まれてしまったから、というだけではない。
互いにまだ打ち明けていない、それぞれの過去の傷が、疼いてしまったからだ。
事件からおよそ一時間後。
千鶴に送ってもらい、すずは無事に帰宅した。
別れ際、そっと口づけを交わし、千鶴の背中を見えなくなるまで見送った。明日また大学で会える——そうわかっていても、寂しさは拭えない。
きゅっと唇を結ぶ。玄関の鍵を開けて、誰もいない真っ暗な家の中へと入った。
築七年。5LDKの一軒家。
現在、すずはこの家に母と二人で暮らしている。高校の養護教諭をしている母は、まだ仕事から帰っていないらしい。
今朝、朝食を食べているときに、今夜のメニューはシチューだと楽しそうに言っていた。市販のルーは使わずに、すべて一から作るのだと。
母のその意気込みを最大限に尊重し、とりあえず材料だけ用意しておくことにした。冷凍庫に、たしか帆立があったはず。解凍しておかなければ。
しかし、家に上がったすずが真っ先に向かったのは、キッチンではなく和室だった。
六畳一間の仏間。部屋の隅にひっそりと据えられた黒檀の仏壇、その上に、男性の遺影が掛けられてある。
柔和に微笑むこの男性は、すずの父親だ。
仏壇の前に正座する。ひんやりとした畳が、徐々にすずから体温を奪っていった。
すずは、着ているタートルネックをおもむろに下へずらすと、自身の喉元に触れた。皮膚の膨らみに沿って、指で真横になぞる。
いまだに鏡で見るのは怖い。声が出なくなった原因、それを認めるのは。
上手く伝えられず、もどかしい思いをする原因を。自分だけではなく、一緒にいる人にまで、奇異な目が寄せられてしまうこの原因を。
けれど、なによりも怖いのは、この傷痕を人に見せること。
彼に、見せること。
……これは、証なのだ。
『ただいま……お父さん』
大好きな父。
その命と引き換えに、自分が助かったという——。
❊ ❊ ❊
建物から出ると、木枯らしの甲高い音が耳についた。寒暖差に、思わずぶるっと身を震わせる。鈍色の空は、今日も重そうだ。
本日最後の講義終了後。明日が期限のレポートを無事に提出し、千鶴は学生食堂へと爪先を向けた。ダウンジャケットのポケットから取り出したスマホを、再度確認する。
『友達と食堂にいます。講義が終わったら連絡してください』
一時間半ほど前に、すずから届いたメッセージ。絵文字もスタンプも何もない、実にシンプルな文面だが、そこから伝わる柔らかさにとても癒やされる。
彼女の文字を読むのが好きだ。とくに手書きの文字は、繊細で可憐な彼女の人柄がそのまま表れているようで、見ていてとにかく心地が好い。
レポートを提出したら食堂に赴くと返事をしたのが、つい五分前のこと。
早く行かなければ。早く会いたい。逸る足で、千鶴は棟の外階段を軽やかに下りきった。
「神谷」
その直後。突然、後方から名前を呼ばれた。
足を止めて振り仰ぐ。自分を追いかけるように階段を駆け下りてきたのは、一人の女生徒だった。
「八田?」
黒髪のツーブロックショートボブ。長い前髪から覗く少し
モデル顔負けのルックスを誇る彼女は、すずの中学時代からの親友である。
「お疲れさま」
「お疲れ」
「もしかして、これからすずに会ったりする?」
「うん」
「そう。じゃあ、一つ頼まれてくれると嬉しいんだけど」
「なに?」
「これ、すずに返しといてくれない?」
そう言って、晶はバッグの中から一本のブルーレイを取り出した。今すずが一番はまっているらしい、アメリカンドラマの最新作だ。
プロファイリングを駆使しながら凶悪犯罪に立ち向かうという、アメリカならではの濃厚な作品。魅力的なキャラクターたちで構成されるチームが難事件を解決する様は、本国だけではなく、日本でも高い人気を博している。今年十五年目に突入する、長寿シリーズだ。
ブルーレイを受け取ろうとして腕を伸ばす。ところが、一瞬躊躇った後、千鶴はその手を引っ込めることにした。不思議そうな面持ちの晶に対し、こう提案する。
「いいけど……食堂にいるから一緒に行く? 八田がこのあと予定なかったら、だけど」
「いいの? アタシ邪魔じゃない?」
「なんで邪魔なの。すずも喜ぶ。最近八田と会えてないって、寂しそうに言ってたから」
先日、すずと食事をしている際、ここ一月ほど晶と会えていないと嘆いていたことを思い出した。晶のバイトが忙しく、なかなか都合がつかないのだと。SNSでのやり取りはしているため、互いの近況はわかっているが、それでも直接顔が見たいらしい。
「そんなこと言われたら連れて帰りたくなるんだけど」
