第9話
「うん、似合ってるね」
「あ、ありがとうございます……」
下駄箱横にある姿見に映った俺の恰好は、ブラウスに水玉模様の腰掛と黒いスラックス。どちらかと言えば、獅々田さんより愛猫さんに近い印象だ。
鏡には似合っていると言われて卑屈な笑みを浮かべる美少女(俺)の横に獅々田さんも映っている。
「それじゃ、早速だけどホールに出ましょうか」
「ホールって、客席の事ですか?」
「ええ。そうよ」
「い、いきなりですか?」
まだ心の準備が出来ていない……。
途方に暮れる俺に、獅々田さんは慈母の如き笑みを浮かべる。
「大丈夫。太田さんにはまだ接客をしてはもらわないから。今日は声出しの練習と、店内の色々な場所や食器とか機器の名称を覚えてもらうわ」
「そ、そうですか」
正直言って、接客じゃなくてこんな格好で表に出る心の準備が出来ていなかったんですけどね!
「というわけで、手を洗うところから始めましょう。食べ物を扱う人間の基本よ」
今更どうのこうの言ったところで意味は無い。鏡越しに見る俺の顔はこの世の終わりみたいな顔をしながら「はい」と口にした。
控室に一番近い客席へと繋がる通路の直ぐ傍に手洗い場はあった。そこで備え付けのハンドソープを手に付けてあわあわする。隣で獅子田さんもあわあわする。
「手のひら手の甲はもちろん、ちゃんと爪や指の間も洗ってね」
「はいっ」
自分でも気色悪く感じる声色で返事してみた。とても死にたい気分になった。
まぁでもプラスに考えよう。ドキドキメモリーズの秋奈ちゃんもファミレスの従業員だったのだし。その疑似体験をしているのだ。うん、まったく気分は上向かないね。
「次は厨房にご挨拶」
手洗いを終えると、獅々田さんがそう言って厨房へと歩いて行った。手洗いをしている最中に聞いたが、客席から壁一枚隔てたこの場所はパントリーと言うらしい。そしてそこからまた壁一枚隔てた先が、厨房だとのこと。
「こんばんは。獅々田可憐です。今日も一日よろしくお願いします!」
厨房の中へ顔を覗かせながら獅子田さんが朗らかな挨拶をすると、中から「よろしくお願いします」と、返事が聞こえてきた。二人いるようだ。一人は愛猫さんのようである。
「こんな感じで、太田さんもご挨拶をしてみて?」
「あ、はい」
緊張を隠せません。伊達に三年間ゲームに興じてリアルの生活を疎かにしていない。
強張る頬を両手で挟んで震わせる。と、横で獅子田さんが驚いた顔を見せた。
「な、なにをしてるの?」
俺は突き出した唇をそのままに言う。
「発奮してます」
「は、はぁ……」
「よし」
両手を離し、俺は厨房に足を踏み入れた。
「こんばんは! 太田司です! 今日も一日よろしくお願いします!」
「こんばんは。頑張ってね」
着ている物は先ほどと一緒だったが、頭にコック帽を被った愛猫さんが近くにいて、挨拶を返してくれた。その奥にはもう一人女性がいて、簡単な自己紹介をした。愛想の良い綺麗なお姉さんである。改めてこの店舗には女性しかいないのだと実感させられた。
「それじゃあ次はホールを担当している人たちにも挨拶……なんだけど、ホールにいるみたいだからとりあえずパントリーに来るのを待ちましょうか」
そうして獅子田さんとパントリーで待機していると、客席をと繋ぐ中央の通路から一人の少女が姿を現した。
使い終わった食器をこれでもかとこんもり乗せたえんじ色をした円形のお盆が二つ。それらを両手で水平に持ちながら、スタスタと歩いてくるその少女には見覚えがあった。小柄でポニーテール。それだけでも存在感があるが、何より俺の頭に強く印象に残った訳は。
「ん? お前は昨日の」
この不遜な言葉遣いである。小さな体がギャップを生んでいる。
「太田さん、こっち」
「あぁ、すいません」
ちょいちょいと獅子田さんに手招きされて、俺が少女の行く手を阻んでいることに気付いた。客席側の壁際に立つ獅子ヶ谷さんの隣に並ぶ。少女は気に留めた風も無く控室に程近い食器置き場にお盆を置くとこちらを振り向く。
「昨日の今日で早速出勤とは、やる気満々だなぁ。何か要り様なのか?」
「あ、夏こ……夏の衣類を買うお金を稼いでおきたくて」
危ない。夏コミと言うところだった。
まぁ仮に口を滑らせたとしても「はぁ? 夏コミ? 何それ?」と返されるのがオチなんだろう。いくら同人誌即売会として最大規模を誇るイベントでも、パンピーはその存在すら知らない人間も多い。
と、横から視線を感じた。見てみれば、獅子田さんが俺をジッと見つめていて、俺は首を傾げた。
「どうしたんですか?」
「ううん……何でもない」
「はぁ」
直ぐに顔を逸らされた。まさか、バレたか? いや、まさかなぁ……。バレたとしら、声高に「コイツ、男です!」って言われるだろうし、それは無いだろう。
「夏の衣類なぁ。そんなのしまクロで買えば良いだけの話だろ。アホらしい」
しまクロとは超安値でそれなりの品質の衣類が買える全国規模の衣料店である。正直俺も同意見だが、今更引くに引けない。
「まぁ、ファッションなんて自己満足ですから」
「ま、そうだな。少し礼を欠いた言い草だったな。すまない……それで、名前は何て言うんだ?」
