緑の夜の刺客/〈灰色の右手〉剣風抄

美尾籠ロウ

第1話

 気配を感じた。

 私は、剣のつかにそっと手を置いた。

「な、何だ――」

 口を開きかけた黒帽隊こくぼうたいの若い隊員を、私は見やった。まだ髭も生え始めていない若者は、気圧けおされたように身を引いた。

 私たちは、サンナ村外れの娼館〈緑月楼りょくげつろう〉本館の裏手に立っていた。秋の終わりの風が冷たい。すでに私の両脚は凍えていた。今年の秋は、いつもより早く去り、もう冬がすぐそばまで近づいているようだった。

 〈緑月楼〉の三階建ての本館の東側には、渡り廊下でつながった娼婦たちの居住する二階建ての離れが建っている。本館と離れの周囲には、合計七人の黒帽隊員が警護しているはずだった。

 七人の警護の人手を集めることすら、黒帽隊は苦労しているようだ。黒帽隊は、このサンナ村の治安維持を目的とした組織のはずだが、私のような者にまで、用心棒の声をかけねばならないらしい。

 透き通った夜空には赤月が沈みかけ、そして下弦の緑月が昇り始めている。

 私は、ゆっくりと音を立てぬよう剣の柄を摑み、拳ひとつ分だけ、抜いた。刃が赤月の光を浴びて鈍く光る。若い黒帽隊員――エンデイスという名だった――は、そこまで切羽詰まった状況であることを今さらのように気づいたのか、眼を泳がせた。

「人を斬ったことはあるか?」

 刃をさやに収めて囁くと、エンデイスはかぶりを振った。まだ幼い面持ちだった。

「今日は斬ることになるかもしれない」

 私が言うのと同時に、物音が聞こえた。ちぎれた雲が、赤月を隠した。一瞬にして、闇が私たちの上に落ちた。

 私たちの隠れている背後、村の北側の森の前に拡がる低木の茂みに近いあたりから、何者かが速い速度で近づいている。

 私は息を殺した。深い闇のなか、小さな足音が耳に届いた。剣の柄を握る。

「何者だぁ!」

 唐突に、恐怖と焦燥に駆られたエンデイスが暗闇の奥に向かって怒鳴りつけ、跳び出した。

 ――愚かなことを!

 私は歯がみした。

 いつしか雲が厚く空を覆っていた。闇が深まっている。

 刃を交える音が耳に届いた。さらに、エンデイスのうめき声。私は剣を抜き放った。

 気配――今度はすぐ背後からだ。

 雲の狭間からわずかに漏れる下弦の緑月の光で、刺客の影が足元のくさむらに伸びている。異様に長い剣を下段に構えているように見えた。

 と、次の瞬間だった。風に乗って、下段から刃が押し寄せてくる――重い。私は剣で跳ね上げた。刺客の姿は見えない。

 間を置かず、次の一撃。その刃もまた剣で防ぎ、突いた――はずだった。空を貫いただけだった。刺客は、恐ろしいほど敏捷びんしょうだった。そして、子どものように小柄だった。

 月光の下、剣を正面に構える。が、早くも敵の気配は去っていた。あたかもそれを待っていたかのように、雲の裂け目から赤月と緑月が同時に顔を出した。

 娼館のすぐ脇の叢の上、倒れている二つの姿があった。私の立っているところからでも、赤黒い血が流れ出しているのが見えた。

 駆け寄った。倒れている一人はエンデイスだった。仰向けのまま眼を見開き、ぶるぶると震えている。

「起きろ。あんたは斬られちゃいない」

 声をかけたが。エンデイスの耳には届いてはいない様子だった。私はその隣にうつ伏せに倒れている小さな影に駆け寄った。赤黒い血が、土の上にじわじわと拡がっているのが見えた。


「とんだ助っ人だな。ざまはない」

 私の上に大きな影が落ちた。黒帽隊副長のワーガスが角張った顔を、さらに醜くゆがめていた。

 斬られたのは、〈緑月楼〉の娼婦イルルーサだった。小人族オゼットの彼女は〈緑月楼〉の娼婦たちのなかでもごく最近店に入った娼妓の一人だ。気を失っているだけで、幸いにも傷は深手ではないようだった。彼女とエンデイスは、〈緑月楼〉お抱えの医師の治療を受けているところだった。

