第5話(最終話)

 熱いサッキ茶の入った茶碗を三つ、サロアが私たちの前に置いた。

「ゴルカン、あんたは酒のほうがいいかい?」

 薄暗い〈彩雲亭あやくもてい〉のなかで、サロアは小声で訊いた。

「なあ姐さん、俺には訊いちゃくれねえのか?」

 ザンピロが見上げると、サロアは肩をすくめて厨房へと戻った。

 真夜中を一刻以上も過ぎていた。

 私が〈彩雲亭〉の扉を叩いたとき、サロアはいささかの疑問を差し挟むこともなく、私たちを店内へと迎え入れてくれた。「フィエルを起こしたら承知しないよ」と忠告しながら。

「これからどうすりゃいいんだ?」

 ヘスクスが頭を抱えながら、「俺にもコルメ酒をくれ」とつぶやき、椅子の上でへたり込んだ。

 私は、ふてぶてしく椅子に身を預けるザンピロに向き直った。

「いい加減に話してもらおうか。イルルーサが斬られたとき、あんたはすぐ近くにいたな」

「イルルーサ? そんな女は知らねえな。抱いた女の名前なんて、いちいち覚えちゃいねえよ」

「とぼけるな。ルフゥやエッレイたちの朋輩ほうばいで、同じ〈緑月楼りょくげつろう〉で働いていた娘だ」

 そう言うと、ザンピロの眉がぴくりと動いた。ヘスクスがはっと椅子から飛び降り、怯えたように後ずさった。

「おいザンピロ、まさかてめえ……!」

 私は続けた。

「安心するんだ、ヘスクス。ザンピロは下手人じゃない。逆だ。そうだろう? あんたは下手人を追って、このサンナ村に来たんだ」

 私の言葉にザンピロは肩をすくめた。

「酒がねえと話せねえなあ」

 まさにそのときに、サロアが私たちの前の飯台に、三つのコルメ酒を満たした茶碗を載せた盆を、無言のまま乱暴に置いた。

 ザンピロは舌打ちしながら茶碗に手を伸ばし、一気に半分ほどあおった。

「ルフゥは俺の妹だ」

 ザンピロは静かに言った。

「ルフゥの仇を討つために、サンナに来たのか?」

「いや、そんなつもりはねえはずだった……おい、飲まねえならもらうぞ」

 ザンピロは私のぶんのコルメ酒の茶碗を取ると、とつとつと話し始めた。


 ザンピロと七つ歳下の妹、ルフゥはフィゴブ村の貧しい家に生まれた。小さな畑を守っていた両親は彼らが幼いときに二人とも亡くなり、兄妹だけ身を寄せ合って暮らしていた。

 そして三年前、ルフゥが家を出て行った。

「あいつは言いやがったんだ。『もうこれ以上、お兄ちゃんに迷惑かけられない』なんてな。ふざけやがって……まだ子どものくせに!」

 ザンピロは顔をしかめ、コルメ酒をあおった。

 ザンピロは、ルフゥが娼婦として体を売って生きようとしていることがわかっていた。ザンピロは、失踪した妹を探した。フィゴブ村を飛び出し、北西部各地の村々へ向かった。

 ザンピロが村を出たちょうど直後だった。フィゴブ村の小人族オゼット娼婦が相次いで襲われるという事件が起きた。三人が残虐な方法で斬られて凌辱され、一人だけが生き残る人斬り事件が勃発したのだ――それをザンピロが知ったのは、もっと後のことだった。

 用心棒やゆすりまがいの汚れ仕事に手を染めながら、ザンピロは妹を探して北西部各地の村々を放浪した。が、結局ルフゥを見つけることはできなかった。

 失意のまま、ザンピロはフィゴブ村へ戻った。そこで彼は、小人族オゼット娼婦連続殺害事件の話を聞き、戦慄した。ザンピロは、惨殺されたフィゴブ村の娼婦の友人と知己だったのだ。彼女から「ルフゥが隣村のサンナ村にいるかもしれない」との噂を聞きつけた。各地を放浪していたらしいルフゥは、故郷にほど近いサンナ村へ戻ってきたのだ。

