第29話 アナザーサイド 前編

「楽しみ、楽しみ、楽しみ、楽しみ、楽しみ、楽しみ、楽しみ、楽しみ、楽しみ、楽しみ、楽しみ、楽しみ、楽しみ、楽しみ、楽しみ、楽しみ、楽しみ、楽しみ……」


『私』は一人でジョニトリ―の控室にて、自分に言い聞かせるように『楽しみ』を連呼していた。


 パイプ椅子に腰かけテーブルに突っ伏し、きっと顔は絶望しきって悄然としたものでしょう。実際何度も愛猫さんなどから営業中に「今日は元気ないわね? 大丈夫?」と声をかけられたし。

 それに対して私は取り繕った笑みで「大丈夫です!」なんて返したが、空元気である。大丈夫な訳がありません。

 だって――。


「すいません、お待たせしましたッ!」


 突如として聞こえた声に、私は慌てて背筋を伸ばす。

 控室にやってきたのは私服姿の太田さんだった。

 私は頬が引き攣る感覚を覚えながらも辛うじて笑みを浮かべる。


「そんな待ってないから気にしないで。それより、雇用契約は無事に済んだかしら?」


 太田さんはジョニトリ―で務めてから今まで研修生として採用されていた。その更新及び面談が今日だったのだ。

 私の尋ねに、太田さんはあっけらかんと笑う。


「はい。これからは正式採用になって、時給も上げてもらえるみたいです」

「あ、そう言えばそうね。研修期間よりも百円ぐらい時給が上がるんだよね?」

「そうみたいです!」


 ニコニコと愛嬌たっぷりに返答されて、思わず私はたじろいでしまう。


 ……やっぱり、私の思い描いていたウルフ殿と明らかに違う。

 私が抱くウルフ殿のイメージは傍若無人。けれど、ふとした時に優しさを感じさせる人。

 ……なんだけど、今の太田さんからはそんな雰囲気は感じられない。優しさ全開だ。傍若無人さは微塵も感じられない。別に適当に扱われるのが好きって訳ではないけど、でもその齟齬がいつまでも心に引っかかっていた。


「それで、えーと、どうしますか?」

「え? どうするって?」


 私が首を傾げて尋ねると、太田さんは頬を搔きながらおずおずと告げた。


「その、恋愛相談でしたよね? ここでされますか? それともやっぱりやめときます?」

「くぁっ」

「くぁ……?」


 いけません。思わず変な声が漏れ出てしまいました。

 コホンと咳払いを一つ挟んでから、笑顔を意識して告げます。


「ここではちょっと、ね。誰が来るか分からないし」

「あー。そうですか。……いえ、そうですよね。非常にセンシティブな話ですもんね」


 その通り! 乙女のコイバナはとってもセンシティブなのです! 守秘義務遵守なのです! まかり間違っても第三者に情報漏洩されてはならないのです、秘匿なのです。

 私は大きく頷きます。


「というわけで、場所を変えてお話したいんだけど、良い?」


 すると太田さんはコクンと頷いた。


「はい。でも、どこでお話を?」


 フフフと、私は思わず心の中でほくそ笑みます。そうして告げた場所は――。


「喫茶ヴァラドンに行きましょう」

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