 用なしとなった私は、薄暗い廊下で椅子に腰掛け、温めたコルメ酒の入った木椀を傾けていた。

「そんな無様な私に助けを求めに来たのは、あんたたち黒帽隊だ」

 私がコルメ酒を飲み干して言うと、黒帽隊副長のワーガスは、ふん、と鼻を鳴らした。

「俺はもとよりこの件に無関係だ。隊長の独断専行だ。くだらんことで隊員に怪我人を出すとは……」

 ワーガスは苦々しげに吐き捨てた。

「人死にが出ている。くだらないことじゃない」

 ワーガスが鼻から荒く息を吐き出した。と同時に、その背後から長身の女が現れるのが見えた。

「副長さん、ゴルカン、こんなところで喧嘩はよしてくださいな。イルルーサが眠ってるのよ」

 深紫色の羽織を着て、黒く長い髪は無造作に後ろで束ねている。化粧っ気はほとんどないが、年齢はいったいいくつなのか想像がつかない。私より十以上年長のはずだが、ときには少女のように見えるときすらある。彼女が、娼館〈緑月楼〉を一人で長年にわたり差配してきた女主人、ラナディウだった。

「ゴルカン、あたしはあんたを信じてたのよ。だから、あたしから黒帽隊に、あんたを助っ人として雇うよう頼んだのさ」

「面目ありません」

 私は頭を下げることしかできなかった。

「いったいいつまでこんな恐ろしいことが続くんだか……あの妓たちに落ち度なんかありゃしないのに」

 ラナディウが両腕で自らの体をぐいとかき抱いた。


 〈緑月楼〉の娼婦が襲撃されたのは、これで三度目だった。一度目は、約二十日前の日没直後。小人族オゼットの娼婦ルフゥが殺された。

 その日、ルフゥは〈市場通り〉まで買い物に出かけた。彼女にとって、その日は久しぶりの休日だった。村の目撃者の証言によると、ルフゥは市場で菓子を買ったり、装身具を選んだりして、久しぶりの息抜きを楽しんでいたようだ。

 その夜、〈緑月楼〉に戻る直前、娼館までほんの数分という小径こみちでルフゥは襲われた。深夜になり帰楼しないルフゥを探しに出た楼主ラナディウが見つけたのは、裏庭の片隅に横たわる、血みどろの無残なルフゥの遺体だった。刺客の姿はなかった。

 ルフゥは、背中を縦一文字に、そして胸から腹を十文字に深々と斬りつけられていた。そのはらわたは引きずり出され、さらに舌も切り取られていた。屍体を検分した医師ユーリパによれば、残虐な屍体の損壊は、まだルフゥの息のあるうちに行われたという。下手人は、血みどろで半死半生のルフゥの体を陵辱りょうじょくした後に、彼女の喉を掻き切って殺したのだ。

 二度目の事件は、その七日後に起きた。同様に小人族の娼婦で、ルフゥの友人でもあったエッレイが、同様に日没後、〈緑月楼〉近くで襲われた。背中を切り裂かれ、凌辱された。幸い、彼女は一命は取り留めた。が、未だに背中の熱に浮かされている。


 部屋の扉が開いた。背の曲がった丸坊主の老人が、杖を突き突き姿を現した。〈緑月楼〉専属の医師ユーリパだった。その背後から、長身の若い男が現れた。色白ののっぺりした顔に、うっすらと顎髭を生やしている。東方の装束をまとっている。〈緑月楼〉をしばしば訪れる、香水売りの行商人だった。

 ユーリパは不機嫌そうな顔をワーガスに向け、しわがれ声で言った。

「あんたんとこの若造の傷は深くねえ。ただのかすり傷だ。たまげてひっくり返ったっきり、目覚めやしねえだけだ。ずいぶんと繊細な心をお持ちのようだ」

 ユーリパは首をひねるようにして、大男のワーガスを見上げ、顔をしかめた。

「では、奴を引き取るぞ」

 ワーガスが扉に手を掛けると、ユーリパが杖をワーガスに突きつけた。

「寝かしてやんな。刃の傷は深くねえとは言ったが、心の傷はそうはいかん。それよりも、かわいそうなのは、あのだよ」

「イルルーサの命には障らないんだろう?」

 私が問うと、ユーリパの背後の若い香水売りが口を開いた。

「先生が最善を尽くしてくれましたから、きっと大丈夫ですよ」

「あんたが、ユーリパ先生を呼んでくれたんだね。礼を言うよ」

 私は、若者に頭を下げた。

「いえ、ここのたちは、みんな僕の妹みたいなものですから……」

 香水売りは表情を曇らせた。が、ユーリパは眉間の皺をより深くした。

「アシンベクよ、無思慮に大丈夫などと言うな。あの妓の傷を縫って血止めはしたが……憐れな妓だ。一命を取り留めたとしても、片方の胸乳むなぢは切らなきゃならねえだろう。胸と背中にも、大きな傷痕が残ることになる」

