『エピローグ 後編』

『エピローグ 後編』 (第一部・終わり)




「——さて」




 歪んだ空間、口を開ける渦。

 "現世と冥界の境界線"を背に続けて口を開くのは領域の管理者である女神のアデスだ。




「それでは、冥界を出ましょうか」

「……出てもいいんですか?」

「……はい。"貴方の心身を追い詰める"事は目的でなく——よって手の届く範囲、私の認識が及ぶ範囲内ならば今後も、従来と大差ない自由な行動を許可したいと思います」

「……」

「看過不能の問題については適宜こちらで対処をし、貴方と私が遠く離れる場合についても既に策を講じているので……そう案ずるな。我が弟子」

「……はい」




「本当に色々、気を遣ってもらって……ありがとうございます」

「……いえ」

「もう少し落ち着いたら、自分の方からも何か出来ないか、またお礼だったりを考えてみます」

「……分かりました。ですが気負い過ぎないよう、ご注意を」

「……はい。ご迷惑をお掛けします」




 対しの青年女神。

 自らの人名を明かした後のルティスはやんわり厳しく刺される釘に頷きを返して、命を無謀な挑戦に賭したことでも"この先"——『本格的な切言が待っているのだろうか』と怯えつつ、喜び。

 安堵もしつつ俯き加減だった顔を上げ、出口へ向かおうとする頃。




「それでは、えぇと……」

「……」

「この穴を潜れば……"外に出られる"……?」

「はい。その先は貴方の仮拠点。忘れられた地下神殿にて女神イディアが待っています」

「……! それなら失礼して、早速——」




 またも——水の玉体、"引かれる感覚"。




(……? そですそが引っかかって——……)




 進行を阻む背後からの引力に『まさかまたか』と振り返り——。




「……アデスさん……?」

「"……"」

「……え、なぜ……?」




 不安な面持ちで恐る恐るの問い掛け。

 一度ならず二度までも現世への生還を阻む引く手の持ち主——恩師の女神へ行為の真意を問う。




「……まさか、やっぱり自分を——」

「違います。『弓を引こう』とした訳ではない」

「……なら……?」

「私は貴方を、"二度と背後から裏切りはせず"……ただ——」




(……ただ?)




「——少々、"気が変わった"のです」

「それは、どういう……」

「……折角の"密やかな機会"ですので、貴方ともう少し……『話が出来れば』と……思いまして」




(……?)




 だが、歯切れの悪い返答に浮かぶ疑問符。




「……聞きそびれた疑問や質問についてもお答えしますので……どうでしょうか?」

「……」

に、追加のお時間を……頂けませんか……?」




 威圧的な魔王の左、降ろされて。

 ほどかれる引力と同時にその極神が願う内容は余りに"普通"、何処か"日常的"。




「……」




(……何だ、これは……"狙い"は一体……?)




 戦いを経て軽装となり、何時にも増して顔を晒す眼前の恩師。

 その赤い視線で送る戦略的意味合いのない"意味深な流し目"を青年は警戒して、思わずに上体を強張らせ——。

 多少なりとも身構えての、お答え。




「……貴方がそう言うなら、それで構いません」

「……感謝します。我が弟子」

「……」

「……こほん」




「では、改めて……"話"というのは——」




 了承は済み、若々しい老女が仕切り直す。




「他でもない"貴方と私の関係"について……私から一つ、"提案"があるのです」

「……"提案"?」

「はい。"師弟関係と異なる別種の繋がり"を私は……『貴方と共に知りたい』——……そのように考えているのです」

「……("?")」




 まだ要領を得ないが、合わせて打つ相槌。

 思慮深い恩師が態々引き止めるような"要件"・"提案"とは果たして何なのか。

 戦いの緊張を引き摺る青年には以後の展開が検討も付かなかった。




「……というのも、かつても今もこの私……冥界の神。謂わば『死神』を"そう"呼ぶ者たちがいて……」


「私は死をこの世界に齎し、また終わりを見届ける者として……その効果がどれ程であるか、目指す場所が当初の目的から外れてはいないか……確認を続ける責務を自らに課し——」




