『第二十話』

第一章 『第二十話』




 肌を撫でる、"潮風"。




「…………、……? (……しょっぱい?)」




 擽られる鼻腔でも塩の香り。

 海の近付く中、女神は午睡より目覚める。



(……ここは——)




「"お目覚めですか"」

「——! あ、アデスさん……!」




 横になっていた身を起こし、揺れ動く地平と水平の線を眺める青年。

 掛けられた背後よりの声に振り向いた先では頭巾より覗く一対の真紅——女神のアデス。



「あ……えっと……俺はあの後、寝落ちして……ここは——! いえ、それよりも——」

「……」

「——都市は、あの獣はどうなりましたか……!?」




 対しては起き抜けの青年女神ルティス。

 相手の放つ眼差しの冷厳さに寝ぼけ頭を冷やし、辿る記憶で思い出した重要事項についてを問う。

 左右に見回す周囲に都市の壁も獣の姿も見当たらず、『一体それらは何処へ行ったのか』、『事態はどう変わったのか』との気掛かり晴らすため。




「……都市は今も健在です」

「! なら、人々は——??」

「……貴方の入眠からこれまで、追加の死傷者はありません」

「……!」

「加えて——都市を襲う獣の脅威も過ぎ去り、延いては外部からの支援についても目処が付いたようです」

「! それは……」

「……"貴方の試みが功を奏した"。都市への食料供給の道筋は復活し、其処に住まう人間の命もまた——"未来に繋がれるでしょう"」

「……それじゃあ、俺は——"間に合った"……?」




退……?」

「"はい"」




 そうして。

 アデスより告げられたのは、目的の達成・撃退の成功。



「……よ…………よかった」



 その待望を聞き、青年の心はゆるび。




「本当に、よかった……!」




 浮かぶ歓喜に笑みと一粒の涙はこぼれる。



(これで、彼女たちも故郷を追われず、ようやく復興を始められる筈……!)


(だったら俺も、何かしらでそれを手伝って……後は……——)




「……今、獣……"神獣は何処へ"……?」

「"近くに"」

「……生きてますか?」

「はい」



(……それもよかった。……でも——)




「近く……とは、どの辺りですか? ここからだとそれらしき姿は見えませんが……」




 けれどアデスの発言に違和感を感じ、再度に見回す周囲。

 親なしの子——『温厚を取り戻した獣は何処いずこへ?』と首を傾ける。



(……それ以前にここは……? 川……いや、海辺?)


(都市からは離れてるみたいだけど、よく見るとなんだか高さがある……ような……——)



 そうして一周を終えた首。

 一回りして視線を戻した青年は、その中央でアデスが"真下を指差している"ことに気付いた。




「……?」

「……」

「……その指は?」

「……"下"、です」

「? 何が、下……なんですか?」

「……件の神獣は——"我々の真下に居ます"」

「……え"。それって、ほんと————」




「「"——————————"」」




「——!!?」




 くぐもった地響きのような音。

 事の真偽を確かめようと真下を見遣った青年の身は揺れ、彼女は今の今まで大地だと思っていたなだらかな平面が"動く物体"——"動物の背"であることを慄いて知る。




「あ、わ……わわ、っ……!」

「今、我々がお邪魔している足場こそ、神獣の背であるのです」




「「"——————————"」」




 再び、獣の声が響く。

 太尾で身を打たれた青年は思わず身構えるが、獣のその声は彼女が先に聞いた泣き叫ぶような鋭い咆哮ではなく、まるで"優しく語りかける"ような——"穏やかの声色"であった。