「つまり、例の――」

 私が口を挟むと、ユーリパはうなずいた。

「珍しい傷口だ。いんや……ここしばらくのあいだに、珍しくなくなったのう。先日襲われたたちとまったく同じだ。浅くはねえが、いびつに広がって、ふさがりにくい。例の得物えものだな」

 ルフゥ、エッレイともに、同様な謎めいた得物によって襲われたのだった。人の皮膚など軽々と引き裂く凶器だった。

「おめえさんがいてくれて助かったよ」

 ユーリパが口の端にわずかに緩めた。私に向けたねぎらいかと思ったが、背後のアシンベクに顔を向けていた。

「ちょうど間に合ってよかったです。まさかこんな事件に巻き込まれるなんて……」

 アシンベクは、やわらかく微笑んだ。香水売りという商売柄、この店の遊女たちからの好意を集めているようだった。が、彼自身が客として店に上がったことはないようだ。ほかの客と違い、容易に手の届かぬ存在であるところが、また逆に遊女たちの心を浮き立たせているのかもしれない。

「では、僕はここで宿に戻ります」

 アシンベクはユーリパと私に目礼し、〈緑月楼〉の廊下を歩き去って行った。その背中を見ながら、ユーリパはしわがれた小声を漏らした。

「おまえさんは聞いとるか。フィゴブ村の話を」

 フィゴブ村は、このサンナ村の西約二イコル(約八キロ)に位置する隣村だ。東西に伸びる街道〈なか道〉を蟲車で行けば半刻とかからない距離だ。

「フィゴブ村で何かあったんですか?」

 私が訊ねると、ユーリパはいっそう声をひそめた。

「人斬りだよ。去年の話だ。同じように娼婦が斬られた。フィゴブ村にゃ、〈緑月楼〉みてえな娼館はねえ。裏街道の立ちんぼ娘たちがいるだけだ。二人死に、一人がかたわにされた。下手人は見つかっちゃおらん」

「じゃあ、同じ下手人の仕業だと?」

「だろう。斬られたのは、みな小人族の娘たちだった。そして――フィゴブ村の医者仲間に聞いたんだが――娘たちの傷は、見たことのねえほど無残なものだったって話だ」

 ユーリパは、忌々しげに杖で廊下をどんと一度突いた。

「ゴルカンよ、下手人を捕らえても俺の前に連れ出すな。俺はそいつに、医者がやっちゃあならねえことをやっちまいそうだ」


 畑で収穫したヒカゲ瓜を市場で売ったが、わずかばかりの金貨とヴォント麦粉二袋にしかならなかった。〈金釘通り〉はにぎやかだったが、空には暑い雲が垂れ込めていた。

 不意に、襤褸ボロをまとった乞食のような男に腕を引かれた。「乞食のような」ではなく、ほぼ物乞いと変わらぬ自称・予言師のフピースだった。

「おおゴルカンよ、相も変わらず、クオナース神の眼のように暗い顔じゃのう」

 四十から八十までのいくつにも見えるフピースは、皺だらけの顔で私を見上げた。

「像はもう収めたはずだが」

 私がシュカの木を彫って作った木像を、フピースはまじないの道具として、そして怪しげな術を施したお守りとして、街道を行く人びとに売っていた。私は、乞食まがいの似非えせ予言師の、さらにその下で使われている。

「いんや、像はまだ要らぬわ。おまえさん、まだ黒帽隊の下働きなんぞやっとるのか」

「食っていけないのでね」

「ほう、ならば、今は羽振りがいいのだな。一杯おごらんか」

 フピースは言ったが、いつもの〈クトラシア〉へは向かおうとしなかった。

「ヘスクスと喧嘩でもしたのか?」

 ヘスクスは、居酒屋〈クトラシア〉の店主の小人族オゼットの男だ。私が訊ねると、フピースはただでさえ皺だらけの顔をさらにゆがめた。

「どうもやつはこのところおかしい」

「どうおかしい?」

「店に小人族がちょくちょく現れる」

「ヘスクスの店だ。〈ともがら〉が――彼らは仲間をそう呼んでいるんだろう――が集まってもおかしくはない。これまでだって、しばしば来ていたじゃないか」

 フピースは「ふん!」を不満げに鼻を鳴らした。

「気に入らんね。連中だけでこそこそと言葉を交わしよる。わしのさかずきが空になっても気づきゃせんようになった」

 確かにサンナ村の住人の圧倒的多数を、大人族が占めている。小人族はおそらく一割程度だろう。テジンのような大きな都ならいざ知らず、サンナのような村では、小人族をことさらに嫌い、避ける者もいる。

