『第八話』

第三章 『第八話』




……"裁判に——臨む"?」


「"弁護士"として……??」




 恩師たる神が告げた恐るべき言葉。

 話の要領を解せない青年は復唱、けれども尽きぬ疑問符。

『裁判に臨む』とは、果たしてどういった意味なのか。



「"はい"。貴方は理想として人間の少女に掛かる容疑を晴らしたいのですから、しかき場所で彼女に代わり言葉を述べる"代言人だいげんにん"——人ならざると考えれば『弁護士』と呼ぶのが適切な、その役を務め——」




「——すれば良いのです」




 丁寧に、言い直してくれる女神。

 聞き違いの可能性を潰してくる。



「……え?」

「裁判を知る者、つまりは一帯の人間達よりも既に多くの知見を持つ"先駆者"として裁判を執り行い……その仕組みと有意性、延いては少女の無実を同時に証明してしまうのが——"手っ取り早い方法"でしょう」

「??」

「無論、ある程度は未熟な分野への挑戦。失敗も付き物でしょうが……案ずる事なかれ。その点は私や、他の——」



「——ちょ、ちょっと待ってください!」



 "超越者"のする飛躍した論理展開。

 置いて行かれる感覚の青年は咄嗟に遮る声を張り、まるで無垢な少女のような面持ちで小首を傾げるアデスに対して念入りの確認を求める。



「……何か?」

「い、いや。聞き間違いじゃないとおかしいような言葉が聞こえた気がして……」

「?」

「……確認ですけど——と、仰いましたか……?」

「………………?」

……?」




「……え、えぇ……」

「……何か、不都合でも?」




 だが、何度尋ねても結果は変わらず。



("冗談"……ではないのか……?)


(いや、でも……アデスさんはこんな時にふざけるような方では……ない、筈)


(だけどそれなら……彼女は本気で——"俺を弁護士にしようと"……?)



 訝しむ横目で見る、師の様相。



「……"?"」

「……」



 小憎らしい程のとぼけ顔——うら若い乙女の形。



(……何か『キョトン』としてるけど……見た感じが人間の少女とはいえ、アデスさんは"古い女神"だ。知識量も俺なんかより遥かに多い)


(そんな彼女が『裁判は可能』と言って、『俺を弁護士に』とも言い出したのなら……)



(……まさか本当に——"本気"で?)



 人であった頃、当時まだ高校生で、当然——正規の雇用に就いていた経験もない女神。

 故に、ましてや高度な知見を必要とする法関係の仕事——"弁護士としての実務経験"などがある筈もなく。

 よって、今し方までの彼女はアデスの言葉を真面に取り合おうとは考えていなかったのだが——相手は人の常識を超えた女神存在。

 普段の口述や態度は厳粛で、尚且つ"いい加減過ぎることも言わない"——"信頼の置ける恩師"であることを考慮し、突飛に思えるその発言が『実は金言なのではないか』と疑ってかかる。



「……それは、勿論。俺だって、"自分の力で彼女の無実を証明"出来るのなら……『そうしたい』のは山々ですけど——」



「でも、だからと言って——『弁護士』は『なろう!』と思って直ぐになれるものではありませんし……」

「……何故なにゆえ?」

「だって、相応の"資格"がないと……今から死に物狂いで取るにしても、時間が……」

「……此処には確立した制度そのものが存在しないのですから——資格、"必要ない"のでは?」

「……いいんですか、そんな——"肩書きで嘘を吐く"ような……?」

「嘘も何も、"法さえ存在しない"のです。当然、罰せられるような法律きまりだって"ありはしない"」



「問題は何も、ないのでは?」

「それは……そうかもですけど……」



 疑いつつ探る——"真意"。



「……いやでも、仮に先駆者・創始者になれるとして、俺自身——法律や裁判、弁護士についてはザックリした知識しか持ってません。経験だって皆無で、精々が社会科のじゅ——」



