第2話

〈クトラシア〉の扉を押し開けると、わずかに空気が変わるのがわかった。喧噪けんそうが一瞬だけやんだ。十人あまりの客が入っていた。そのうちの八割は小人族だった。

 私が椅子代わりの樽に腰掛けると、店主のヘスクスが相変わらず不機嫌そうな面持ちで近づいてきた。私が何も言わないうちに、ヘスクスはコルメ酒でなみなみと満たされた茶碗を私の前の飯台に突き出した。

 私がコルメ酒に口を付けると、ヘスクスは無言のまま、そそくさと店の奥へと向かった。

 一口目をへ流し込んだときだった。〈クトラシア〉の扉が開いた。またもや、店内の喧噪が消し飛んだ。一気に静まり返る。

 細身で長身の二つの人影が、店内に現れた。黒い制服に黒い帽子――黒帽隊こくぼうたいだ。二人ともたいへん若く、まだ二十歳になるかならずやであろう。「制服に着られている」ような姿だった。一人は、うっすらと髭を生やし始めている。もう一人のほうは、長身をもてあまし、妙に顔色があおかった。二人とも、私はまだ会ったことがなかった。新入隊員だろうか。ふと、子どもの頃に村で出会った旅芸人の一座が連れていた、ミドリヒヒの顔を思い出した。

 薄い髭を生やしたほうの隊員がつかつかと私の右脇に立つと、飯台をてのひらで横柄に叩いた。

「おい、小人じじい」

 声にはまだ幼さが残っていた。私は右手でコルメ酒の器をあおった。同時に、左手ではそっと剣のつかを体に引き寄せる。

 ヘスクスが渋面を作って、若い隊員のほうへ近づいた。

「へい、ご注文は?」

 ヘスクスが仏頂面で訊くと、蒼い顔のほうが割り込み、さらに大きな音で飯台に掌を打ち付けた。

「はあっ? このクソ小人が! てめえが出すもん出すんだろうが!」

 ミドリヒヒ顔の隊員は腕を伸ばし、ヘスクスの襟元を摑んだ。

「おかしいねえ。もうおまえさんたちのお仲間にこの月の分は払ったぜ」

 ヘスクスが嫌味ったらしく言い返すと、髭が鼻先で笑った。

「我々が払えと言えば、いつだって貴様らは払うんだ」

「ほう、そりゃはじめて聞いた。おまえさんとこの隊長さんは、知ってんのかね?」

「薄汚え小人野郎が! 誰のお陰で商売できてると思ってんだ!」

 ミドリヒヒ男が怒鳴った。

「はっ、少なくともおまえさんのお陰じゃあねえな」

 ヘスクスが言うや否や、蒼い顔の男はヘスクスの体を一気に引き寄せた。そして、それこそヒヒのような怒声とともにヘスクスを飯台のこちら側へと放り投げた。ヘスクスは木貼りの床に背中から叩きつけられた。

 私は立ち上がった。彼に駆け寄り、抱き起こす。

 ヘスクスはうめき声を上げながら、顔をしかめると私の胸を突き、立ち上がろうとした。が、すぐに力を失い、床にぺたんと座り込んでしまった。

「動かないほうがいい」

 私は黒帽隊員のほうを振り返った。右手を剣の柄に置いたまま、ミドリヒヒ男の顔をにらみつけた。

「今日のところは引いてくれ。みかじめ料は、あとで詰所へ持参する。ワーガス副長に渡せばいいんだろう?」

 私が言うと、ミドリヒヒ男が眼を剥いた。

「き、貴様は何なんだ? そ、そうか、この汚え小人じじいの愛人か。小人野郎のアレは俺らのよりもずっとデカいって噂じゃねえか。どうなんだ実際? 教えてくれよ。貴様は、毎晩くわえてんだろう?」

 ミドリヒヒが、下卑げびた笑いを口元に漏らした。

「今日は引いてくれ、と頼んでいる。気持ちよく飲んでいる客がいるんだ。頼むから少しの間、その悪臭を放つ口を閉じていてくれないか」

 私が言うと、背中に激しい衝撃を感じた。息が止まり、前のめりになって飯台にぶつかった。衝撃でコルメ酒の入った器が飛び、床にぶつかって粉々に四散した。

 振り返る。薄い髭の男が、剣の柄で私の背中を突いたのだった。その顔は怒りにぷるぷると震えている。

「よくも貴様、黒帽隊に無礼な真似を!」

 髭の隊員が怒気を込めて言った。その言葉と同時に、ミドリヒヒが剣を抜き放った。〈クトラシア〉店内がざわめき立った。何人かの小人族オゼットの客が入り口から店外へ跳び出すのが視界の片隅に見えた。

