第3話
「……はっ」
覚醒すると同時に瞼が跳ね、すかさず上半身を起こす。と。
「おはようございますであります」
「……何してるんだ貴様は」
彩音がリビングの椅子に座ったままだった俺の隣に立って、ニコニコと笑いかけてきていた。正直薄気味悪い。
だが、彩音はその顔を崩さない。それどころか。
「気にしなくても大丈夫であります。司の寝顔が可愛いなぁって思って見ていただけでありますから」
こっわ! 未だかつて言われたことの無いことを宣われ、思わず身の危険を感じて跳びはねるように立ち上がった。
「お、起き抜けにおぞましいことを言うな!」
すかさず彩音から距離を置く。と、朱音の背後の壁に掛けられた時計に目が留まった。
「って、もう二時半じゃねぇかよ!」
「ぐーすか気持ちよさそうに寝ていたでありますね」
起こせよ。ふざけやがって。
だが苛立っている暇はない。顔を洗って出かける準備をしなくては。
祝日の昼下がりなのに、平日の朝のように忙しない。ため息交じりに頭を掻く。
と。
「ああっ!」
「あん? 何だよ」
彩音は俺の頭を見ながら素っ頓狂な声を上げた。いちいち喧しいやつである。
だが彩音は直ぐにハッとした顔をして、強張った笑みを浮かべた。
「な、何でもないであります。ただ、司が寝てる間に髪形をセットしたので、あまり弄らないで欲しいなぁって思ったのでありますよ?」
「俺が寝てる間に?」
どんな風の吹き回しだよ。
髪形を触って確かめようとする。が、急に彩音がこちらへ一歩踏み出してきて俺の手を払った。顔は相変わらず作り物めいた笑顔のままだ。
「弄らないでほしいって、言ったであります」
「いや、そんなこと言っても――」
「弄らないでほしいって、言ったであります」
NPCさながらに同じことを告げながら詰め寄られ、俺は後ろ脚を踏んだ。
「わ、分かったよ。分かったから一先ず下がれ」
俺の返事を聞いて、彩音は「よろしいであります」と言って俺から離れた。
調子が狂う。とりあえず顔でも洗って眠気を飛ばそう。
「ちょっと。どこに行くであります?」
「顔を洗いに洗面所に行くんだよ」
「あぁ、それはそれは残念であります。今日はこの辺りで水道管の工事をしてるらしく、夕方まで断水されているそうです」
「は? そんなの初耳だぞ」
「それもそうでしょう。先ほど唐突に作業員の方が訪問してきて言われたのであります。何でも可及的速やかに対応しなくてはならない非常事態らしいであります。ええ」
リビングの掃き出し窓を見る。僅かに開いた隙間から風が入り込み、白いレースのカーテンを揺らしていた。
「……工事って言う割には、外は静かだな?」
「きっと念には念を入れて、まだ水道管を調査しているのでありますよ。ええ」
何の調査だよ。というか、調査段階で長時間断水するもんなのか? 俺も専門家では無いし、どういう工事をしているのかなんて知らないから、その辺の事情は知らないのだが。にしても。
「なぁ。何か企んでないか?」
「ぎくっ」
笑みを凍らせた彩音に、俺は半目を向ける。
「さっきっから、俺が何かしようとする度に止めてくるじゃんか。何らかの意図を感じるんだが?」
「そ、そうでありますか? 気のせいではないですか? あ、ですけど、あれでありますね、あれ。今日こそ面接に受かってほしいと思っているから、思わず口を挟んでいるのかもしれないであります」
あははー、と白々しく聞こえる笑い声を上げる彩音に、俺はどこまでも疑いの眼差しを向ける。
「ふーん……」
「そんな怖い顔しないでほしいであります。それより、もう直ぐ行かないと間に合わなくなるでありますよ」
「ん? あぁ、確かにそうだな」
無駄話が過ぎたな。さっさと準備しなくちゃ。
一先ず着替えるために自室に戻ろうとしたが。
「はい、どうぞであります」
