『第八話』

第一章 『第八話』




「——生命を育む海と大地」


「そして、遍く営みを見守りし天空よ。その恩恵・恩情・恩愛に感謝を——捧げます」




 三者の囲む食卓。

 言葉で世界への謝意を表したのは家主の少女アイレス。

 並んで席に着いた弟のオリベルと共に瞑目し、合わせた手、捧げる祈り。




「——かんしゃを」

「……感謝を」




 蓑を脱ぎ去り、素顔・姿を晒す青年も見様見真似でそれに倣い、祈る。




「「「————」」」




「……よし。食べても大丈夫よ、オリベル」

「はーい」

「粗末なものしかありませんが、貴方もどうぞ。遠慮なくお召し上がりになってください」

「は、はい」




 促される食事。

 青年の前の皿、掌大の小さなパンが二つとチーズが一切れ。

 加えて、ジャムなのか飲料なのか判別が難しい紫色のものが注がれた杯——匂いからして果実の汁を水か何かで割った物のようである。



(まさか、信じてもらえるとは……——)



——————————————————



『——ル、ルティス様の御親戚の方だなんて……!』


『凄い……凄いです!』



——————————————————



(——思わなかった……)



 素顔を見られ、あわや大騒動の原因に自身がなってしまうのではないかと一時は危惧した青年。

 しかし、咄嗟に飛び出した『神の縁者』という拙い言い訳をまさかまさかで少女は信じ——。



(あの後、勧められるまま食事もいただくことになって……)



『神類への丁重な持て成し』を慌ただしく体を家具にぶつけながら準備したアイレスによって急遽の饗宴が催され、ささやかな歓待を受けることになった青年——夕刻の食事を眺める今に、至る。



(……それで、これが——夕食)




(……が——)




 間食と見紛うほどの質素な夕食が卓の上に三組。

 前述の青年の物とは別に——少年オリベルの皿には一つの小さなパンと、ルティスのものと比べて半分ほどのチーズの切れ端、紫色のものが満たされた杯。

 そして、弟の対面に座る姉、残るアイレスの前——。


(…………)


 "半分ほどしか満たされていない杯が一つ"。

 ——



(……これだけじゃ、空腹は——)




「おねえちゃんはたべないの……?」

「うん。……お姉ちゃん、あんまり食べないようにしてるの——」




「最近は……ほら、痩せてる方が綺麗みたいな話も聞くし、それでね。お腹もあんまり空いてないから気にしないで、オリベル」




 乾いた少女の笑顔。




「なので、貴方も——」




笑顔を見せても底より響くのは音。

 乾いた虫の音、腹の音。




「「…………」」




「……あ、あはは」




(……俺は"空いてない")




 目の前には空腹に苦しむ者がいて。

 それを眺める青年——今も空腹をまるで感じていない青年の側には食べ物。



(だったら……)


("出来ることは……ある")