 ザンピロは急遽、隣のサンナ村へと向かった。

 が、彼がルフゥと再会することは叶わなかった。


「確かに俺は妹に苦労ばっかりかける、ろくでもねえ兄貴だった。けどな、ようやく心を入れ替えたときには、その妹が斬り刻まれちまったんだ!」

 ザンピロは茶碗を眼の前に叩きつけると、うつむいて慟哭に体を震わせた。

「あんたは、イルルーサが襲われたときに〈緑月楼〉にいた。そして、私と剣を交えた。なかなかいい腕だったよ」

 私が言うと、ザンピロは険しい顔を上げた。私は続けた。

「あんたは〈緑月楼〉の妓を守ろうとしていた。そうだろう? 妹のルフゥの死を知り、サンナ村でも次の犠牲者が出るのではないかと考えた。殺しの下手人を捕まえる――あるいは斬るために、〈緑月楼〉を見張っていたんだ」

 ザンピロは私の分のコルメ酒を飲み干すと、 大きくため息をついた。

「さてと、どうする? 俺をしょっ引くか? ふん縛って黒帽隊に引き渡すのか?」

 ザンピロが挑むような視線を向けた。

 そのときだった。ヘスクスが不意に「しーっ!」と声を漏らした。

「そ、外から足音が聞こえるぞ。おいおいゴルカンよ、やつらに尾けられたんじゃねえのか?」

 私とザンピロは同時に剣を抜き放った。

 出入り口の扉へ先に取りついたのは私だった。確かに足音と小声が耳に届いた。

 扉に外から手がかけられる音と同時に、私は一気に扉を押し開けた。同時にザンピロが剣を上段に構えて飛び出す。

 扉の外の相手が、きょかれて尻餅を着いた。

 ザンピロが剣を振り上げる腕を、私はかろうじて摑んだ。

「斬るな、面倒なことになる」

「もう充分すぎるほど面倒だぜ」

 ザンピロが吐き捨てる。

 倒れているのは若い黒帽隊員だった。制服が乱れている。私ははっとした。

「エンデイス、あんたか?」

 私は言った。イルルーサが斬られた夜、負傷した黒帽隊員だ。エンデイスはおそるおそる体を起こした。彼は、あえぎあえぎ言った。

「ゴルカンさん……じきに隊の者が来ます。黒帽隊はゴルカンさんの身辺や行動の範囲を全部把握してるんです。この店のことも、隊の書類に載ってますよ。黒帽隊が来れば、その隊員を追いかけて、村の暴徒たちも追ってくるでしょう」

「とっくに黒帽隊をやめたと思っていたよ。わざわざ警告に?」

「ゴルカンさんには、恥ずかしいところを見られてしまいました。けど、俺にも意地みたいなものがあるんですよ。今度はちゃんと役目を果たします」

「きみの役目は、黒帽隊のために働くことだよ。私たちを捕まえるなり、斬るのが、きみの仕事だ」

 エンデイスはかぶりを振った。

「信じてもらえないかもしれませんけど……俺だって……俺だって村の平和を願って、黒帽隊に入ったんです! 黒い帽子を笠に着て、いばり散らすやつらと同じにして欲しくないですよ」

