『第十話』

第二章 『第十話』



「——ん……」



 最後に都市ルティシアを訪問してから数日後。

 簡素な敷布の上で蠢き、瞼を擦って上げるのは青年——女神ルティス。

 現在地は神体の河畔より少し離れた場所の"地下"——弧を描く天井の"地下神殿"。

 かつてある女神に捧げられ、今は忘れ去られた密やかなるその神域を寝所しんじょにして拠点とする青年女神は目覚める。



「……ん……っ——」



 大きく伸びをし、遠くに聞こえる鳥の声。

 閉じられた地下に日の光は入らずとも、眼前で揺れる炎が照らす寝ぼけ眼。



(……朝……)



 その灯火ともしびは神秘の明かり。

 利用者の入退室に合わせ、可燃物も火種も要さずに着いては消える師よりの贈り物。

 日頃の学びや鍛錬を終えて仮拠点に戻る青年を暖かく迎えては、夜の不安と涙を見守る——寄る辺の温もり。

 天涯孤独の恐怖に夜な夜な震える彼女はその炎が好きだ。

 過去の誕生日に見た蝋燭を思い出させ、今の気遣ってくれる相手の存在を感じさせる——こうした安息のひと時が、"精神を支える一つ"であった。



(……やっぱり、まだ……)



 上体を起こし、動作の確認で回す肩。

 しかし、昨日より覚えるは今朝も失せず。



(原因は何だろう……?)



 思い当たる節はなく、首をひねる。

 痛みや気分の悪さはなくとも、体の全体に残る——"重りを身に付けたような感覚"。

 その原因をここ暫くの不眠不休だと推測して数時間を眠った今も、怠さは健在。



(……アデスさんが戻ったら聞いてみよう)



 だが、目立った害もないことから、青年はこの"肌の渇き"にも似た己の状態を体内で水を回すことで潤しては誤魔化して、今は問題を棚上げ。

 流す水気のやはり緩慢なことに眉根を寄せつつも、賢者たる師の帰還を待って判断を仰ぐことが最も確実だと考え——己は己でぎょうのために立ち上がる。

 傍らに置いた蓑、次いで荷物袋を取っては身に着け——相変わらずの髪の長いことと胸の大きいことに一瞬、苦い顔。

 けどそれでも、『学びを怠ることなかれ』という師の言葉を守るため、なにより『彼女の期待を裏切りたくない——失望されたくない』と奮起。



(……よし)


(今日は、何について調べようか)



 毎日のように見たこともない動植物や景色の発見がある世界に想いを馳せ、視点を変える。

 不透明な将来の不安よりも、広がる未知に湧き立つ好奇心・探究心に身を投じることを選択。

 今日も今日とて己を少し、騙しながら——。




 地上へと繋がる石の階段を上る。




————————————————




 数時間後。



(さっきの動物は猿……それともリス?)


(ひたいに鏡面、赤い宝石みたいなのが見えたけど一体、あれは……)



(…………おっ)



 地下神殿を離れ、森中の青年。

 調査中に出くわした奇妙な小動物の、その観察前に逃げられてしまったことに釈然としないながらも、何かを発見、屈む。

 視線の先には鋸状の葉を持つ緑。

 その葉の付け根が茶色に変色して肥大化する——『むかご』を形成した植物の姿。

 蟒蛇うわばみが出そうな幽谷で青年が目を付けたのは他でもない、丸く小さな球根のような形の『むかご』であり、これが食用となることを知っている彼女は——指先に圧縮循環の水を展開。

 伸ばした手で茎を切り、次に都市へ持参する食材としてその採取を開始する。




 ——そうして、数分が経過した頃。




(……取り切らないよう残して、後は——)




「——"バウッ"!」


「——!」



 山菜採りに集中していた背に掛かる声——樹木の枝の上へ飛び退く女神。


(——犬——いや、狼か……!)


 反射的に構えた水の防御膜越しに見えるのは獣。

 先の声の主であり、今は行儀よく地面に座る黒毛の狼が佇んでおり——青年はその者に見覚えがあった。



(……?)


(以前にアデスさんが使役していた個体だ……)



 片耳が欠けた特徴的な姿をしたその狼はアデスの命を受けて青年の移動訓練を先導として手伝った個体——謂わば驚いた彼女にとっても"知り合い"の間柄であり、吠えたのが知己の者だと分かった女神は息を吐いて木から飛び降りる。


(俺に向かって吠えた……みたいだけど……)


 そして、今まで"無駄吠えを見せたことのなかった相手"が『何故、自分に向かって吠えたのか』を思案。



「……どうしてここに?」



 言葉で尋ねてみても返事はなく、青年に犬の気持ちは分からず。

『それでも何か意味があるのだろう』と、頭を捻る——その矢先。



(——あっ、どこへ…………)



(……? 止まった……?)



 屈んだ女神に背とお尻を向けて四足で歩き始めた狼——暫く行った先で足を止め、振り返る。



「バウッ!」



 再び吠える。



「……どこかに、"案内"しようとしてる……?」

「"ワンッ"!」



 言葉を理解しているのか。

 青年の呟きに反応し、今度は声の調子を変えた狼——"頷く"ような素振りで吠えた。



(……本当に何処かへ案内を……?)



 縦の首振りを肯定の意思表示と解釈して歩み寄ると狼——再度に距離を空け、停止しての見返り。



(それなら、アデスさんの指示か何かか……?)


(彼女が『そうしろ』と命じているなら、大丈夫だとは思うけど……)




(……"嫌な予感がする")




 どうにも怪しくなってきた雲行きに一抹の不安を抱えつつ、"何にせよ行動は早めに"——"後手に回ってからでは遅い"と。




(……行ってみよう)




 狼を追い、事態の真相を追う道を行く。




————————————————




(——ここは…………)



 そうして追従の末、辿り着いた場所。



(……川辺に戻って来た……?)



