第3話

 遠くからでも、夜空が赤く染まっているのが見えた。

 東西にサンナ村を貫く街道〈なか道〉の南側に並行に走る〈市場通り〉の東端で、炎が上がっている。

 燃えているのは、古びて、小さな店だった。二階建てで、間口も奥行きも狭い。〈市場通り〉沿いではあるものの、寂れた一角だった。荒地や空き家のなかで、細々と営んできた店のようだった。炎が噴き出し、邪悪な生き物のように荒れ狂っていた。

 十四、五人の村人たちが、店を遠巻きにして眺めている。さらに、五人ほどの黒帽隊員もいたが、彼らもまた腕を組んで炎を見上げているだけだった。手に手桶を提げている者も何人かいた。しかし粗末な木造の店舗兼住宅に向かって、消火に加わろうとする者はいない様子だった。

「おい、住人に怪我は?」

 ワーガスが野太い声で怒鳴ると、立っている黒帽隊員たちが一気に直立不動になった。

「はっ、こ、こちらに……」

 一人の黒帽隊員が言いかけるや否や、白髪頭の小人族オゼットの初老の男が、必死の形相でワーガスにしがみついて来た。

「頼む! 孫が……孫がまだ二階にいるんだ! 誰も聞いちゃくれねえんだ。黒帽隊の旦那、助けてくれ!」

 一人の黒帽隊員が、男を引き離した。ワーガスは燃え盛る店を見上げ、手を振った。

「この火勢じゃあ、救助は無理だ。諦めるんだな。おい、火付けと言ったな。火を放った下手人はどうした?」

 ワーガスは、暴れる男を押さえつけている黒帽隊員に向かって言った。

「はっ、それが、雑踏のなかにまぎれてしまって……」

 おどおどと返事をする黒帽隊員に抱えられながら、小人族の男は「旦那! 助けてくれ!」と叫んでいた。

 私はワーガスを押しのけた。

 通りの反対側に置かれた水甕みずがめに駆け寄る。剣帯を解くと脇に投げ捨てた。上衣を脱ぎ捨てる。水瓶の上に置かれた柄杓ひしゃくで水を汲み、頭からかぶった。二度、三度、冷水をかぶって全身を濡らすと、ワーガスが眼を剥いて口を開くのが見えた。

「おい貴様――」

 私は、炎に包まれた店へと飛び込んだ。

 熱気が塊となって、一気に私にぶつかってきた。息が詰まる。両腕で顔を守り、店内へと踏み込んだ。

 すでに一階の壁はみな炎に包まれていた。売り物であったろう種々の革製品も燃え上がり、どす黒い煙とおぞましい臭気を放っている。その向こうにかろうじて、奥に二階へ続くであろう梯子段が見えた。

 腕で鼻と口を押さえながら、梯子段へ近づいた。階上を見上げると、すでに炎がちらちらと天井を舐め始めている。

 梯子を摑む。焼けつく熱さに思わず手を離した。つい、息を吸い込んでしまい、激しく咳き込んだ。胸が熱気で焼けつく。刺すような痛みにあえいだ。足が何かを踏み、よろめいた。反射的に拾い上げた。割れた土瓶のかけらだった。表面には文様が刻まれており、内側はべっとりと油がこびりついている。それを上衣の懐に入れると意を決し、あらためて梯子を摑んだ。手のひらが焼ける。激しい痛みをこらえて体を引き上げ、梯子段を登った。

 二階は、まだ炎に侵されてはいなかった。が、熱気と煙と臭気はすさまじい。涙がとめどなく流れた。腕で眼をこする。息ができない。意識が少しずつ遠のいているのが、自分でもわかった。頭を振った。今ここで失神するわけにはいかない。

 二階の部屋の奥、煙の向こうに小さな塊があるのが見えた。私は咳き込みながら、這うようにして塊に近づいた。

 子どもだった。あまりにももろく、今にも壊れそうな小人族オゼットの幼い少年だった。浅黒い肌に、つややかな黒髪をしていた。私たち大人族コディークにとって小人族は幼く見えるが、この子はそれでも五、六歳程度だろう。

