第10話

「疲れた……」

 退勤時間通りに上がらせてもらった俺は、誰もいない控室で一人で机に突っ伏していた。

 時刻は午後九時。壁一枚隔てた厨房からは食洗機がひっきりなしに稼働する音が聞こえ、パントリーの方からは慌ただしく食器を置く音や、オーダーが入った事を報せるピピピっという電子音が響いてくる。まだまだ忙しいみたいだ。

 実際は男だっていうのに、女の子達に仕事を任せて一足先に上がることに良心の呵責を覚えもしたが、だからと言って俺が出しゃばっても何も出来ることなんて無い。

 その証拠に、手伝いを申し出た俺に愛猫さんは。


「新人は仕事を覚えるのが仕事なのよ。その上で、人は覚えきれる量に限りがあるわ。今日はもう上がりなさい」


 と断った。

 でも、正しくその通りだ。

 覚えることは山積みで頭は疲弊し、動き回って体も疲弊し、極めつけは慣れないことに精神を疲弊し、正に疲労困憊。退勤してから三十分が経っても、俺はグロッキー状態から抜け出せないでいた。こんな状態で働いても、満足に仕事も覚えられず、足を引っ張るだけだろう。

 と。


「あれ。太田さんまだいたの?」


 声に反応して、俺はがばっと机に預けていた上半身を起こした。そして控室に現れた人物を確認して、二度三度瞬きをした。


「獅子田さん……どうしたんですか?」


 この店の退勤時間は基本的に一時間刻みと昨日愛猫さんから聞いた。だからこそ、俺もここでグロッキー状態でぼんやりとしていたのだが。と。


「今日は本当は勤務日じゃなかったのよ。だからちょっと落ち着いてきたから上がったの」


 勤務日じゃない? ってことは、もしかして。


「それってつまり、私のために休日を返上して出勤したってことですか?」


 すると獅子田さんは「あ」と声を上げながら口を押えると、目を泳がせた。が、適当な言い訳が思いつかなかったのか、苦笑いを浮かべた。


「まぁ、そういうことになるかもしれないけど、でも気に病むことは無いよ? 私だって新人の頃は同じように教えてもらったんだし」

「……ありがとうございます」


 獅子田さんは肩を竦めると微笑んだ。


「そうだ。どうせなら一緒に帰りましょ?」


 そんな台詞、言われたのはいつ以来だろう。最後に言われたのはきっと中学生の時で、相手はあの人だったなぁ。

 何だか青春っぽく感じてしまって、一瞬胸が高鳴りもしたが直ぐに思い出す。

 そう言えば俺は今、女装してるんだ……。

 自嘲を零しながら、俺は頷いた。


「はい。帰りましょう」


 それから別々に着替えを終えて、ジョニトリーを後にした。


「やっぱり初夏とは言え、夜は冷えるね」


 学校で見慣れた制服姿の獅子田さんが、踊るように俺の前を歩きながらくるりと振り返って言った。華やぐような笑顔を向けられ、釣られるように微笑む。


「そうですね」


 簡素な返事しか出来ない自分が恨めしい。もっと社交性のある人間なら会話のキャッチボールも上手くできるんだろうな。しかも相手は獅々田さん。俺みたいなコミュ障ではなく、いくらでも話し上手な相手が周りにひしていているだろうし。つまらない男――もとい女とでも思われていやしないだろうか。

 しかしそんなのは杞憂だったのだろう。獅子田さんも特に気に留めた風も無く、穏やかな面持ちで路を歩いていた。卑屈な自分を恥じながら彼女を追う。


 通りは夜の帳が下りても明るかった。立ち並ぶ商業施設の明かりに、車道を行き交う車のヘッドライトや街灯、それに真ん丸なお月様。光源には事欠かない。

 だからこそ、獅子田さんがチラチラと何かを確認しているのが分かった。胸元のポケットをしきりに漁っては、浮かない表情を見せているのだ。

 それが何を意味しているのかを察し、先ほどの汚名を返上するため獅子田さんに話しかけた。


「さっきから携帯を見てますけど、何かこの後用事でもあるんですか?」


 すると獅子田さんは、肩をびくんと跳ねさせた。思わず俺もびっくりしてしまう。


「え、あー……うん、そんなとこ、かな」


 目も合わさずに、獅子田さんは答えた。

 何故だか動揺された。聞いちゃいけないことだったろうか。けれど今更引けなくて、俺は会話を続けた。


「誰かと待ち合わせでもしてるんですか?」

「まー、そう、かな? 似たような何かと言うか」


 いまいち端切れの悪い返事だが、こんな時間に待ち合わせか……。となると。


「彼氏とか、ですか?」

「か、かれちっ――うぅっ!」


 素っ頓狂な声を上げたと思ったら、口を押えてしまった。どうやら噛んだみたいだ。


「だ、大丈夫ですか?」

「大丈夫、うん……ちょっと、びっくりしちゃって」


 図星だった、ということか。まぁ確かに獅子田さんは勉強も運動も出来て、面倒見も良い。それに何より顔が整っている。俺から見ても可愛らしいと思えるぐらいだ。……まぁ俺の場合は艶めく髪が千春ちゃんに似てるという色眼鏡があるのだが。