 エンデイスは絞り出すように言い、幼さが残る眼で私を見上げた。

「どうやらここも安全じゃねえようだな、ゴルカン」

 そう言いながら、ザンピロは身支度を始めた。

「どこへ行くつもりだ? あてなんかないだろう」

「これ以上、あんたの馴染みの店を燃やしちゃあ、申し訳ねえ」

 ザンピロは言い、立ち上がった。

「おいおい、ザンピロ! 〈ともがら〉の俺も連れてってくれ! もう〈クトラシア〉はなくなっちまったんだ」

 悲痛な声を上げたのはヘスクスだった。

「ヘスクス爺、あんたにゃ感謝してる。だけどな、俺は尻尾巻いてサンナ村から逃げるつもりはねえぜ。ルフゥを殺した野郎に一太刀浴びせねえと、どうしても気が済まねえ」

「だ、誰なんだ、そいつは?」

 ヘスクスが問うたが、ザンピロは渋面を作ったまま肩をそばめた。

「それがわかりゃ苦労しねえや。サンナ村の〈ともがら〉嫌いの連中だろう。連中をみんな、ぶった斬ってやるのさ」

 扉に手をかけたザンピロの背中に、私は言った。

「とぼけるな、ザンピロ」

「何いっ?」

「あんたは下手人を知ってるな? 誰なんだ、ルフゥやほかの娘たちを殺し、傷付けたのは?」

「だから言ったろう? サンナのくそったれどもさ。トトラク爺の店に火付けした酒屋の若造と取り巻き連中かもしれねえ。菓子屋のおやじかもしれねえ。どっちにせよ、同じクソだ。全員叩っ斬ってやる」

 私はザンピロの肩を摑んで振り向かせた。

「嘘が下手だな。そんな戯言を誰が信じる? 娼婦殺しは昨年、フィゴブ村で始まっているんだ。もしかしたら、ほかの村でも同じような事件が起きているかもしれない。明らかに、殺しを楽しんでいる一人の狂ったやつによる事件だ。黒帽隊は信用ならないが、下手人は黒帽隊に渡す。いったい下手人は誰だ?」

 沈黙が落ちた。

「……知りたきゃ、俺と来な」

 諦めたように、ザンピロは答えた。

「なぜ教えない?」

「当たり前だろ? 俺は野郎を叩っ斬る。それも一撃で殺したりはしねえさ。ルフゥやほかの娘たちが味わった苦しみを、何倍にもして返してやる。1アークルごとに斬り刻んでやるのさ。トーニット神も嘆く石頭の貴様は、そんな大邪鬼イノグルゥの所業を許しやしねえだろうがな」

「無論だ。あんたを止めるためにも、私は一緒に行く」

 そう言うと、ザンピロは哀しげな笑い声を上げた。

「ははっ、酔狂な野郎だぜ、〈灰色の右手〉ってのはな。そう言うなら、来な。ただし言っとくが、俺は戻る気はねえぜ。黒帽隊にもサンナ村の連中にも追われることになる。貴様も戻れねえぞ」

 私はうなずいた。

「腹をくくるさ」

 そう言うと、私はエンデイスを振り返った。

「エンデイス、きみには感謝してる。今のうちにここを出て、隊に戻るんだ。今ならまだ間に合うだろう」

「い、いや、俺もお手伝いします。絶対、足手まといにはならないです!」

 私はザンピロを一瞥した。ザンピロは肩をすくめて見せた。エンデイスの顔に喜色があふれた。

 ザンピロは私を見上げ、静かに言った。

「俺と兄ちゃんは、〈なか道〉を東に向かう。俺の勘が正しければ、黒帽隊に吊るされたり、村のやつらに火炙りにされる前に、ルフゥを殺した気違い野郎をぶった斬ることができるはずだ。野郎は今、人斬りをしたくて悶々としてるはずだからな」

「下手人の居所を知っているのか?」

「いや、しかし、緑月が出るのは今夜までだ。明日は新月だ」

「緑月? 何が言いたい?」

 私が訊くと、ザンピロは冷ややかな目線を私に返して来た。

「〈灰色の右手〉、あとから追いかけて来な。あんたには、まだやらなきゃいけねえことがあるみてえだぜ?」

「何だって?」

 ザンピロは私の背後の暗がりに指先を向けると、不意に背を向けた。そしてエンデイスを引きずるようにして、素早く〈彩雲亭〉の扉を抜けた。私が追いかける間もなく、彼らは夜の闇の奥へと、姿を消してしまった。