と言って、彩音がテーブルの上に置いていた紙袋を差し出してきた。
「何だそれ」
「着替えであります。いつも通りコーディネートしてあるであります」
俺は出不精な上にファッションに無頓着だ。なので衣類も殆ど自分で買わないのだが、そんな俺に代わって彩音が服を見繕って買ってきてくれるのだ。
曰く『仮にもモデルの兄なのだから、ちょっとはセンスある服を着てくれないとこっちが困るのであります』だそうだ。
「ありがとう」
俺は紙袋を受け取り、自室へと引き上げた。
それから五分にも満たない内にリビングへと戻って来たのだが。
「何か、今日の服は随分と、だぼっとしてないか?」
まだリビングにいた彩音に言いつつ、俺はネイビーのTシャツの胸元を摘まんで、パタパタと空気を中に送った。
「夏も始まるので、ぴっちりした服よりそちらの方が涼しいかと思って。――あ、ジーンズはちゃんとロールアップしてほしいであります」
そう言って彩音は俺の前に跪き、僅かに色あせたブルージーンズの裾を捲り出した。
やけに甲斐甲斐しい。ここまでされた覚えは今まで無いぞ。
「出来上がりであります、って、何でありますかその顔は。臭そうな顔であります」
立ち上がり俺の顔を見るなり、彩音が頬を膨らませた。
「それを言うなら胡散臭いだろ。面接前なんだから無駄に俺のメンタルを削りに来るな。それより、いつもこんな面倒見ないくせに何のつもりだ」
「それはさっきも言ったであります。面接に受かって欲しいのであります。というわけで、はい。履歴書であります」
テーブルの上にあった封筒を彩音は差し出してきた。確か俺は無造作に履歴書のみを置いていた。封筒には入れていなかったはずだが。
「どうも」
とは言え、封筒に入れてあった方が持ち出しやすい。ここは素直に受け取っておこう。
と、彩音は俺に近寄ると髪の毛へ手を伸ばしてきた。
「まったく。ちょっと崩れちゃったでありますよ。直してあげます。それと、ちゃんと面接の時のコツは覚えてるでありますか?」
俺が眠る前に言っていたあれか。
天井を仰ぎながらそれを思い出す。
「アニメ、ゲームの話題は出さない。きちんと敬語で話すこと。一人称は私。それと……何だっけ?」
「高めの声で話すこと」
「あぁ、それだ」
彩音は俺の髪から手を離し、そのまま距離を置いて俺を上から下まで何だかじっくりと眺めてきやがる。そして不意に微笑んで一つ頷いた。
「完璧であります。これで心置きなく送り出せるでありますね」
「そりゃどーも。と、もう時間も差し迫ってるし、俺は出かけるぞ」
「見送るであります」
封筒を片手に玄関へと向かう。と。
「靴はそれを履くであります」
そう言って指し示したのは。
「随分と派手な色をしてるな……」
ビビッドカラーの赤を基調としたデザインのスニーカーが二足玄関に並んでいた。俺なら死んでも買わない代物だ。
「差し色でありますよ、差し色。ええ」
「はぁ」
わざわざ用意しておいてくれた物に文句を言うのも気が引ける。俺は大人しくそのスニーカーを履いて玄関を開いた。
「行ってらっしゃいであります。期待してるでありますよ?」
「あぁ。程々に頑張るよ」
手を振る彩音に微苦笑で返し、俺は玄関を閉めた。
後ろを向けば、お天道さんがメラメラと空の向こうで燃えていて、こちらのやる気を全力で削ぎに来ていた。
物凄く帰りたい衝動に駆られたが、無情にも玄関の鍵が閉まる音が聞こえた。
ただ、そうでなくても帰るわけにはいかないだろう。彩音に色々と準備をしてもらい、期待まで寄せられているのだ。ここでおめおめと逃げ帰れば、きっと呆れられてしまう。千春ちゃんに。
「行きますか」
自らに発破をかけるように呟いて、俺は歩き出した。
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