『第八話』

第四章 『第八話』




「——立ち去る前に、"聞かせてほしい"」




 引き止める、きわやかな声。



「……」



 それを背で受けた白面はくめんの者。

 欺瞞ぎまんあがなおうとする心——止める足。




「……何ですか」




「"勝算"はあるのか」




 青年と同種の漆黒を纏うイディアが問う。




「……"?"」




「仮に貴方が冥界に踏み入る事が可能であったとして——『大敵である収奪の戦神に対し、貴方はどのように打って出るつもりなのか』……そう聞いているのです」




「……益々ますます、意味が分かりません。その件や俺のことはもう貴方には関係がない。……"放っておいてくれて構わない"と——」




 背中に心地よく響いた凛然の声。

 破れかぶれの心情を揺さぶられた青年は——再出の『縋り付こう』とする思いを強張る身で押し留め、戻す足の運び。

 単身で向かおうとするのは"死地"——恩師のいる冥界。




「"大いに関係があります"」




「っ——」




「……『貴方が苦しんでいる』のです。『私が失いたくない』のです」




「——何を、言って……」




 けれど——"振り向きたくなる未練"が、"向き合うことへの恐怖"が——青年の身動きを封じ、この場へとその震える体を縛り付ける。

 流れの勢いに任せて死地へと向かおうとする彼女には未だの心構えが十分に出来ている筈もなく。




「自暴自棄に傾いた貴方——"今の貴方"に戦神を出し抜く事が出来るとは到底思えない」


「"不帰の客になろうとする貴方"を黙って冥界に送り出すなど——"私には出来ない"のです」




「……」




「私が貴方を単身で送り出す事があるのなら、それは……"勝利の算段がついた場合のみ"」


「目的を成し遂げて"未来"をその手に掴むため、貴方が確固たる決意を示した時にのみ——私は、"その背中を押しましょう"」




「——」




「どうかこの私、女神イディアに……"貴方"にとっての大切な存在である彼女、"女神アデスを助け出す方法"を——




 また互いに身を動かして距離を縮めることはせず。

 思いを乗せる言葉だけが、彼女たちの間を飛び交う雨中。




「……"本気"で、言っているんですか?」

「……"はい"」

「…………『気持ち悪い』とは、思わないんですか?」

「……"驚いてはいます"。ですが——"気持ち悪いなどとは微塵も思っていません"」




「……今の私が抱く"赤と緑"の——"この髪色"がそのあかしでもあります」




 向かい合わずとも見える、髪が放つ言葉通りの色。

 異彩の輝きは夜の闇で濡れる背中を越え、ふちを薄く照らされる青年の視界。




「『赤』は恐らく……揺らめく炎にも似た『怒り』の色」


「無謀のまま危険に飛び込もうとする"今の貴方"と……無闇に『友』と呼ぶ事で貴方の心に負担を掛けてしまっていたであろう"浅薄せんぱくな私自身"に対しての——"静かな怒り"」




「そして——この濃淡混じり合った『緑』は『不安』や『心配』、『信頼』の色……言葉通りに今の私が貴方に抱く——"感情の色"です」


「……かつてと同じく、今も貴方は私に対して『ままならぬ思い』や『迷う心』を誠実に伝えようとしてくれた」


「悪意で騙すような事や乱暴な事を一切せず、優しくしてくれて、共に時間を過ごさせてくれた」


「そんな、信用に値する貴方の先行きを心配する思いこそあれ……『気持ち悪い』などと"不快"に思って拒絶する気は——本当にないのです」




 当事者たち以外で他の誰にも、何にも邪魔をさせぬ暗黒の加護があっての遣り取り。




「……『元は人間』で、しかも『男』で『死者』なんて、意味不明な——それこそ、この期に及んでのに……?」




「……それらの点について疑念を抱いているのは事実です。区切りを越えた人間が神となり、そのうえ……『男性が女神に変じる』というのは私にとっても初めて耳にした事象……聞いた当初は己の耳を疑いました」


