第23話
蝉がミンミンと、けたたましく鳴いている。昆虫のみならず蛙なんかもそうだが、こうやって鳴く連中はオスが殆どだ。求愛行動の一種だから。
であればこそ。
「行きたくないよぉ、彩音、俺行きたくねぇよぉ」
家を出てジョニトリーへと向かう道すがら、しきりに惨めったらしく泣き言を吐く俺は、正しくオス。
「諦めるでありますよ。もう行かざるを得ないのであります」
対してそんな俺を一瞥してにべもなく言い放つ彩音。人間の生き血を啜る蚊や、働きアリなんかはメスである。つまりアクティブ。その意味で言えば、淀みなく先陣を突き進む彩音は正しくメスだ。
……ま、人間社会においては俺が女々しくて、彩音が雄々しいだなんて思われるんだろうけどな。だがそんなことどうでもよくて。
俺は朝の七時にアラームをセットしていた。『ドキドキメモリーズ~千春と秘密の恋日記~』に収録された『春は曙』というBGMをアラームに設定しているため、俺はいつものように清々しい朝を迎えた。……はずだった。
というのも、実は昨夜からほとんど眠れなかったのだ。そりゃそうだろう。海水浴とは言っても、女装しながらとか地獄に他ならない。
結局、一時間やそこらレム睡眠状態に陥っただけで、これっぽっちも寝た気はしていない。
だがメイク時間もあることだし、先んじて朝シャンでも浴びておくかと、寝間着のままリビングまで下りて行って、そこで俺は驚いてしまった。
リビングにはもう彩音がいたのだ。しかも、その姿を見て俺は口をあんぐりと開けてしまった。その理由は――。
「あ。ジョニトリーの下の駐車場に一台だけ車が止まっているでありますけど、あれがその愛猫さんの車でありますか?」
「あ、ああ。そうだ」
黒塗りのワゴン車を彩音は指さして確認を取ってくる。俺はこくこくと小さく頷いた。
「あれって結構高い車でありますよね。しかも見た所新車っぽいであります。飲食業の方って余りお給料を頂いていないイメージがあるんですけど、そうでも無いんでありますね」
「いや、どうだろ。むしろ車にしか金を使わないからこそなんじゃないか?」
「あー。なるほどであります」
彩音は納得した様子だが、事実関係は知らん。もしかしたら愛猫さんが本当に高給取りなのかもしれんが、そもそも今はそんなことどうでもいい。
と、俺達がそのワゴン車へと近づくと、運転席の扉が開いた。出てきたのは愛猫さんだ。
何かの間違いで愛猫さんがとても体調悪そうな顔をしていないだろうかと、不謹慎にも思ってしまった。が、そんな事を一瞬でも思った俺への天罰か、愛猫さんがこちらへ向けた顔はこの上ない程の晴れやかな笑みに満ちていた。
スッと俺たちの方へと近寄りながら、白のブラウスと黒のパンツ姿の愛猫さんがすこぶる機嫌良さそうに声をかけてくる。
「おはよう! いやぁ、正しく絶好の海水浴日和ね! てるてる坊主をついつい三十体も作った甲斐があったわ」
家の中にそんな数のてるてる坊主が吊らされてたら、なかなかにホラーだな。
苦笑いを浮かべてしまう俺に愛猫さんは一瞥だけ寄越してから彩音を見つめた。
「それで……この子は一体誰?」
まぁ、そうなるわな。何でって思うよな。何で『俺』がいるってなるわな。
すると彩音が愛猫さんに華やかな笑みを返す。そして掌を開いて俺へと向け。
「これは、私の愚兄です」
……そういうこと。どうして俺が今朝、リビングにいた彩音を見て驚いたのか。それは、『俺が女装した時と全く同じ見た目』をした彩音がいたからだ。
そして今の俺は女装をしていない。普段通り根暗を絵に描いたような姿である。
「太田さんのお兄さん?」
「はい。ほら兄さん。ご挨拶をして」
ぞわっとしてしまった。兄さんて。いつも司と呼び捨てしてくる彩音が兄さんて。
しかしそんな感想が面に出てしまったのか、彩音は俺の爪先をさりげなく踏んできやがった。
「いったー!?」
「ど、どうしたの?」
思わず小さく跳びはねる俺に、愛猫さんは怪訝そう。それに対し彩音は口元を手で覆いながら淑やかに笑う。
「もう、兄さんったら。この人、美人な女性を目の前にすると唐突に驚く癖があるんです。お気になさらないでください」
いや気にするだろそんな癖。控えめに言ってそんなの只の変質者じゃないか。
案の定愛猫さんは眉を顰めて「ええ……」と引いてる。