「もう行ってしまうの、ゴルカンさん?」

 そのときだった。私は背中に声を聞いた。振り返った。

 二階につながる階段の暗がりに、華奢な人影があった。フィエルだった。その彼女の細い肩を、隣に立つサロアがしっかりと抱いている。

「ごめん……起こしてしまったね」

「ゴルカンさん、どこかに行ってしまうの? もう戻って来ないの? そんなの、あまりに急過ぎる……」

 フィエルの声は震えていた。

「ごめん、必ず戻ってくるとは約束できない。この村も少しずつ変わり始めているんだ。私がこの村に流れ着いた八年前とは違う」

 そう答えると、サロアが怒った口調で割り込んだ。

「冗談じゃない。村のせいにすんじゃないよ、ゴルカン! あんた、逃げようってんだろ? あたしはさ、あんたと違ってこのサンナで生まれ育って、村から出たことなんかない世間知らずさ。だけどね、客商売が長いからこそ、わかるんだよ。客の――村の連中の質がおかしなことになっているってことはね。だからって、あたしは村から逃げ出したりはしないよ! 逃げることなんて、できやしないのさ」

 私は黙ったまま、サロアに頭を下げた。

 不意に、フィエルが私に駆け寄って来た。そっと私の顔に手を伸ばし、指先で私の焼けただれた頬に触れた。

「ゴルカンさんばっかり、ずっと傷ついてる……」

 フィエルが涙声で言った。

「そんなことはないよ。ただ、私が不器用だっただけだ。でも不器用なわりに、運がいいんだ。火傷の傷跡は残るかもしれないが、今度も死なずに生きている」

「あんた、約束したはずだよ。フィエルを絶対に泣かせないって」

 サロアが怒った口調で言った。

 そのときだった。フィエルがひとりごちた。

「〈大樹の剣〉……」

「何だって?」

 思わず私は、フィエルの両肩を摑んでいた。フィエルが痛みと驚きの表情で私を見上げた。

「ごめん……〈大樹の剣〉とは何のこと?」

「火傷の薬だけど……ゴルカンさんの顔に塗ってある薬って〈大樹の剣〉なのかなって。同じ匂いがするの」

「匂い? どんな記憶があるのかな?」

 フィエルは少し安心した表情になった。

「ちっちゃい頃、わたしが熱いヴォント麦のお粥を足にこぼしてしまったことがあったの。わんわん泣いてるわたしの足に火傷の軟膏を塗りながら、おばあちゃんがお話ししてくれたのを、いきなり思い出しちゃったんだ。五千年前に地上にいた〈泥濘の民〉が武器として使ってたのが、火傷に利く薬草の〈大樹の剣〉の大きくて鋭い莢なんだって。もちろん〈泥濘の民〉なんて、火吹き巨龍や人喰い鬼みたいなお伽話とぎばなしだけど……」

 フィエルの肩を摑んだ手に、我知らず力が込もった。

「ゴルカンさん……?」

 ルフゥ、エッレイ、イルルーサ、ミグナル――殺され、傷つけられた女たち。

 大樹の剣――森の匂い。

 予言師フピースは言っていた――癒しの具すら、戦に使う、と。

「フィエル、きみのおかげだ。過ちをただすよ」

 私は言った。

 そして私はサロアに向かってうなずいた。そして〈彩雲亭〉の扉を押し開け、晩秋の夜気の中に駆け出した。


 緑月の淡い光が、辺りをぼんやりと照らしている。〈緑月楼〉が、薄い影を叢の上に落としていた。日の出まで、まだ一刻半(約三時間)ばかりある。そんな刻限でも〈緑月楼〉のいくつかの窓には橙色の灯りがまたたいていた。

 私が到着したとき、周囲は静寂に包まれていた。今の季節、もはや夜に鳴く虫もいない。北側に広がる森から、かすかにクロヤリミミズクの声が聞こえてくる以外は、まったくの静寂だった。