「それはやめて。俺たちこれからデートだから」
「冗談よ。アタシも今夜は彼とデートだから」
見目麗しい二人が並んでいると、どうしても人目についてしまうが、よもやこんな気の抜けた会話がなされているとは誰も思わないだろう。
周囲の目をよそに、二人は食堂へ向かって歩き出した。実は、こんなふうに二人が話をするようになったのは、すずと千鶴が付き合うようになった頃から。それまでの約一年半、いくつか同じ講義も履修してきたが、一度も話したことがなかったのだ。
というのも。
「アタシ、神谷のこと、実はあまり良く思ってなかったのよね」
「え、なに急に。もしかして俺、今からディスられる?」
晶の口から飛び出た不穏な発言に、緊張した千鶴が身構えた。顔色は毛ほども変わっていないが、内心相当焦っている。
まさかすずに相応しくないとの烙印を押されてしまうのだろうか。もしそうだとするなら、ちょっとやそっとでは立ち直れないかもしれない。彼女の七年来の親友、その言葉はかなり重い。
けれど、申し訳ないが、別れるという選択はありえない。不十分なところがあるなら、補う努力をするまでだ。
晶の語り口から、ネガティブなことを突きつけられるのは自明の理。覚悟を決めた千鶴は、次に継がれる二の句を待った。
そして。
「アンタの周り、いつも女の子がいたからさ。なんていうか、はべらせてるなって」
「はべらせ……」
予想の斜め上から投下された言葉に思わず復唱するも、最後まで言い切ることはできなかった。珍しく動揺を顕わにする。そんなふうに見えていたのかと、軽く心臓を握り潰された気分だ。
たしかに、自分の周りには昔から異性が多かった。同性ももちろんいたけれど、比率でいえば、明らかに異性のほうが多かっただろう。しかし、面白くなかったわけではないが、とくに面白かったわけでもない。自分から話題を振ったり広げたりするのが苦手(面倒くさい)ゆえ、訊かれたことにただ答えていただけなのだ。
無表情のまま地味に悶々としていると、それを見た晶が口角を緩く持ち上げてふっと笑った。
「まあ、女の子のほうから一方的に寄って来てたって、わかってはいたけどね。それでもやっぱり、すずが傷つくのは見たくなかったの。……あの子、今までたくさん傷ついたから」
晶の脳裏にまざまざと蘇る、声を失った直後のすずの姿。
中学へ入学し、最初に親しくなったのがすずだった。色が白く、まるで人形のように麗しい容姿。名前をそのまま現したかのような愛らしい声。人柄も含め、すべてが可憐だった。……本当によく笑っていたのだ。
あの日、父親と一緒に乗っていたツアーバスが、事故に遭うまでは。
「すずがアンタに告白するの、正直反対だった。……怖かったの。断られても、付き合ってる途中で振られても、どっちにしろすずは傷つく。また、あのときみたいに笑えなくなったらどうしようって」
「……」
大手術をして、一命を取り留めて、状態が落ち着いて……やっと面会できるようになった頃には、すずの顔から笑顔は消えていた。
病室での光景を思い出すたび、胸が締めつけられるようにきりきりと痛む。大切なものを一度に失くし、その現実を認識するたびに泣きじゃくるすずを、ただ隣で見ていることしかできなかった。
もう二度と、あんな姿は見たくない。
そう願いながら、晶はこの七年を過ごしてきた。
「……でも、余計な心配だったわね」
「……?」
二人の足が、食堂の手前数十メートルのところでぴたりと止まる。晶から投げかけられた笑みに、千鶴が小首を傾いで目を見張った。
晶の視線の先には、看護学科の友人と対座しているすずの姿。二人に気づき、笑顔で手を振っている。
晶と千鶴が揃って手を振り返せば、すずから窓ガラス越しに手話が返ってきた。
『ごめん。すぐ行くから、ちょっと待ってね』
言うやいなや、すずはテーブルの上に出してあったレジュメや本を、バッグの中へと仕舞い込んだ。すずの友人も、掻き集めたそれらを急いで自分のバッグに突っ込んでいる。どうやら、二人は課題をこなしていたらしい。
「すずのこと、ずっと見てきたからわかる。アンタに大事にされてるって。アンタのことを話すあの子、すっごく幸せそうだもの」
せっせと片づけを進めるすずを見ながら、柔和な声色で晶が告げる。
——アキちゃん。わたし、初めて好きな人ができた。
今から遡ること四ヶ月前。恥ずかしそうに、嬉しそうに、すずからこう打ち明けられた。
軒先での雨宿りを咎めることなく、タオルと傘を渡してくれたと。声を出せない自分にも、戸惑うことなく接してくれたと。
付き合うようになったと。少しずつ手話を覚えてくれていると。駅前でひったくりを捕まえたと。
