押川さんはカッコいい

 翔君の姿を見たのは五ヶ月ぶりだ。まだハイハイもできないような赤ん坊、誕生日まであと二ヶ月ある。


「ちょっと触れちゃっていいのかな」

「悪い訳ないでしょ。って言うかいったん勉強会中断しよ、私ミルクあっためて来るから」

「はい」



 生返事だけして見せたものの、一体何が悪いのかわからない。押川さんが言う通りお腹が空いているのか、それともおしめを濡らしちゃったのか。どっちでもないのか。

 とりあえず抱き上げて翔君のおしめを触ってみたけれど、湿っているのいないのか全然わからない。さっきの泣き声で出た汗が引っ込んでないままさわったせいか、内側からじゃなく外側から濡らしているように思えて来る。



「ベロベロバー!ベロベロバー!なあ、ほんのちょっとだけ、ほんのちょっとだけでいいからさ、ね、ね!」

「オギャー!」

「ほーらほら、ねーむーれー、ねーむーれー」

「フギャーフギャー!」


 とりあえず顔のパーツを動かしまくってできる限り変な顔をして笑いを取りに行ってみたり、上下にゆったりと揺らしながら子守唄っぽいのを歌ってみるものの、それでも音量が小さくなるのが精一杯だった。四歳や五歳の時の記憶やテレビ番組で見た光景を必死になって思い返しながら次の手を探そうとするが、どうにもこうにも思いつかない。


「何やってるの一智君」

「ああ押川さん」

「ああこれ、やっぱりご飯よ。にしてもなんでおしめ濡れてるのまだしてないはずなのに」

「それたぶん僕の手汗だ」

「アッハッハ、私もよくあったんだよねそれ」


 そんな所にやって来た押川さんは哺乳瓶を翔君の口に突っ込むと、あっという間に翔君は泣き止んでしまった。翔君じゃなくて僕が泣きたくなったのを、一瞬でしずめてしまう。もし僕が女性でこんな小さな弟がいたとして、こんなうまくできるかどうか自信がない。


 その上でミルクを飲み干すや濡れ出してしまったおむつをサッと脱がせておちんちんの周りをきれいにしてちゃんと捨てて新しいのを履かせる手際とか来たら、僕などベビーベッドに転がっているガラガラかお人形さんかそれ以下の存在だって事をよく示してくれる。



「何その目、ほめたって何も出ないけど」

「僕はそんな事できないから」


 他に何も言いようがない。翔君をあんなにスラスラとあやし、そして泣き声だけで何が必要なのか見極めるだなんて神業じゃないか。

「結局お母さんの真似事よ。赤ん坊の時はあなたのが外れるのが早かったからお母さん苦笑いしてたわよ、祐介で挽回できたけど。って言うか一智君だってやってたじゃないの、正直その時はやいちゃったんだから」

「そうなの」



 なんでも祐介君が二歳だったころ、僕は祐介君のおしめを変えてやった事があるらしい。その時祐介君は、押川さんがやった時と違ってぐっすりと寝てたそうだ。


 一応校内では優等生で通っている僕だけど、その名声を寄越してくれたのは他ならぬ押川さんだ。小学校二、三年生ぐらいの時代は押川さんの方が成績が上であり、それに負けたくないと思うからこそ必死になっていたつもりだった。


 その結果、卒業間際には先生から私立中学の受験を勧められるぐらいには成績も上がっていた。結局やめて押川さんと同じ中学校に行く事になったけど、それでも自分なりに勉強もしたしサッカー部と言う名の団体に入り込んで肉体を磨いて来た。


「弟の面倒を見てると本当スキル上がるからね、まあ一個のテストケースにこだわりすぎるのはまずいかなと思ってボランティア活動もやってたんだけど、お父さんとお母さん、それから翔には本当感謝してるんだから」

「ははぁ……」


 それこそ土下座してひれ伏したいほどに押川さんの顔はきれいだった。全く後悔とか不安とか言う要素が見当たらないぐらいには彼女は輝いていた。

 押川さんがはかせてくれた清潔なおむつを履いて、お姉さんの腕の中で眠る翔君はものすごく幸せそうだ。こんな弟がいたらなとか考えちゃう。




「姉ちゃんおかえりー!」

「おい……」

「ああ一智君落ち着いて、祐介には伝えてないから一智君の事」

 だからこそそこに割り込んで来た声は、正直不愉快だった。遠慮もなければ、配慮もない、ついでに悪意もない大声。

 翔君が目を覚ましていないことに安堵しながら、なるべく音を立てまいと大股かつゆっくりと歩き、下手人の面相を眺めてやりたくて仕方がなくなった。


「ありゃ一智兄ちゃんじゃん」

「バカ!」

「おいおい何だよ」

 下手人である祐介君はいきなりの怒声にもまるでひるまず、見慣れた訪問者を見上げて来る。なんで俺叱られたんだよとでも言いたげに不思議そうな顔を作っている、そこにはまるで数年前と変わっていない坊やがいた。

「今翔君が寝たんだよ」

「あっそうかいけねえいけねえ!」

「っておい!後ろを向け」

「え?」

「ほらほら!」

「何だよいきなり」

「祐介……」

 

 泥だらけの靴下も脱がず、靴も脱ぎっぱなし。おまけにこのでかい声。押川さんが怒るのも当たり前だ。僕が必死に注意しようとするけど、全然祐介君は耳を貸さない。

 そこにタイムアウトを告げる押川さんの、小さいけど迫力は反比例している声が飛んで来た。僕までしまったと思って振り返るけど、とりあえず押川さんは笑顔だった。実にいい笑顔をしていた。



「姉ちゃん……」

「一智君がうんぬんとか言う問題じゃないわよ、ちゃんと靴を整えて、それから靴下も脱いで洗濯機の隣のかごへ!」

「まだ玄関マットだし」

「屁理屈をこねるんじゃないわよ、ったくもう翔よりおちんちん小さいくせに」

「な訳あるかよ!」

「あらやだ、もちろん同じ年の頃の話よ。ねえ一智君」



 もしこれが年末のバラエティー番組だったら、僕はお尻を叩かれていた。あまりにも強烈な不意打ちで、よく祐介君は一撃返せたなとさえ思えて来る。僕が必死に肩を震わせる中、その中学二年生の祐介君の顔が赤くなっていた。


「はいはい……」

「ちゃんとしなさいね、手を洗って靴を整えて」


 祐介君は顔を真っ赤にしながら靴を並べ直し、洗面台へと向かう。一人っ子にはできないやり方、その分だけのアドバンテージがあるのだろうけど、それにしても実にうまく男の子たちを操っている。実にカッコいい。

 僕は腰を横に向けながら、そのカッコいい笑顔をじっと見つめていた。




 正直な話、僕には何の夢もなかった。


 これから残る二年半の間、一体何を目的に過ごせばいいのか。

 その後どうやってご飯を食べて行けばいいのか。

 その答えはどこにもなかった。

 一応大学にでも進んでそのままどっかの会社に流れ込んで、ができればいいのかもしれないけどこの時代じゃそんな事は無理だろう事もわかっていた。


 そんな所に飛び込んで来たこの笑顔は、それこそ女神様の笑顔だった。

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