『第三話』
第二章 『第三話』
「——しょっ……大丈夫ですか?」
「……感謝いたします。素敵なお方」
穏やかに整えた水流から老婆を引き上げるのは青年。
悩みながらも、目の前で窮する者をやはり彼女は見捨てることが出来ず。
迷いを振り切っては川に飛び込み、溺れかけていたその怪しき人型を陸地に戻す。
「こんな見ず知らずの
「お礼なんて、そんな……ただ、自分がすべきと思ったことをしただけなので、気にしないでください」
かしこまる老婆に対し、謙遜する青年。
頭巾を上げて露わになった
今の女神は自身の行動の遅さと、それをもたらした勘繰りを後悔し、反省。
『自分がもっと早くに声を掛けて手を貸していれば、こんなことにはならなかった』と負い目を感じつつ、水神としての権能を用いては老婆の濡れた衣服から水を外に逃がし、乾かしながらに言葉を紡ぐ。
「——それよりも、見た所では荷物もあって大変でしょうし、川を渡るなら……手伝いましょうか?」
「いえ、そんな、滅相もございません。これ以上、貴方様の手を煩わせるわけには……」
「ですが……」
近付いて見えた老婆の輪郭。
その襤褸布を纏った背はラクダの
故に『物を担って運んでいるなら尚の事』と青年は考え、困難な川渡りへの助力を提案。
それに対してかぶりを振る老婆に『悪い』とは思いつつ、一帯に潜む危険を知る川水の女神はその意を強調し、なんとか了承を得ようと試みる。
「……日が落ち始めて、まもなくこの場所にも夜が来ます。そして一帯には、夜目がきく獣たちも多い」
「俺……自分にはこの辺りの土地勘があります。それに丁度、安全な場所に……最寄りの都市に向かおうとしていた所です」
(本当は違うけど、今は仕方ない)
(直ぐに戻るので、ごめんなさい。アデスさん)
「——ですのでもし、自分の向かう方向と貴方の向かう方向とが同じならその近く、森を抜けるまでで構いませんので……一緒に行きませんか?」
帰路についていた青年は急遽、予定を変更。
目前の老婆を案じて、彼女を無事に安全な場所へと送り届けるため当面の目的地を都市ルティシアと設定し、其処までの同行を願い出た。
(最悪、断られても……尾行のような形になっちゃうけど、影から護衛して安全を——)
「……分かりました」
「! では……」
「はい。私が向かうのも同じ方向ですので、是非に。貴方様のご厚意に甘えさせて頂こうかと存じます」
そうして数秒、青年の考える次善策は杞憂に終わり——老婆は申し出を受諾。
「……有難うございます。では、早速——」
「——川の渡りをお手伝いしますので、どうぞ遠慮なく、自分の背中に乗ってください」
安堵に内心で息を吐き、謝意を述べた青年。
相手が信用を置いてくれた——名も名乗らず善意を見せる不審な己をやはり心の隅では"後ろめたく"思いつつ。
ならばせめて『善だけは急げ』と腰を落とし、玉体の背面を老婆に向ける。
老いた身を背負い、衰えぬ体で川を渡ろうと言うのだ。
「……重ね重ねの感謝を」
「いえ」
「では、失礼します」
「はい。しっかり掴まってください」
「——では、出発します」
老婆が背中に乗りて肩に掴まったことを確認した青年は立ち上がり、己が半身とも言うべき川水の中へと歩みを——進める。
(それとなく水位も下げて……)
「…………」
(濡れないようにして——)
力の行使で輝く瞳。
その背後で襤褸布から覗く瞳もまた——同じく。
内包する十字の輝き——夢見の光を有した"黄褐色"の虹彩が——『女神の白面を見定めんとしている』ことも知らずに進むのだ。
————————————————
「——山を学びの場として育ったので、この辺りには詳しいんです」
「……そうなんですか。まだ若くとも逞しいのにはそんな訳が……私なんかはこの前——」
川を渡り終えた青年、女神。
彼女たち、都市を目指す道すがらに交わす言葉。
その内容は最近に『何があった』、『見つけた』、『食べた』といった他愛のない日常話が主。
互いに名を知らず、