千鶴のことを話すすずの表情や文面は、いつだってきらきらと輝いていた。眩しいくらいに。
自分の知らないずすがそこにいる。そのことに、晶は一抹の寂しさを覚えてしまった。しかし、それ以上に、例えようのない喜びで胸が満たされるのを感じた。
「すずの相手が、神谷で良かった」
千鶴のほうを見上げ、「ありがとね」と付け加える。——これが、晶の本音。
千鶴に対する、今の晶の素直な気持ちだ。
食堂の中のすずが席を立った。テーブルの上を軽く拭き取り、『今から行きます』と外に向かって手話を投げかける。
「……俺、ずっと考えてたんだよね」
と、それまで聞いていただけの千鶴が、おもむろに口を開いた。「え?」と短く聞き返した晶に、視線をすずのほうへと向けたまま、静かに語り始める。
「あんなふうに笑えるようになるまで、すずはどれだけ涙を流したんだろうって。事故のこと、俺はまだすずから詳しく聞いてないし、喉の傷痕も見たことない。すずが強い子なのは知ってる。けど、八田がその痛みを知ってるから……八田がずっとそばにいたから、すずは笑えるようになったし、今でも笑ってられるんだと思う」
光を宿した琥珀色の瞳が、ゆらりと揺れる。
「人の痛みに寄り添うのは、かなり勇気のいることだから。……八田がもし、すずのそばにいなかったら、俺はすずに出会えてなかったかもしれない」
すずの姿を映じた、まるで宝石のような千鶴の双眼。
そこに滲んだ優しい色に、晶は泣きそうになった。
千鶴の最後の言葉の真意はわからない。だが、なんとなく、晶にはそれが伝わった。
——大丈夫。アタシがいるから。
学校に行くことを躊躇っていたすずに、人前で手話を使うことを躊躇っていたすずに、とにかく「大丈夫」だと伝え続けた。自分がついているからと。
どうすればいいのか、何が正解なのか、わからないまま、ただひたすらすずのそばにいた。これでいいのかと自問する間もなく、ただひたすらずっと。
きっと、そんな自分たちの過去を、彼は優しさでもって酌んでくれたのだろう。
「……ん? 傷痕見てないってことは……アンタたち、まだ致してないの?」
「そう、だけど……なんでよりによってその表現を選んだの?」
「あ、すずが来る」
「……」
『お待たせ!』
友人と別れたすずが、二人のもとへ駆け寄ってきた。頬杖をつくように親指以外の四本の指の背を顎の下に当て、申し訳なさそうに眉を下げる。
『アキちゃん、千鶴くんと一緒だったんだね』
「うん。すずと会うって言うから、一緒に来させてもらった。……これ、ありがとう。今回も超面白かった」
『わざわざ持って来てくれたの? ありがとう』
千鶴のおかげで、晶は一月ぶりにすずに会うことができた。
手話をする指の先まで、すずは今日も最上級に愛らしい。
『ちょうど良かった。アキちゃんに渡したいものがあるんだ』
「渡したいもの?」
受け取ったブルーレイをバッグの中に仕舞うと、すずはその手であるものを取り出した。
それは、先日千鶴とデートしたときに購入したクリスマスカード。雪の結晶が舞う真白い封筒に入れられたそれを、両手で晶に渡す。
『アキちゃん、忙しくていつ会えるかわからなかったから、会えたら渡そうと思ってバッグに入れてたの。少し早いけど……メリークリスマス』
いつもありがとう、と言葉を添えれば、感情が昂った晶に思いきり抱き締められた。その様子を、傍らで千鶴がそっと見守る。
「……もしかして、アタシに一緒に行こうって言ったのは、このためだったの?」
「俺はただ、すずが喜んでくれたらいいなって思っただけだよ」
『?』
すずを抱き締めたまま、晶が問いかける。すると、小憎らしいほど美しい笑みを湛えた千鶴が、形の良い唇を動かしてこう言った。
本当に、この男には敵わない。
彼は——神谷千鶴は、やっぱりすずの選んだ人だ。
❊
「八田はほんとにいい子だね」
『うん。優しくて、賢くて、美人で、わたしの自慢の親友。手話も、アキちゃんと一緒に練習したの』
「そうなんだ。俺も、早くすずの手話全部わかるようにならないと」
『千鶴くんならすぐ覚えられるよ』
「冬休み、また教えてね……って、そうだ。イブなんだけど、俺どうしてもバイト休めなくて」
『叔父さんのお店?』
「うん。あの人、ほんと人使い荒いんだよね。二十五日は死守したから、一緒に過ごそう? ごめんね」
『ううん、気にしないで。二十五日楽しみにしてる。バイト、頑張ってね』
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