第14話 アクラシスの森

 何度太陽が昇り、沈んだだろうか。

『スマン、ニンゲン。僕はここまでで失礼するよ』馬が立ち止まった。

「どうした? 疲れたのか?」

『違う。ここから先はマジでヤバイ空気がぷんぷんする。僕はヤバイことには敏感だからわかるんだよ。ここから先はアンタもやめておいたほうがいい」

「ここまで来て今さら戻れるかよ」

『ニンゲンって命知らずだよね。僕たちにはない習性だ』

「そうか。ここまで運んでくれてありがとよ」

 馬に見送られるというのも変な話だが、じっと見つめる馬を残して、オルヴィスはこれまでとは植生の異なる森へと入っていった。背の高い松や杉の立つ森だった。直立した木々のすき間から黄金の日差しが降り注いできて目を射られた。

 総方向から視線を感じた。まるで動物の見世物小屋に入れられて自身が檻の中の動物になったような気分だった。これはたぶん森にいるさまざまな獣や鳥や昆虫や草花に至るまで、生きとし生けるものすべての視線なのかもしれない。だが、それを言うならオルヴィスは人間だった。人間も生きているものの一つだ。そういう気持ちで薄暗くなり始めたアクラシスの森を進んだ。

 自分も自然の一部であることがわかると、注がれていた視線がふっと和らいだ気がした。火を焚いて今夜はここで野営することにした。




『今夜はどんなことをしようか』

『ダンゴムシくんの脚の数を数えようか』

『また数問題かよ〜この前はムカデくんの脚を数えたばかりではないか』

『では、クマムシ最強説が本当かどうか確かめてみようか』

『クマムシくんどうぞ!』

『はい、クマムシです』

『あなたはいつから最強ですか?』

『それはわからないですねぇ。ですが、私は私以外の動物のいいとこどりであり、そうたやすく死なないことは確かでしょうな』

『君たちにはバイソンくんとバッファローくんの違いはわかるかね?』

『わかるわけないでしょーが』

『では、チョウくんとガくんの違いは?』

『わかるわけないでしょーが』

『では、日中にチョウに聞いてみましょう』

『ガには? ガには聞かないの?』

『今夜はコウモリくんの数が多いからか、一匹も見当たらない』



 夜も更けてくるとうるさいおしゃべりも止んだが、今朝は寝不足だった。誰がしゃべっていたのかわからなかった。樹々だろうか。今朝は、近くの沢で魚を捕まえて焼いて食べた。ついでに顔を洗って、水をたらふく飲んだ。

 振り返ると心臓が止まりそうになった。

 クマがいたからだ。

「シッシッ! あっちへ行け! 人間を甘く見るとイタイ目見るぞ!」大声を出しても逃げる気配がなかった。

『オマエ、アクラシスの森へ来てなんの用があるんだ?』

「ここへ来れば、戦わなくても戦争を回避する方法がわかると聞いて来た」

『そうか。神に抗うということだな』

「神に抗うつもりはない。そんな大それた話じゃない。もっと単純に、書物にも書かれていない知らないことを知りたいだけだ」

『神に会いたいか?』

「やっぱりここに神がいるのか?」

『自分の目で確かめろ』

「簡単には正解を教えてくれないってわけか。いいじゃねーか」

『案内だけはしてやる。私についてこい』

 クマは森の奥へ入っていった。オルヴィスは急いでリュックを背負うとクマの後を追った。




「おーいクマさんよーそのおっきな背中にオレを乗っけてくれないかなぁ。ちょっと疲れたぜ」

『甘えるな。自分の足で歩け。私を使おうとするな。百万年早いわ』

「甘えてるわけじゃねぇんだ。クマにまたがったらどんな感じなんだろうなぁ、って純粋な好奇心からだ」

『その好奇心は人間らしくて認めるが、私が生理的に受け付けないから拒否する』

「つまらないクマだなぁ。図体だけデカイくせしてよー」

 それからというもの、来る日も来る日もクマと一緒に過ごした。食べるものには困らなかった。クマがミツバチの巣をひっくり返し、昆虫を見つけ、魚を獲った。オルヴィスは代わりに、シカやウサギを狩り、肉を提供した。クマは物知りだった。オルヴィスが書物で読んで知ったばかりの宇宙のことまで知っていた。かと思えば、オルヴィスの知らない人類の栄枯盛衰の歴史まで知っていた。やはり、人類は大昔から戦争を繰り返し、さまざま生物を絶滅に追いやっていたらしい。

