『第十話』
第一章 『第十話』
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(——よし)
受け取った髪留めを後頭部へ。
ぎこちなくまとめる髪は馬の尾を生やし。
気を引き締めるのは
「……やってみます」
足を開いて重心を意識する立ち姿。
深呼吸で精神を集中へと導き、前に向ける両掌へ力を注がんとする。
「……ふぅ……」
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その意気込みから、少し前。
(——こ、怖かった……)
転移、終わるや否や。
膝に手をついて呼吸を整える青年。
足の裏で履き物越しに砂利の感触を確かめながら、地に足を着けた実感に安心の息を吐く。
(な、なんだったんだ。今の"浮遊感"……?)
(それに、ここは——)
見渡す周囲——川瀬。
ゴツゴツとした岩、鬱蒼の森。
滔々と流れる水の音——それら透明の色。
「……今の一瞬で、都市から川に……?」
「上流も上流。人目につく心配もありません」
「今のは、アデスさんが……?」
「はい」
顔を上げる先には赤目の少女。
指導を請い願った青年はアデスによってこの場へと身を移されていた。
「す、すごい。今の力、それこそ神さまみたいな——」
「……そうですが」
「——え」
「……?」
「……アデスさん……女神……?」
「……貴方は、気付いていなかったのですか?」
「……は、はい」
「……」
(……夢なら、そんなこともある……か?)
「……少し、『不思議な感じがする』と思っていた……それぐらいです」
「……」
「……と言うより、さっきのが出来るなら……昨日、歩いた意味は……」
「……『徒歩で』と言ったのは"貴方"です」
「……それは」
「……」
「……そうでした」
行き違い、思い違い。
やはり空気感は"フワッ"とした夢のようで。
目前には絵に描いたかの如きアデスという一つの理想、しかし、現状の世界は儘ならず。
(また……よく、分からなくなってきた)
(俺は、何を……どう——)
「……指導を始めましょう」
「——あっ、はい。お願いします」
情報の処理が追いつかぬ青年、反射的に発する空返事。
頭巾を上げて露わになる玉面へと無意識に目を引かれるまま、会話にも誘われる。
「では、達成すべき目標を立て、そのための学びに時間を費やす——その前に」
「先ずは今の貴方に何が出来て、出来ないのか——"現時点での力量"を測らせてもらいます」
「泳ぐ魚に泳法を
「わ、分かりました」
「なので手始めには、そうですね……——」
「——其処な"川の水"を使い、適当に何かして見せてください」
川のある方向へ頭を傾け、アデスは指示を飛ばす。
「川の、水を……」
「その水は貴方の神体、手足も同然の物質。川水の女神にとっての本拠地とも呼べるこの場所ならば、貴方も存分に力を発揮出来るでしょう」
「……」
「瞬間で出来る限りの
指導役の女神は手頃な岩に腰を下ろし、促す。
星型の浮かぶ暗い赤の瞳は青年を見つめ、その見せる力が如何程のものか——脅威になり得るのか——神業を期待して待機する、が。
「……えぇと、その……」
「……何か意見が?」
「……」
青年は立ち尽くすだけ。
歯切れも悪く、周囲の水に変化は起こらず。
「質問があれば、お聞きしますが」
(そう言われても、何を……どうすれば……)
(質問や疑問も考え出したらキリがないし、聞くにしても何をどう——)
組もうとした腕に、胸の感触。
慌てて崩す動作によって青年の長髪が揺れて、背筋を擽る。
(……くすぐったい)
何度か頭を振り、髪の存在を確かめる。
腰元辺りまで伸びる黒髪——それは彼女が彼だったころには体験したことのない重みを有し、まとまりなく散っては体を撫で、気さえも散らす。
「……では、一つ。お尋ねしたいんですが……」
「何でしょう」
「あの……何か——髪を留める物などがあれば、貸して頂けないでしょうか……?」
「……"髪留め"」
「はい。後で洗って返すので、予備があれば……」
「……少々お待ちを」
(……あるのかな?)
