『第十七話』
第三章 『第十七話』
冷厳の眼光、川水の女神。
その体にとっては取るに足らぬ行いである呼吸を完全に停止して——表層専心。
鋭い眼差しで目前に現れた正体不明の存在を牽制せん。
(——"分からない"——"分からない")
("いや"、自分が移動した理由よりも、今は——)
(——"この場をどうやって切り抜けるか"を考えろ)
そして、視線は巨影に留めたまま。
座った覚えのない椅子より、浮かそうとする腰。
(相手の力量が計れない内に仕掛けるのは『避けるべきだ。最も手堅いのは——『逃げる』こと)
前で座す
布を被った問題の大男?は先から変わらずに食器で杯の水を掻き回し続ける。
その動作、醸し出すのは——日常的でありながら何処か不気味の異様な気配。
(そうとなれば、イディアさんにも声を——)
(——けど、もしもこの男が彼女に未だ気付いていない場合、イディアさんも巻き込むより、俺が注意を引き付けている間に別行動で逃げてもらう方が————)
そうした緊迫の空気、震える。
「そう案ずるな、若き女神よ」
「——!!」
"空間そのもの"が、震え出す。
「"余"に
「
震源は男だ。
襤褸布から星光の瞳を覗かせる——柱の如き重厚な
「
男の動かす口、吸い込む空気で引き寄せられるかの如き重圧。
それによって青年は瞬きさえ忘れ——遂に逆流する液体を吐き出した酒飲みの存在さえ——揺れる今は意識の外であった。
(——なんだ、"こいつ"は)
(一体、何が"目的"で俺に————)
「顔を見に来た。"それだけ"よ」
(——!? まさか心を、読まれ——)
「……"いや"?
「……先も言ったが、"案ずるな"。そう構えずとも良い。態々暗く覆い隠された情報を積極的に暴こうとする程……余とて"ただの無神経"ではないのでな」
「"——"」
「
その間もやはり泰然自若、相手の水は震えを見せず。
しかし、川水の女神は既に己が相手の"術中"に——隔絶された極小の島——四方そして八方を大海原に囲まれた孤独の世界に包まれるよう感じて、
乱れた神気は手からの冷や汗を一滴、床へと垂らして作る染み。
(……"神気の量が計れない"、"感じ取れもしない")
(それなら当然、相手は"格上"。『立ち向かう』という無謀な手段を——"選んではならない")
(けど——それなら、どうする)
(逃げるにしても、
教えに従って控える軽率な行動。
最善手の模索を続ける若者、しかし——反射的に前で構える水刃。
「よっ——と」
「……」
男、徐に席を立つ動作、それ自体は極々普通のもので。
されど青年は見通せぬ相手に内心、たじろいで。
「……さて、"目的も達した"事だ。余はお
「……」
「其方もそのよう気を張り続けては、
「……っ」
「圧するつもりはなかったのだ、すまぬな」
これまた素朴に述べられるのは詫び言葉。
であるにも関わらず、立ち上がった男の威容が放つ存在感は聳えて大きく。
「『詫び』と言ってはなんだが……"その水"は
「
「毒の類は入っておらぬ故、安心して——血肉とせよ」
水が満ちた半透明の杯を取り残し、手に持つ食器? を小刻みに振って——男。
「——では、な」
何がしたいのか。
『立ち去ろう』として、別れの言葉も残す。
口で言って、酒場の出口に向けて歩き出すでもなく——空間で円を描く先割れの食器。
それで以て神は『退去を進めよう』とするのだが——。
「"お待ち下さい"」
此方も何を思ったか
去る者を——呼び止める声はあり。
「……今、何と言ったか。"
「……少し『待ってほしい』と、そう言わせて頂きました」
声の主は他でもない川水の女神。
今の今まで口を閉ざしていた青年であるのだ。
「それは
「……貴方に、"お聞きしたいこと"があるのです」
「……ほう。余に『尋ね事がある』と」
慎重に選ぶ言葉。
背負う袋の中で守護を任された蛇のウアルトは男に対して睨みつける素振りを見せてはおらず。
