第21話【エンカウンター】
それは、俺たちSOS団が北高の坂道を下っていくさなかのことだ。坂を滑るように吹き下ろしていた風が、突如逆巻いて向かい風となり俺に迫り寄ってくるようで、それが俺の耳や頬を冷たく弾く。パシッと音を立てて過ぎ去っていった。
その坂道の先に、誰かが立っている——?
校門を出ていつもの坂を下っていった先だ。ちょうど道が平坦になるあたりの曲がり角。遠目に見てそこにひとりの女子が立っているようだ。その女子は北高の制服に身を包んだ黒い長髪で、どうやらこちらを見ているらしい。
俺たち一行を——自意識過剰でないとすれば——俺の方を見ている気がしなくもない。その女はこちらに手を振るわけでもなく、駆け寄ってくるわけでもない。まるで正面を切って待ち構えているように見えた。ただ、その顔は——遠い上に、長めの前髪で目元もはっきりしないので自信はないが——知らない顔だ。他学年の女子なんだろうか。もしかすると古泉のファンか何かか?
ただそれも、すぐに俺の興味の範疇から遠ざかっていった。すぐ隣で、朝比奈さんと鶴屋さんが南国の別荘地でスイカ割りをした話に聞き耳がたってしまったからだ。ただなんとなく目が合ってしまっただけかもしれないというだけで、正体不明の女子が遠くに見えただけのこと。そもそも、遠くからぼんやりと見える立ち姿が、こちらを向いているように見えるというだけで、別に何か害があるわけでもない。それよりもすぐそばで交わされている可憐な方々の清らかな会話の方が俄然興味も沸くってもんだ。周囲の連中も特に気に留めていないようなので、俺は話のネタにすることもなく、そのまま坂を下っていくことにした。
「キョンくん!」
鶴屋さんの声だ。すぐ耳元でしたような響きで、俺は「はいはい、何ですか」とその方向にすぐさま振り向いてみせる。
だが、向いた先には誰もいなかった。
おまけに、ハルヒがそんな俺に変質者を見るかのような視線を送ってきやがる。鶴屋さんは逆隣で朝比奈さんと雑談していた。——なんだこれ?
とりあえず、ハルヒの視線が非常に鬱陶しい。
「とうとう幻覚が見えるようになったのね……」
「気の毒なひとを見る目はやめろ」
「だって——」二の句を継げようとしたハルヒだったが、俺は軽く遮って鶴屋さんに話を振った。
「ところで鶴屋さん。今、俺を呼びましたよね?」
と、念押しするニュアンスで尋ねてみる。
なにしろ、本日の俺は部室前でも鶴屋さんの声を聞き間違ってしまったばかりだ。今回も空耳だったら流石に自身の耳を疑う。むしろ俺は心の奥底や人間としての本能的な部分でこの方に惹かれていたということなのかと一考する余地が——いや、それはとりあえず置いておくとしても、空耳かどうかは確かめておくべきだと思った。
肝心の鶴屋さんは、どうもピンと来ていないらしい。きょとんとした顔で俺を見ていた。マジか。
俺はおそるおそる、
「あれ、もしかして違いますか?」
しらばっくれながら伺うように尋ねると、横からハルヒが「自意識過剰ね」と口を挟んできて、
「念のために言っておくけど、あたしも呼んだりしてないからね」
などと宣ってきた。そもそもお前には聞いていないが。
だが、他の連中も流石に勘づいているようで、国木田や古泉も首を傾げている。
「キョン、どうしたの。もしかして疲れているんじゃない?」
「少々詰め込み学習が過ぎましたかね」
国木田が俺の顔を軽く覗き込みながら言い、古泉が物腰軽やかに言った。
俺は肩を竦めながら、
「そうかもなァ。テスト勉強なんて慣れないことしているし。その上、参考書まで貰ってしまったらいつか空耳どころか幻覚すら……」
なんて冗談をほのめかしつつ、鞄に入れた参考書をさりげなく国木田に返そうとしたが、そこは国木田に「まぁまぁ」と止められた。仕方のないやつめ。
「キョンくん!」
ここでまた同じ声だ。俺の鼓膜もここまで耄碌しているのか。
やれやれと半ば諦観じみた感触を抱きつつ、呼ばれて振り向いた方向に、今度はちゃんと鶴屋さんがいた。そして彼女は両のてのひらで俺の頬をそっと掴む。
えっ、なにこれは。
「もしかしたら、呼んだかもしれないにょろ!」
呼んだ?
「ですが、さっきは……」
「——だから、また呼んでもいいにょろ?」
彼女は、柔らかく笑いながらそう言ってくれる。
てのひらも表情からも、暖かみが伝わってきた。それから、さっき巻いてくれたマフラーを、もう一度巻きなおしてくれる。
「また、って?」
「呼んでいいにょろ?」にっこりと笑った。
その笑顔が眩しいものだから、
「え、ええ。そりゃあいつでも……」
そう答えるしかないだろう。
巻いてくださったマフラーが俺の首や顎に温かみを添えてくれるたそれをかみしめたところで、もう一度坂を見下ろす。
——見当たらない。
さっきまでいたはずの女子が、忽然と姿を消していた。いつの間にか、音もなく。
どこの誰かは知らないが、木枯らしみたいだと思った。
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