「……話は私の方で付けておきました。事の経緯いきさつを知った神獣かのじょはこのまま、都市を離れる自走で海に向かってくれているようです」

「は、話せるなんて凄いですね、アデスさん——では、なくてお、俺が乗っても大丈夫だったんですか……!?」




 先刻まで雄々しく獣に立ち向かっていた青年は驚きと揺れで尻餅をつき、後退り。

 さり気なく、頼りとする先達の女神に寄るその姿は情けなく。

 しかしそれでも、"先刻の姿とのその差"——『




「……前述したように、彼女が背に他者を乗せることも珍しくはないので、問題はないかと」

「そ、そうですか……でも……何故?」

「寝ていた貴方を連れてきた理由。それは、彼女が——」




「「"————————"」」




 状況を説明する言葉を獣が遮り、白黒の女神は声が終わるのを待ってから再び口を開く。




「……その理由が今の音です」

「な、なんと?」

「『帰る前に直接、貴方に礼を言いたかった』……概ねはそのように」

「……"俺に"?」

「はい。女神ルティス、貴方に」




(礼、お礼。獣が俺に……?)




「「"——————"」」




 続き、感謝の言葉が女神へ送られるのだろうか。




「『矢を取り除き、苦しみを終わらせてくれた貴方に、感謝を』……そのようにも言っています」

「それは、どうも。俺……こちらこそ、貴方(?)が無事に正気を取り戻してくれて助かりました——……と、お伝えしていただいても——」




「「"————"」」




「……気持ちは伝わったようです」

「それなら……良かったです」




 今一度、安堵に浮かべる笑顔で胸を撫で下ろす。

 苦闘の末、都市と其処に住まう人々と——"それを襲わされた獣"の命を見事に拾うことが出来た青年。

 踠く中で負った外傷も気付けば既に癒え、彼女にとっての残る心配事についても少し。




「……そういえば、"矢"」

「……」

「——獣を操っていたと思しき、は……」




 狂気を呼び起こした怪しき物体——矢。

 青年は自身を痛めつけた熱と輝きについてを思い出し、"危険"なその矢の所在を問う。




「……引き抜いた後は光りが消えてて、急いでいたので適当な所に投げちゃったんですけど、今は——」

「私が回収しました」

「アデスさんが……?」

「はい——現物は此処に」




 蓑の内より、取り出される物。

 細長い棒状、尾に広がる羽根のような構造と先端で鋭利なやじりを持つそれ、紛れもなく。




「これが……"あの"……」




 間近で目にするのは正しく『獣を狂気に駆り立てた矢』であり、今のそれは青年の記憶が正しいことを証明するようにかつての輝きを失って、今はアデスの掌の上で"銀色の鈍い光沢"を放つのみであった。



(……あの時の光景が嘘のようだ。見た感じ、鉄製の普通の矢みたいだけど……これは一体——)




「これについては引き続き、私の方で預かります」

「アデスさんが……?」

「詳細については現状だと私は考えていますので」

「それは……はい。俺も詳しいことは分からないので、アデスさんにお任せします」




「でも、本当に——"誰かがこの矢で獣を操って都市を"?」

「……実際に"弓を引いた者"の姿を、獣の彼女は『目撃していない』——ですが親であった個体から『逃げるよう指示は受けていた』とのことで」

「……」

「出来事の表層だけを見れば——とも言えるのでしょう」

「……」




 顰める眉。

 矢の放たれた——"射られた事実"。

 母の獣を殺し、その子を焚き付け、更には都市の人間たちをも苦しめた——"得体の知れぬ害意"の存在に青年の心が不快に淀む。




「今では何の変哲もない鉄の矢。気配も失せ」

「……」

「しかし、幸か不幸か。『光り・輝くこと』については私にいくつかの"心当たり"がありますので……多少なりとも時間を要しますが調査については、お任せを」




 しかし、為す術の多くを持たず。

 また、己自身が今も苦悩の中にある青年に害意の所在を突き止めることは難しく。




「……お願いします」

「はい。進展があり次第、貴方にも情報をお伝えします」




 俯くように頷いて、頼れる先達へと大局の判断を任せる。




「……では、降りましょうか」

「あ……はい」




 そうして、歩く獣の足は動きは停止。

 背景はいつのまにか海を間近とし、その下方へとアデスは躊躇なく飛び降りて行った。



(俺にどうこうする手段も、余裕もないことは一先ず彼女に任せて、今は俺も……——)



 心中晴れぬ青年も我に帰り、先んじて降下した女神の後に続こうと背に生える棘を避けて獣の肩の辺りに向かい——降りようと覗く下部。




「————"あ"」




 しかし、覗いた拍子——"滑る足"。

 青年はそれまで意識していなかった現在地の高さを再認識したせいか——これまで押し留めていた恐怖心をも思い出して体の震えを再発し、なんと間の悪いことに足を踏み外してしまっての——"落下"。




「——ひっ——」




 咄嗟に予測するのは、慣れたものの激突する痛みの到来。

 気の抜けた彼女自身に備えられたのは悲鳴のみ。



(…………?)



