押川さんはもう一流

「終わったの」

「ちょっと一智兄ちゃん」

「押川さん、祐介君お腹空いてるからさ。ああ僕も手伝うから」


 押川さんはこんな僕を気にする事なくじっと立ち続け、祐介君が洗面所から出て来るやきっちりと話を進める。

 祐介君はおそらく、手をせっけんで一分近く洗っていた。たぶん普段はこんな事なんかしないでお母さんや押川さんをわずらわせているんだろう。

 すぐわかっちゃう。


「わかったわ、祐介今日は一智君もいて大変だから冷凍で我慢して」

「わかったよ」

 以前押川さんが作った料理を何度か食べた事があるけど、もし僕が祐介君だったら早く家に帰りたいと思うぐらいの味だった。その時は確か一から作ってくれた気がしたけど、冷凍でもあってもそれ以上に作ってくれるという期待はあった。




「まあ祐介の事もあるからちょっと肉を足したんだけどね」


 で、果たして実際に食べてみると本当に冷凍チャーハンなのかよと思うぐらい押川さんの料理はおいしかった。本人はそう言ってるけど、とてもそれだけには思えない。解凍やその後のやり方さえも、僕と違ってきちんとわきまえているように思えて来る。


「練習の後は本当にお肉がおいしくってさ、今日もまた一段と早くなったぜ」

「もう、祐介はいつも食事中にそんな話しないじゃない。私の前でも、お父さんとお母さんの前でも」

「何でも食べなきゃ強くなれないよ」

「わかってるよ、それで今日もさ、先生は……」

「もう祐介ったら、ごまかしはダメだよ」


 祐介君のスプーンの動きはずいぶんと速いけど、たぶん本当はもっと早食いなんだろう。それをなんとか食い止めるために、関係ない話をして時間を持たせようとしている。


「かわいい弟だよね」

「どこがだよ」

「一智君もそう思う?」


 なんとか僕の前でカッコいいというか真面目な所を見せてやらねばならないと奮起する姿ってのは、確かにかわいいとしか言いようがない。

 ずっと前から見慣れた光景だったはずだけど、さっき押川さんが翔君を寝かしつけた事を思うとなおさらそう見えて来る。

「もうさ、祐介君もお兄さんなんだよ。十三年間も末っ子をやって来たからわからないかもしれないけどさ」

「一人っ子の一智兄ちゃんに言われたくないよ」

「祐介、後で一智君と一緒にお風呂入ってね。じゃなきゃお姉ちゃんと」

「一智兄ちゃんと入ります!」


 ああ、ものすごくわかりやすい。

 こう言えば言う事聞かせられるんだろうってツボをきっちりと抑えている。ますます憧れの気持ちが増して行く。その気持ちが顔に出たからだろうか僕の顔色は祐介君と同じ色になり、それとシンクロして押川さんの口が緩み出した。あーあ、実に可愛い人だ。



「ちょっと何やってんだよ兄ちゃん」

「昔はやってただろ」

「一智兄ちゃんにはやられてねえよ」

「忘れちゃったのかよ」


 お風呂場で、僕は祐介君の服を脱がせた。僕だって一応運動部だけど、祐介君は僕にもまして足が太い。陸上部の練習でここまでになる物なのか、思わず感心してしまう。

 もしこのまま押川さんが夢を叶えたとしたら、こんな風に男の子の服を脱がせてやったりする事もあるんだろうか。中二にもなってそんなことされる筋合いはないよとばかりに祐介君は反抗するけど、さっきまであんな事をやってちゃ説得力はない。一年前はずいぶんと威張っていたはずなのに、今は僕と五センチしか違わないはずの背丈がやけに小さく見える。なるほど、本当に面白い。


「おいおい何だよニヤニヤして!」

「まあね、祐介君って押川さんの前じゃ案外子どもなんだねと」

「うっさいよ……」

 僕らは二人してお風呂に入り、お互いに適当に体を流したりお湯に浸かったりした。これも数年ぶりだ。

 その時好きな女性タレントと言えば、それこそテレビに出ているアイドルとか女優とかそんな味気ない答えしか言えなかった。



 でも今の僕は違う。はっきりと自分が目指す物が分かる。




「しかしパジャマで勉強会するか」

「いいじゃないの、うつらうつらしてた時の方がかえって頭に残るのよ」

「一智兄ちゃんずいぶんやる気なんだもんなー」


 自然、その目標を目指すための戦いにも熱が入る。表向きには成績がイマイチな押川さんのためと言う事になってるけど、言うまでもなく僕のためでもある。

 ついでに祐介君のためでもあるし、やっぱり僕のためでもある。


「実は押川さんと同じ大学行こうかなと思って」

「もしかして保育士に」

「わかっちゃった?」

 今回、僕と押川さんの構図はこうなったらしい。一応こちらも当ててやったからおあいこかもしれないけど、それでもまったく勝った気にはならない。


 でも何が悪いんだろうか。お互い、適当に影響を受け合って混ざり合って行く。それでいいじゃないか。祐介君は小声で笑いながら、ちらりと翔君の方を見る。

 まだお風呂と食事で一時間も経っていないとは言え、ただ素直に眠っていてくれている。本当にいい子だ。


「じゃあ頑張んなきゃいけねえよな、姉ちゃんも一智兄ちゃんも」

「そういうことだね!」



 そして祐介君の号令で押川さんと祐介君を交えての第二次勉強会が始まり、祐介君があくびが出た所で終了した。祐介君は翔君のベビーベッドが鎮座している部屋の二段ベッドに向かい、押川さんは遅まきながらお風呂場に行き、僕は押川さんのお父さんとお母さんの寝室のお父さんのベッドに腰掛けた。一緒に泊まる時はいつも使わせてもらっているベッドだ。




「そう言えば十二年前、この家ででつい背伸びしてあんな事しちゃったんだよね」

 それこそ十二年も前の、こっちからしてみればあまりにも何気ない日常の思い出が押川さんの人生を決めようとしていたとは思わなかった。

 それからずっと、押川さんは夢に向かって突き進んでいる。僕がそんな事を考えながら目を閉じるまでの間、翔君はついに泣き声を上げる事はなかった。


 いつになるのかわからないけど、五十一回目の訪問はもっと胸躍らせるそれになるのかもしれない。その時までには少なくとも翔君のような、未来の僕の相手に類似した存在にうまく対処できるようになっておかなければならない。それがとりあえず目先の目標であり、僕の夢への第一歩だ。


 明日の朝は、僕が翔君をあやしてあげよう。


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押川さんの青春 @wizard-T

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