弁解の言葉を述べようとも思ったが、彩音が顎で『早く自己紹介しろ』と笑みを浮かべたまま有無を言わせぬ様子で促してきていた。
俺は内心で舌を打ちながら告げる。
「は、初めまして。俺の名前は太田つか――ふごぉ!?」
「あら兄さん。脇腹に蚊が止まっていたので殺しておきましたよ」
俺は彩音に肘打ちを食らわせられた脇腹を抑えて悶絶した。
こ、こいつ。俺に何の恨みが。
と思ったのも一瞬。直ぐにその真意に気付く。
つまり、ここで俺が太田司と名乗るのを彩音は止めたってことだ。兄妹で同姓同名とか意味不明だから。
しかしそれにしてもやり方があるだろうが……と、毒づいていても仕方ない。
「あ、改めまして。俺の名前は、太田太郎です」
「はぁ。太田太郎君、ね。一周回って珍しい名前をしているのね」
俺も思います。でも他に思い浮かばなかったんです。
と、心の声を漏らすわけでも無く苦笑する俺に、愛猫さんは途端に表情を曇らせた。
「あぁ、他人様の名前をとやかく言うのは良くないわね。ごめんなさい。私の名前は愛猫恋。太田さん、太田司さんが務めるジョニトリーの店長をしています」
ええ、よく知ってますけどね。
なんて言えるわけもなく。
「は、はい。妹がお世話になってます……」
「いいえ。むしろこちらがお世話になりっぱなしで。偉いのよ、妹さん。頑張り屋さんで直向きで。もうすっかりジョニトリーの看板店員」
「は、はは。そうですか」
……何だこの状況。謙遜も出来ないから性質が悪いぞ。
と、煮え切らない態度の俺を尻目に、愛猫さんは彩音に水を向けた。
「それで、どうして今日はお兄さんがいるの?」
「それが……実は兄は大のシスコンで。バイト先の人と海水浴に行くと言ったら、俺も付いて行って見守るんだとずっと言っていて」
うん、一言も言ってないけどね。何なら彩音が一人で愛猫さん達と一緒に海水浴に行ってくれよと頼み込んだんですけどね。でも彩音はそれだと色々と話の整合性が取れなくなる可能性もあるから付いてこいの一点張りだったんですけどね。
ただ、ここで愛猫さんが俺の参加を拒んでくれれば万々歳である。そうしたら彩音達を見送って帰れるし、あるいは適当にシスコンを拗らせた演技をして彩音を引き連れて帰って終わり。最高じゃないか。シスコンの演技は癪だがな。
「なら仕方ないわね。連れて行きましょう」
「――ちょっと待って下さい愛猫さん。即答が過ぎます。もう少し熟考を重ねてみては如何でしょうか?」
音速の二つ返事に、俺はすかさず待ったをかけた。が、愛猫さんは首を傾げる。
「え。でも、お兄さんは付いてきたいんでしょう? なら願ったり叶ったりじゃないの?」
「い、いえ。あのですね、付いて行きたい気持ちはやまやまなんですが、でもやはり女性だらけのグループの中に男が一人入ると言うのも雰囲気を壊しかねません。なので、もしも俺を不憫に思っての承諾であれば止めましょう。よくないです」
「は、はぁ。いまいち意味が分からないけど、ともかく私は構わないわよ。太田さんだってお兄さんが付いてきた方が安心できるんじゃないの?」
俺はじろりと彩音を横目で睨む。
分かってるんだろうな、彩音。ここでの返事は『そんなことありません』だぞ。『兄さんがいなくても大丈夫です』だぞ。
すると彩音は俺の顔を一瞥した上で愛猫さんに笑みを向け。
「はいっ。兄さんと一緒が良いですっ」
と、未だかつてないぐらい無邪気な笑みを浮かべ、あまつさえ俺の腕に抱きついてきた。俺の心情を察した上での嫌がらせだろこれ。ふざけんじゃねえぞおい。
最早俺に何を言う権利も無くて、しかし愛猫さんが「あー、でも」と言い。
「もしも残りの二人がお兄さんの参加を認めてくれなかったら、ちょっと難しいかもね。多分大丈夫だとは思うんだけど」
なるほどね。そりゃそうだ。俺達だけで解決して良い事じゃない。まだ希望は潰えていなかった。
と、彩音が俺の腕から体を離して愛猫さんに問いかける。
「あとお二人いらっしゃるんですか?」
「ええ。獅々田さんが来るのは太田さんも知っているだろうけど、もう一人は――」
と、その時。
「おや。もう皆到着しているのか」
背後から聞こえた声に振り返る。そこにいたのは、小柄なポニーテールの少女。立木見さんだった。
ボーダーのTシャツにショートデニム。それと黒い帽子。私服の立木見さんを初めて見たが、なかなかカジュアルな装いだ。