 食料が不足する都市で。

 恩人を余所に貴重なそれを口にすること、余りに忍びない。




「……折角用意して貰ったのに、その、申し訳ないんですけど——」

「……!」




 故に、成すべきことは明確だった。

 必要のない者よりも、必要な者へ。

 用意された皿と杯を真向かいの姉弟の方へと押し戻す。




「——実は……まだ気分が悪くて、食欲もないので、これは二人で召し上がって下さい」

「——いえ、それは……! ルティス様の御親類にそんなことをしてもらう訳にはいきません。私に遠慮することは——」

「いえ、本当に食欲がないんです。それに昨日はしっかりと食べてきたので、

「しかし、それでは……」




 貴き神類の手前だ、容易に礼節を欠くことが憚られるのだろうか。

 大きく手を振って申し出を固辞するアイレス。




「……いえ——」




 ならば攻め手を変えようと、青年。

 困り顔で自ら助力を願う。




「——貴方の用意してくれた食事を食べられず、それを無駄にしてしまうことを恐れるオ——この自分を助けるものと思って、今は」

「……」

「どうか、お願いします」




「「…………」」




 些細な、それでも確かな"衝突"。

 譲れないもの——譲れるもの。

 主催の心——客の心。

 そのどちらも無碍にはせず、出来ず。

 葛藤の沈黙を破る決定打となったのは——再びに鳴る腹の音であった。




「……本当に、いいのですか?」

「勿論です。そうしてもらえた方が嬉しいですから」

「…………感謝します」




 そうして戻された皿を手に取る少女。

 載っていたパンの一つ自分の前に置いて残りは弟の皿に載せ、杯の中身も同様の配分で分け合うのであった。




————————————————————




 その後、しばらく。

 梟の声が木霊する暗闇の部屋。




「…………」




 木製の簡素な寝台に布を敷き、その上で物思いに耽るのは青年。



(夢の中なのに、しっかり言葉も話して、関係があって、お腹も空いて……まるで皆んな、"生きているみたい")



 夕食の後、家主の『せめてもの持て成し』という強い勧めを彼女は何度も断ることは出来ず、一晩の宿泊を受諾。

 今は使われていない寝室で静かな夜を過ごしていた。



(夢なのに……優しくて、頑張ってて)


(俺だけが、浮いている……曖昧な存在)



 姉弟はとうに寝静まったのだろう。

 澄んだ聴覚には壁を撫でる風の音だけが聞こえる。



(……この夢から覚める時は来るのか)


(……そもそも何が夢で、何が……)




(もしかしたら、現実は……)




「……」




 待てども待てども、今日も夢は終わらなかった。

 募る未知の体験、苛立ちに頭を抱える今もそれは続き。

 青年は『ルティシアに行けば自ずと理解できる』というアデスの発言を思い返しながら今日、この都市で得た情報を反芻して気を紛らせようとする。



(……兎も角)


(事前の情報通り、恐らくこの都市は神獣に襲われた。小都市とはいえ、入り口の周りに見張りがいなかったのもその影響せいで——)



 肝心のアデスを何時間も待たせていることを疲弊動転の気ですっかり忘れている頭で、思案する。



(——さっきの夕食を見た限り、襲来が原因となって食料が不足しているのも事実)


(このまま、事態が好転しなければ、人々は……)



 表情で潰す苦虫。

 アデスの言葉通りならば外部の救援は期待出来ず、ルティシアの人々は都市を出なければ最悪の場合——飢えて空腹の"餓死"を待つだけとなる。



(……ここを捨てるにしても移動だって大変で、神獣の脅威もまだ近くにある)



 遠方より身を音で震わす轟音。

 その主は物理的にも信仰的にも人の手に余る問題の源。

『他の都市からが駄目なら、自分が少しでも食料の調達・供給を』——とも青年、思いはしたが。

 "一人で百を超える数の人間の腹をどのようにして連日、満たすのか"——つい先日まで只の学生であったその身で直ぐに、見当はつかなかった。



(……『どうすればいいのか』分からないのが現状で、それはこの都市の人も同じ)


(八方塞がり……)




(だけど……だからこそ、彼らは——)




 見当はつかないが、それでも頭を悩ませる——今の状況では己の心が休まらぬから。

 考えるのは"苦難から人々を救うと言われる"——『ある眉唾物の存在』について。



(——祈った。『生きたい』という純粋な願いを)


(そして、願われた方……俺もそれを望んで)


(……応えたから、今の"この姿"に……?)



 理論は分からずとも、理屈ではそうなるだろうか。

 祈り・願い・思い——ここで言う信仰の持つ情報に引かれ、女神の形へ魂が嵌った?



(……だからって)


(やっぱり俺に、そんなことを言われても……)



 腕で顔を覆い、力なく吐くため息。

 青年には獣を鎮め、豊穣をもたらす術や力が己に備わっているようには見えなかった。

 見えるのは"変わり果てた自分の姿"だけ——"誠という自分の不在"。



(……自分が生きるのもままならくて精一杯なのに、どうすれば……!)