 アデスは冷厳の表情のまま、やはり持って回った言い方。

 髪留めの紛失で下ろした白髪の毛先を片手で弄り、もう一方の手で隠れ蓑を頭から被ろうとしてそれも戦闘で失ったことを思い出して——『さらり』と頭巾のみを衣の首元から簡易的に生やし、うずめる闇よりの真紅で青年への提案。




「——因りてそれを全うする為にも、貴方と女神イディアがそうであるように、私も……いえ、貴方たちの間にある関係は完全に同じもの一つとしてない交換不可能性があって……」




(……どういう、ことだ?)




「……つまり、その……」

「……?」

「……端的に言って——『ちぎりを結ばぬか』という……」

「"契り"……?」

「はい……『友好の契り』、その"関係"を……『私と貴方と』で……?」

「……」

「……それこそが、私から貴方への提案……なのですが」




(……ゆうこう……)




「……それはつまり、友人——いえ」


「——『友達になろう』ということですか?」




「……端的に言っては——そうですね……"はい"」




「…………」

「…………」




 その示された内容は予想外で。

 青年は沈黙で以て考え込んだ後——。





「——……"!?"」





 虚を衝かれ、思わず表情でも見せる怪訝けげんの色。

 恩師からの今更の、宛ら初対面で言葉を交わして意気投合した『同級生の少女』染みた言動に驚き——緩みきる心。




「……お——自分と、アデスさんが……?」

「……貴方さえ良ければ——ですが」

「それは……」

「……断ったとしても、不利益は生じさせません。あくまでも研究調査の一環として協力をして頂ければ、私への返礼はそれでと——」




 そうして、緩んだそれ故だろうか。

 禍々しき神より『友』という普遍的で牧歌的——"人の日常"を思わせる言葉が聞こえたからだろうか。




「——思い……」

「……っ」




 青年の顔より——"水"が、滴り落ちる。




「——……大丈夫ですか」

「っ、……ごめんなさい、なんで、なぜ……」

「……緊張の糸を私が断ち切ってしまったのかもしれません」




「ならば、責は私にあり。貴方が謝ることは勿論、恥じることも——」

「——いえ、本当は——っ、さっきは格好をつけて色々言った……けど——」

「……」




 穏やかな決壊の時を迎え、崩れ落ちる膝。

 俯いた顔を隠す内色の青い黒の長髪。

 異変を察した師は直ちに自らの頭巾を取り去って青年の前で膝を立てて屈み、溢れ出す言葉を静かに受け止める"感情の受け皿"としての役を担わんとする。




「本当、は……"いつも怖くてっ、苦しくて"——」

「……」

「助けてくれた貴方が、いないと——『いなくなったら嫌だ』、と……」

「……はい」

「……もう、、『生きるのが怖い』——そう思っただけ、そう思ってすがろうとしただけ、で……っ——」




「——そんな自分が、貴方と関係を続けられて……しかも、、"友達"になんて……っ」

「……」

「そうなっていいのか……後ろめたくて、っ……不安——で……」

「……」

「っ……うっ……ぅぅ……」




 青の瞳は病的に、明度を下げての明滅。

 "消え入りたくなる"青年の思いに呼応し、小刻みに震える体もまた輪郭を流体に溶かし始めての——嗚咽。





「う……、っ"……」

「……」





 その悲嘆の様子を前、震える相手を抱き寄せるでもなく沈黙の女神。

 此処へ来て彼女は以前から青年の時折見せた"執念"や、その"理由"を——『誰にも理解出来ぬ孤独の恐怖に抗おうとしていた』、『自身は勿論、他者の"喪失"に対しても怯えていたが故に立ち止まることが出来なかった』——それらの事実も知ることとなり。