「大丈夫かい?」

 返答はなかった。ぐったりとしたままだった。煙を吸い込み、気を失っているのだろうか。身動きひとつしなかった。が、かすかにその胸が上下に動いていることがわかった。

 この子は、生きている。

 私は、その小さな命を抱き寄せた。幼子は力なく、頼りなげに私の両腕にしなだれかかった。

「もう少しがんばってくれ。必ず助けるからね」

 私はあえぎあえぎ、気を失った少年に向かって言った。半ばは、私自身に言い聞かせていた。

 そのときだった。ごう、という音とともに、一階から通じる梯子段に沿って、炎が噴き上げてきた。熱風にあおられ、私は少年を抱きながら床に倒れ込んだ。

 このままでは、梯子段が炎で焼け落ちてしまう。私は息を止め、少年を抱きかかえ、上衣でその小さな体を包み込んだ。急いで梯子段へ向かう。二階の壁にも炎が広がりつつあった。水をかぶったはずの私の髪が、ちりちりと焦げていく。もう眼を開いていられなかった。腕を伸ばす。ほんの3エーム(約九十センチ)ほど先に、梯子段があるはずだ。

 指先が梯子段の上端に触れた。あとわずかだ。耳の周囲では、炎の荒れ狂う轟音が響いているようだった。頰が焼けつく。あと少しだ。あと、ほんのわずかだけ指を伸ばすのだ。

 いっぱいに伸ばした右の人差し指が、梯子段に触れた。指の関節を燃え始めている梯子段に引っ掛けた。じゅっ、という音が聞こえたような気がした。もはや、指の痛みは感じない。指先に力を込め、体を梯子段へと引き寄せる。

「大丈夫、もうすぐ助かる」

 私は腕のなかの少年に向かって言った。

 その瞬間、激しい音とともに熱風が私たちに吹き付けた。

 と同時に、私の体の下で、床が消えた。

 一瞬、内臓が縮まるような感覚におそわれる。噴きつけるすさまじい熱風を全身に浴びながら、私は落下した。

 二階の床が焼け落ちたのだ――と理解した瞬間、私は背中に激しい衝撃と激痛を受けた。

 視界に暗黒が落ちた。


 眼を開いた。

 かすむ視界のなか、少しずつ焦点があうと、見えたのは薄汚れた木張りの天井だった。

 上体を起こそうとしたが、動かない。力が入らなかった。おそるおそる腕を持ち上げる。右腕に分厚く包帯が巻かれていることに気づいた。首を傾ける。狭く、暗い部屋に寝ていることがわかった。小さな窓があったが、窓の向こうの景色もまた、暗かった。

 人を呼ぼうと思い、口を開いた。そのときに、顔に鋭い痛みを感じた。そっと手で探り、右頬に大きな布が貼り付けられていることがわかった。

 いったい、ここはどこだ? 私は今、何をしている?

 眼を閉じて記憶を探ると、その瞬間に脳内いっぱいにまばゆい朱色が広がった。はっと眼を見開く。

 思い出した。

 そのとき、視界の片隅で動くものがあった。皺だらけの顔が近づいてくる。

「またもやしぶとく生き延びたようだな、ゴルカン」

 医師のユーリパだった。

「あの子は……」

 言いかけて、私は激しく咳き込んだ。声が出ない。喉に鋭い痛みが走る。

 が、かすれ声でもユーリパには伝わったようだった。

「あの小人族オゼットのガキかい。おめえさんなんぞより、よっぽど元気さ。ついさっきも、そこいらで爺いと一緒に遊んでたぜ。ガキって生き物は、やかましくってかなわねえ」