 と、俺はとある事に思い至る。


「あ。もしかして、本当はもっと早い時間に待ち合わせる約束してたんじゃないですか? それが私のせいで遅らせることになったとか?」

「えっ? あーいえ、そういうわけではなくて、何ていうのかな、別に約束とかしているわけでもないから」


 そう言いながらも、獅子田さんの表情は相変わらず浮かないものだ。

 しかし、そうなると俺も申し訳ない気持ちが募る。


「すみませんでした、本当は彼氏さんとデートする予定だったんでしょうに、私のためにシフトが入っていない日に働いていただいて」

「それは本当に気にしなくていーの! それに、か、彼氏、とかじゃないから。私なんか、不釣り合いだし……」


 言って獅子田さんは俯き加減になってしまった。

 獅子田さんで不釣り合い? そんな男がこの世に存在するのだろうか。にわかには信じがたいが。

 ともあれ。


「獅子田さんはその人が好きなんですね」


 何となしに言ったのだが、それに対して獅子田さんは。


「す、すすす、好き!?」


 こちらが驚くぐらいに狼狽えていた。

 顔をタコみたいに真っ赤にして、瞬きも増え、目は泳いでいて。見ているこっちが申し訳なくなるぐらいの狼狽っぷりだ。


「違うんですか?」

「それは、あの人はちょっと意地悪なところはあるけど、本当は優しかったり、頼りない私を助けてくれたり、ふと『会いたいなぁ』って思うこともあるにはあるけど、でもやっぱり……」


 ぶつぶつと、念仏でも唱えるように何事かを呟くと、獅子田さんは最後に肩を落としてため息を吐いてしまった。知ってるぞ俺。これは恋する女のため息だ。

 リア充ってやつは好きではないが、こと獅子田さんが相手ならムカついたりなんてしない。むしろ。


「応援してます。実るように」

「あ、ありがとう……って、私は別に」


 反論でもしてくるのかと思っていたが、獅子田さんは俺の顔を見て小さく肩を竦めた。


「そんな生暖かい目を向けられたら、何も言えないね」


 自然とそんな顔をしてしまっていたようだ。


「はは、すみません」

「良いよ。それと、今更だけど敬語は止めましょ」

「え? ですけど、一応先輩ですし」

「先輩って言っても仕事上でしょ? 年齢は同じなんだから、タメ口で良いよ」

「あー……分かりました」

「ほら、早速」

「あ。うん、分かった」


 ぎこちなくも頷く俺に、獅々田さんはにっこりと笑った。


「よろしい」


 それから程なくして、T字路に差し掛かり、そこで獅子田さんは足を止めた。


「確か太田さんは向こうに家があるのよね。私はあっちだから」


 そう言って指さされた方向は、俺の帰り道とは逆側だった。


「はい。今日はありがとうございました。これからもご迷惑をおかけ――」

「堅苦しい」


 むすっとした顔で言われて俺は苦笑した。


「あはは……今日はありがとう。早く一人前になるれように頑張るよ」

「うん! 期待してるわ。それじゃあ、また明日ね」


 獅子田さんは挨拶もそこそこに、俺に背を向けて去っていった。

 彼女の後姿が見えなくなるまで見送ったのだが、最後の方は駆け足だった。やっぱり重要な用事があったのだろう。悪いことをしたかもしれない。

 ……にしてもあの獅々田さんに想い人の存在か。こんな事が知れ渡れば学校では阿鼻叫喚の渦が巻き起こりかねんな。

 まぁ俺から広めるつもりは勿論毛頭も無いし、というか明日も明日で学校では殆ど誰とも会話もせず過ごすだけなんだろうが。


「……あれ?」


 そこでふと首を傾げる。

 また明日、と先ほど言われたが、俺は明日はジョニトリーの勤務日では無い。

 まぁ、獅子田さんの勘違いだろう。俺もそんなのに気を取られていないで、さっさと帰ろう。

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