(俺に、どうしろって————)



 青年の潤む瞳は輝き。

 漏れ出す嗚咽の声——。




「————、——っ」




(……この声は……)



 しかし、声の源は青年ではなく。

 それはどこか別の場所から——ルティスの下へ届く音だった。




「————っ、ん」




(……隣の部屋?)




 呼吸を忘れ、研ぎ澄ます聴覚が微小の波を捉える。




「——————……さん」




(……誰かを呼ぶような声)


(隣はアイレスさんの部屋のはず。彼女が誰かを……?)




 寝台から起き上がり、サンダルを履く。

 深夜の呼び声を不審に——もしくは自分が呼ばれているのかもと——思い、立つ。




「……、……さん」




 音の振動伝いに部屋を出て、辿り着く少女の寝室の前。

 寝室の空間には立ち入らず、部屋の入り口で更に耳をそばだてる。




「……い、丈夫……」




(……単なる寝言?)




 距離を縮めてもはっきりしない言葉。

 暗闇でも冴える目で見遣る先には寝転がる少女の動く口元。

 どうやら、音の正体は寝言のようである。



(……寝言なら、戻——)



 そうして、青年。

 問題ないと判断して宛てがわれた部屋に戻ろうとした矢先。




「……大丈夫だよ お母さん……」




(……!)




 聞いてしまったのは家族へ宛てた寝言。

 姿の見えない母親へ、夢で溢れる思いは雫となり——彼女の手元へ落ちて行く。



(彼女たちの、両親は……)



 伝播する涙の波。

 壁に寄りかかる青年も『家族』を想う。

 彼女がまだ誠だった頃、彼がオリベルやアイレスと同じ年齢の時、傍にはいつも家族がいてくれた。

 嬉しい時も悲しい時も、父や母・妹は、往々にして優しく彼に寄り添ってくれた。

 しかし今この場所、アイレスとオリベルにとっての家族は二人、どちらも成人には遠い姉と弟の二人だけであった。



(……それなのに、彼女たちは俺に優しくしてくた)


(お腹が空いているのに食べ物を与えようとしてくれた)


(大変なことだらけで、明日さえ分からない状況なのに……)




(……なのに、俺は——)




 噛み締める無力感で見る少女はやはり、どこか妹に似ていた。

 歳はいくつか離れているが、青年にとって歳下に見えるアイレスはやはり妹を想起させる存在で、その儚くか細い腕に見える最悪の未来。

 弟か姉を失った一人の子どもが身寄りのない孤独の中、どうやって世界を生きていけばいいのか——"もしも自分の妹が父と母を失い、更には兄のいない世界で生きていくことになってしまったら"。



(俺が都市のために——出来ること)



 重なる境遇、厚みを増す思いへ。

 握る拳は震えても。

 腹は減らずに漲る気力。

 疲れを知らぬこの体。

 夢だとしても、その身に力があるならば。





(俺が、彼女たちにしてやれることは——)