 が、フピースがそんな「小人嫌い」というわけではない。彼は、数少ない友であるヘスクスを取られて嫉妬しているだけなのだ。

「小人の娼婦がまた斬り殺されたらしいではないか」

 フピースは言った。

「耳が早いな。殺されちゃいない。一命は取り留めたよ」

「下手人も小人か?」

「なぜそんなことを訊く? あんたのまじないで、何か見えたかね?」

 フピースが口を開きかけたときだった。

「ゴルカンさんじゃありませんか。お買い物ですか?」

 背後で、つやっぽい声が聞こえた。赤い髪に、いつもいつもべそをかいているかのような、やや垂れ気味の両眼――それが男たちに人気らしい。〈緑月楼〉の娼婦、ミグナルだった。傍らには、まだ十二、三歳程度の下働きの娘を連れていた。

「ゴルカンさん、イルルーサは眼を覚ましましたよ。でもかわいそうな子、傷を見て大泣きに泣いて、あたしも涙が止められなかったわ」

かたきは取る、間違いなく」

 私は言った。

 するとミグナルは私に身を寄せると、私の腕を取った。濡れた眼で見上げ、声をひそめた。

「こんなことおおっぴらに言えないんですけどね、あたしは黒帽隊がどうしても信じられないんですよ。ねえゴルカンさん、頼りになるのは、あなただけ」

「買いかぶらないで欲しい」

 ミグナルはさらに声を低めた。

「噂になってますわよ、ソルドー様のお屋敷で起きた事件。あの下手人を斬ったのは、ほんとうはゴルカンさんなんでしょ?」

 私は黙っていた。

「お引き留めしちゃったわ。ぜひうちの店に寄ってくださいな。いえ、用心棒としてじゃなくって、お客としてね」

 しなを作って、ミグナルは下働きの少女とともに去った。フピースは、不機嫌そうに顔をゆがめていた。

「気に入らん。ああいう女は、男を騙してしゃぶりつくす」

「騙されるために、男は店に登楼るんじゃないのかね?」

「おまえさんも気に入らん。どいつもこいつも不愉快な奴ばかりじゃないか。どうしちまったんだ、この村は?」

 そう言いながらもフピースは、雑踏の中を遠ざかって行くミグナルの尻を未練がましく見つめていた。

「あんたは知らないか? 特殊な刃物だ。人を斬ると、浅くていびつな傷を付けて、大量に出血させる」

 私が訊くと、フピースは皺の隙間からぎろりと見上げてきた。

「そりゃあ、おまえさんのほうが詳しいんじゃないのか、ゴルカン? いくつも修羅場を見てきただろうに」

「私も見たことがない武器なんだ」

「ふむ……さすれば、それは武器ではなかろう。智恵持つ者は、恐ろしきかな。癒しの具すら、戦に使う」

「と言うと?」

 フピースは黄色い歯を剥いて、「し、し、し」というような笑い声を漏らした。

「人とはおぞましき存在よ。殺しのためなら、いかなる苦労も厭わんし、いくらでも智恵を絞る」

「何が言いたい?」

 問うと、フピースは鼻をすすった。

「わしの言葉は金の言葉だと、いつも言うておろうが。お代は要らんぞ、コルメ酒一杯でいい」


 そうフピースは言ったが、コルメ酒一杯では済まなかった。その後に入った料理屋〈彩雲亭あやくもてい〉では、コルメ酒を五杯にハナナガ山羊肉の煮込み、ミドリ鶏の丸焼きまで私はおごらされた。フピースは、女将のサロアが眼を丸くしている前で、四人前はあろうかという料理をぺろりと平らげ、満足げに襤褸ボロの袖で口を拭った。