 過去に授業で行った"討論会"——謂わば『ディベート』について口を滑らしてしまいそうになり、それとなく濁しての言葉。



「——……"十人いるかいないかの討論会"みたいなのしかやったことなくて……いきなり本物の裁判なんて、そんなの……」

「……あるではないですか、"経験"」



 鋭い目付きを瞬かせ、女神——"漏れた言葉に食い付く"。



「えぇ……経験って、言ったって……」

「……因みに、その時はどのような形式、論題で貴方は討論に参加を? 差し支えのない範囲で構いませんので、この女神にどうか——"詳細"を教えては頂けませんか……?」

「……それは、貴方が期待するようなものではないと思いますけど……」

「構いません。教えてほしいのです」

「……なら、えぇと、"あれ"です——」



 弟子が密かにしてきた外部での活動——師たる神はその内容及び成果を聞く。



「——同程度の人数に別れての討論で……」

「……」

「論題は確か、一般……『平民の人々を裁判に参加させる仕組み』の、その『是非を問う』ものでした」

「……、貴方は何方どちらの陣営に……?」

「……肯定側です」

「『勝ち負け』はあったのですか?」

「はい」

「結果は? 貴方は勝ったのか、負けたのか?」




「い、一応……肯定側が勝ちましたけど」

「"…………"」




 聞いて女神、瞑目。

 隠した口元、妖しく歪め。

 内密に影を揺らして——"悦に入る"?

 彼女以外に内心、良くは分からないが——何か何故か、その表情はどこか



「……"確信"も得ました」

「?」

「明文化された法秩序が存在しないこの地で、無法の辺境で裁判を"興す"先駆者にはやはり——『貴方が適任である』と」

「……本気ですか……?」

「勿論。本気も本気だ、私の教えた我が弟子よ」



「何故なら——例え小規模であろうと貴方は規律を設けられた討論に参加した経験を有し、何よりその場で他でもない"裁判"についてを論じたのだ」


「その経験は一帯の人間にとって非常に得難いものであり、つまり現状の貴方は都市ルティシアにくみする存在の中で恐らく、最も——『弁論の技に通じた者』及び『裁判の概念を理解した者』となり——」




「『」と——そう言った結論に至るのです」




 頷いて——更に推す。

 件の都市と近郊で——日常用の文字に親しんだり、足し引きを主とした簡単な計算以外の——"進んだ教育"を受けられる者とは専らが経済的余裕のある人々に限定され、余裕の少ない者たちの中には"文盲"の人間も少なからず存在する。

 然らば当然の如く、ルティシアという未だ成立して百の年が経つかどうかの年若き集住の地で弁論や叙述に長けた人間は極めて少なく、"近代的裁判"を知る者となればその数は殆ど皆無の現状。

 故にこそ、そんな今を鑑みて女神——"貴重な経験のある青年"を『更なる成長にも導かん』として——するのだ。



「……流石に弁護士は、無理が……」

「……理由は?」

「模擬的な討論と裁判じゃ、勝手が全然違います」

「何も、弁護を専門の職とする者達の領域に短期間で『せまれ』と言っている訳ではありません」



「貴方は少女を取り巻く状況及び事件の詳細を鮮明のものとし、理論を以って争いの火種を鎮めんとすれば良いのです」

「でも……」

「当然、全能の御業を求めている訳でもなく。私も推薦をする者として最低限、弁護以外の面で"助成"を約束したいと思っていますので、どうか——」




「今一度の再考を」

「……」

「面倒複雑な処理は此方に任せて、弁護に打ち込んでみればいい」

「……」

「勉強家の貴方なら、きっと……一定の成果は得られるでしょう」

「…………考えさせてください」

「"——"」




 唆す恩師の目配せを合図に、青年。

 再び考える為の時間を貰って一応真面目に、今に出された『とんでもない案』についてを検討する。



(……アデスさんは矢鱈に推してくれるけど……つい最近まで只の高校生に過ぎなかった俺に——本当に、弁護士の役がいきなりで務まるのか……?)