側頭部に尾——なだらかな鎌の如き弧を有する少女は蓑の内側へと手を遣り、弄る。
その者アデスは交差する髪留めで髪を結わえていた。
故に『予備の一つ二つ所持していてもおかしくない』という青年の予想は的中し——取り出される髪留めが一つ。
「……これで構いませんか?」
「あっ、はい。大丈夫です。有難うございます」
漆黒の輪——アデスの物と同色の髪留め。
それは駆け寄る青年の掌に置かれる。
「では、しばらくの間、お借りさせて——」
「いえ。それは差し上げます」
「えっ。でも、それは流石に悪い……」
「"替え"はいくらでもあるので、お気になさらず」
「……!」
涼しい顔で取り出して見せる——替えの数々。
その色は全て、基調は黒。
装飾は一つの交差や二重交差、虫や花を模した形など様々の髪留めが持ち主の両掌で光を返さずに輝いていた。
(……黒が好きなのかな)
「貴方の見せた心憎く面白き物言いへの評価……その形としても与えます。遠慮は要りません」
「あ、ありがとうございます」
(心、憎い……?)
「……兎に角それでは、お言葉に甘えて——」
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そうして話の展開は、冒頭の場面。
「——やってみます」
「……」
「……ふぅ……——」
懐の豊かなりしアデスから髪留めを受け取り。
青年は川に向け、掌を翳す。
取り敢えずで、挑戦してみる。
(何か、起きてくれ)
"曖昧模糊"とした精神状態で体に力を込める。
(俺に力があるのなら、それを見せてくれ)
(都市の人々を——)
(苦しみながらも俺を助けてくれた彼女を——)
(助ける、ための——!)
そして。
(————力をっ!!)
叫ぶ。
「————"はぁっ!!"」
「……」
「…………」
辺りの水が特別に変化した様子は一切ない。
一帯を支配するのは轟々と流れる水の音。
「……もう一回、やってみます」
「はい」
「————"はっ!!"」
「……」
「……」
森の鳥がよく通った声を響かせている。
変わらず広がるのは雄大な自然の景色だ。
「……それが、今の貴方の全力ですか」
「…………そうみたいです」
「……」
「……」
「……ならば、水に
「はい」
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「——大まかな予定が決まりました」
岩に背を預けてどこか意気消沈の青年に掛けられる声。
実状を基に組み上げた予定をアデスが伝達する。
「指導の内容については先述の通り。人の言葉による規定が貴方の理解を助けるなら、分子や原子、素粒子——基本的な粒子の概説を介し、『水』とは何かを学ぶことから始めます」
「は、はい」
(……思ったより、難しそう)
「そして次に。貴方に残された時間——つまり学びや鍛錬に訓練、修行に充てられる"期間"についても確認しておきましょう」
「——」
相槌を打って話の理解に努める。
元文系の青年にとって大いに不安の残る駆け出しだったが、かと言って項垂れてもいられない。
「貴方が護ろうとする都市ルティシアは現在、神獣の襲来によって食料が不足——『飢饉』という
「……」
「現状を打破出来なければ人々の飢えは加速し、遠からず彼らに待ち受けるのは『死』という結果——命の区切りの時だ」
「……」
「それ故に、この状況では"時間"の概念が重要となります」
「人間という種は個体差こそあれど、飲まず食わずの状態ではそう長く命を繋ぎ止めることは出来ず、事の発端から現在までの経過時間・備蓄の状況などを鑑みた場合、後五日か六日ほどで彼らは完全な絶食状態へと陥り——」
「そこから更に数日が経過するまでが生命維持の限界——"生死を分ける境界線"となる」
「ほぼ確実な救命のため、食料の供給移送の時間的ゆとりを考慮した場合は——」
「一週間」
「大凡この期間で貴方は力を学び得て、行動を起こし、飢饉解決の糸口を彼らの前に示さなければならない」
「一週、間……」