「喰えなくはないのう。になんとか収まったわ」

 言うなり、フピースは私とサロアに背を向けて、よろよろと店を出て行ってしまった。

「何なんだい、あの乞食は? もう二度と来るんじゃないよ!」

 サロアは太った体を揺すりながら、閉じられた扉に向かって毒づいた。

「ねえゴルカン、あんたはまだあんな輩とつるんでるのかい」

「腐れ縁でね。ああ見えて、実はまっとうな予言師らしいよ」

 サロアは呆れたように天井を見上げた。

 そのとき、〈彩雲亭〉の扉が押し開かれた。入って来たのはフィエルだった。半年ほど前に起きた蛇神崇拝者たちの事件に巻き込まれ、心身ともに傷つき、身寄りを失ってしまった。彼女はまだ十五歳の少女だ。フィエルは、両手に土の付いた野菜の入った籠を提げていた。

「ゴルカンさん、グンは元気?」

 フィエルはみどり色の眼を輝かせ、私に駆け寄ってきた。

「ああ、たいへんに」

 フィエルは小動物が跳ねるように、厨房に向かった。後ろに束ねた赤い髪が揺れた。

「久しぶりにいい魚が入ったんですって。川のものじゃなくて、西の海から。今、準備しますね」

 フィエルはそう言い、笑顔で厨房の奥へ入った。サロアのおかげで、フィエルはだいぶ明るさを取り戻したようだった。が、その笑顔の背後には、水晶山での過酷な体験が隠れている。

 サロアは私に向き直り、小声で言った。

「あんた、テジンの都に旅に出てから、変わったね」

「そうですか?」

「ああ、変わったさ。眼が違う。何というんだろ。ときどき黒帽隊の連中と同じ、怖い眼になるんだよ」

 私は、ぬるくなったサッキ茶をすすった。私が今、当の黒帽隊の片棒をかついでいることは、サロアには言わずにいたほうがよさそうだった。

 そのとき厨房から、花柄の前掛けをしたフィエルが現れた。

「そうそう、〈市場通り〉で怖い話を聞いたの。隣のフィゴブ村から、人斬りがサンナ村に逃げ込んできた、っていうんだけど……ゴルカンさん、何か知ってますか?」

「フィゴブ村から? 誰がそんな噂を?」

 私が訊くと、フィエルは少し恥ずかしそうに頬を染め、視線を床に落とした。

「魚屋で、ほかのお客さんのおしゃべりが聞こえて来ちゃったの。夜な夜な、〈小さい人たち〉だけを狙う辻斬りが、この村に忍び込んでいるって」

 フィエルの言う〈小さい人たち〉とは小人族オゼットのことであろう。

「噂は、勝手に育ってしまうものだよ。いつのまにか尾ひれがついて、大きくなってしまう。証拠もないのに信じないほうがいい」

 私は冷えたサッキ茶を飲み干し、茶碗の底に沈んだ茶殻を見つめながら言った。

「あ、わたし、そんなつもりじゃ……どうしよう。ひどいこと言っちゃった……」

 フィエルが口元を手で押さえ、うなだれた。

 私は茶碗を飯台に置いた。

 フィエル自身が「蛇神崇拝者たちが不老不死の薬を与えてくれる」という根も葉もない噂のために、心と体に深くて決して消えることのない傷を負うことになったのだ。それを思い出したのだろう。フィエルの顔から一気に血の気が引くのが見えた。

 私はかける言葉を見つけられず、茶碗の底を覗き込んだ。何も見えはしないのに。

「フィエル、あんたがゴルカンのために、西の海の魚を料理しちゃどうだい?」

 サロアが丸い体をのけぞらせ、厨房を指さした。

「え? わたしがやってもいいの?」

 フィエルの双眸そうぼうに、ぱっと光が宿った。

「あたしゃ、今日はどうも腰が痛くってね。調理法はわかってるだろう? いいかい、塩は控え目にして、パチュニ草の香りを少し強めに効かせるのがコツさ」

「うん!」

 フィエルの表情が笑みで満ちた。私を振り向き、一度うなずくと厨房へと駆け込んで行った。

「すみません、いつも」

 私はサロアに頭を下げた。

「謝るんじゃないよ。あんたにゃフィエルを笑顔にする義務があるんだ」

 サロアはそう言いながら、私の茶碗に濃いサッキ茶を注ぎ入れた。私は一気に飲み干した。いつまでも苦味が残った。


「緑の夜の刺客/〈灰色の右手〉剣風抄」第二話へつづく

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