(いくら資格が必要ないとは言え、裁判の場に立って容疑者……この場合は被告人? ——その罪や罰をどうこうと色々考えて、それを恐らく人の前で論じなきゃいけないんだぞ)



(そんなの……周りの人間と比べて多少の経験があるぐらいでは……"厳しい")



 画面を通してでしか見たことのない裁判の様子に想いを馳せ——その曖昧な人や物の配置、適当な進行の順序といった——いまいち信用ならない己の記憶に苦しい表情の女神。

 彼女が人間であった頃に通っていた学校は特に進学校という訳でもなく、当時在籍していたのも普通課程。

 また進路選択の最中であっても法学科を目指す予定もなかったので法律や裁判に関する知識も乏しいのが実状であるのだが。



(……厳しい——……)


(仮にアイレスさんの無実を信じて、それを証明するなら裁判が有用なのも事実で……)



(……どうしよう)



 青年はそれでも、概ね回避型の葛藤に悩む。

 ——裁判の執行を選べば、それは即ち被告人を護るために重圧の中、弁論を以って『殺害の事実があった』と主張する者と争わなければならない。

 ——そして片や、裁判を選ばなければ議論は振り出しに戻り、徒らに時間を浪費するだけとなれば最悪、武力で人と人とが争い、"誰かが取り返しのつかない傷を負ってしまう"かもしれないのだ。



(今の所、裁判以外で魅力的な選択肢は……思いついていない。直ぐに思いつくとも思えない)


(だけど……だからと言って『俺が弁護士をやる』なんてのは……"無謀すぎる")



 直面する二つの選択肢。

 そのどちらも避けたいが、何方かと言えば可能性の残される前者に魅力を感じながら——。



(……だったら——)



 しかし、瑞々しい唇を噛みしめ、数秒の孤独な煩悶を経て——『今は兎に角、迅速な判断が必要』と判断した青年。

 逃げるよう——"現実的且つ選び易い選択肢"の方を取ったことを告げる。




「——やっぱり、俺にそんなことは出来ません」




「今でさえ悩んでばかりの自分が、"更に偽って"弁護士の役を演じるなんて……出来る訳がありません」




 自身に言い聞かせるよう、僅かな怒気と悲嘆を孕んだ口調で告げた決断。

 遥か遠くに見える希望に手を伸ばすことより再び暗中の模索に戻る方が、弱った心の据わりは良くて。




「……本当にそうでしょうか。私としては悪い案ではないと思ったのですが」

「……」

「何より、事件を解明して少女の容疑を晴らしたいと意気込んでいた貴方なら、それを成すための資格は既に十分と——」




 幾重にも積み重なった苦悩が、未熟で孤独を感じる若者に漏らさせる——"弱めの音"。




「俺よりも適任な方がきっと、何処かにいます」




「それに、そこまで言うのなら——」





「それこそ、俺よりずっと賢い——





『他者に委細を任せよう』という意味での——"軽率な他力本願"。

 一つの命さえ背負うことが困難な青年に、その心身へとのし掛かる数百の命と三度の災害は彼女にとって余りにも荷が勝つ"重さ"であったのだろう。

 独り言のように溜まったストレスを表出させる彼女は——かつて恩師の言った注意も忘れて今に、心の声を吐き出すのであった。




「それに、そもそもの裁判をしなくたって貴方なら——"どうにだって出来る"」


「全能じみた力があるんです。戦争を止める方法なんて、いくらでも——」




 であったのだが、直後——"消される背景音"。









 神妙に呼ばれる名——響く、只一柱の声。




(——"!")




 それが意味するは"邪魔の入らぬ空間での一対一の大切なお話"——"お小言"の時。

 何処からか聞こえる溜め息の後、場の空気は一変して——"氷結"。

 青年が自らの『頼りきり』な発言と態度を自覚した今、既に掌で滲む流体は固体の氷へ結晶化——"霜"へと形態を変えさせられていた。




「少し、をしても……?」

「ひゃい」




 震える身で咄嗟に絞り出した返事——口を噛んだ間抜けな音。

 二月ふたつき程早い寒波に当てられた青年はその吹き荒ぶ冷気の源で神を見る。

 女神の——弟子の活躍を聞いていた先程までとは打って変わって冷淡な、んじ顔を。




「——ごめんなさい」

「……話を始める前に——今、『取り敢えず』で謝罪の言葉を述べて場を凌ごうとしましたか」

「…………はい」

「……今回は素直さに免じて、それについては不問とします」




 再びの溜め息。

 対して、凡そ半年を共に過ごすアデスという女神の感情が細波さざなみの中で表現されると知る青年は戦々恐々の様子。

 恩師の眼差しは傍から見れば平時と変わらないように思えるが——"ミリ単位で下がった口角"。

 弟子の気付くその微細な動作——送られたサインの意味は『失望』、これ以上その事態を悪化させない為に口を慎まなければならない。




「……そしてまた『怒り心頭に発する』と言う訳でもありませんので、肩の力は抜いて頂いても構いませんよ?」

「……」

「自ら立つ事を完全に放棄し、剰え他者を背凭せもたれとして——」




「"撓垂しなだれ掛かろうとしない限りは"」




(…………)




