押川さんの青春

@wizard-T

押川さんの弟

 同い年の女子のおうち、そんな場所に堂々と上がり込んで、しかも一夜を共にする。それが今これからの僕だ。

「いらっしゃい」

「ああ……」

 彼女が扉を開けてくれた先には、二十歳以上の人間は一人もいやしない。僕の親も、押川芽衣さんの親も。


 もしそれが五十回目の訪問でなければ、よりドキドキしたのかもしれない。




「なーにグズグズしてるの、ほら早く早く」

「ああちゃんと靴を揃えて」

「もう一智君もいっちょ前に大きくなったんだから。って言うか何それ」

「朝はその、まあしょうがないとしてもさ」

「賞味期限明日まで持つんでしょ、明日の昼にして」


 押川さんは色あせかけた部屋着のワンピースを着て、まるで平然として高校一年生の男の子である僕を出迎え、そして要らぬお世話をピシャリと断ち切る。ああ、このビニール袋に突っ込んだおにぎりとお茶は明日のお昼ご飯になるんだなと思いながら僕は敷居をまたぐ。

 廊下もリビングも、全然変わっていない。一年ぶりだっていうのに、まったく同じだ。

「全然変わってないな」

「当たり前でしょ、たかが一年ぶりで。まあ七年前に改築した時と比べればね」

「そん時は小学三年生だろ、そん時から比べれば変わってるの当ったり前じゃないか」

「あの時は本当ドタドタこの家の中駆け回ってさ、一智君お母さんにどなられてたよね」


 本当に、よく覚えてる。こっちはそんな事とっくのとうに忘れてるって言うのに。

 家はふたつ隣で徒歩三十秒、幼稚園も小学校も中学校も、そんで高校さえも同じ。僕は彼女の、彼女は僕の事をよーく知ってる。そしてお互いの親も。

「ったく、女の子ひとりだと不安だからこっちが呼んだって言うのに、ここは民宿じゃないんだけどね本当」

「でも礼儀としてさ」

「あーはいはい、ちょうだいちょうだい」

 僕は五円玉を押川さんに手のひらに落とす、儀式みたいな物だ。

 これまでの四十九回と同じように、一円でもいいからお金を渡すのがマナーになっている。押川さんがうちに来た時にもいくらかお金を払っていた。物を持ってくる事もあったけど、いつの間にかお金だけになっていた。



「祐介君は」

「いないわよ、弟なら陸上部でかなり遅いから。ったく、あの中学校の先生ちょっと危ないのよね。何て言うかアナクロニズムって感じで、ただただ走る事だけが練習だと思ってる感じでね、そのせいで部活のある日はもう二人前平気で平らげちゃうんだから」

「ああ」

「まあとにかく、今度のテストいろいろ危なかったからさ、ちょっと教えてちょうだい身辺警護がてら」

「まあいいけどね」


 僕はおにぎりやお茶を突っ込んだビニール袋をテレビの前に置くと、通学カバンに入っていたノートと教科書を開きながらテーブルの上に置く。一年ぶりだというのにほとんど変わらない景色を眺めながら、押川さんが出してくれたこの前の小テストの答案を眺める。

「あからさまとかやがてとか、そういう単語は気を付けた方がいいよ。かえって」

「ついはずみで書いちゃうのよね」

「文章で覚えたらいいんじゃない、ほんのちょっとあからさまに、やがてすぐにとか。この前古文でそれやって好成績取ったんだから」

「何それ裏ワザ?ずっるいなー」


 そっちの方がよっぽどずるいじゃないかとは言わない、自分でもあまり正しい手段だと思ってないから。こんな手段で身に付けた知識や点数がどれだけ役に立つのか、自分でも自信がない。まるで不正行為でもしている気分になる。先生は楽をして好成績を上げるのは社会人に必要なスキルだとか言うけど、その言葉をどうにも素直に飲み込めない。

「……」

「何黙っちゃってんの、昔はこんな気難しくなかったのに」

「気難しい?」

「まあまあ、わたしもちょっと調子に乗っちゃったからね、そこんとこは目をつぶってちょうだいなって」

 右目をウインクしながら三〇度ほど頭を下げる、まったく見慣れた仕草だ。見ているとなんとなく癒される。

 でもこの特権を味わえるのもあとどれだけの間なのかわからない。今はまだ高校一年生だけど、これから二年生になり、三年生になればそれこそただごとではなくなる。

「ねえ、さっきからどうしたの。もうちょい教えてよ」

「いや、さあ……押川さん高校出たらどうするの?」

「もちろん大学行くわよ。一智君だってそうなんでしょ」

「えーと……」


 相槌を打つことさえもできない。


 勉強はクラスで三番手争い、サッカー部でも一年生にして準レギュラー。

 それが僕だった。

 友だちもちゃんといるし、休みの日には通信教育をしたり外に出てサッカーの観戦や買い物をしたりしている。

 それも僕だった。


 でも、それまでだった。勉強とサッカーと友だちと、真面目な生活態度と健全な趣味。これらを全部引っこ抜いた時いったい僕に何が残るのか。何にもない、ただの裸ん坊の十五歳じゃないか。その裸ん坊が一体何をして生きて行けばいいのか。全然当ても付かない。



「まあうちの家庭も一智君の家庭も大変だよね、出張中のお父さんだけじゃなくお母さんまで夜遅くまで働いてお金稼いでる状態でさ、とくにここ数年なんか私たちがこんな年齢になったからなおさらとばかりに」

「まあね、でも進学目指す以外にもう少ししたい事をしてもいいと思うけど」

「してますけど」

 彼女は中学時代からずっと帰宅部だ。顔も身体能力も十分な彼女にはそれこそ部内からスカウトの当てすらあったぐらいなのに、すべて跳ね除けて帰宅部を選んでいる。そこまでしてしたい事とは一体何なのか、今の僕には及びもつかないような夢でもあるのかと思ったけど、まったく触れられる気がして来ない。

「ああそれよりさ、とりあえず勉強。それで古文の動詞ってのは」

「ウワーン!」


 とりあえず逃げようと思って教科書に目を向けた僕に、いきなり甲高い泣き声が飛び込んで来た。あまりにも不意打ちだったせいか手に汗が浮かび上がり、教科書が濡れてにじんだ。

「ああごめん翔だわ」

「翔君か」


 僕は泣き声の主の元へ、押川さんの後をついて行く。一瞬ここ押川さんの寝室かよとびくっとしてなおさら手汗が多くなったけど構う事なく、一年前にはそこになかったベビーベッドの存在と、翔君と言う名の赤ん坊を確認した。


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