「……構いません」


「繰り返しになりますが、駄目なことはないのです——何も」




 青年の師として、身を預かるものとして。

 また"苦痛や悲痛"、"恐怖の道の先を行く者"として——己が心に"決意の炎"を灯して、言う。




「……、っ…、…」

「私にとってはもろき心を抱えることも悪ではなく、罪でもなく」




「例えその心、砕けたとしても」


「貴方は、その破片の切っ先で——"意図して他者を傷付けようとはしなかった"」


「『そうはしたくない』と"思えている"」


「そうした、『他者を傷付けまいと努める貴方』を——私は知っている」





「故に、だから——"命の覚える痛み"に敏感な貴方だからこそ、"死の神"でもある私は——」


「時に距離を近しくする『友』として、『貴方と言葉や議論を交わしたい』と……そのよう思ったのです」





 物柔らかに語りかけながら、古き女神は防壁の膜を一つ。

 その一つだけを残し、消す手袋で右の素手を晒し——通わせる人肌の温度。




「……無理強いはしません」


「しかしそれでも、"友好の繋がり"が私だけでなく貴方にとっても喜びとなるのなら」


「その心の安寧に、僅かでも寄与することが出来るのなら」




「……それならば、どうか——」




 震える者に向け、その温めた白の手を差し出しての言葉。





「この手を——取ってはくれまいか」


すれば、私という神は"誓おう"——」





「"貴方を支えるため"の——"更なる助力を"」





「! っ……!」





 それは、"願ってもない申し出"で。

 頼りも既にない若者は飛び付こうと手を伸ばしかけ——けれどの触れる直前、躊躇い。

 相手への迷惑は勿論、これまでに性愛でもその姿を見ていた自分が『触れていいものか』と。

 懊悩が引き戻そうとする手、震えに震え。




「……」

「、……、っ——」




 しかし、その間も不動にて待つ恩師の瞳。

 差し出された掌も取られることを待ち。

 頼もしき女神が与えてくれる安心を断ること——目前で逃すには既に、"青年の心身は余りにも疲れ果てていて"。

 悩んだ末で縋ろうとする心、再び遠慮がちに伸ばす手の指先は——間もなく。





「「——」」





 白の柔肌に触れて、震えるその手はただ優しく——久しく忘れかけていた人肌の体温によって包み込まれるのであった。




「……決断に、感謝を」


「そして貴方に——"宣誓"を」




 そうして、震えを受け止めたまま——魔王。




「私は貴方の師であり——"庇護者ひごしゃ"」


「そして、今よりは友——"師友しゆう"にも相成らん」




「……っ"」

「……孤独や静寂を愛する私で、しかしそれらの良きことを語らえるのもまた——"友という他者"あっての喜びでしょうから」




 浮かべる微笑みは憂いを和らげようと。

 何度でも強調する——"存在の容認"。

 今は外界と隔絶された冥界領域で。

 けれど、増大した水神の力はこのまま外に出れば不安定な波立つ情動に呼応して神体でも氾濫を起こし、幾度となく数多の命を奪ってしまうだろうから——そう言った意味でも、他者の助けなくして生きることが更に困難となった者へ。