「わかったわかった、払う……」

 諦めた様子で、ヘスクスが床の上にへたり込んだまま、うなだれた。

 次の瞬間だった。

 ミドリヒヒ男が「がっ」というようなうめきを漏らし、もんどり打って床にくずおれた。顔を押さえている。その指のあいだから、どす黒い血がぽつりぽつりと床に落ちるのが見えた。

「誰だ!」

 薄い髭の隊員が叫んだ。その声は裏返っている。

 私は、ヘスクスに手を貸してそっと立ち上がらせた。

「おいおい、勘弁してくれえ……」

 ヘスクスがつぶやくのと同時だった。髭の男が短く悲鳴を上げるのと同時に、その体が飯台の前の樽の上に吹っ飛ばされた。

 ミドリヒヒ男が、ふらふらと起き上がった。青白い顔面を血で真っ赤に染め、わなわなと震えている。

 私も、すぐには何が起きたのかわからなかった。

「おい――」

 ヘスクスが言いかけたときだった。

 小さな人影が私の視界の片隅に飛び込んできた。

 一瞬の後だった。ミドリヒヒ男の体が吹っ飛んだ。闇雲に振り回した剣が、ざっくりと飯台に食い込む。

「ああっ、なんてこったい!」

 ヘスクスがうめく。

 屁っぴり腰で剣を構える髭の男の顔は、おびえに満ちていた。唇を小刻みに振るわせながら、〈クトラシア〉店内を見回す。

 私は剣の柄を握る手に力を込めた。

 何かが動いた――髭の男の背後へ突進する。

 金属音とともに、男の手から剣が吹っ飛んだ。次の刹那せつな、髭の男がのけぞっていた。そのまま男は、床の上に転倒した。

 私は剣を抜いた。

 ミドリヒヒ男が悲痛なうめき声を発しながら、飯台から力任せに剣を引き抜いた。盲滅法めくらめっぽうに振り回し始める。

 小さな影――突進してくる。その手元で何かが鈍く輝く。

 影がミドリヒヒ男の懐に飛び込んだ。一瞬後、男の剣が宙を飛んで床に突き刺さった。

 小さな影が、とどめを刺すかのように得物を振り上げた。

 その瞬間に、私は剣を振るった。

 刃が固いものに当たる手応え。小さな影が勢い余って私に激突した。

 私の剣がはじき飛ばしたのは、鉄製の鍋だった。

 私の胸元で、人影がうなり声を上げた――小人族オゼットの男だった。栗色の毛に、同じく栗色の顎髭をたくわえているのが、一瞬だけ見えた。

 次の刹那、彼は敏捷に跳躍した。その姿が一瞬で視界から消え去る。

「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょおおおおおおおっ」

 髭の男が泣き濡れた顔でわめきながら立ち上がると、立ち尽くしているミドリヒヒ男にすがりついた。

「いいか貴様ら、こ、こ、黒帽隊にナメた真似をして、た、た、ただで済むと思うな!」

 髭の男は、あまりにも陳腐すぎる捨て台詞を吐いた。その裏返った声は〈クトラシア〉店内にむなしく響いた。髭の男はミドリヒヒ男とともに〈クトラシア〉の扉から後ずさった。背中で扉を押し開けると、姿を消した。

 私は黒帽隊の男たちが残した二本の剣を拾い上げ、飯台の上に無造作に置いた。

「こいつは、私がやつらの詰所へ持って行ってやるよ。それにヘスクス、店のみんなに一杯ずつおごってくれ」

 樽に腰掛けたが、振り返ると、〈クトラシア〉店内に客は誰一人として残っていなかった。早々に退散したらしい――酒代も払わずに。

「ええい、これじゃあ商売あがったりだ!」

 ヘスクスがうめき、手で腰をさすりながら、渋面を作ったまま器用に飯台の向こうへ飛び越えた。

「ヘスクス、私にもコルメ酒の代わりをくれ。それに……あんたの新しい〈ともがら〉を紹介してくれてもいいんじゃないか?」

 私は声をひそめて言った。ヘスクスは、しぶしぶといった様子で厨房の奥へ向かって手で合図をした。そしてヘスクスは、いつもよりも大ぶりの盃になみなみとコルメ酒を注ぎ、私の前に無造作に置いた。これが、彼なりの礼なのだろう。