(ウアルトさんは静かで……何より、"ここまで接近を許してアデスさんが出張ってこない"のなら——"危険の度合い"、そこまで"高くはない"筈だ)
それら身の回りの事実が意味するのは——男が自ら言う通りの『害意なき者』か、
(どう考えても只者ではない相手、"多くを知っているだろう目の前の神"……本当に敵意がないなら——)
(これは、"一つの好機"——"手掛かりを得るための重要な機会になり得る")
兎角、青年は相手の言動と問題のない守護の状況から鑑みて——狙うは、"神が有する膨大な量の情報"。
己と、何より
もしも『危険』・『浅慮無謀』と怒られるとしても——"その時はその時"だ。
「……続けてみよ」
「……はい。貴方の口振り、所作共に只者ではなく。さぞ名のある御方、そして——
「……」
「故に、その
「……」
「……出過ぎた真似であればお詫びします。……ですがお時間がございましたら、どうか——」
「——お考え、頂けないでしょうか」
然らば席を立ち、深く頭を下げて願いの一礼。
傍から見れば慎み深く、理路整然とした物言いであったようにも思える中々の態度。
けれどその実、内面は——。
(……い、"言えた")
(アデスさんやイディアさんの見様見真似だけど……な、何とか、切り……出せた……?)
川水——溢れんばかりの一杯一杯。
仰々しき言葉の使い方を師や友から見て、聞いて学び、今は『目的の為』と。
精一杯の足掻きで"自ら"思考をし、『己の最善を尽くそう』と励んでいるのだ——よって一応、"考えなし"で指示に背いている訳でもなく。
("神についての情報"を求めていた折、降って湧いた好機。相手は十中八九……人ではなく"神"だ)
(しかも恐らくは、計り知れない力を持つ高位の神で……このタイミングだ。一帯で起こる事件についても何か、知っている可能性がある)
大きな動きを見せぬよう水の刃を
彼女が声を絞り出したことは、疑いの残る少女の運命を好転させる為の"一手"。
それに対して返される正真正銘の『神の一手』、果たしてそれ——どう来るのか?
(……『相手を刺激しない』よう努力はしたつもりだけど……気に障ってたら、どう——)
「……ふむ。どうしたものか」
「……」
「其方も知っての通り、"時間はある"。故に話の一つや二つ、どうということはないのだが……」
「……」
「……"尋ね事"。その内容とは?」
体内、努めて循環させる水。
冷ます水流の感覚で、言葉を外へと流し出して行く。
(今、一番に気になるのは『要所要所で見え隠れする神の影』、だから——)
「し……"神話"(?)、です」
「……"神"が、"神の話を求める"、と?」
「……はい」
「……ふむ」
「……ふむ」
不明の男神は単身、見せる頷き。
「ならば……一つ。其方に"試練"を与えよう」
「……!」
「その成否によって——"知恵を与える"か・"与えぬ"のか……決定を下そう」
「……試練とは……?」
「——"
続いて指差す先、机の上。
男が置き去りにしようとした半透明の杯、中を水で満たす物体がそこにはあった。
「『其処な水を飲み干すこと』——それが試練ではどうか」
「……? "それだけ"、ですか?」
「『それだけ』かどうかは其方次第。しかし見事に、飲み干して見せたのならば——」
「余は今一度"席に着き"——『神の話に興じる』と、"約束をしよう"」
「……」
「考えよ、考えよ」
「そうして『飲まぬ』なら、そう伝え」
「『飲む』のなら、そのよう行動して意志を示せ」
「其方の選択が水の向かう先を決める——そう、これは『
男は片手で立てた二本の指、下に向ける。
その二つの線は川、間の空間は三角の山形——"水を分ける嶺"と見立て、言葉・身振り手振りで極めて単純な試練の内容を明らかとしているのだ。
(……何か、"裏"があるのか……?)