 腰の剣の柄に手を置いた。ゆっくりと〈緑月楼〉本館を回り込んだ。いつも敬語しているはずの黒帽隊員の姿が、誰一人見られない。ザンピロとエンデイスの姿もなかった。

 東側に建つ離れに向かおうとして、私は歩を止めた――人の気配。息を潜める。体勢をできる限り低くした。緑月の光を反射しないよう、ゆっくりと剣を抜いた。

 本館から離れにつながる渡り廊下。ちょうど中程に小さな人影があった。寒々とした晩秋の夜気の中、薄手の花柄の上っ張りを羽織っている後ろ姿が見えた。イルルーサはまだ怪我に伏せっているはずだ。なら、今〈緑月楼〉にいる小人族の娼婦といえば、エッレイだろうか。

 小さな人影がぴくりと頭を上げた。と同時に、私の耳にもかすかな空気の動きが感じられた。

 〈緑月楼〉本館の南側を回り込むようにして、一つの影が近づいていた。右腕が異様に長く見えた。いや、長い得物えものを手にしているのだ。

 私は駆け出した。

 影は俊敏に動いた。私が到達する前に、軽々と身を翻した。と同時に、伸ばした腕に摑んだ得物が生きているかのように私に向かって飛び出してきた。

 かろうじてかわす。剣を突き出した。手応え。しかしそれは刃同士がぶつかるのとは違っていた。まるで木の幹を斬ったような感覚だった。剣を構え直す。もう一度、突きを入れる。影がひらりと体をかわした。月明かりの陰へと逃げ込もうとしている。

 影を追った。相手は思いの外、俊足で敏捷だった。離れの北側に走り込む。

 と同時に、風圧。

 かわした。両手で剣を構える。第二撃――跳ね上げた。黒い影から、すさまじい勢いで突きが何度も繰り出された。おそろしいほどの遣い手だ。私の剣は、影には届かなかった。

 次の刹那、左の二の腕に激痛が走った。斬られた――いや、剣の傷ではない。もっと冷たい痛みが指先まで走った。

 眩暈。オオガマの毒槍の舌に突き刺されたときのように、あるいはそれ以上の衝撃が私の全身を貫いた。激痛に耐えかね、地面に膝を着いた。

 頭上に、重い風圧――かろうじて跳ね上げた。影の次の攻撃。地面を転がって避けた。影からの突き、突き、さらに突き――その懐に向かって私は跳躍した。体当たりする。影がよろめいた。その隙に剣を下段から斬り上げる――肉を断ち斬る感覚。

「げえええっ!」

 影の悲鳴が夜の空気を切り裂く。

 さらに上段から斬り下げる――はずだった。

 手応えが、ない。

 私は遅かった。

 影は傷を負いながらも、驚くべき速さで私の背後に回っていた。

 私が振り返るのと、影が得物――巨大な細長い植物の鞘を突くのは同時だった。

 細かいトゲが密生し、鋭く細長い剣のような植物のさやだった。長剣よりもさらに長く、一・五倍ほどの長さがある。緑月の明かりを浴び、それはまがまがしく紫色の光を放っていた。

 邪悪な刃が、私の右脇腹をえぐった。

 氷のように冷たい激痛が、私の脳天まで達した。剣を振り下ろしたつもりだったが、宙を斬るだけだった。急に全身から力が抜けた。手から剣が滑り落ちた。冷たい土の上に倒れ込んでしまった。

 暗がりのなか、影が歯を剥くのがかろうじて見えた。それは笑みなのか、苦悶なのか。

 次の刹那だった。

 影が眼を見開いた。口を大きく開き、舌を伸ばしていた。

 その腹から、長剣の切っ先が突き出している。まるで幽鬼でも見たかのように、影は驚きの表情であえいでいた。

 さらに、次の瞬間だった。影の口元が歪んだ笑みを形造った。この地上界のすべてを嗤うかのように。

 一瞬遅れ、その口からごぼっと黒い血が吹き出した。手にした紫色の細長い莢を振り上げる。大邪鬼のごとき形相で私をにらみつけながら、影は凶器の莢――〈大樹の剣〉を高々と振り上げた。