 厨房からゆっくりと姿を現したのは、ほぼ私と同じ歳であろう小人族の男だった。長めの栗色の髪の下から、鋭い目付きで私を見上げている。

「借りができたとは言いたくねえな」

 小人族オゼットの男は唇の端をゆがめ、

「あんたは、この村の者じゃないね。黒帽隊に喧嘩を売るのは、賢いやりかたじゃない」

 私の言葉に、小人族の男は冷ややかな視線を向けた。

「俺の名前はザンピロ。あんたは〈灰色の右手〉だな?」

 ザンピロと名乗った男の眼光は鋭かった。言うなり、手を伸ばすと私の前のコルメ酒の器を引ったくり、一気にあおった。その右手の甲に、槌の形をした刺青が掘られているのが見えた。おそらく、石の神トーニット神の紋章であろう。

「そう呼ぶ人もいるらしいな。ゴルカンだ」

 私は手を伸ばし、ザンピロと名乗る男から器を奪い返した。わずかだけ底に残ったコルメ酒を喉の奥に流し込む。

「〈灰色の右手〉は、さぞかし賢いんだろうな、俺のような小人族と違って」

 棘のある口調だった。

「さてね、私はあんたのことを、まだよく知らない」

「〈灰色の右手〉と言やあ、ちったぁ名の知れた御仁ごじんだ。なのに、ずいぶんと落ちぶれたもんじゃねえか?」

 ザンピロは吐き捨てるように言い、盃をあおった。

「一方的に生き方を値踏みされるのは、うれしいことじゃないな。酒を勝手に飲まれるのも」

 私は銀貨二枚を飯台の上に置いた。酒代を払わずに逃げていった客たちの代金を補って余りある額だろう。

「この村の黒い帽子の連中とつるんでるらしいじゃねえか。ずいぶんつまらねえ生き方だな」

 ザンピロは、三白眼で私をにらみつけた。

 ちょうどそのとき、ヘスクスが苦虫をかみつぶしたような面持ちで、私たちに言い放った。

「ゴルカン、ザンピロ、飲んだらとっとと出てってくれ。もう今日は店じまいだ!」

 私は、若い黒帽隊員たちが残していった抜き身の二本の剣を手にして立ち上がった。

「なあ〈灰色の右手〉、あんたにゃわからねえだろうが、俺は貧乏暮らしの小人だ。俺が抱えてるのは、ちっぽけな魂かもしれねえ。だがな、誰かにそんな魂を売り渡したことはねえぜ」

 ザンピロは私をにらみつけて言った。

「誰だって食っていくためには、働かなきゃいけないんだ」

 私が答えると、ザンピロはふんと鼻を鳴らした。

「サンナ村の〈灰色の右手〉とやらが、どんな御仁かと期待して来たが、俺が馬鹿だったな」

「勝手に期待も失望もすればいいさ」

「立派な名を背負いながら、情けねえとは思わねえか?」

 私は上衣を脱いで抜き身の剣を包んだ。〈クトラシア〉の扉を引き開けた。

「私は何も背負っちゃいない」

 私は〈クトラシア〉を後にした。

「おい、話は終わっちゃいねえぜ。逃げる気か? 卑怯者が!」

 追いかけてくるザンピロの声をさえぎるように、私の背後で、大きな音を立てて扉が閉じた。

 私は、間違いなく卑怯者だった。


 楼主のラナディウがそっと扉を開けた。

 〈緑月楼〉の薄暗い一室の中、寝台の上で小さな体がゆっくりと身を起こすのが見えた。

「あんたは寝たままでいいよ。ゴルカンが話を訊きたいってのさ。どうだい、答えられるかい? 無理しなくっていいんだよ?」

 ラナディウは、私にはついぞかけたことのないような優しい声をかけた。

「大丈夫……」

 消え入りそうな声で答えたのは、十日あまり前に刺客に襲われたエッレイだ。歳の頃は三十歳前後らしい。黒い髪で褐色の眼をしたエッレイは、以前に会ったときよりも、かなり顔色が良くなっていた。