 私は寝台の上に体を預け、天井を見上げた。安堵の吐息をつく。

「ここは〈緑月楼りょくげつろう〉だ。おめえさんのために、ってんでラナディウが部屋を空けてくれたんだ。それにな、ゴルカン、そこの若造に感謝しねえと、トラッフォ神の枝がおめえさんの背中を突き刺すぜ」

 ユーリパが脇を見やると、そこに立っていたのは香水売りのアシンベクだった。彼は、申し訳なさそうに私に向かって青白い顔を向け、頭を下げた。

「この若造が、火傷に効くいい薬草を持ってたんだ。さもなきゃ、おめえさんの顔は二目ふためと見られぬ人喰い鬼並みの化け物になってたはずだ。感謝しな」

 私は右手でそっと右頬を覆う布に触れた。

「たまたま、北方で手に入ったツルギロカイがあったんですよ。珍しい薬草なんですが。その葉を絞った汁が、火傷に効くんです。ちょっと沁みますがね」

「ありがとう。助かった。付け火の下手人は?」

 私はユーリパに訊いた。

「さあね、黒帽隊の連中が追ってるんじゃねえのか」

「任せておけない……」

 私は起き上がろうとして、激しい咳にまたも襲われた。

「駄目ですよ、大事をとって一晩は休んでてください」

 アシンベクが慌てて私を寝台へ押し付けた。私は彼の腕を振り払い、よろめきながら起き上がった。が、みたび、激しく咳が突き上げてきた。体をくの字に折り曲げ、無様にも床にくずおれた。意識が遠のく。

「ゴルカンさん!」

 アシンベクに抱き抱えられたまま、私はふたたび意識を失った。


 覚醒と失神を繰り返し、蟲車に揺られて私は小屋に戻った……らしい。あまり記憶はない。が、次に目覚めたときには、確かに馴染みのある匂いとぬくもりと圧迫感を、胸の上に感じた。

 一角犬グンが、両腕と顎を私の胸に預けている。彼は私が目覚めたことに気づき、身を乗り出してきた。私の顔を覆う布を器用に避け、生暖かく濡れた鼻面を私の顎に押し当て、そして一心不乱に舐め始めた。

「すまん、まだご飯をやってなかったな。その前に、水を飲ませてくれよ」

 私はゆっくりと起き上がった。右の頬がまだ焼け付くように痛んだ。さらに焼けつけているのは、喉の奥だった。寝台から降り、ふらつきながら玄関脇の水瓶へと向かった。柄杓で水をすくい、続けざまに五杯も飲み干した。

 はっと身構えた。

 ゆっくりと台所へ向かい、棚から包丁を手に取る。ちらと振り返ると、グンがいつの間にか寝台の上に伏せをしたまま、眠そうな眼をこちらに向けている。

 私は脇の食卓を見やると、包丁を構えたまま、そっと歩み寄った。たった一つの椅子がこちらに背を向けている。そっと左腕を伸ばす。

 椅子の背を摑んで引いた。一気に包丁を突き出す。

 切っ先が振り払われる。包丁が飛んだ。どこか床に転がる音がした。

「おいおいおいおい、起こすんなら、もっとお手柔らかにやってもらえねえか、〈灰色の右手〉さんよ?」

 椅子の背にもたれているのは、小人族オゼットの男だった。〈クトラシア〉で出会ったザンピロだ。

「なんでこんなところにいる? いつからだ?」

 よく見ると、ザンピロの脇には台所にあったはずのコルメ酒の瓶と盃が置かれている。

「玄関先でぶっ倒れてたおまえを室内に運んで、寝台にまで寝かしてやったのは俺だぜ。ちったぁ感謝してもらってもいいんじゃないか。おっと安心しな、お前は俺の好みじゃないんでね、妙な気は起こしたりしてねえ」