「アシンベク……なぜだ?」 

 地面に横たわる私が問うのと間髪入れずに、新たな風が起こった――花柄の着物。

 一瞬ののち、〈大樹の剣〉と呼ばれた火傷の薬草、ツルギロカイの細長く鋭い紫色の莢を構えたアシンベクの両腕が、消えた。いや、消えたのではない。肘で断ち斬られた両腕が、宙に飛んだのだ。

 アシンベクは夜空を見上げ、猛獣が咆哮するかのように口を大きく開いた。が、もはやそれは声にはならなかった。

 切断されたアシンベクの両腕が、ぼとりと地面に落ちた。それは、まだ赤紫色の巨大で尖った植物の莢を摑んでいた。同時に、その向こうでアシンベクの体が地面にくずおれた。


「よくやったじゃねえか、兄ちゃん」

 女物の着物をまとったザンピロが、暗がりに向かって言った。ぶるぶる震えながら現れたのは、エンデイスだった。彼が背後から剣でアシンベクの胴を刺し貫いたのだった。

「お、お、俺……人を、さ、刺して……」

 あえぎあえぎ言うエンデイスに向かって、ザンピロは毒の混じった笑みを見せた。

「ああ、その通りだ。おまえさんの手は血にまみれた。剣を持つってのは、そういうことだぜ」

 エンデイスは、急に腰を抜かしたかのように、地面にしゃがみ込んだ。

 ザンピロは、地面の上で痙攣するアシンベクに向かって、嫌悪の表情を向けた。

「今すぐ、てめえの喉首を掻き切りてえ。が、そんなに楽に死なせるかよ。ルフゥの分まで……今までてめえが殺した娘たちの分まで存分に苦しんで苦しみ抜いて、バラドール神に焼き殺されるよう泣き叫びながら懇願するまで、てめえは生き続けろ」

 ザンピロは吐き捨てた。

 横たわるアシンベクは、ひくひくと体を震わせながら、唇のあいだからかすかな呻き声を「ごぼごぼ」と漏らしつつ、怒りとも恐怖とも憎悪とも見えぬ面持ちで、ザンピロの顔を凝視していた。

「なあ〈灰色の右手〉、あんたは、貧乏くじしか引かなかったな。面白えほど気の毒だ」

 ザンピロがにやりと笑いながら、私に向かって腕を伸ばした。私は彼の手を握り、立ち上がった。

 剣で上衣を細く切り裂き、左の二の腕の傷に巻きつけると、強く縛った。止血はできたはずだ。かなり血を流したが、気を失うほどではない。

「アシンベクが下手人だと、いつわかった?」

 私は訊ねた。

「フィゴブ村ですでに、当たりは付けてたさ。人斬りが、緑月が出てる夜に限るのには気づいてた。ルフゥが殺されたのも上弦の緑月の出た夜だった。この野郎は、二人も殺し損なってる。どうしても殺したくて殺したくて、うずうずして辛抱できねえだろうってことはわかってた。緑月が出る最後の機会は、今夜しかねえ。きっとやると思ってたんだ」

 私は顔を上げた。〈なか道〉のほうからざわめきが聞こえた。

「村の暴徒か……?」

 私がひとりごちると、エンデイスが言った。

「黒帽隊です。ザンピロさんに命じられて、ここに来る前にギンセラ隊長に報告して来たんですよ、火付けの下手人のことを」

 そう言ってエンデイスは、ようやくこわばった笑みを見せた。

「さて、と。俺はずらかるぜ。この気違い野郎が命乞いして泣き叫ぶところを見届けてえが、そんな時間はねえようだ。〈灰色の右手〉、来るか? それとも、まだこの腐り切った村に残るつもりか?」