「ゴルカン、イルルーサが襲われたって……?」

 私はうなずいた。

「命に別状はないが、怪我がひどいらしい」

 私が言うと、エッレイは激しくかぶりを振った。

「まだ下手人はサンナ村にいるっての?」

「そうかもしれない。あらためて訊きたいんだ。黒帽隊から何度も訊かれてつらい思いをしただろうけど、もう一度教えて欲しいんだ。事件当日のことを、あらためて訊きたい。きみが襲われたときに、何か気づいたことはないだろうか」

「前にも話したじゃない……突然すぎたし、真っ暗だったから、何もわかんないわよ……」

「何か音を聞いたとか、触れたとか……どんな些細なことでもいい。思い出して欲しいんだ」

「そういえば……?」

 不意にエッレイが首をかしげた。

「何かあるのかい?」

「匂い……いえ、匂いっていうほどはっきりしたものじゃなかったけれど『何か』感じた」

「『何か』って?」

「それがわかんない……何か、懐かしいような、とても馴染みがあるような……匂いというか気配というか……ねえゴルカン、わかるでしょ?」

 私は曖昧にうなずいた。

「もう一度その匂いを嗅いだら、何の匂いか判別できるかな?」

「そうね、きっとわかると思う」

「ところで、きみとイルルーサ、それに殺されたルフゥは、〈緑月楼〉の中でも親しかった間柄なんだね」

 私は訊ねた。

「親しかったっていうか……そんなんじゃないよ。あたしたちは、この村で胸張って暮らしてるわけじゃない。みんな苦労して処世の術を身に着けて、お互い〈ともがら〉同士が手を取り合わないと、この村では生きていかれないのよ」

 エッレイは、無造作に投げ出すように答えた。

「きみはルフゥの面倒をよく見ていた、と聞いたが」

 私の言葉を聞くや、不意にエッレイは両の手の平に、頭を埋めた。

「ああ、ルフゥ……あの子は、この商売やるには純すぎる子だった。故郷にもあんな妹がいたから、柄にもなくあたしも世話焼いちゃったのよね……なんであの子が……」

 エッレイは嗚咽おえつを始めた。寝台の脇でラナディウも顔を背け、両肩を振るわせている。

「きみは確か南方の出身だったね」

「そう……ちっちゃな港町でね、いつだって磯の匂いがしてたっけ。あたしは、その匂いが大っ嫌いだった」

 そう言ってエッレイは天井を見上げた。いや、天井よりももっと遠くの何かを見つつめているのかもしれない。

「ルフゥとはこの村で知り合ったのかな?」

 私は感情を殺して、質問した。

「あの子がここの店に入ったのが、ちょうど一年くらい前だったかしら。以前はあちこち放浪してたみたい。お隣のフィゴブ村の裏街道で客を取ってたとき、たまたま使いで出かけてたミグナル姐さんに会ったのよ。ミグナル姐さんに拾ってもらって〈緑月楼〉に来れて、あの子は幸運だった」

「この〈緑月楼〉では、人気があったそうだね?」

「あなたもわかるでしょう? ルフゥはとっても純な子だったのよ。そこが、大人族の男たちの心までも惹き付けたのよ。あの子がこの〈緑月楼〉に来て、半年かそこらで一番人気になった。あたしはうれしかったけど、半分は哀しかったな……あの子はね、あたしみたいな女とは違って、こんな世界で生きるはずじゃなかったんだ」

