第28話 アナザーサイド
海水浴場から各々の家まで店長が送ってくれた。
最後に残った『私』が、自宅のあるマンション前に着いたのは夜の十時過ぎ。
夜遅い時間になってしまってごめんなさいとしきりに謝る店長へ、むしろ送って頂いたお礼を述べて別れた。
「ただいまー」
自宅へと入って私がそう告げると、いつもならとてとてと足早に近寄ってくる愛する妹の足音は無く。けれど代わりに落ち着いた足音が聞こえてきた。
「おかえりなさい、可憐。今ならお風呂温かいわよ」
母だ。淑やかで笑みを絶やさぬ、私の憧れの人。
私は母へ「ありがとう」と言いつつ靴を脱いでから、そう言えばと思い出して尋ねる。
「夏帆はもう寝ちゃった?」
「ええ。お姉ちゃんが帰ってくるまで寝ないって言ってたんだけど、ちょっと前に力尽きちゃってね」
「そっか。悪い事しちゃったかな」
可愛い可愛い我が妹の心情を慮れば、自然と気落ちしてしまう。
「何言ってるのよ。むしろいつも夏帆の相手をしているのだから、偶にはお友達とも遊ばなきゃよ」
「偶にはって、私だって別に友達がいない訳じゃないよ?」
「そうなの!?」
「お母さんは私をどういう目で見てるのよ……」
「でも、今まで誰かと遠出したことなんて無かったでしょう? しかも海水浴だなんて。可憐はアルバイト先の人達とって言ってたけど、お父さんと私は男の子と二人っきりでアバンチュールを楽しんでるんじゃないかって言っててね。そしたらお父さん、お酒を煽って泣き始めちゃって。結果酔い潰れて、夏帆と一緒に眠っちゃったわ」
我が父ながら、一体何をやっているのだか。
私は嘆息交じりに言う。
「まったく、本当にアルバイト先の人達とよ。それ以上も以下もないっ」
「ふーん。でも、男の子だってその中にはいたんじゃないの? その子と何かあったりとかは?」
「あ、あるわけないじゃない!」
思わず声が裏返ってしまった私を見て、母は悪戯っ子のように笑った。
「怪しいわねー」
「う、うるさいなぁ。とにかく、お風呂が冷める前に私はもう入ってくるからね」
言うや否や返事も待たず、私は自室へと向かう。着替えを持ってくるためだ。
自室に入ると明かりを点けてから、後ろ手で扉を閉じる。そしてそのまま扉に背をもたれ、天井を仰ぐ。
……漸く落ち着ける。落ち着いて考えられる。
「……さて」
――え、どうしよ! え、え。どうしよどうしよ!?
待って。ここに来るまで無の境地でいようと頑張って来たけれども、どうしよ!?
待って――じゃない、待つのは私よ。一旦落ち着くのよ私。一回整理しましょう。
私は開いた手の指を一つ一つ折り曲げて話を整理しようと試みる。
「えーと、まず昨日ゾンハンで、ウルフ殿から海水浴に女の子と行くって言われたのよね。それで私は落ち込んじゃって、でも私もジョニトリーの皆と海水浴に行く約束をしていたから向かって。ええ、間違いない。ここまでは順調よ私。順調に整理できているわ」
うんうんと頷きながら指折り二つ数え終える。そして深呼吸を挟み、三つ目に差し掛かる。
「けど、ウルフ殿は太田君だった――はい意味が分からないッ! こんなのフェルマーの最終定理ですッ! 分かりっこありませんッ! というか私も指折り数えてる意味が分からないッ!」
手をグーパーしてから垂直に振り下ろす。深呼吸の甲斐も無く、今では呼吸が乱れまくりだ。
「と、とにかく、ウルフ殿が太田君であるのは間違いなさそうね。でも、太田君は私が十六夜八日だとは気付いてない。むしろあの態度で実は気付いていたとしたら、よっぽどの手練れよ太田君……!」
何だか妙なテンションになってしまっている。けど、ウルフ殿関連になるといつも私はこんな風になってしまうので平常運転だ。
そこで私は片手を肘置き代わりにして、上半身だけロダンの考える人のポーズを取る。
「そう言えば太田君、ゾンハンのアカウント名がウルフだって言った時、月曜日に一緒に遊んでる人がいるみたいな事を言っていたわよね。太田君がウルフ殿っていうのが衝撃的過ぎて頭を素通りしてしまったけど、何て言ってたかしら。えっと、確か……」
『もしも見かけたら声かけてよ。どうせ暇してるから――って、あー、月曜日だけはよく一緒にやる奴がいるんだけど、そいつも説明したら付き合ってくれるよ。変な奴だけど良い奴だし』
思い出したと同時に、私は床で四つん這いになってしまった。そして吐き出す声はエクトプラズムめいたもので。
「私はやっぱりウルフ殿から変な奴って思われていたんだ……」
そうよね、当たり前よね。私だって変な奴だと思うもの。敬称に『殿』って何よ。しかもござる口調って。挙句の果てには草生やし過ぎだし。私だって分かってるわよ、変な奴って。
私は四つん這いの姿勢からゴロンと床の上で仰向けになる。
天井のシーリングライトをぼーっと見つめながら、ふと口を開いた。
「でも、良い奴とも言ってた……」
変な奴だけど良い奴。悪い印象ではないのかな。
でも私はそんな評価に一喜一憂せず、それよりも重要な事に思考が向いていた。
「私はウルフ殿が好き。そしてウルフ殿は太田君。なら、私は太田君が好きって事になるのかな……?」
……正直、分からない。現実感が無い。私は恋というものを経験したことが無かったし、ウルフ殿へのそれも、恋と呼ぶよりも憧れの方がしっくりとくる気がした。
勿論、今まで太田君をそういう目では見ていなかった。クラスメイトであり、同じアルバイト先の従業員であり、そして友人。以上も以下もない、これが私にとっての太田君の全てだった。
つまり、憧れのウルフ殿が太田君だと分かったからと言って、簡単に気持ちを切り替えられる程、私は器用じゃなかった。
溜まらずため息が零れる。
「……どうしよ」
とりあえずメンタルを落ち着かせよう。幸いにも今日は火曜日。ウルフ殿とゾンハンをプレイする月曜日までは時間の余裕もある。
十六夜八日が実は獅々田可憐だと告げるとすれば、そのタイミングしかない。その機を逃せば、きっと私は十六夜八日をずっと演じ続けるだろう。それまでに、何とかして気持ちの整理を終えなくては。
そこまで考えて「あ」と声を上げる。
「早速明日、太田君とシフトが被ってる……」
海水浴帰りの車中は、何とか平静を保っていられたけど、それを明日も出来るかどうか……。
山積する悩みの種が頭をもたげて再びため息。
と。
「可憐―? 恋の悩みで悶々とするのは勝手だけど、お風呂冷めちゃうわよー」
扉の向こうから母の声が聞こえ、慌てて私は起き上がる。
「わ、分かってるわよ! もう入る!」
「あらー。恋の悩みで悶々としてるのは否定しないのねー」
「うるさいなぁ!」
笑い声を残して足音は遠ざかる。
いつもなら、母からこんな風に冷やかされる事も無いと言うのに。三度ため息。
ともかく今は。
「……お風呂入ろ」
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