 そこは青年自身も馴染みのある川——他でもない彼女の神体のルティス川であった。



(いつもと変わらないように思えるけど……)



「——、——」



(狼は足を止めて動かないし、この辺りに何かあるんだろうか……?)



 果たして何処まで、どれだけの時間を連れ回されるのかと危惧しつつも、前を行く狼が早々に足を止めた終点が見知る本拠地だったことが一つ。

 そして探る近場の気配にも際立った異常は見当たらず、先の吠え声はやはり無駄吠え——顔見知りへの挨拶や戯れの誘いだったのではないかと、『平穏無事』を願う"希望的観測"でここまでを案内した獣を眺めるが——。



(……何処を見てるんだ……?)



 木の幹を横として座った狼は只管無言で一点を見つめ——沈黙。

 川の中流付近にあたる現在地で水の流れてくる方向——上流へ視線を向けており、その言外に語るような佇まいに『何らかの意味』を感じた青年もまた木陰から顔を覗かせ、同じ角度から光景を見てみんとする。



 すると。



(……!)



(————"人がいる")



 角度を変えたことで開けた視界。

 通常の神であれば補助感覚器に過ぎない視覚が捉えたのは"人間"。

 青年が女神としてのちからを通し、その上で比較的大型の獣だと判断していた動物——それは"幾人かの人間"が放つ反応であった。



(……人間あれを知らせるため、俺に吠えていたのか)



 視覚情報を基に認識を修正。

 人間という種が有する水の量、その性質についての学習記録を更新——今の出来事を踏まえ、感知精度を向上させた超感覚で探る。



(都市の人が川を利用するなら、いつもは中流から下流の方の筈。なのに今日は上流側に寄ってる……)


(……何が違う……どういう意味だ……?)



(それに、あの人たちは確か……)



 件の人間たちが居るのは川の流れる水のすぐ側。

 全体の数は十に満たないかどうかで、後方に固まるのは剣や弓で武装した護衛と思しき者たち。

 そして反対の前方、即ち水際で姿勢を低くするのは白装束の女性数名——青年も記憶にある都市の"巫女"。

 川に向かって膝を折り、布越しで地べたに座る彼女たちは"何やら口を動かしている"様子が見て取れ、初めて目撃する光景を不思議に思う女神は次に耳をそばだて、遠くの音を拾うことにする。




「——清浄たる——ィス様——き我ら——」




(聞こえづらいけど、これは……"お祈り"か……?)



 拾い上げた——"女神の名前の断片"。

 そして、巫女がある対象に向かって言葉を並べるその様はやはり、青年が初めて都市を訪れた時の神殿内部の様子——『祈り』の光景と似ていた。

 では、仮に今の行為が祈祷そうだったとして、次に確かめるべきは——"その動機"。


『何故、彼女たち都市の人間は態々神体へと足を運んでまでに祈りを捧げているのか』


 祈りの必要性——"祈らねばならない理由"を、余計な感覚と雑音を排して更に研ぎ澄ました神の聴覚で聞いてみよう。




「——既に我らルティシアの民、その三分の一近くが



(——!)



「——幸いにも、"渡りを必要とする者"は未だなくとも、ですが……病状は深刻悪化の一途をたどるばかり」


「——故に我らが女神には、先の"天を裂く"かの如くの"好転の兆し"を再び、お願いしたく」


「——続く災厄で疲弊した……民草我らへ御恵みを」


「——神の慈悲を、清浄せいじょうなる水の守護を」




「どうか再び、我らを御守りください——」




(……)


(しかも、三分の一って……)



 聞き、拾ってしまった不穏の語——"やまい"。

 またも祈りを聞き届けた女神の心を不快な焦燥感が満たして行く。



(どういうことだ——本当なのか)


(数日前さいごに俺が見た時、都市の人々の殆どは健康だった……筈だ)


(それなのに、どうして……)



 到底受け入れられない祈りの内容。

 青年、先ずは悪い予感が的中してしまったことに狼狽えるが——事実が事実ならば、事態は急を要する。



(そんなに多くの人が同時にかかる病気って——)



(——"いや"、"それよりも")



 飢饉を乗り越えての復興への希望が絶望に転じようとも——打ちひしがれる暇はない。

 事態の好転・問題の解決を求め、必死に回す神経回路、導き出す——今の優先すべき行動。



(——都市には今、ディクソン先生が居る。医師のあの人なら、病について何かを知っている筈だ)


(俺がここで頭を悩ませるよりも、あの人に現状を確認して——それから、自分に出来ることを探した方が絶対にいい)



 精神的衝撃からふやけた己の内なる水流を加速させ、滑走の準備を整える。



(……そうだ、冷静に——"次"のことを考えろ)


(仮に病が感染うつる物だとして……今の俺は効かないから大丈夫にしても——病原体の媒介者になってはならない)


(熱然り圧力然りで殺菌をいつもより念入りにしつつ——"都市へ向かう")



(——……それでいこう)



 師より聞き及んだ『人の罹患りかんする病では侵されることのない玉体』の性能を再確認。

 都市の人々のため自分に出来ることはないか——何より其処に住まう姉弟の安否を確かめるため、予定外の出立を最終決定。



(『人口の三分の一』という言葉が間違っていなければ患者の数は"百を超える"。それだけの数を同時に、少数で看るのは間違いなく大変——)



(——急がないと)



 そうして、残る倦怠感を吹き飛ばすように推進のための水を放出し、女神——。




(役に立てることが——)




(あるかもしれない————!)





 ——驀進ばくしん





 一直線で都市を目指す。



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