「……——」


「——私とて、"学びに生きてきた者"。"探求の道を行く者"として目の前に存在する物事を——ただ感情だけに任せ、"頭ごなしに否定したくはない"」


「『善悪』や『正誤』といった社会的観点から貴方がどうあるべきかを決めつけるつもりはなく……事象を成立させている要因や過程を分析し、解明をし、"悩む貴方にとってのより良き未来"を導くためには何が必要なのか——そうした事を考える方が、"私にとっては重要"なのです」




「……」




「……実際、『性別の転換』や『魂の循環』については幾つか——"学びとして知ったもの"もある」




「……!」




「『性転換』に於いては"実例"を——"隣接的雌雄同体りんせつてきしゆうどうたい"の動物を過去に観察していた経験があります」


「それは成長の過程で雄雌おすめすの性別が社会的、若しくは行動的要因などで変化をするもので……私が目にしたのは石牡丹いしぼたんに棲まう海水魚でした」


「他にも例を挙げると……一部の共生細菌では宿主やどぬしの性別を意図的に『変化させる』種が確認されており……なので私にとって『性転換』という事象は——決してのです」




(…………)




「……もっと言えば……そもそも、『美の女神イディア』自体が形は勿論——"身体的性別の可変かへん"さえ特徴として有する者——此処に実在するその"実例"なのです」




 "性別の概念が人とは異なる神"は——"異なった者"へ語る。




「……また『魂』、若しくは『命の循環』」


「そのことわりについての知識は……申し訳なくも真相不確かな又聞きしたものしか有してはいませんが——」


「——……古き神々に依れば抑『魂は本質として不滅』であり、それは『死』という現象にさいして冥界神アデスによる『何らかの処理』が行われていると言われています」


「ですので……その処理が行われる際に何か——万能の彼女でも予期せぬ"不測の事態"が……貴方に起こったのかもしれません」


「……一つの仮説としては——人としての記憶や意識を有したままの魂が何らかの理由で『冥界』ではなく、信仰によって形作られた設計図——『女神の器』へ辿り着き、今の貴方が誕生した」




「……未熟な身での推測に過ぎませんが、そうした可能性も考えられはします」




(…………)




 対して、『死』についてを耳にし、聞き手の青年で思い返されるのは"暗闇での記憶"。

 光に向かってがむしゃらに突き進み、心の底から叫んだ"生の衝動"。

 あの時、青年は己と都市の人々の"願い"を重ね合わせた感触を持って今のこの場所、この世界に立っており——故に美神の言葉は強ち間違ってもいないと思えたし、背後の相手は本当に『色々を考えていてくれる』と"敬愛の念"は増すばかり。




「……よってつまり、いずれにしても——"数多の奇跡の上に成り立つこの世界"では、『時として個神の認識を超越した事象が十分に起こりる』のだと……積み重ねた時間と学びの中で、私は知ったのです」


「なので、否定的な根拠が確認できない以上——現時点で『貴方の発言には一定の信憑性がある』と、私は考えます」


「何より——これまでの貴方の振る舞い、先の裁判に於ける真実を追い求める姿勢から見ても……貴方が他者を騙すような嘘を吐くとは……私には到底、思えなかった」


「……だからこそ今、今もこうして私は——やはり正直であろうと努める、他でもない貴方の言葉に耳を傾ける事にした」




「『信じたい』……『貴方を信じよう』と決意をして——この場所に立っているのです」




「……、……、、……」

「……」




 真実を知った今尚相手を慮ろうとする美の女神イディア。

 多くを学び知る彼女は博識であるが故の寛容さ——"許容の出来る認識範囲の広さ"で以て、未だ寄らず震える青年の応答を待つ。




「……っ、どうして、"そんな風"に考えられる……"優しく"……してくれるんですか……?」




「……私自身が曖昧な、自己の定義に悩む者だからかもしれません」


「……『いつ何時も付き纏う己への疑問』、『際限のない自己嫌悪』……そうした『終わりの見えない胸の痛み』は私にとっても好ましくない……忌避をしたい苦痛で……」


「……だから、完全に同じでなくとも近しい苦悩を抱える者として、悲しみに涙を流す貴方を——放ってはおけなかった」


「悲痛に染まる表情よりも、幸せに満ちた喜びの表情を見たいと思った」




 待って、問われて——考えを返す。

 "黄と緑"に染まる髪、女神の心が口にする——青年への想い。




「……私は——『好き』なのです」






「"初めて会った時"も、"今"だって苦悩を抱えながらに他者の心身を傷付けようとはせず……寧ろ苦しみを取り除くため、痛みを和らげるため——『他者に優しくあろうと努める貴方の在り方』が……"愛おしい"のです」




