『第七話』
第四章 『第七話』
(————……、…………、、——)
身を直接に打つのではなく、空気伝いに肌を震わす『シトシト』とした音。
(—……——……?)
しかし、雨より身近に聞こえるのは『パチパチ』とした控えめの破裂音。
(…………おれ、は……——)
(……ここ、……は——……?)
肌感覚も次第に戻り、更に水を含み重さを増した体。
纏わり付く湿った衣服と『ザラザラ』とした粒の擦れる不快感を柔肌に。
また
(——……"夜")
(……"海"……?)
顔を擦りながらに眺める周囲——黒く染まった暗夜の世界。
上では風雨を遮り立ち並ぶ刺々しい"針の葉"を持つ木々。
横では——闇に
「——! "我が友"……!!」
それに何より眩しいのは女性の形、黄褐色の長髪。
水の染み込んだ服の裾を捻って絞る長身の女性。
友の目覚めを知って彼女は——美の女神イディアが固い表情を綻ばして、距離を詰める。
「……イディア——さん……?」
「良かった……! 目が覚めたのですね……!!」
「……ここは……?」
「貴方の神体、河口近く——浜辺の森です」
房の髪は黄、青、緑と忙しなく変わる色。
「私は……ルティシアの民を都市に送り届けた後、時間が経っても一向に姿を見せない貴方を案じて、居ても立っても居られず彼の地を飛び出したのですが——」
語調を早めとするイディア。
己が手に持つ破片——守護の役目を与えられ——今は"砕け散った腕輪"の残骸を見せる。
「——……森に残されたこの破片と貴方の蓑を発見して心底……色を失いました」
「加えて、その前には嵐だというのに空は赤く染まり、天を真二つに裂く光は立ち昇り……私は『我が友に何かあったのではないか』と考え、場に残された貴方の残り
「しかし、呼べども呼べども姿の見えぬ貴方がもしや、『流れに連れて行かれてしまったのではないか』と推測し下流へ、水の向かう先へと走り——」
「そうして、河口付近で捜索をしていた折に——"神獣が海から浜辺へと引き揚げる貴方"を見つけた……という訳なのです」
「……"神獣"が……?」
「はい。親愛なる守護の女神が
感謝を言って、美神の手を添える壁——揺れて、大気を震わす重低音。
「……
他者を圧する威嚇でない、優しげな微振動。
青年が岩の如き厚壁だと思っていた物体の正体は『神獣べモス』であり、かつて当の女神によって正気を取り戻した獣は二柱の感謝に対して以前よりも更に成長で厚みを増した首を動かし、控えめな唸り声で以って返答とするのであった。
「……ですがそうして、起き
「事の詳細を——『貴方の身の回りで何があったのか』……私に、お聞かせ願えますか?」
「……何が、あったのか……」
「はい。貴方と出会った時に私が贈ったこの御守り——『守護の願いが込められた腕輪』が砕けたというのは普通のことではありません」
「……それは」
「……まさか、それ程に重大な危険が……貴方の身に?」
「……俺、は……」
未だ案じてくれるイディアに促されるまま探る——今し方の記憶。
混濁した情報の海。
「……あの時……確か……」
「……急かすようでも申し訳ありません。"
(……アデス、さん)
「一体あの後、貴方達に何が——」
「……アデスさんは……——」
『……さようなら』
(————"!")