 アクラシスの森には、見たことのない奇妙な葉や幹、ツルをした樹々や草花が多くあった。樹上でも見たことのない華やかな翼をした鳥や鼻の尖ったキツネザルが枝から枝へ飛び交い、梢を揺らし、実を落とし、奇怪な声をあちこちで発していた。話に聞いた通りの森だった。まるで異界に迷い込んでしまったかのようだ。

 慣れてくると単調になり、その頃から先頭を行くクマの姿を見失いがちになり、子供くらいなら一飲みにしそうなツボみたいな巨大な花があり、そのツボの中からハチミツを焼いたような焦げたような甘い匂いが漂ってきた。ハチやハエやアリもその巨大な花に群がっていた。

 オルヴィスはいつしか完全にクマの姿を見失った。奇妙なことが起こった。もう一人のオルヴィスが今進んでいる道とは別の右側の道へと逸れていったのだ。しかも、そのオルヴィスは湧水のように透き通っていた。その透明なオルヴィスは、足元を気にしながら、森の奥へと進んでいる。そうかと思えば、今度は左側へ逸れていったオルヴィスもいた。この彼もやはり藻のない泉のように澄んでいる。どういうことだろうか。いまこの場で彼ら二人を観察しているオルヴィスにはちゃんとした体があったし、透明でもなかった。

 後ろを振り返ったら、また別の透明なオルヴィスがいた。そこにいたのは、しかし、首を跳ねられたオルヴィスだった。オルヴィスは気味が悪くなり、走ってその場から逃げた。まっすぐ逃げた。ツタに足を引っ掛け、したたかこけた。顔を上げた。そこには、兜をかぶり、鎧を身につけ、ヤリを手にして誰かわからない人間の脳天を叩き割っているオルヴィスの姿があった。

 アクラシスの森の呪いだろうか。自分はいま正気だろうか。オルヴィスは土を握りしめると投げつけた。飛び散った土は誰かに不快な思いを与えるでもなく、ふたたび土に還った。立ち上がり、がむしゃらに駆け出すと土手に出てしまい、ゴロゴロ転がり落ちた。

「イッテェ、ちきしょう」

 目の前に洞穴があった。洞穴というより洞窟かもしれない。大きな岩山くらいの高さ、幅があった。どのような自然現象によって作られたのだろうか。そろそろ日暮れも近い。今夜の寝床を整えようと思っていたので、ちょうどよかった。オルヴィスは洞窟に入った。その瞬間、けたたましい音を立てて、無数のコウモリが外へ飛び出して行った。

「スッゲェ数だな」

 感心して中へ入った。あのコウモリたちが夜明け前に帰ってくるかと思うと快適な寝床とは言えないだろうが、外を見渡しても他の良い場所がなかった。何より周りを気にせずゆっくりと休みたかった。一度外へ出て薪を集めた。戻ってくると火を熾した。あの自分の姿を映した透明人間はいったい何者だろうか。じっと炎の揺らめきを見つめていると高ぶっていた神経がやっと解けていく気がした。

 オルヴィスはこっくりこっくり舟を漕いだ。ちらりと目を開けると炎が映った。外に目をやると、月明かりに樹々のシルエットが映った。そこに、透明のマントで全身を覆ったオルヴィスが横たわっていた。眠っているようだ。

『オオオオォォォ』

 洞窟の奥の方から声がした。獣のような、風のような、人声のような、人智を超えたなにかのような、どのようにも聞こえそうな声であり、音だった。あるいは、夢うつつに聞こえる幻の声なのかもしれない。オルヴィスは起き上がり、薪の一つを手に取ると火を移し、奥へ進んで行った。確かめるのが怖かったが、確かめたい好奇心にも抗えなかった。怖いことと好奇心とでは、好奇心が勝った。声のぬしを、居所を確かめたかった。近づくにつれて近寄りがたくなった。足元には白骨があった。人の形をしている頭蓋骨や大腿骨が転がっていた。