 また場合によっては"抱える秘密"が故にも、『世界にとっての害悪』とも成り兼ねない青年へ。




「またそして、"死したのか否か"。真偽の判別付かぬ者——濡れた孤独に震える青年よ」


「やはり、その身を預かるべきは私」


「世界を覆い隠し、永遠とわに寝かせる——暗黒と冥界の神である女神をいて他にはいない」




 切り替える表情——実顔まことがおのアデス。

 世界を滅ぼす最大・最強・最悪の『魔王』と成らんとする神は『滅びの因子』に対して、力強く。

 其々の立場を自覚しながら『それでも』と握る手。

 震えを一層の力と熱で包み、暗黒——冷え切った心に寄り添い、誓うのだ。





——






「故にその"魂"、決して……"私以外の誰にも"——」






「——






 "破滅の魔"で固く、"守護"を誓う。





「……真相究明と同時に、貴方の"家族"についても此方で形跡を探る」

「……!」

「……発見出来たのなら、僅かな言葉を残すいとまぐらいは与えましょう」

「……っ、ぅ……ぅ、ありが、とう……」

「……」

「ありがとう、ございます……アデス、さん」

「……気にするな」





「但し、"死神わたしに命が発見される"——『捕捉される』ことの意味を良く考えるように」

「……っ、ん」

「私にとって実在の真偽は未だ不明であり、場合によっては詳細調査の一環として貴方の記憶を閲覧させて頂く可能性もあります」





「それも勿論に任意で、同意を得られた時にだけ記憶の範囲を限定して調べを進めることになりましょうが——」


「『出し抜かん』とするなら——"精々上手くやれ"」


「手を抜く気は全く以てありませんが、"対立"……それも自由です」





 そう言って、瞬きを境に。

 鋭い眼差しは魔王としての側面と共に引き下がり、"死者を想う神"の色味が再びに顔を出す。




「……死者ほんらいならば負わずとも良い苦労の中に貴方は居るのだ」




「故に"魂を導く者"として私も、自らの信念や責務に差し支えのない範囲で手を尽くし、助けましょう」

「……っ」

「……早速、先ずは暗黒これを使って色を直しましょうか。帰還する貴方がぬらつく軟泥なんでい状のまま姿を現しては美の女神——心も心ならず」




鼻拭はなふき……『ハンケチ』の要領でお使いください」

「は、い……っ」




 そうして、手と手の離れ際。

 入れ替わりで渡された正方形の黒布——のような何かで青年は濡れに濡れた自らの顔を拭き、それと同時に握られた手に残る温柔の感触は全身に広がって、溶けかけていた水の者——見目麗しき黒と青の女神の形を取り戻すのであった。




「……ず、ずびばせん……洗って返し——」

「構いません。それも此方で処理します」




 翳す暗黒神の手。

 役目を終えた黒布をくうで現れた渦が吸い込み——微細な粒子が舞って、色を消す。




「……少しは落ち着けましたか?」

「……はい」

「……ではもう少し、間を置くとしましょう。私の存在が気の妨げとなるのであれば、席を外しますが」

「いえ、今は……近くに居てくれると……助かります」

「……了解です。でしたら私はこの場所で静かにしているので……準備が出来次第、声を掛けて下さい」

「……分かりました」

「同時に疑問や質問についても受け付けているので、何かあればご遠慮なく。内容は問いません」

「……ありがとうございます」

「……いえ」




「…………」

「…………」




 その後で訪れた静寂の時。

 未だ泣き顔を引き摺って『すんすん』と鼻を鳴らす青年で——それでも恩師の側、風吹かぬ冥界に揺蕩たゆたう心地よい静けさはあった。




(……本当に、優しい方)


(彼女と出会えて、"今の自分"は本当に——)




 折れた青年を見守る不滅の柱——腕を組んでは暗黒に寄り掛かって無言のアデス。

 その魔王存在が齎す絶大の安心感は戦場に赴く青年がわきに追いやった素朴な心情を揺り動かしては呼び戻し——ふとした拍子で再びに湧き出る"憂い"たち。




『自分は何者か』


『存在してもいいものか』


存在それが許されるのなら目の前の恩師にとっての"自分"——"俺"——"わたし"とは』




(…………)




 また抱える憂いが拭えるのか、どうか。

 質問の言葉を口にさせるのは僅かであっても『確かなものが欲しい』若しくは『欲しくない』と願う——境界を見失った青年の曖昧な心であろうか。




「……聞いても、いいですか」

「……なんでしょう」

「今更なんですが"性別の変化"を……驚いたりはしないんですか……?」

「……虚無きょむの上に世界を創造した神が『そう易々に驚く』と思いますか?」

「……」




 問い返されるような形。

 けれども期待を持てる返答で青の瞳に光——星は灯る。




「大神——生まれながらに多くを知り、今も知ろうとするが故に——未知は少なく、既知数多きちあまた




「『性の転換』……それもまた——"数ある特別という普通"に過ぎず」

「では……」

「要約して——『私はその点について驚きを抱えてはいない』ということ」

「……」

「……"嫌悪"も特には、

「——」




(…………よかった)