思い起こす腕輪が砕け散った前後の記憶で、強烈に青年へ焼き付いていたのは——"去り際の恩師が見せた微笑"。
「——"行かないと"」
「? 何か、思い出したのですか……?」
「……」
「……我が友……?」
湧き立つ——胸を焦がすような衝動。
内で起こる波、心の傷に染みる感覚。
髪留めを失って真下に伸びる濡れ烏——黒の長髪を横に揺らし、徐に立ち上がる青年。
「……『何処へ向かう』と言うのですか?」
「……」
「荒ぶる神が顕現した今、我々が単独で行動するのは危険です。せめて一緒に——」
「……」
「——待ってください……!」
左右に振れる覚束ない心身のまま青年は重なった針葉樹の天蓋から脱して、進み出る雨中。
「……っ"——」
「! 我が友——!?」
泥濘みに足を取られて大きく傾く体——飛び出して咄嗟に助けたイディア。
「——だ、大丈夫なのですか? 放心のご様子で……」
「……」
「……何処かへ向かいたいのなら、今は私の背に乗り……行き先だけでも——」
「……ぅ、……っ"、っ…………」
「……我が、友……」
支えるイディアの腕の中で傘をなくした青年は声を詰まらせ、濡れそぼつ。
『女神アデス』という絶対的な庇護者を失った彼女には最早これまでのよう"表面上の平静"を取り繕う余裕など、ありはしなかった。
「……ぁ、…………っ……ぅぅ……!」
「……"涙する事"が、あったのですか?」
「……、……っ、……は、、い……っ」
「……"聞かせたい事"だけで構いません。私はこの場で待ちます。どうか貴方の自由な調子で、言葉を——」
「……思い、出したんで、す……」
「……」
前々から危うい状態だとは知っていたが——揺れる髪、色は赤紫。
鮮やかな朧の光が静かに青年を包み込む。
「お、おれは……彼女の、……アデス、さんとの約束……っ、を守れなく、て……」
「……」
「……アデスさんがおれを、庇って……怪我を……」
「……傷を負わせたのは、彼の戦神ですか?」
「——は、い」
「……」
涙する者を覆うようにして姿勢、風雨を遮る美の女神。
イディアは取り乱した友を支えながらも冷静に言葉の断片を繋ぎ合わせ、青年が心を痛める原因についての推論を構築。
また己の成すべきことを思案の後——移さんとする実行。
「……時間をください、我が友。私には"手を貸してくれそうな者"の心当たりが御座います」
「女神アデスがまだ地上にいるのなら、その者へ呼び掛けて彼女を支援する事も……"おそらく"、可能でしょう」
「……貴方の師が何処へ行ったのか。見当はついていますか……? それさえ教えていただければ後は、私がなんとか——」
「……アデスさんが、……向かったのは——"冥界"、です」
「……それは」
「……彼女は"別れの言葉"を置いて、捨て身の覚悟を示してっ……敵と一緒に冥界へ……向かいました」
「……」
けれど、彼の地『冥界』へ、生きとし生けるもの——介入は
また、アデスが以前から青年に伝えようとしていた真実——『冥界の神格』が明かされたことをこの時に知ったイディア。
努めて聡明なる彼女は驚きや不安の淡い青緑の色を髪で浮かべながらもしかし、個神の内情に踏み込んだ話が外部に漏れ聞こえるのを防ぐ意も込め——羽織らせる漆黒。
己がそうであるように、目前の川水女神が暗黒の神より賜った衣——例え『天』からも内に秘された情報を見通せぬ『隠れ蓑』を濡れる持ち主の首で留めて、この場での会話も覆い隠させてから話を続ける。
「だから、っ……行かないと……!」
「急いで俺は、アデスさんの下へ行かないといけないんです……! 彼女がいなくなってしまえば、俺は、"もう"——」
「——落ち着いてください、我が友……!」
「既に冥界の扉は閉ざされたのです。今現在、彼の地へ踏み入る事を許されるのは他でもない"冥界の神"と、そして——『死者の魂』だけ」
「その大神が定めた法則は例え同格の神であっても覆す事は困難で……よって当然に、『冥界神ではない生者の我々』が女神アデスの下へ辿り着く事は——"出来ない"のです」
「…………っ"」
「……悔しいですが、今の私達だけではどうする事も出来ません。……僅かに出来る事があるとするならば、それは——『待つ』こと」
「再び冥界の扉が開かれて女神が姿を現した時、彼女の傷を直ちに癒せるよう準備を進める他にはなく……よって今は彼女の無事と帰還を祈り、その間に私が頼りを回って——」
「それだと、"時間"が……! アデスさんが身を投じる前に、彼女に刻まれた"呪い"を解かなければ——彼女は……!」
「……
「——…………入れるかもしれないんです」
「……? 我が友、何を……」
「……"自分"、いや……俺なら、『冥界に入る』ことが——出来るかもしれない」
けれど、安全を期して引き止めようとするイディアの前——伏せた眼差し、落とす涙。
「……それはまさか——"貴方の神格"——"渡りの川"で神はそうした"権能"を有すると……?」
「……」