愛猫さんが返事をする。
「ええ。でもまだ集合時間の五分前だし、遅刻では無いわよ。それに獅々田さんもまだ来ていないしね」
「ふむ。そうか。……と、この男は一体何だ」
まぁ、愛猫さんにもバレなかったし、立木見さんにも俺が太田司であるとバレないのは当然か。
と、愛猫さんが俺へと手を向け。
「あ、そうなのよ。実はこの子も急遽海水浴に参加したいって事で――」
「却下だ」
光のような速さだった。というか最後まで言っていないのに一蹴である。
ともあれ、蜘蛛の糸が垂らされた。俺は小さくガッツポーズを決め込んだ。
が、そこで余計な茶々を入れたのは彩音だ。
彩音はサッと立木見さんの前へと躍り出ると、悲しそうな顔(絶対に演技)をして口を開いた。
「この人は太田太郎って言って、私の兄なんです。それで、私が連れてきてしまったんです。ごめんなさい。やっぱり兄さんが参加するのはダメで――」
「良いだろう。連れて行こう」
俺が馬鹿でした。この蜘蛛の糸はカンダタ一人でも千切れるような物でした。
すると彩音に篭絡された頼りにならない立木見さんは、スタスタと俺へと近寄ってくるとポンポンと肩を叩いてきた。
「私の名前は立木見不知だ。よろしく頼むぞ将来の兄よ」
「は、はは。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
半笑いするしかない。が、何を思ったのか立木見さんは俺の肩を抱くと俺の耳に口を寄せ。
「ちなみに、もしも司に手を出してみろ。死なすぞ」
何言ってんのこの人。頭パッパラー過ぎるぞ。
もうツッコむ気力も無く、愛想笑いを浮かべるのみ。最早どうでも良い。一日よさっさと終われ。
そうこうしている内に集合時間となる。
けど。
「あれー。おかしいわねー。獅々田さんが遅刻だなんて。勤務時間だって一度も遅れたこと無いんだけど」
そう言って愛猫さんは腕時計に視線を落とす。
確かに彼女がいつもジョニトリーの勤務でも遅刻をしない。それどころかいつも出勤時間の二十分も前にはお店にいる。
「まさか、可憐の身に何かあったのだろうか」
指を噛みながら深刻そうな顔をする立木見さん。そんなちょっと遅刻したぐらいでオーバーな。とは思いつつも、俺も何だか不安に駆られだす。
そうしてにわかに妙な緊張感が立ち込みそうになるが。
「あ。あれ、獅々田さんじゃない?」
愛猫さんの声に、その場にいる全員が彼女の視線の先を見る。
そこには、確かに獅々田さんがいた。しかし。
「えーと、制服姿ですよね、あれ」
「そ、そうね」
思わず零した俺の言葉に、愛猫さんが返事をしてくれた。
夏休み。勿論学校は無い。にも関わらず獅々田さんは、俺も通う新望高校の制服を着ていて、しかも明らかに覇気がない様子でジョニトリーの前の通りを歩いていた。
声をかけるのすら躊躇うぐらいに浮かない顔を俯かせている。
そしてそのままジョニトリーの前を素通り。思わずこの場にいる全員が黙って見送ってしまう。
が、何とかUターンしてくれたみたいで、直ぐに獅々田さんはこっちへと近づいてきてくれた。
「お、おはよう、獅々田さん」
躊躇いがちに愛猫さんが挨拶すると、獅々田さんは顔を上げた。死んだ魚みたいな顔をしている。
「……はい。おはようございます」
「え、えと、何かあったのかしら?」
「いえ……大丈夫です……ひっく、すん」
じんわりと涙が滲む目元を指先で擦り、肩を揺らす。明らかに大丈夫じゃないだろ。
と、愛猫さんは困った様子で俺たちを見て。
「そ、そう言えば、太田さんのお兄さんが今日は海水浴に参加したいそうなんだけど、良いかしら?」
「……はい。大丈夫です」
いや大丈夫じゃないでしょって。
ただただ生気を失った瞳で俺を一瞬だけ見てから獅々田さんは頷いていた。多分俺なんかどうでも良いぐらいの何かがあったに違いない。
しかし、それをここで問い質すような真似を、俺はおろか愛猫さんや立木見さん、それに勿論彩音だって出来なくて。
「と、とにかく、今日は楽しみましょうね! 海水浴!」
言って一人で片手を突き上げる愛猫さん。その声は余りにも空々しくジョニトリーの駐車場に響いた。
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