 私はもう一度、寝台のほうへ視線をやった。グンが顔を上げ、相変わらず眠そうに私とザンピロを見ていた。

 ザンピロは私の眼の前で悠々とコルメ酒を盃に注ぎ、一気にあおった。

「服と剣は、寝台の脇に置いた。見事な剣だな。いいはがねを使ってる」

 見やると、ザンピロの言ったとおりに、それらが雑に床に放り出されていた。

「酒にはもうちょっと金をかけたほうがいいぜ。安酒は毒だ」

「いったい何しに来た?」

 どっと全身に疲労と倦怠が戻ってきた。私は寝台へ向かい、グンの脇に腰掛けた。グンは、すかさず私の腿の上に両腕と頭を載せてきた。

「礼を言いたくてな、〈灰色の右手〉よ。おまえさんはケルーの恩人だ」

「誰だって?」

「革細工屋トトラク爺の孫息子だ。トトラク爺は、俺の遠い親戚でね」

「着くのが少し遅れていたら、あの子もろとも、店は焼け落ちていた。運がよかったんだ」

「〈灰色の右手〉にとっちゃ、最高にツイてた日ってわけじゃなかっただろうがな。俺がこの近くで待ってると、おまえさんが一人で蟲車で帰って来るのが見えた。一言礼を、ってんで近づいたら、眼の前でばったりだ。でかい図体を部屋まで運ぶのに、往生したぜ」

 ザンピロは私に向かってコルメ酒の盃を掲げて見せた。「おっと、あんたも飲むか?」

「結構だ。火付けの下手人は、逃げたままなのか?」

 私の問いに、ザンピロの口の端がゆがんだ。

「逃げた? 故意に逃がされたんだ。黒帽隊の連中に捕まえる気なんてありゃしねえ。俺たち〈ともがら〉への憎しみがぶすぶす燻ってるのを、座して見てやがるのさ」

「どういう意味だ?」

「おまえさんにもわかってるんじゃねえのか? 〈輩〉の女郎たちが殺されてる事件だって、本気で下手人を捜そうなんざ、黒帽隊の連中は考えちゃいねえ。なあ〈灰色の右手〉、気づいてないとは言わさねえぜ。今まで俺たち小人族は、あんたら大人族と、それなりに問題なく一緒に暮らしてきた。けど、今になって大人族が、俺たち〈輩〉に向ける眼が変わってきたのを、おまえさんだって気づいてるだろう?」

「変わっている? どう変わっているんだ?」

「おっと、〈灰色の右手〉殿も、意外に鈍かったようだな」

 そう言うと、ザンピロは椅子から降りた。

「酒をごちそうさん。安酒のわりに、悪くなかったぜ」

「ちょっと待ってくれ。私に人助けの礼を言うだけのために、わざわざこんな村外れにやって来たわけじゃないだろう?」

 ザンピロは振り返り、私をにらむように見上げた。

「殺すつもりだったら、おまえの首はとっくのとうに胴体からおさらばして、そこいらに転がってるぜ」

「そうだな、殺さなきゃいけない理由がない」

 ザンピロは扉まで行くと、そこでもう一度振り返った。

「今夜のところは、理由はねえさ。が、明日になってみりゃどうなるか、トーニット神にもわかりゃしねえぜ」

 そう言い捨て、ザンピロは身を翻した。私が呼び止める間もなく、ザンピロは扉を開けて夜のサンナ村へ姿を消した。

 私の膝の上で、グンが大きなあくびをした。

「どうして吠えなかった?」

 私は訊ねたが、グンはすでにうつらうつらし始めていた。

 私ははっとして気づき、グンを下ろすとふらつきながら、寝台脇の服と剣に近づいた。

 おそれていたとおりだった。まだ濡れて焦げ臭い上衣に入れたはずの、土瓶のかけらが消えていた。


 〈緑月楼〉の入り口には、シマカケトカゲ一頭立ての蟲車が停まっていた。窓から顔を覗かせているのは、若い小人族オゼットの遊女だった。ずいぶん若く、ほとんど少女と言っていいほどだ。フィエルとさして歳は違わないのかもしれない。

