第8話
放課後になると、俺は駆け足で家路に着いた。急ぐ理由は、その後に控えたジョニトリーでの初勤務に当たって準備をするため。
じゃあその準備は何かと言えば……。
「昨日も思いましたけど、司は意外に化粧のりが良いでありますね」
彩音が俺の鼻先に吐息をかけながら、パフとか言う化粧道具を顔にパフパフしてくる。カチューシャをつけた俺はなされるがままに化粧を施されていく。
どうして俺がこんな目に。
自然と怒りが募る。
「百面相さんとは違って、いつも素の顔で歩いてるから肌荒れしてないだけだろ」
軽い嫌味を言ってやると、彩音はジト目で「ふぅん」と言い。
「まつ毛を整えるであります。間違って目にハサミを突き刺しても許すであります」
「明らかに許されないミスだろそれ!」
そんなこんなでメイクが終わる頃にはもう出勤時間が間近に迫っていた。
俺はウィッグと肌を過度に露出しない女物の服を着用すると、それはもう誇らしげな、『一仕事終えたぜ』みたいな顔をする彩音に見送られ、ジョニトリーへと急ぎ足で向かった。
「こ、こんにちは、ぜぇ、はぁ」
ジョニトリーの控室の扉を開けると、その場にいた愛猫さんがいた。俺は挨拶をしながら壁に手をついて荒い息を吐く。
「ええ。こんにちは――って、息切れが凄いわね。尋常じゃないわよ?」
「そ、そんなことありませんよ……うぇっぷ」
「えーと、本当に大丈夫?」
手で口を覆いながら、込み上げた胃液を飲み込みつつコクコクと頷く。
「はい、大丈夫です……ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」
昨日の話では、今日から早速勤務を開始するとのことだった。とは言え、いきなり他の従業員と同じ業務をこなせるはずも無いので、当面は先輩の従業員に業務内容を指導してもらうようだ。
まぁ、それならそれ程気を張らなくて済むだろう。と、高を括っていたのだが。
「それは私にじゃなくて、彼女に言って貰えるかしら? 今日から貴方のトレーニングは基本的に彼女に務めてもらうことになっているから」
「彼女……?」
愛猫さんは一つ頷いてとある場所へ顔を向けた。それは、愛猫さんの正面の席。
丁度俺の位置からでは死角になっていて気付かなかったが、控室に一歩足を踏み入れれば、そこに人がいるのが見えた。
「……」
言葉を失った。無意識にひくひくと頬が痙攣する。
気を張らなくて大丈夫、だと? 俺の考えが甘かった。
その人物は俺と目が合うと、朗らかに微笑んだ。
「昨日はちゃんとご挨拶が出来なくてごめんなさい。改めまして、ディナータイムに接客を担当している獅々田可憐です。よろしくね、太田さん」
ジョニトリーの制服に身を包んだ獅々田さんがそこにはいた。
挨拶を返す余裕は俺には無くて、すかさず俺は一歩退き獅々田さんの死角に入った。いくら完璧な女装をしているからと言って、いつバレるか分からんから。生存本能による抗う事の出来ない行動と言えよう。
そしてその場で愛猫さんへ尋ねる。
「え、えーと、俺――じゃなくて、私は、調理を担当するんじゃないんですか?」
しかし愛猫さんは首を斜めにした。
「何のこと? そんな話してた?」
……そう言えばしていない。てっきり、俺の中では調理場に配属されるもんだと決めつけていた。こんな暗くてジメジメしてそうでカビすら生えてチーズみたいな奴を、表に出さないと思っていた。浅はかだった。……ってチーズに謝れ俺。
ともあれ退路は断たれた。今更「調理が良いです!」とは言えない。いや言えるのかもしれないが、そうやって自己主張をする事に俺は不慣れなのだ。流されるようにして生きてきた人生のツケが今ここで支払われた。
俺はゆっくりと深呼吸すると、自決――もとい決意して、一歩を踏み出し獅々田さんへと頭を下げた。
「よろしく、お願いします、獅々田さん……」
すると、愛猫さんが立ち上がり。
「それじゃあ、まずは獅々田さんから制服の着方を教わってもらえるかしら。一応太田さんの見た目に合わせて見繕ったサイズの制服はもう用意してあるから」
愛猫さんが机の上に置かれたそれを指さした。俺はぺこりと頭を下げる。
「ありがとうござ……」
だが、直ぐに事の次第に気付いて硬直した。愛猫さんは首を傾げる。
「どうしたの?」
どうしたもこうしたもない! 机の上に畳まれた制服は、獅々田さんたちが着ているものと同じだった。それがつまりどういうことかと言えば……。
「そ、その、スカートは絶対に着ないといけないんでしょうか?」
「え? そうねぇ、皆スカートを着ているからね。そこがジョニトリーの売りでもあるし」
そう。問題はスカートだった。店長である愛猫さんはスラックスだが、ちらりと机の下の獅々田さんの足を見やる。大変お美しいおみ足を晒されておいでだ。
それに対して俺は彼女ほど綺麗ではなくとも、男の中では綺麗な方(言い換えれば細めで色白)なのかもしれない。
だが……すね毛が生えている。ジャングルである。もじゃもじゃである。いかに顔は騙せたとは言え、すね毛にまみれ、あまつさえ女性的ではない無骨な足を晒せば、流石にバレてしまうだろう。
「そこを何とか、お願いします!」
両手を絡め合わせ、祈るように愛猫さんに懇願した。彼女は「うーん」と困り気に唸ると。
「どうしてスカートを着たくないの?」
「うっ。それは……」
言い淀んでしまう。どう取り繕えばいいものか。
しかし愛猫さんの問いかけに答えたのは、獅々田さんだった。
「良いじゃないですか。この制服だってフランチャイズだからこその特別性ですし、逆に言えばこれを着なくちゃダメだっていう決まりはないですよね? それと今の制度になる前に働いていた男性従業員用のスラックスもお店にあるから、それを着用するのはどうですか?」
「まぁ、それもそうねぇ……」
「じゃあ決まりですね。スラックスは私が用意しておきます。店長はそろそろ厨房に入った方がよろしいのでは? そろそろ上がりの方もいらっしゃいますよ」
言われた途端、愛猫さんは控室にかけられた時計を見ると「あ」と驚いたように声を上げた。
「仕方ないわね。それじゃ、後は頼んだわよ?」
「はい、お任せください」
愛猫さんが慌ただしく控室を出たのを確認して、獅々田さんが俺に向けてウィンクした。
「理由は分からないけど、スカートは履きたくなかったんでしょう? これは、借しよ?」
「え……あ、はは。早く返せるように頑張ります」
理由が分からないと言う事は、獅々田さんに俺の正体はまだバレていないのだろう。
ホッと胸を撫で下ろした俺ではあったが、問題は山積みであった。
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