 ザンピロは言いながら、痙攣を続けるアシンベクの上衣で剣をぬぐい、鞘に収めた。

 私は近づいてくる松明と手提てさげ灯のまたたきを見やった。ちらちらと揺れる橙色の光が、徐々に明るさを増して近づいている。

 ザンピロは肩をすくめた。

「やっぱり酔狂な野郎だ。これからもおまえは独り、貧乏くじを引き続けることになるぜ」

「覚悟してるさ」

「もう二度と会うことはねえだろうな」

「そう願うよ」

「憎たらしい野郎だぜ。達者でな、ゴルカン」

 そう言うや、足元のアシンベクに一瞥を向けると、ザンピロは北の森のほうへと駆け出した。

「待て、ザンピロ!」

 私は声を放った。

 ザンピロは私に背を向けたまま、つと立ち止まった。そして、彼はふたたび剣を抜いた。

 私は言った。

「ミグナルを殺したのは、あんただな」

 ザンピロは私に背中を向けたまま、動かなかった。

「だとしたら、どうする? 俺を斬るか?」

 ザンピロが、剣の柄を握る手に力を込めるのがわかった。

 私は地面でうめくアシンベクを一瞥した。そして、続けた。

「手柄を横取りさせてもらうよ。あんたはここにはいなかった。あんたがサンナ村に足を踏み入れたこともない。私とエンデイスで、狂った人斬りの香水売りを斬った。それだけだ」

 ザンピロは、ゆっくりと剣を収めた。

「あばよ、つまらねえことでくたばるんじゃねえぞ、ゴルカン」

 ザンピロは背を向けたまま、言った。

「あんたも、死ぬなよ、ザンピロ」

 黒帽隊員たちのざわめきが、さらに近くに聞こえた。灯りのまたたきがさらに明るくなっている。

 ザンピロは身を翻した。そして一瞬の後には、緑月の淡い光のなか、小さな影が森の奥の深淵へと消えた。


 アシンベクは、その後、五十余日間も生き長らえた。

 黒帽隊のギンセラ隊長は、即、アシンベクの首を刎ねようとした。が、〈緑月楼〉のラナディウや医師のユーリパがそれを頑なに許さなかった。アシンベクは毎日毎日、熱に浮かされて意味不明の言葉を叫んでいたという。バラドール神への懇願だったのかもしれない。ユーリパが驚いたのは、アシンベクの吐いた呪詛の言葉だ。すべての神々を呪いながらも、たった一人だけ女の名前を呼んだという――ミグナルの名前を。切れ切れにアシンベクは、ミグナルとの関係をうわ言のように漏らした。

 最期の夜、アシンベクは満月の赤月が照らす空に向かって獣のように吠え、身をよじって息絶えた。死後に検屍したユーリパによれば、身体中の骨がボロボロに折れていたらしい。

 トトラク爺の家に火付けしたとがによって、黒帽隊は十五人の村人を捕縛した。主犯格である〈樹氷庵〉の三代目店主は、黒帽隊詰所前の広場で、衆人環視のなか縛り首となった。残りの十四人はいずれも百叩きか鞭打ちの刑を受け、全員がサンナ村から追放になった。そんななか、私を襲った菓子屋の親父は、納屋で自ら首を括った。


 ヘスクスは、常連客からの支援も受けつつ、店を再建しようとしていた。私も慣れない大工仕事に駆り出された。が、肩から包帯で腕を吊った状態では、ほとんど手助けにならなかった。

「ゴルカンよ、腹ん中に飲み込んだまま、誰にも話さないつもりかい?」

 秋が去って冬が近づく頃だった。新しい〈クトラシア〉を建て直している現場で、ヘスクスは私を見上げて言った。以前の〈クトラシア〉よりも二回りほど小さくなった店には、ようやく外壁の最初の一枚が取り付けられたところだった。

 大人族コディーク三人、小人族オゼット五人という素人大工たち――かつての〈クトラシア〉の常連客だ――が、最後の一本の釘を打ち終えて、笑い声を漏らしていた。外壁を見ながら、私は言った。