「姐さん、ごめんなさい。すぐ帰ってきますから」

 蟲車の向こうには、ラナディウ、ミグナルがいた。さらにその脇に、エッレイが杖を付いて、痛々しい姿で蟲車を見上げている。エッレイの両眼は涙で潤んでいた。

「ほんの少しのあいだだけど、苦労かけるわね」

 ラナディウが言い、蟲車の御者に合図した。蟲車が走り出すと、若い遊女はさらに窓から身を乗り出し、見えなくなるまで手を振り続けていた。

「ゴルカン、ひどい顔だね。もう歩いてもいいのかい?」

 ラナディウが私を向いて言った。

「アシンベクの薬草が効きました」

「ちゃんと礼を言うんだよ」

 ラナディウが子に諭すかのように、私に言った。

「わかっていますよ。彼は命の恩人だ」

 すっと私の脇に身を近づけて来たのは、ミグナルだった。

「ゴルカンさん、無事でホッとしたわ。どう? 今夜ぜひ登楼あがってくださいな」

 しなを作って彼女は言った。

「ありがたいが、まだ人斬りが見つかっていない。今夜も見回りだよ」

 私はそう答え、ラナディウを振り返った。

「今のは、実家へ帰るんですか?」

「あたしの知り合いのうちに、しばらくかくまってもらうことにしたのさ。これ以上、うちのたちが傷物にされたら、たまったもんじゃない。それに、あの子たちのなかで、帰る故郷を持ってるなんてのは、いやしないんだよ」

 ラナディウは、両腕で自分の体をかき抱くようにして答えた。

 私は杖を付いたエッレイに顔を向けた。

「話を訊きたい。きみと、イルルーサにも」

「もう全部しゃべったわ。これ以上何を?」

 エッレイが、挑むような表情で私を見上げた。

 

 エッレイは安楽椅子に座り、殊更に私から視線を外し、窓の外に眼をやっていた。その隣では、長身のミグナルが腕を組んで、二人の小人族の遊女を見下ろしている。

 私はイルルーサと顔をあわせるのがはじめてだった。短い黒髪に黒い瞳、褐色の肌をした彼女は、私の眼にはやはり幼く見えた。イルルーサは寝台から上半身を起こし、上目遣いで私に挑むような視線を向けていた。

「あなたがゴルカンさんね、〈緑月楼〉の警備をしてくれてた」

 イルルーサの声は冷ややかだった。じっと値踏みするように、私の顔を見ている。

「すまなかった。助っ人として、私は役に立てなかった」

 私は頭を下げた。

「あなたがいなかったら、わたしは殺されてたかもしれないのよね。だから、あなたはわたしの命の恩人かもしれない」

「いや、私は何もできなかった」

 言いかけると、イルルーサはさえぎるように続けた。

「むしろ、殺されてたほうがマシ」

 安楽椅子のエッレイが、居心地悪そうに身じろぎするのが見えた。彼女もまた以前、同じような言葉を発していた。

 私は揺れる感情を押し殺し、できるだけ静かに訊いた。

「事件のあったときに、下手人について何か気づいたことはなかったかな? エッレイは、独特の匂いを感じている。きみは、何か覚えがないだろうか?」

「思い出したくもない……下手人なんて、もうどうでもいいんだよ。どっちみち、わたしたちは、遅かれ早かれ殺されちまうんだから」

 イルルーサは、さらに強い目線を私に向けた。

「どういうことだ? 誰が、きみを殺そうとしてる?」

「ゴルカンさんも、黒い帽子の人たちも、何にもわかっちゃいないのね。いえ、わかってるくせに、見えてない」

「何が見えてないんだろう? 教えて欲しい」

 イルルーサは、大きくため息をついた。

「結局、わたしたち〈ともがら〉には、どこにも居場所なんてないんだよ。わたしは……故郷も奪われたし、やっとたどり着けたこのサンナ村からも、どうせすぐにみんなから追い出されちゃう……」