————————————————————




『——どうか、荒ぶる獣を鎮め、退けて』


『——再び、豊穣の恵みを。私たちに』


『どうか、お願いします』


『恐怖の火を消して、どうか我らの渡るまでを御守りください』


『静か穏やかな流れの女神——ルティス様』


『私たちは、まだ——』




『——死にたくないのです』




————————————————————




「"————"」




 直ぐ様、部屋に戻って掛け布を取り、自身には不要となったそれを少女の下へと運ぶ。




「——ん。……あれ、……——」

「……起こしてしまってすいません。寝言が聞こえたので、つい」

「……あっ。い、いえ。こちらこそ煩くして……」

「——大丈夫です。丁度、起きようと思っていた所だったので」

「……? それはどういう……」




 掛け布を渡して立ち上がる。

 成すべきことのため、立脚する。




「俺——自分は、もう行きます」

「でも、まだ夜で……」

「それも大丈夫です。その……夜からしないといけない仕事……みたいなものがあるので」

「……そう、なんですか」




 肌艶の瑞々しく貧相な印象を感じさせない姿の青年はそう言い、困窮する少女もそれを深くは追求せず。

 揺れる互いの長髪は座る者と立つ者とで距離を離して行く。




「……突然で申し訳ありません。ですが近いうちに必ず戻ります。お世話になったアイレスさんには必ず、何かお礼をしたいと考えているので」

「そんな……お礼なんて……」

「……今の自分は貴方に渡せるようなものを何一つとして持ちませんが、次に会う時は何か——いえ。帰ったら先ず"力のある方"に、貴方を、今のこの都市を何とか出来ないか……頼み込んでみるつもりです」

「……それは……」




 力のある者——有力者。

 それが誰だと言えずとも。

 女神との繋がりを思わせる濡れ髪の女性は助力を請うことを誓い、改めて己の決意を固める。




「何かを絶対だと約束は出来ませんが、出来ることをやります」

「……」

「貴方と貴方の家族、そして都市の人々が少しでも健やかに生きていけるよう……願ってみます」

「……」

「今日、自分がこの都市に来た——降りたのは"そのため"。都市の現状を"上の方々"にお伝えするためでもあったのです」

「——!」

「なのでもう少しだけ……待っていてください」




 凛々しく繕い、壁に預けていた蓑を羽織る。




「……今日は助けていただいて、ありがとうございました」


「貴方の優しさ、本当に嬉しかったです」




 そうして神殿までの案内・気分を悪くした自身の介抱・一宿の恩——といったアイレスに対する感謝の言葉を口に。

 場当たり的であってもこれが『今の自分に出来る最前』だと"神秘的"に去ろうと努め。

 そして、女神——。




「……では——」




「——"また"、"お会いしましょう"」




 闇を被り、玄関を開けてはしっかりと締め——怪しきことを申し訳なく思いつつも確固たる決意で姉弟の家を後にする。




————————————————————




(……"今の俺"に何ができるのか、本当に"そんなこと"が出来るのかは分からない、けど——)




 夜明けが近いのか。

 橙色が混ざり始める宵闇の中。

 青年は出入り口を目指し、歩みを進める。



(——それでも。この都市の人々は)


(あの姉弟は——苦しみの中でも、生きようとしている)



 胸に刻んだのは戯れる仲の良い姉弟の暖かは笑顔、そして——孤独に流す涙。

 失いたくない光景と和らげたい悲しみ。



(あの時、必死に『生きたい』と叫んだ俺が——)


(彼らの思いを、同じ願いを抱く人々を"無視できるわけない")


(たとえ今の、この世界が夢であっても——)




(——いや、夢だからこそ出来ることがあるかもしれないんだ)




 どうせ夢、されど夢。

 努力したところで現実の結果が変わらないのなら——それはそれで夢見の悪い只の悪夢として覚めよう。

 もう恐怖や悲痛に涙を流して怯えるのは十分だ。

 今更——

 そして、変えられるのなら勿論——



(だったら——"やってみよう")




(……)




 見覚えのある弧を描く口に向かって駆け出す。

 風を受けて上がる頭巾。

 長い髪をたなびかせ、露わになるのは女神の顔。

 頰を拭い、去る涙は線状の軌跡を残す。




(俺に、力があるのなら)


(彼らを守り、救うことのできる"力"が)


("女神としての力"が本当に、あるのなら——)




 口を潜り抜けた先で息を整え、見回す周囲。

 ポツンと生える一本の木、その幹の後ろに覗く影に向かって声を掛ける——宣誓する。




「——アデスさん」


「自分……いや——」




「——"俺"、やります」




 "生きる命たちの"——"未来のために"。








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