 エッレイが私を見上げる視線には、思いの外に力強い気持ちがこもっていた。私はその思いを受け止めようと、視線をそらさずにエッレイを見返した。

「イルルーサは? 彼女のことは、あまり知らないのかな?」

「そうね……仲良し、とは言えないかな。あの子は、いつも一人でいることが多かった。あの子の怪我の様子はどうなの?」

 私が口ごもると、ラナディウが静かに口を挟んだ。

「もう店に出ることは、無理だろうね。でも、命があっただけめっけもんさ」

 エッレイは眼を閉じて、枕に頭を預けて横たわった。

「死んだほうがマシってことも、あるよ……」

 エッレイは仰向けのままつぶやいた。

「邪魔をしたね。何か思い出したことがあったら、また教えてくれるかい?」

 私が訊ねると、エッレイは曖昧にうなずいた。

ねえさん」

 ふとエッレイはラナディウに呼びかけた。

「なぁに?」

「あたし、どうせもう店には出られないんでしょ?」

 呼ばれたラナディウは、そっと寝台の脇にしゃがみ込んだ。

「何言ってんのさ! たくさん稼いで故郷に帰って、料理屋を開くんじゃなかったのかい?」

「あんな磯臭い故郷なんて、もう忘れたいよ……」

 エッレイの嗚咽を背に、私は部屋を出て扉を閉じた。


 黒帽隊詰所の副長室の机の上に抜き身を放り出すと、副長のワーガスは眼をいた。

「何のつもりだ、ゴルカン?」

「ギンセラ隊長が不在だったのでね、あんたの部下の忘れ物を届けに来た。若い者が二人、〈クトラシア〉に置きっぱなしにしていたよ」

 ワーガスの角張った顔面が、怒りで細かく震えている。

「話は聞いてるぞ、ゴルカン。いったいぜんたいどういうつもりでうちの若い連中に喧嘩を売った? 隊員の頭をかち割るとは、鞭打ち百回じゃすまんぞ」

「売ったわけじゃない。むしろあんたの監督不行き届きじゃないのか?」

「何だと?」

「あんたのとこの新米が勝手にみかじめ料を徴収している。あんたは、それを黙認しているのか?」

「な、何を言ってる、ゴルカン?」

 ワーガスが立ち上がった。彼は私よりもずっと背が高く、肩幅もはるかに広い。今にも私を押しつぶそうとするかのように、ワーガスは身を乗り出した。

「その剣は、若造たちに返してやってくれ。そして、剣術をちゃんと教えておくべきだな。あんな屁っぴり腰では、人斬りに出くわしても太刀打ちできない。ギンセラ隊長は、若造の失態を知ってるのか?」

「きっ、貴様……」

 ワーガスは怒りに頬をぴくぴくと振るわせた。が、私を殴り飛ばさないだけの自制心はあった。ワーガスは背後の呼び鈴の紐を引いた。何の音も聞こえなかったが、扉の背後で待機していたのか、間髪を入れずに小太りの隊員が入って来た。私も何度か顔を合わせたことがある隊員だった。ワーガスは、彼に剣を持って行くように命じた。小太りの隊員は剣を受け取ると、私に何か言いたげな視線を向け、そのまま去った。

「要件はこれだけか、ゴルカン?」

 ワーガスはどっかと椅子に腰を下ろした。机の引き出しを開けると、酒の小瓶と盃を取り出し、いらだたしげにアーズカ酒を注ぐと、一気にあおった。私に勧めることはなかった。勧められても、私は断ったが。

「エンデイスの容態はどうだ?」

 私が尋ねると、ワーガスは「ふん」と鼻を鳴らし、椅子に深々と背中を預けた。

「エンデイス? ああ、あの新米か。傷は思いのほか、浅い。二、三日うちに回復するだろう。が、奴はすっかり心底ブルってしまってる。情けないガキだ」

「そんなガキを隊員として採用しているのが、あんたたち黒帽隊だろう。彼に限らず、ずいぶんと隊全体の士気が落ちているようだが」

 ワーガスは小瓶からアーズカ酒を盃に注ぐと、自らの仇であるかのように、苦々しげに一気に飲み干した。

「減らず口を叩いていないで、とっとと女郎屋に戻ったらどうだ。次の女が切り刻まれないうちにな」

 ワーガスは口のはしを歪めて歯をむき出し、笑みには見えない笑みを私に向けた。

 そのときだった。扉が激しい勢いで開かれた。血相を変えて飛び込んできたのは、先ほどの小太りの隊員だった。

「火付けです! 〈市場通り〉東の端で、小さな商店が――」

「落ち着け。消火はすでに始めているんだな」

「は、はいっ」

 ワーガスは立ち上がった。その眼に酔いは微塵も感じられなかった。

「今夜は風がない。〈市場通り〉の東なら、延焼は食い止められるだろう。火付けと言ったな。下手人は捕らえたのか?」

「それが……」

 小太りの隊員は言い淀んだ。

「はっきりせんか。逃したのか?」

「いえ……それが、七、八人の村人たちが徒党を組んで……」

「何いっ? どういうことだ?」

 ワーガスの眼の色が変わった。

「その……連中が言うには、人斬りの下手人を見つけて、仕置きをしたと……」

「勝手に仕置きだと? 馬鹿者どもがっ!」

 ワーガスは怒鳴った。小太りの黒帽隊が身を縮める。

 私は部屋を飛び出していた。


「緑の夜の刺客」第3話へつづく

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