「……こほん」




 そうして、わざとらしい咳払い。




「では——話を始めます。少しの"お小言"を」




 瞳に輝きを取り戻したアデスは、話題を裁判から個神的なものへと変えて——語り掛ける。



「——私とて、『"慈しみ"をもって貴方に接したい』と思う事もあります」


「それ故、何処までを貴方への支援とするかで悩む中、私という神の力で『争いの芽を摘み取る』選択肢があった事も事実ではあるのです」




「……事実ではあるのですが、そうした所で一つ——やはり"我々の間には大きな問題"が横たわり、それを前に私は『踏みとどまるべき』と、今も変わらぬ判断を下したのです」




 "願いの全てを聞き届けてやらない理由"も交え、再度の指導として『自己意志の重要性』を説いて行く。



「その問題とは『私と貴方では実現を願う結果が異なる』という事であり、即ち『他者の理想を完全に理解する事は出来ない』と、度々に私が言葉として貴方へ注意をしている問題でもあります」

「……はい」

「今言ったものは私が貴方に"主体性"を求める理由とも深く関係しており、今からはその説明で時間を頂きます」



「今回の件を例とするならば……仮に私が、『戦争を回避したい』・『止めたい』という貴方の願いを聞き、一旦にそれを解釈して、終いに出力される結果として——『戦意を有する人間の全てを取り除く』という行動に踏み切ったのなら——」




「果たして、『貴方はその結果に納得が出来るのか?』……と言った事なのです」




 取り除く、つまりは『除去』。

 巨視的な視点を持つ神は言う——『争いの火種を根刮ぎ除いてしまおう』、『それが一番、手っ取り早くに済む』と。

青年おまえの願う結果とは違うのか?』——とも実質的に聞き尋ね。

 "軽率な他者への委任"が孕む"危険性"についてを再三再四に説いている。




「そして……実際、どうなのですか? 貴方は——今の状況で『人の居ない平穏』を齎されて、納得が出来るのですか?」

「……出来ません」

「そうでしょうとも。私と貴方は比較して多くの差異を持つ、別の存在。思いも願いも理想さえ——"何一つ完全に同じものはない他者"」



「一口に『良き』・『最良の結末』と音を同じく言ったとして、その定義、解釈も異なって——故にこそ私は、『貴方に主体性を持て』と『他者に全てを任せるだけではならぬ』のだと……口煩くに言うのです」




「……貴方の意志は他の誰でもない——"貴方だけ"の、"唯一無二のもの"なのですから」




(俺の……意志……)




「……確かに、凡ゆる選択を他者へ委ねる事は、自ら選択をするより身も心も楽かもしれません」


「しかし、他者の意志が入り込む余地を与えた以上、そこで思いは混ざり、溶けて——当事者の真に望む結果は得難いものとなってしまう」




 強く願い、描いた理想——それを納得のいく形で実現出来るのは"誰"だ。

 いや——『誰でもない貴方自身は何を、どうしたいと願うのか』を、指導の神は問い続け。




「よって、貴方が己で納得のいく結果を手にしたいのならば——やはり自らが主体となって思案を重ね、すべき行動を導き出して実行。望んだ結末を……己で手繰り寄せる他ないのだ」



「例え、最終的な結果が当初に望んだものと大きく異なっていたとしても——責任の所在となる己を省み、邁進せよ」




 問われて、焚き付けられて——青年。




(俺の……"望むこと")



 冷厳の語り口を耳にしながら握る拳、胸奥で逆巻く青の神気は熱を産出。

 頼れる存在へ弱音を吐露したのが少なからず、曇る心を晴らしたのであろう。



(俺は——今も必死に生きようとする人々を、命を……"守りたい")


(理不尽によって"あんな思い"をする人が少しでも居ないよう……"俺に出来ることをしたい")