 だが、どうしたことか。



(……痛、くない……?)



 今、星に引かれた筈の青年女神を痛みは襲わず。

 恐る恐る開く目で、それが見る者。




「…………大丈夫ですか」




 先に地上へと身を移した女神の姿。




「…………は、はい」

「……お気を付けて」

「す、すいません。ありがとう……ございます」

「いえ」




 地面すれすれの高さで青年を謎の力で浮かせ、止めたアデス。

 何時もの冷ややかな無表情で彼女は淡々と受け答えを済ませ、強張った玉体を足裏から場に立たせる。

 そうして、下から眺める女神の玉貌——気怠げな左目の下に位置する"黒の点"や、穏やかに気を遣う言動。



(…………)



 それら、女神の頼もしき立ち居振る舞いは改めて頼りのない青年の記憶へと——妙に鮮明で焼き付くのであった。




————————————————————




 そうして——しばらく。




「…………」




 陽の光、反射する砂浜。

 その先、海中へと潜る獣。



(……少しでもいいことが、ありますように)



 無力は歯痒くとも、せめて幼くして親元を離れなければならなくなった子のこれからに幸福が待つことを祈り、青年はその沈む背を見送っていた。



(……これでルティシアも、そこに住む人々も……一応は、一安心)



 神獣が姿を消した海を見て、次に陸地側のルティシアの方角を見遣り、一息。

 命の瀬戸際でがむしゃらに足掻いた凡そ一週間の時は激流のように過ぎ、今に訪れるのは空白の時。



(……でも、俺は……"これからどうしよう"……?)