「…誰かいるのか?」

『私は誰かであって誰でもない。オマエでありオマエではない』

「じゃあ、いったいどういうものなんだ」

『始まりであり終わりであるもの。ニンゲンでありニンゲンではない。争いそのものであり平和そのものである。姿があり姿がないもの。そして、誰の味方でもない』

「敵ではあるのか?」

『ああ。むしろ敵だろう』

「わかった。アンタの正体は、アレだ。神様ってやつだ」

『神はそれを肯定も否定もしない。神は自ら名乗らないし、名乗ることもある』

「じゃあ、名乗ってくれ。神様」

『神のを知り、神を見たものは、生きては帰れないぞ』

 オルヴィスは足元の白骨を見た。どれも人間のものだ。おそらく、これまでにもアクラシスの森へ入り、神を見た者たちがいたのだろう。サハルト教によれば、神が争いばかりする人間たちに怒り、呪いをかけ、人種や言語に区別し、それよってますます争いが激化したという。そして、その神がどこにいるのかも、どんな姿をしているのかも知る者はいない。神を見た、と言う者たちも中にはいるが、どれも眉唾の話であり、証拠を示すことができない。本人の弁を連ねるだけで、他人に見せることはできなかった。ということはつまり、本物の神を見た者がいるとすれば、神を見た瞬間に命が果て、証明自体が不可能になり、結果として曖昧にされてしまうということなのだろう。

『どうする?』と声のぬしがオルヴィスに選択を迫った。

「ちょ、ちょっと待ってくれ」オルヴィスは猶予を頼んだ。「そんな大事なこと一瞬で決まられないだろ?」

『死は待ってはくれないぞ』声のぬしは刃のように冷酷に告げた。『この世には一瞬の判断が迫られることもある。今がその時だ』

「わかったわかった! わかったよ、すぐ決める。「その前にちょっとした疑問を聞いてもいいかい?」

『ニンゲンらしい好奇心だ。いいだろう』

「さっき森を歩いている時、オレの姿をした透明人間を見たんだが、あれの正体を教えてほしい」

 しばし沈黙があってから、神と名乗ったものが答えた。

『あれは、オマエにありえたかもしれない未来の姿だ。いつか村をたずねた時に首を跳ねられていたかもしれない未来。徴兵されて兵士として敵兵を殺していたかもしれない未来。未来は一つではない。オマエも一人ではない』

「なるほど…。ってことは、森で見たオレは、迷ってあちこちへ進んでいたかもしれない可能性がある、ってことか」

『そうだ。では、答えを聞こう』

 オルヴィスは神を見たい衝動に駆られたが、臆病心も首をもたげた。ほんの三秒ほどの間に二十年の月日を考えた。フリーダのこと、彼女と旅をしたこと、ガードリアスのこと、アムゼン村のカンバのこと、ウッドワイドのマスターとフールム、そして、村に残してきた父と母のこと。

「決めた!」オルヴィスは強く叫んだ。「オレはアンタの姿は見ない! 見たくない! 見たところでがっかりするかもしれないからなァ。今際の際の楽しみに取っておくことにするよ」

『よかろう』と声のぬしの声がやわらかく穏やかなものになった。『オマエはこのアクラシスの森を出た瞬間、神に対する記憶をすべて失うことになる』

「そいつはもったいないなァ。別に覚えていて、オレは神の声を聞いたんだぜ、って言っても誰も信じてくれないだろうに。狂人扱いされるだけだ」

『稀にだが、神の声が記憶から完全に消えてなくならない者たちがいるが、そういう者たちがいわゆる神を想像し、宗教というのものを作る。だが、神は見た者に安楽な死を与えるから神の存在を証明することはなんぴとにもできん。だから、ニンゲンの宗教というものはよくできた想像力の塊だと思ってよい』

「アンタの気が変わることはあるのかい?」

『なんのことだ?』

「アンタがいがみあってばかりいる人間を許して、ふたたび一つの民とすることはあるか?」

『ない』と神の声が告げた。『私はもう疲れたのだ。そろそろ死が近い。これからは神のいない世界が始まるだろう。戻るがよい勇気のあるニンゲンよ!』

 オルヴィスはふたたび同じ道をたどってアクラシスの森を出た。往路より早い日数で脱出することができた。早くフリーダとガードリアスのいるところへ帰りたかったからだろうか。

 アクラシスの森を抜けた時、オルヴィスは神に出会ったことをすっかり忘れてしまった。







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