(この、神? ——男が持つはずの神気はやっぱり感じ取れない。水分の揺らぎもなくて、静か過ぎるほどに穏やか……)
走査感度を上げての状況再分析。
深緑が見つめる中、ルティスは黒の眼で対面の杯を注視。
(ここにある水もそれは同じで、しかもこの水……塩や砂、有機物が全く入っていない"純水")
(……言葉通り、毒が入っている様子もないけど——)
蒸留や濾過では到底作り出せぬ純粋なる水の存在、その生成は"人ならざる者"の証明。
菌やイオン、微細な"粒子"さえ除かれた純水を超えた純水——"超純水"の存在を前として、水に関して
(——前の疫病、怪物の時みたいなこともある。高位の神なら俺が気付けない細工をすることも決して、不可能ではない筈……だとすると……——)
(……いや——)
「……決まったか?」
「——……"はい"」
「ならば、意志を示せ」
(——やりたいこと、やらなきゃいけないと思ったことがあって、現に今、出来ることがあるんだ)
考えて、けれど既に進む方向は決まっていて。
息を吸っては吐き、力を込めた眼差しを作る女神。
(——だったら、結論は決まってる)
「——」
「……」
伸ばす手、杯へ。
半透明の光溢れる杯へと向かい、そして。
(——いくぞ……!)
「"————"」
意を決しての敢行。
掴み、口元に寄せ——傾けた。
上から下へ流れ、落ちるのは水。
女神は迷いの無い動作で、純水を自らの体へと染み込ませて行ったのだ。
「——それが、其方の選択か」
「…………はい。この通り、杯を満たしていた水は全て——飲み干しました」
「……」
「……これで話を、して頂けますか……?」
空となった杯を置いて、内に広がる馴染みの味。
現状では何か異変が起こる気配はなく、女神は口元を拭って毅然と問うた。
「……うむ——"良かろう"」
「宣言した通りに其方は水を飲み干し、単純なれども確と試練を達成したのだ」
「ならば余も、"その報酬としての知を授ける"」
「——感謝します」
「だが、その前に一つ。簡単な質問に答えてもらおう」
「……なんでしょうか」
「毒や悪疫、呪いが込められていなかったとはいえ、得体の知れぬ者から差し出された水を其方は、さしたる躊躇いもなく口にした」
「これは少なからず、その身を危険に晒す行為。褒められたものでもなく、
「……」
「それにも関わらず、其方は綿密な分析を重ねた上で挑戦を選び、よって、質問はこれだ——」
「——『"そうまでする理由"が其方にはあるのか』?」
そして、周囲とは隔離された物質世界。
人の声も酸の匂いも届かぬ空間。
大いなる男、震えの隠しきれぬ女神へと——示す興味で問いを返した。
「……"はい"」
「……」
「俺の——自分の身を危険に晒してでも"成し遂げたいこと"があるのです」
対する川水。
震える拳を握る青年は自身よりも遥かに不安で揺れていた少女の姿形、涙を想い——
「……豊か好奇心、飛び込む決意——"星の子"か」
「……?」
「いや——こちらの話だ。気にせんでいい」
「それで、話は……」
「うむ。外からの揺れを内部からの働きで打ち消す……いや、『律しよう』という其方の奮闘、確かに見届けたぞ。余という神は」
「よって、今——願いは叶う」
射抜かれて、神。
立ち上がっていた柱の身を"ズシリ"と下ろして——"対話の席へと戻る"のだ。
「其方の願いを叶えよう」
「余の知る世界、神についての話、知恵——その断片を
「故に、それ——気を休めて席に着くが
「……あ、ありがとうございます」
「取って食ったりはせぬよ。"例の女神"にも配慮はしておく。案ずることなかれ」
「ど、どうも」
こうして、掴みきれぬ相手の情緒に未だ怯える若者は"ペコリ"と一礼の後、促されるままに己も席へと着き戻り——間もなく始まるのは"神より語られる神話"、拝聴の時。
青年が見事無事に掴み取ったそれ、齎す
女神、心して臨む。
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