 相手の配慮で求めた言葉は得られ、漏れ吹く息。

 恩師の心中に"拒否や拒絶"の意志が不在と知り、険しさ和らぐ青年の心に、目付き。

 はたから見ても分かり易い感情の変化——その機敏に基づいて、苦境の心情を慮る師は更なる情報を加えて行く。




「……また、生来せいらいよりある種完成された——"際立つ個"としての力を持つ神々、自らの意志決定や行動を縛られる共同体へは基本的に属さず」


「これといった規範も設けられてはいないため、『性別とはかくあるべし』といった固定的な観念に、然して興味を示さぬ者も多い」




(…………)




「……一例として私自身、性別云々で他者に在り方を強制されたいとは思っていませんし、私から貴方に対しても何か……言動や振る舞いを過度に強いることのないよう『努めたい』とも考えています」


「描く幸福も理想の在り方も、自らの内より湧き出たものでなければ窮屈で……息が詰まる」


「……『追い立てる』、『追い立てられる』ようなことは決して……望ましいものではない」




 瞑目して、主観・客観で入り乱れる暗黒世界の記憶の先——今に、夢を見る女神。

 眠りに就くことさえ難しく、世界より爪弾きにされた青年への支援内容、その大まかな方針の開示もしておこう。




「……そのように考えているが故、もしも貴方が苦悩を抱えているのなら……力になりたい」


「私とて曲がりなりにも世界の創造主。大抵の物は用意が出来よう」




「勿論、貴方自ら望み、私がそれに応えると決めた場合に限りますが」

「……」

「具体的な方法は数あれど——『器の形を変える』ことも、と」




「……それも一つ。"覚えていて下さい"」

「…………はい」





「……」

「……」





「……これまで軽率に『女神』、『女神ルティス』と呼んでしまいました」

「いえ。アデスさんに悪気があった訳ではないと自分は知っていますので、それこそ気にしないで下さい……大丈夫です」

「……かたじけなく思います。我が——……とも




 未だ、青年の根本的な悩みは解消されず。

 しかし、質問の返答や一連のやり取りは間違いなく未来に希望の持てるものであり、今や青年の表情に影はあっても涙の雨は降り止み、ぎこちなくとも笑顔が気力の回復を言外に語り始める。




「……こほん。それはそうと貴方がの悪い……"悪過ぎる大博打"へ臨んだ事実については後で——"お説教"が待っています」

「うっ……」

「元より独自判断での行動も戦略に組み込み、また幸いにも結果として勝利を収めたられたとはいえ……『私の存在を失くしたくない』という理由で半ば捨て身に死地へ飛び込むことは……"私情"を加味しても許容範囲を超えています」




「"猛省"、して下さい」

「……はい。本当にごめんなさい……」




 だが、『しゅん』と。

 青年で肩は下がり落ち、戻りかけていた活気が失せて緊張の色も維持が難しくなってきた頃合い。




「……一応に、大神でありながら足を掬われた私にも責任はあります」

「……」

「因りて、関係と警戒のあみを密にする今後は同様の危機的事例が起こらぬよう、共に気を配りましょう」

「……了解、です」

「……ですが貴方の行動が新たな勝算を生み、冥界を救う要因の一つとなったことも事実であって……反省はしても、気を落とし過ぎる必要もありませんよ——」




「……ふぁ、い」

「——……我が、弟子?」




 戦後だと言うのに気丈で語るアデスに返されたのは"気の抜け切った声"。

 目前では、安息に包まれて暫くが経過しての青年の瞼——しきりに閉じては開き、開いては閉じ——微睡まどろみの時を迎えているようだ。




「……、?」

「……眠いのですか?」

「…………眠いです」

「眠りますか?」

「ねむ……"れません"」

何故なにゆえ?」

「たすけてくれた方、たちに……"お礼を言わないといけません"。それに……都市人々みんなが"無事"か、たしかめない、と……」

「……」




 呂律も、露骨に怪しく。

 青年はいつ以来かの睡魔に襲われて今尚『受けた恩』や『背負う憂い』のためと。

 疲弊した自己を押してまで活動を続けようとするが——。




(……すごい…、…ねむい—、、……)