「『現世と冥界の
(……いっそ、全部——話してしまおう)
「それなら——いえ、私も初めて聞くような話ですが……しかし、貴方といえど女神アデスが容易く例外を認めるとは——」
「……"違う"、違うんです。そうじゃ、ないんです」
(……だって……もう……——)
そうして、終わりへ向かおうとする自棄の青年。
決壊した心。
溜め込んだ『偽ることの罪悪感』もあって最早『何もかもを放っておいて欲しい』気持ちは拒絶の応対を期待して——。
「……我が友? 何がそこまで……貴方を——」
(——…………疲れた)
此処に——"秘していた真実"を告げさせる。
「"違う"、俺は違うんです。"何もかも"」
「……体が震えています、"我が友"……一先ずは落ち着いた場所で、休息を——」
「俺は、優しくしてくれる貴方の
「そのようなことは……」
「だって、"本当"は……『俺』は——」
惑乱で狂気を見せる今。
尚も優しくしてくれるイディアの腕を『やんわり』と払い——痛む心。
距離を置いた青年は震える肩を上下させ、
「——……『女神』でも『生者』でも"ない"」
「
「……"?"」
「人としての生涯を終えた『
「本来ならここにいる筈のない……以前の人としての姿から変わり果てて、"本当の自分"が何なのかも分からなくなった——死者なんです」
「——"!"」
頰を伝い、
"二つを分けていた境界線は既に失われ"、黙する美神の視線が先——水は覆ることなく、只々に下へと落ちるのみ。
「…………」
「……"死後の世界へ向かう筈だった死者の魂"……それが——『俺』」
「……だから、だからこそ俺は、そんな俺ならば——『冥界に入ることが出来るかもしれない』と考えた」
「既に終わったにも関わらず、何故かこの世界に立っている半端な、半端な俺だからこそ『彼女の助けになれるんじゃないか』……『せめてそうありたい』と、思った——」
「…………」
聞く女神で微かに顰められた黄褐色の柳眉。
頭で青、緑、黄、橙に目まぐるしく色を変えるのは髪、それによって色めき立つ光景。
夜闇に輝きを放つ美の女神自身は——青年がする涙ながらの告白を遮ることなく、相槌もなけれど。
降り続ける雨幕の先、苦悩の様を静かに見つめる。
「——アデスさんは、全てを失った俺を助け、支えてくれた……"優しい"方」
「"善良な人々"や"貴方"と同じく『この先も幸せであってほしい』と俺が願う——"大切な存在"なんです」
「……」
「……何で自分がこうなったのか。原因も理由も分からない——けど、"今の自分"が彼女のために出来ることがあるのなら……俺は——自分が『捨て石』になることも
「……一方的に、訳の分からないことを話してすみません。今までイディアさん……"貴方"には多くの迷惑をかけてしまった」
「……」
「真実を隠して、都合よく友神関係を結び、その優しさを利用し……危険な目にも合わせてしまった。しかも剰え、共に過ごす時間の中で……"性的"な——"
「……」
「……騙していて、本当に——"ごめんなさい"」
崩れ去った心身。
威圧したい訳ではないため、不必要に声は張らず。
しかし、かつての友から離れて更に足を折る青年——
「……謝礼も謝罪も、言葉以外に渡せるものは何一つ持たない、不甲斐ない俺を今まで助けてくれて……本当にありがとうございました」
「……貴方はもう、恩知らずの俺に関わる必要はなく……俺のことは——忘れてしまって構いません」
慕っていた相手の顔を見る勇気はなく。
己を『偽り』だと言う女神は対面のイディアに目を合わさず、背を向け——逃げるよう立ち上がるのは、しどろ足。
「……本当に——」
「——……"ごめんなさい"」
償いもなしに去ろうとする己を恥じながら、けれど相手の反応を待つことも怖く。
黒髪で隠した表情、重ねた謝罪を最後の言葉として残し——向かうべき川の方向へ踵を返す。
(……これで、彼女との関係も終わり)
衝動に身を任せ、己を心配してくれた相手に対して一方的に情報の波を浴びせかけ。
噛み締める唇からは水が彼女の口内へと侵入するが、それを気にもとめず。
寧ろ内に抱える苦悩を一通り吐き出したことで心を軽くした——『勝手がましい己』に嫌悪の念を更に更に強めて抱きながら、
(……今まで、本当にありがとうございました)
後は『恩師に対しても同様のことを伝え、
前々から決めていた破滅に、しかしその局面に立っては涙の止まらぬ人の心。
(——……さようなら)
雨中を『とぼとぼ』と。
沈むよう歩く——『人』か『神』か、真実は当事者にも分からず。
更には半神の定義に当てはまるかも曖昧な——果ての見えない孤独を抱える者へ。
しかし——。
「——立ち去る前に、"聞かせてほしい"」
けれど——美の女神は尚も、己も雨で濡れながらに毅然と。
"打ち明けた青年へ"——声を掛けるのだ。
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