 目的を見失い、途方に暮れる。

 いくら都市の危機を解決出来たとして当の青年の行き先は不定、進路も未だ定まらず。

 想像を超えた未知の獣や超常的な力を持った存在が実在するこの場所——青年が誠として知る世界とは前提が大きくかけ離れており、道行の不安は募るばかりで。




「…………はぁ」




 溜息が大気に溶ける様、細部まで見えて。

 残されたのは"痛みのある夢"と、"変わり果てた自分"。

 他には望まずとも手にした『水を産み出しては操る権能ちから』のみ——と、悲嘆に暮れようとした矢先。




「……では、用件も済んだことです。




 同じく場に残り、口を開く者あり。




「…………」

「……行きましょう。女神ルティス」

「……」

「……女神」

「……(……俺に言ってる?) な、なんですか?」

「……『戻る』と言ったのです」




 上の空で女神との呼び掛けに反応の鈍い青年へと手を振り、己の存在を主張するその者——アデス。




「……あっ。アデスさんはもう、お帰りに?」

「"私と貴方で戻る"のです」




 漆黒に身を包む白肌の、その女神。

 心なしか細める眼光が青年を射抜く。




「……"俺も"?」

「はい」

「でも、戻るって……どこへ?」

「神体の川へと戻るのです」




 戻るという言の葉に、思い浮かべる望郷の念。

 しかし、眼前でアデスの言う場所に青年の家はなく。

 見えぬ話の展開、湧き立つ疑問。




「……どうして?」

「呆けるにも程があります。忘れましたか——です」

「……え。まだ、あれは続いて……?」

「……当然です。そも、学びの目的は貴方が最低限の自衛のすべを知って私に余計な手間を取らせぬためであり————」




 続かんとする関係。

 内心は孤独でも、見守ってくれる者の存在が意識される。




「——『貴方を導く』と言った私の言葉に二言はなく——」




 言葉に呼び起こされる最初の記憶。

 暗闇を必死の思いで駆け抜けた先、右も左も分からぬ世界で目を覚ました時に助けてくれた"彼女"を想う。




「——……ですが貴方には先ず、暫しの暇を与えます。見た所、相当に疲弊している様子。これでは学びの成果も半減、期待出来ず——」


「——健やかな学び、成長は……先ず充足とゆとりあっての——」




 今のように自分を一人にはしなかった——今も側で寄り添ってくれる相手の存在。




「——しかし、貴方が中途で止める選択肢を選びたいと言うのなら……私も無理は——」





「——どうした、女神」





 溢れる涙に掛けられる声。




「…………っ」

「いえ……どうしましたか。女神ルティス」




(……やっぱり、今も怖くて……不安で)


(……自分が帰れるのか、……何も、分からなくて——)




 ある日を境に、何もかもが。

 "何よりも自分という存在が大きく変じてしまった青年"は、目の前で落涙を案じてくれる女神を見つめる。



(——でも、今の自分は決して、一人じゃない)




「……女神?」




(それに、この力で護れるものがあって……)




「応えては……くれないのですか?」




(何より、俺は『生きていたい』と、あの時……そう願ったんだ)




「……若者よ。青年よ」




 涙を流しながらに前を向き、未だ定まらぬ未来に希望を見出さんとの心。




(だったら、今は……彼女に、アデスさんに付いて行って)




「……教え子? 生徒……?」




(学んで得た知識と力で、少しでも多くの幸せを——)




「であれば……」




(未来ある者たちを、まも——)





「——"弟子"。"我が弟子"よ」

「——あっ、はい」

「……漸く応えてくれましたね」





 しかし、反応を伺っては考え出された"新たな呼び名"——聞き慣れぬ『弟子』という呼称が大志を抱かんとする青年の意識を現実に引き戻す。




「しかし、本当に大事ないのですか?」

「……?」

「『涙の理由、その委細を教えろ』とまでは言いません。ですが、今の貴方は酷く——」

「えっ……あっ」




 濡れた頰の感触も今、実感となる。




「——ご、ごめんなさい。突然、涙を流して、また話を聞いてなくて……」

「……?」

「いえ、"痛みは全然"。涙も、何か力の使い方を少し間違えただけで、問題はありません」




「……」




 そうして、踏み込ませず——踏み込まず。




「それより、さっきの呼び方は……」

「……一時的であっても私が教えを授けているのです。故に貴方を指導役たる弟子——『我が弟子』と、そう呼んでも差し支えはないでしょう」

「な、成る程(?)」

「……無論、貴方が許せばの話ですが」

「あっ……はい。問題は特に」

「……了解しました。では、以後そのように」



 今、此処に改めて結ばれる関係。

 互いに相手の素性をよく知らぬ奇妙な"師弟"。




「ならば早速、我が弟子よ」

「なんでしょうか?」

「『常に気を抜くな』とまでも言いませんが、気の抜けたことが外から透けて見えるのは問題です」




「『謀るならば内心で、出し抜くならば一瞬に』」




「——そうした神の行い。世を渡るに際しては心得ておくべきだと、先ずは一つ。教えておきます」

「は、はい」

「速度では決して敵わぬ・勝負を仕掛けてはならぬ相手が存在する事実を知り、事前の先手せんてで優位を得られるよう、努めねばなりません」




「そうした——この宇宙せかいでの基本となる戦術についても後日、お教えしましょうか」

「よ、よろしくお願いします」

「しかしに今一度伝えておきますが、私の指導は甘くありません。覚悟して臨むように」

「……が、頑張ります……!」




 闇に消え、場を移さんとする二柱。




(……俺に、頑張れるだろうか)




 例え、今の全てが夢でも。

 己が終わった者だとしても。

 心の向かうまま最善を尽くし、他者の苦痛や悲痛を少しでも和らげ、理想の世界を実現するために学び、励み——"師弟"は続く明日へと向かうのだ。




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