「……若者よ」

「……?」

「……その状態で向かえば、却って礼節を欠いてしまうのではないか」




 上半身を暗黒の足場に突っ伏して。

 しかも、碌に這いずることさえ出来ていない弟子に宣言通りが出来るとは——恩師、到底に思えず。




「——……"?"」

「……仕方ありません。それらの務めも私が担いましょう」

「……アデス……さんが……?」

「今し方没収した"借り物の盾"を返却するついでに、各地で礼の参りと安否の確認も済ませておきます」

「……でも……」

「心配ならば目の覚めた後に自らでも足を運べばいい」




「短期間で身に余る力を行使し、気力・体力共に困憊こんぱいとなった貴方には——"休息"の時間が必要だ」

「……」

「今は暫し私に任せ、英気を養うのが得策かと」




 伏す青黒を見下ろし、口調を強める膝立ての師。

 青年で『刻まれた傷が意固地にさせる執念』をどのように解きほぐすか。

 "ならば"と『人心の抗い難き布団の魔力でいざなおうか』と考え、片手で立てるは二本の指。

 人差しと中指のそれを"鋏"とし、そのまま闇を切り取らんとして背景を進ませよう——そうした矢先。




「……けど——」




 続け様に吐露される青年の心情。

 暗黒女神で止める鋏の手。





「今、冥界ここで寝てしまえば……"もう起きられない"ような、気が……して……」

「……」

「……やっぱり、まだ——」





「——……"怖い"のです」


「"眠る"……ことが」





「……」





 その素直な思いも聞いての黙考。

 既に"眠りの中で夢を見ることを止めた女神"。

 アデスは考えた末で速やかに——"今は青年の身近で寄り添う案"を、採択。





「……でしたら、胸や膝とはいきませんが——」





「——"背中"を、貸しましょうか?」

「……せなか……?」

「はい。背中」





 首傾げへの優しい声色。

 閉じかけの横目には熱変化の波が見え、間を置かず——眠気に差し出されるのは。




「それで貴方の恐怖心が和らぐのであれば……今は——私の背で寝息を立てることを、許しましょう」

「……」

「入眠が完了次第、拠点にその身を移してもおきますが……如何しますか?」




 身を表裏で入れ替える女神で人肌程度に温められた小柄の、"魅力的な背姿せすがた"。



(…………)



 とうに深慮困難、朦朧とした意識に甘い誘い。

 落ちる前に下すべき判断で『何よりも早くに眠りたい』青年に石床以外の場所で就寝可能な機会を断ること——出来る筈もなく。




「……是非……良ければ——"おねがいしたい"……です」




 石のように重く感じられる水の体。

 止め処なく湧き出す眠気に抗うことを止め、願った。





「……分かりました」

「……」

「では——はい」





「——"どうぞ"」

「……ありがとうございます」





 そのまま感謝の言葉を絞り出し、身を引かれるまま、起こされるまま。

 甘え、やなぎの折れるようにして——恩師の背中にしな垂れ掛かる。




「……おきそうに、なければ……おこしてください」

「……勿論。私としても貴方と交わしたい言葉や議論が山ほどあるのです。約束しましょう」

「……はい」

「……目を覚ましたのなら冥界奪還の功績を評して褒美も取らせます。具体的な内容についてもその時に要望をお聞きしてから決めますので——お楽しみに」

「——」




 目を閉じて、微笑んで。

 その自然な表情の作りは温もりを享受したが故か、また女神の言葉で幼少期における誕生祝いの贈り物を思い返したが故か。

 青年は理由を明言することはなく、自ら深く思案する暇もないまま、ただ静かに自らの重さを他者に預け——。





「……、……、、…………————」

「……」





 美の女神と再会を果たす前に——就寝。

 流れる時の中で死することの出来ぬ者は只管に、穏やかに。

 漸く、安息の時と場所で——あどけない寝息を立て始められたのであった。






「————」






 闇に包まれた、その表情。

 寝顔を知る者は世界に誰一者としておらず。

 風吹かぬのは勿論、雨も降らぬ冥界で。







「…………おやすみなさい」







 女神の肩が——流水に濡れる。


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