不可思議な出来事の連続で浮かれかけていた気が引き締まる。
女神としての自身を碌に知らぬ青年はその僅かな時で状況を好転させなければならない。
「加えて、人々の命に差し迫る危機は単純な食料の不足以外にもう一つ、近隣にて健在です。それこそ、直接的に今回の事態を引き起こした——」
「……"神獣"」
「——そうです。べモスと呼ばれる神獣がいます」
「"神の傑作の一つ"とも呼ばれる彼の獣は現在、休眠状態にあり……過去の活動時間と睡眠時間の相関関係を考慮すると、目を覚ますのは……やはりこちらも一週間といったところでしょう」
(あの神獣が、目を……覚ます)
名を耳にし、都市への旅路で聞いた轟音——"神獣の鼾"を思い返す。
それは声の大きさに見合った約二十メートルの体躯を誇る巨大な獣。
その巨体が動き出して万が一に再びルティシアへと向かうことが、あってしまえば——。
(……都市は壊滅する)
「——総括して、やはり貴方は今日からの一週間でその力を引き出し、問題の対応に当たらなければなりません」
(間に合うのか……)
全身に滲み出る冷や汗。
先のような醜態を一週間後にも晒すようでは——"終わり"だ。
都市に、青年を助けた恩人とその家族に待つのは"破滅の運命"である。
(あんな体たらくじゃ、到底——"いや")
(やると決めたんだ。やるしかない。俺に出来ること、今の俺がすべきことは——)
「質問があります」
決断的に手を挙げる。
真剣な面持ちで目指すのは浮かぶ疑問の氷解。
現状のより正確な確認だ。
「どうぞ」
「神に——今の俺に睡眠は必要ですか?」
「……世代によりけりですが基本的に、今の貴方でも睡眠は必要ないでしょう。力を短期間で大幅に消耗した場合においては、その回復の一助にはなりますが」
「それならほぼ丸一日、二十四時間だったり、丸々一週間を活動に充てても——」
「"通常"、問題は起こり得ないでしょう」
「食事はどうですか?」
「……食事も睡眠と概ね同様です。
「食べること自体は……可能ですか?」
「可能です」
「食べて力が大幅に増したりは……」
「しません」
「……」
(睡眠と食事をないものとすれば、実際に使える時間は
(これなら、もしかすれば——)
「……」
「……他には?」
(……後、今、聞いておくべきことは——)
そうして、青年。
微かに見え始めた活路への希望を求め——思わず飛び出る、"ある質問"。
「——"アデスさんがルティシアを救う"ことは、出来ないのでしょうか」
「…………」
それは事実上の救援要請——自らも苦境に立たされる青年の"助けを求める声"のようでもあり。
そして、その"求め"を契機とし、世界——。
「……? アデスさ——……"!?"」
(——な、なんだ——急に、寒く——)
「——女神」
暗く——"色味を変える"。
「私は『貴方を導く』とは言いましたが、『甘やかす』とは一言も——"言ってはいません"」
「えっ……」
「女神ルティスよ。今回の指導は元より、貴方が
冷淡な声色、表情の変化は何一つないのに。
自身の発言がアデスの何に触れてしまったのか——分からず。
ただ凍てつく波が、青年の身を心の底から震わせる。
「私は教えこそすれど、問題を解決するのは私ではない。貴方だ」
「貴方だけが——"己の理想"を知っている」
「本当に世界を変えることを望むのなら、そのための行いは決して——他者に任せるべきものではない」
「思い描く幸福も夢も、己から他者に委ねた瞬間に望まぬものへと形を変え、願った理想はいつのまにか——遥か彼方へ遠のいてしまう」
「だから軽率に他者へと、
青年を一直線に射抜いていた。
「分かりましたか——女神」
奥底で静かに燃える——真紅の瞳が。
「…………はい」
「……他に、質問は」
「……ありません」
「……では、私で続けよう」
「次に、何を以って都市に迫る飢饉を解決とするのか——"目標"を設定します」
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