 靄を払って、透き通る思考。

 進む先を見失いかけていた彼女の目には力強い輝きが戻って、再度に照準を合わせるのは——見出された希望の選択肢。



(だったら、そして……今の俺に出来る、出来るかもしれないのは——"裁判の場に立つこと")


(単純な武力でなく言葉と論理で戦争を回避して、それで……アイレスさんをはじめとした多くの人々の生活が、守れるのなら——)




(——もう一度だけ、考えてみよう)




「——質問、いいですか」

「どうぞ」

「……仮に俺が、ここで『それでも裁判をやりたい』、『少女の弁護を引き受ける』と言った場合……細かい準備とか、必要なものとかを自分は全然知らないんですけど……」




「本当に……"裁判は行えるんですか"……?」




 揺れ動く思考。

 最終判断の為に再度求める"師からの確証"。

 自らの意志を改めたとは言え、青年の心に灯る輝きは依然として弱々しい"風前の灯"。

 "御墨付き"がなければ挑戦の恐怖で動けなくなってしまうから——"保証"を得ないと踏み出す勇気は湧いてこないのだ。




「——"はい"。必要な最低限の要素は此方で用意をしますので、"裁判の執行は可能"かと」

「……」

「私は貴方の指導者にして"支援者"であるからして『獅子の子落とし』のような——"厳酷げんこくなだけの後押し"は決してしないと、約束をしましょう」




 そして、瞬く暗紅あんこうの虹彩。

 思案の青年へと漆黒の女神は言い終えて、真一文字まいちもんじに結ばれた口。

『茶化し』も『嘲笑』も、『冗談』一切の色もなく——『支援の用意がある』と伝えて。




「……また、"一定の条件"は付きますが、後始末にも私が責任を負います」

「"条件"……?」

「……重要な機密情報が含まれる故、詳細は貴方の決断を聞いてから改め、その可否を問います」



「そして仮に、貴方が条件を飲まなかったとしても先述した最低限の保証は実現を約束をしますので——」




「一先ず今は——『裁判を望むか』・『望まぬのか』……熟考の上で、"貴方の選択"をお聞かせください」

「……分かりました」




 含みのある物言いが気になりつつも、努めて選ばんとする青年。



(俺の……"納得のいく結果"。"願いや意志"を最も良く知っているのは……彼女の言う通り——"他でもない自分自身")


(待っていても、誰かが俺の望みを完全・完璧に叶えてくれることは恐らく……"ない")



(そして、何より今の俺は——"待っているだけではいられない")



(俺を助けてくれたアイレスさんが、今を生きる人々がまた危険な状況に置かれているんだ。そんな時に何もしないで、"悲しいだけの別れ"を新たに生ませることになったら……)




(そうなってしまえば……今度こそ、俺は——)




 "壊れる己"の姿を見て——しかし、有する狂気を塗り替える"恩人の笑顔"。

 仲の良い姉弟が笑い合う光景を、かつての己と妹との薄れ行く記憶と重ねて——その遥か遠く届かぬ距離に苦しみ、痛みだす心。



(……アイレスさんの帰りを、待っている人がいる)


(無事を願い、信じて待つ人々が……悲しい思いをしなければならない理由はあるのか——)



("いや")




(そんな理由——"あってたまるか")




 挑戦で"当たって砕けた"として——

 "失う物"があるかも疑わしく、少なくとも今の青年には——"伸ばす手"があるのだ。

 "踏み出す足"も、"突き進もうとする意志"だってある——誰かの代行を待つ必要などない。




(——そうだ。突っ切って裁判をやって、それが上手くいこうがいくまいが、先に待つ破滅の中で一つ二つ……誰かの幸福が拾えれば十分だ、上々だ)




(そうとなれば——"決まり"だ)




(結果がどうなろうと、何もやらないまま終わるなんて嫌だ……二度と御免だ)





(……だから、俺は——)






(——"やるしかない")






 ならば、青年。

 泣き止まぬ心を押し込んで、振り絞る勇気で進み出せ。

 恐れながらに、"それでも"——。







「————だったら、"やります"」



「裁判を開き、"衝突を戦争へと発展する前に終わらせるため"、"恩人を護るため"に俺は——」






「"彼女の弁護をする者"として——






破滅の道でも——突き進め。


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