「そんなことはない。この〈緑月楼〉は、きみの居場所じゃないのかな?」

 私のおためごかしの問いに対して、イルルーサは哀しそうな笑みを浮かべた。

「そうよね、そうだったかもしれない。ねえ、ゴルカンさん、ケッペラ村を知ってる?」

「ケッペラ? ああ、確か、水晶山の南東に――」

 私は、胸を衝かれた。思わず口をつぐんだ。返す言葉を見つけようとしているうちに、イルルーサは続けた。

「ケッペラ村は、今はもうないのよ。灰の下に埋もれちゃった。今年の春先、いきなり水晶山が壊れちゃったのは知ってるよね。村の上に、いっぱい灰が降ってきたんだよ。サンナ村のゴルカンさんたち――いえ、よその村の人たちは誰だって、何も知らないよね、わたしたちの身に起こったことなんて。ケッペラはちっぽけな村で、痩せた畑で稗や粟を細々と作ってるだけ。何も悪いことなんてやってないよ。なのに、何の仕打ちなの? トーニット神は、なぜわたしたちを見捨てたの?」

 イルルーサは、さらに強い視線を私にぶつけた。

 この地上界の最高峰、水晶山。円錐形の威容を誇る、巨大でもっともうつくしい山が、突然に崩壊した――そして、その崩壊する現場に、私はいたのだ。

 崩壊を引き起こした蛇神へクロンの配下の大蛇ナヴァーサ。そして「彼女」を利用する、悪しき蛇神崇拝者ヘクロノミマトスとその信者たち――まさにあの日、私は水晶山の火口で、彼らと対峙していたのだ。

「これから畑の植え付けだっていうのに、白い灰が降り注いできて、畑は台無し。それだけじゃない、井戸も使えなくなった。春が来たばかりなのに、もう村じゃ暮らせなくなったんだ。年寄りと赤ちゃんたちはバタバタ死んじゃうし、そのうちに大人たちも……」

 イルルーサの声が震え、そして途切れた。

「すまなかった」

 私の口を思わず衝いて出た。イルルーサが、ふっと笑みを見せた。

「ゴルカンさん、何でもかんでも謝らないでよ」

 私は胸をかれた。が、それを隠して言った。

「君が襲われた晩のことだ。すでに黒帽隊の連中に一度は話しているとは思うが、もう一度、気づいたことを教えて欲しいんだ。エッレイは、匂いを感じたと言っていたね?」

 私は安楽椅子のエッレイに顔を向けた。

「そうね。なつかしいような匂い……そう言えば、あんとき思い出せないって言ったよね、でも今ならわかる」

「何の匂いなんだね?」

「あれはね、お父さんの匂いだよ。昔、里にいた頃に嗅いだ、畑仕事をするお父さんの匂い。ねえゴルカン、今のあなたも似た匂いがするわ」

「私が? どういうことだ?」

 私は寝台のイルルーサに顔を向けた。

「私から、何か匂うかな?」

「うん、そんな気がする」

「ほかに何か覚えていることは?」

「覚えてること……音がしたよ、あのとき。そう、森の音が聞こえた。木が、森が、襲いかかって来たんだよ。頭の上から、森がわたしを殺そうとしたんだ」

 そう言うや、イルルーサはおびえた表情になり、両手で顔を覆った。エッレイが安楽椅子から立ち上がり、イルルーサに歩み寄って手を握った。イルルーサは、涙に濡れた顔を上げた。

「エッレイ、森の音に気づかなかった? わたしたち〈ともがら〉が、トライアド神に罰せられるような何かをしたの?」

「イル……」

 エッレイはイルルーサをかき抱いた。

「森が襲ってきた……頭の上から」

 私はつぶやいた。

 あの夜に私が刃を交えた相手は、「森」のように巨大な敵ではなかった。

 あの夜、刺客は二人いた。


「緑の夜の刺客/〈灰色の右手〉剣風抄」第4話へつづく

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