「何を勘繰ってる?」

「ザンピロを逃したわけを聞かせな。本当は、野郎も人殺しなんだろう?」

「私だって、人を斬ったことがある。何人も」

「とぼけなさんな。血の匂いは、ちゃーんと嗅ぎ分けることができるんだ。あいつは凶状持ちだった」

 ヘスクスは黄色い歯を剥いてにやりと笑った。

 ザンピロは、確かにミグナルを斬り殺した。

 その事実をおそらく、黒帽隊のギンセラ隊長も気づいている。

 ルフゥを〈緑月楼〉に紹介したのはミグナルだった、とエッレイは私に語っていた。そのときミグナルがどんな思いだったのか、私にはもはや知るすべもない。ルフゥは〈緑月楼〉でいつしか一番人気となっていた。ミグナルはそんなルフゥに嫉妬したのかもしれない。

 薬草売りのアシンベクは、いつしかミグナルと心を通わせるようになっていた。それは決して男と女の関係ではなかったようだ。それには楼主のラナディウも薄々気づいていた。どういった経緯で二人の奇妙な関係が育まれたのか、それは誰にもわからない。

 当事者がみな死んでしまった今、もはや誰にも真相はわからない。以下は、私の推測に過ぎない。

 ミグナルとアシンベクの二人は、人を傷つけて快楽を覚えるという倒錯した邪悪な欲望を共有していたのかもしれない。

 ミグナルは、底辺の暮らしから救った恩人であるはずの自らを超えて〈緑月楼〉の一番人気の娼妓しょうぎとなったルフゥに、いつしか殺意を覚えるようになっていたのかもしれない。そして彼女は、ルフゥを殺すよう、アシンベクに頼んだのだろう。

 おそらくそのとき、アシンベクの心のタガが外れたのだ。彼の心のなかに巣食っている闇が一気に噴き出したのかもしれない。

 アシンベクはルフゥを殺した後、邪悪な欲望のままにエッレイを襲い、イルルーサを襲った。いちばん恐怖したのはミグナル自身に違いない。ミグナルはアシンベクを操っていたつもりで、もはや彼は手に負えない怪物と化していた。ミグナル自身も、アシンベクの狂気を止めようとしていたのかもしれない。

 かもしれない、ばかりだ。

「しかしおまえも損ばかりしてるな。傷だけが増えてくじゃねえか」

 ヘスクスは、包帯でぐるぐる巻きの私の左腕を小突いた。

 アシンベクの得物であるツルギロカイの莢に斬られた傷は、思っていた以上に深かった。ユーリパの手当てで今はもう傷はふさがったが、まだ疼痛が腕全体に残っている。ユーリパが言うには、痛みが完全に消えることはないらしい。

「熱いお茶をどうぞ」

 茶碗を載せた木の盆を、フィエルが差し出した。私とヘスクスが受け取ると、フィエルはほかの素人大工たちにも茶碗を運んで行った。とそのとき、すぐさま私の隣に一つの人影が近づいてきた。

「なんだ、酒ではないのか。つまらんの」

 襤褸ぼろをまとった予言師のフピースだった。

「くそっ、乞食風情がこんなところまで現れやがって!」

 ヘスクスが毒づいた。フピースは黄色い歯をむき出して笑った。

 私は、まだ三割ほどしか仕上がっていない、新しい〈クトラシア〉の店舗に眼を向けた。

「ゴルカンさんが村にいてくれて、よかった」

 盆を胸に抱きかかえるようにして、フィエルが私のすぐ隣に戻ってきた。

 初冬の空は、暗灰色だった。

 ――まだこの腐り切った村に残るつもりか?

 あの夜ザンピロは、私にそう問いかけた。

「そう、まだしばらくは、帰る場所はここだけだよ」

 私はつぶやいた。

 冷たい牡丹雪が舞い散り始めた。空は、ますます暗さを増しつつある。


「緑の夜の刺客」完

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緑の夜の刺客/〈灰色の右手〉剣風抄 美尾籠ロウ @meiteido

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