(やっぱり、名前を言えないのは不便だな……)
混乱を望まぬ故、名乗らず。
だが、それ以前に"人の名と神の名"『どちらの名を使うべきか』判断のつかない青年にとっては、今の『どちらでなくとも良い』状況が心地よく思えた。
恩人である少女アイレスにさえ未だ名乗ることが出来ていない歯痒さや悔恨の念を、青年は『無名』の今だけは少し——『忘れられたから』だ。
「——なので、今日はその誕生のお祝いも兼ねて、此方に足を運んだ次第でございます」
「それは……めでたいことですね。生まれたばかりの彼……若しくは彼女も貴方の顔を見て喜んでくれるかと思います」
「はい。そうであってくれると、私も嬉しいのですが——」
「——あ゛っ」
そうして散発的な会話を繰り返し、日没までに森を抜けられるかという頃、上がったのは——"驚きの声"。
「……? どうしましたか?」
その"発声源"は青年ではなく、寧ろその耳元で出された音の——"声の主は老婆"であろうという予測を立て、不思議に思った青年女神は尋ねる。
「凄い、大きな声が聞こえましたけど……大丈夫ですか?」
「は、はい。私は、大丈夫なのですが——」
「?」
老婆を背負っているために後ろの様子を視覚で確認できずとも青年、水に作用する気配から周囲を"索敵"。
直ちに危険性のある生命反応が近場で存在しないことを確かめ、しかし間を置かず聴覚を揺さぶるのは——"鳥の羽ばたく音"。
「——わ、私の、この婆の荷物が鳥に持ち去られてしまいました……!」
「——!」
(大変だ! その鳥は何処に——)
嗄れながらも威勢のいい老婆の声色が気にかかりつつも辺りを見回し——上方。
(——口に包みを咥えたあの鳥か……!)
広葉樹の枝の上。
先程まで老婆が背負っていた筈の"包み"、今は灰色の鳥が嘴で咥えていた。
その鳥、下嘴で包みの持ち手を吊りながらも器用に喉を鳴らし、まるで勝ち誇るかの如くに奪われた敗者を見つめる。
その挑発じみた鳴き声を字に起こすなら『ヒャッコー』、いや——『カッコウ』だろうか。
「……アレですね。遠くへ逃げる前に取り返さないと」
「……? 何を……」
「少し、降りて待っていてください」
「——捕まえてきます」
一旦、背負う老婆に降りてもらい。
視界の中央で標的の鳥を見据え、青年。
「い、いえ、そこまでは——私は大丈夫です」
「でも、貴方にとっての大切な荷物——お祝いの品なのでは?」
「それは、そうですが……」
(だったら尚更、取り返さないと……!)
「……それでもやはり、あの荷物は諦めましょう。残念ですが、"あの鳥はおそらく私に"——」
「待っていてください——」
鳥が飛行の予備動作として翼を広げたのを見て取り、続いていた言葉ごと老婆を置き去りにして——駆け出す。
(——届く高さだ。いける……!)
そうした追っ手の動き出しに合わせてか。
逃げようとする鳥の体が浮き始めるが、目標の位置は依然としてそれ程に高くはなく、未だ"人間の跳躍"が届く範囲。
"今ならばまだ間に合う"——神の力を披露せずとも捕獲は可能だと判断。
駆ける青年、その勢いのまま——跳ぶ。
跳んだのだが——。
「——っ!」
両手が鳥を掴もうかという瞬間。
既の所で鳥は——身に突風を受けて急上昇。
引き延ばされる時の中。
徐々に開いていく距離で羽根を掠めた青年の手が虚しく、空を切り——。
(——まだ、間に合う……!)
しかし——諦めない。
諦めず、即座に打つ"次の一手"。
何時だったか——店の傘立てに差した傘を持って行かれてしまった時の傷——何より多くのものを失ったあの日に刻まれた癒えぬ傷は疼き。
内心の傷口より滲み出る思い——気となり水となり、玉体全身を巡り。
喪失の恐怖が駆り立てる。
『歩みを止めるな』と囁き出す。
そうして思いは止め処なくに溢れ出し——。
「————!!」
足裏から押す水——"女神の体を打ち上げる"。
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