 青年に見た在り方は美の女神にとっての"一つの理想"。

 果てのない探求の中にあるイディアの内側に言い表すこと困難な——憧憬しょうけいのような感情さえ湧き立たせる『優美?』——兎角、『輝ける魂の表出』へ掛ける言葉。




「『私自身もそう在りたい』と願う貴方の在り方に、その優しさに……寄り添い、"学びたい"」


「だから——貴方が打ち明け、私が真実を知った今……もう一度だけ、"言わせてほしい"」




 改めて、持ち掛ける提案。




「——我らにとっての敬愛なる女神、女神アデス のその一助となるため」


「どうかこの私、女神イディアに——『貴方の手を取らせてはくれまいか』」




「これまでの関係が偽りであっと言うのなら……それなら、今日ここで——"また新たに関係を始めましょう"」




「——『共に、未来を歩ませては頂けないでしょうか』……"これまでの我が友"」


「そして現在、貴方が許してくれるのなら……願わくば今、"これから"の——」






「——よ」






「——っ"」

「……」

「"この"、"俺"を……」




「……自分自身でさえ認識が不確かな俺を……貴方は……」




「……」

「……『友』だと——……そう、呼んでくれるのですか……?」





「————"はい"」





 響かせる肯定の音色。

 それを聞いて震える青年で遂に折れる膝。





「……、…………っ……——」

「……」

「——本当に……、……いいんですか……?」

「……はい」





 何度でも言ってくれる助力の肯定へ——青年は手足を泥で汚しながらも振り向き、重ねる努力。

 真実の顔を明かした後で怖くても、恩ある相手へ向き合う努力。




「協力を……、お願い、しても……?」

「……勿論です」




「……そばに寄っても、いいですか?」

「——! ——はぃ……っ」




 寄り添うことを尋ねられて、涙ながらに頷いて。

 恐る恐るに上げられる濡顔ぬれがお

 歩み寄り輝きを増した黄緑と、赤紫の色に迎えられ——崩れた身を支えようと優しく差し出されるのはイディアの手。




「——っ……」

「……」

「……"ありが、……とう"——」




 それに震えの指先を伸ばす者は一度、"汚れた己"が相手に触れることを躊躇して手を引き戻し——けれど微笑みによって受容の意を示す"新たな友"。

 その好意へ控えめな接触で再び——"触れ合う"のであった。




「——……ほんと、に……ありがとう、ござい、ます……っ」

「……いえ」

「泣いて、ばかりで……ごめん"——なさい……っ"」

「……大丈夫です。貴方は自身に出来る事を考え、喚く事も当たり散らす事もせず必死に頑張っていると……私は思います」

「……ぅぅ……っ……! ……、……ありがとう……! ……ありがとう……!!」

「これからも貴方が解決を望む悩みや困っている事があれば——"貴方の友"である私が力となります」




「出来る事があれば遠慮なく仰ってください。してほしくない事があれば……それも勿論」




「また一緒に、これからの未来についてを考えましょう。我が——……」

「……これまで通りで、構いません」




「何度でも『友』と……そう呼んでくれて、大丈夫……です」

「……分かりました。呼び方を許してくれる貴方に、再度の感謝を——"我が友"」

「…………はい」

「……では、細かい話をする前に先ずは……暖かい場所で落ち着きましょう——」




 差し出された手を握り、贈り合う微笑。

 "一者と一者"、神獣の甲殻が作る雨除けの下へ向かい——優しさと焚き火の熱が濡れた心を暖める。


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