「え。服を買うお店ですか?」
ヤバい。男向けの店名ですら知らないのに、女物の店名なんて尚更知らない。聞いたことあるとしても、何とか&何とかぐらいだ。何だっけ。確か、S&Mだったっけ? って何それ。めっちゃ卑猥。
と思っていたら、彼女は首を振った。
「違う。お前の名前だ。店の名前なんて聞いても私は知らん」
あ、なるほど。そう言えば自己紹介がまだだった。
「すみません、申し遅れました。今日からこちらで働かさせていただくことになりました、太田司です。よろしくお願いします」
「太田か。私は立木見不知(たちきみしらず)だ。よろしく頼む」
「立木見さんはここに入って半年しか経ってないけど、物覚えが早くて、大体の仕事は一人でこなせるわ」
獅々田さんの紹介を受けて、立木見さんは鼻を得意げに擦った。
「照れるなぁ。もっと褒めろ」
貪欲だ。
「太田さんも、何か分からないことがあったら、私は勿論、立木見さんにも聞いてみると良いよ。私よりもずっと頼りになると思うから」
「ふへへ。照れるなぁ。でも良いぞ、もっと褒めろぉ」
物凄く貪欲だ。
まるで夢見心地のような、だらしのない笑みを浮かべていた立木見さんだったが、コホンと咳ばらいをすると表情を引き締めた。
「新人。ここで私がありがたいお言葉を授けてやろう。仕事で大切なのは何だと思う?」
「大切なこと、ですか? えーと、そうですねぇ。やる気、根気、いわ――」
言い終える前に立木見さんはチッチッチと舌を鳴らした。
「そういう精神論は聞いていない。全ての仕事において言えることだがな、大切なことは『挨拶』だ。挨拶をされて嫌な気持ちになる人間はいない。これは従業員同士の挨拶は勿論だが、客に対しても同様のことが言える。おざなりな挨拶をされれば、客も不満を感じるものだ。そしてそれはクレームにも繋がる。逆に言えば、きちんとした挨拶さえすれば、多少の不手際があっても、客は許すものだ。無論、不手際なんて無いに超したことは無いが、一応の保険にはなる。その上で客を最優先に仕事をしていれば、接客業は簡単なものだ」
それっぽい内容に、思わず感嘆してしまう。
……だが、どうしてだろう。立木見さんに言われてもまったく説得力が無い。
しかもここで話している間に、客席からは呼び出しベルが引っ切り無しに鳴りだす中、立木見さんは。
「あー、もう、うるさい! 今大事な話をしてるんだ、ちょっとは黙ってろ!」
お怒りだった。お客様最優先は一体どこへ……。
「それでだな。他に大切なこととして『気付き』というものがあってだな」
と、お客さんの呼び出しを無視する立木見さんに対し、獅子田さんが苦笑しながら口を挟む。
「あの、立木見さん? 流石に仕事に戻らないとまずいと思うわ」
「ふむ? そうか? まぁ良いだろう。この続きは後だ。ただいまうかーいまーす」
やる気のない返事をして、立木見さんは客席の方へと戻っていった。と。
「ごめんなさい、太田さん。ちょっと私も手伝ってくるわ。何だったら控室で待っていても構わないから」
返事を待たず、獅々田さんも客席へと向かっていった。
控室へ繋がる扉の上の壁には時計がかけられていて、午後六時前を指していた。夕飯時だ。ここから客足も増えるのだろう。
控室に戻ったところで手振り無沙汰だ。なので辺りを何となしに見やると、食器置き場の近くの壁に紙がかかっているのが目に入った。
どうやらこの食器置き場は下げ台と言うらしい。その紙に描かれていた。そしてその紙には、食器の正しい並べ方と題した手書きのイラストが載っている。
その内容を見るに、食器を洗うのは厨房の仕事だが、皿などの食器を並べたり重ねるのは接客側の仕事のようだ。
丁度、先ほど立木見さんが運んできた食器の重なったお盆が近くに置かれていたので、紙に描かれたイラストを見つつ下げ台に置いていく。
それから暫くの間は、獅子田さんと立木見さんが交互に下げ台にやって来て、皿の乗ったお盆を置いてお礼の言葉を残し、厨房から提供された料理の乗った皿をお盆に乗せてまた客席へと向かっていった。
下げ台は厨房とも繋がっているので、食洗器を動かしに来た愛猫さんにも見つかって、「おー。早速働いているわね。感心感心」と言われたりもした。
時間にしておおよそ二十分。獅子田さんがお盆を持たずに戻ってきた。
「ありがとう。お陰で助かったわ」
「そんな。大したことはしていませんよ」
正直に思ったことを言ったのだが、獅子田さんは黙って俺の顔を見てきた。思わず横を向いてしまう。
「え、えーと。どうかされました?」
「うーん……いいえ。何でもないわ」
「そ、そうですか?」
さっきっから、やたらと見つめられ、心臓がどっくんどっくんと脈打ってしまう。この胸の高鳴りは何だろう? もしかしてこれは、恋? それとも、女装癖のある変態と糾弾されるのが怖くて? ……まぁ間違いなく後者だろう。
獅子田さんはフッと息を零してから気を取りなすように声を上げた。
「さ。これで今日の勤務をしている人との挨拶は終わりだから、次は仕事を始めましょ」
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