第3話 からすのきもち

「…………」

 ……そういうことか。


 よく晴れた朝。部屋から出た私はマンションの戸の前で一人、「恐怖フィルター」の必要性について深く理解させられていた。


 記念すべきアニマルグラス初使用。外に出て装着すると同時に飛び込んできたのは、誰のものだかも分からない「こわい」という悲鳴だった。しばらく止まって聞いているが、耳に入ってくるものはほぼ全て「こわいぃぃ」だの、「こわいよおお」だの、恐怖に関する言葉ばかり。この様を端的に表現するならば……やかましい。


 推測するに、動物が厳しい弱肉強食の世界で生きていく中で、「恐怖」というものは最も原始的にして不可欠な感情なのだろう。恐怖という感情を抱くことによって、危険を「避けるべきもの」として認識し、生存するために適切な行動を選択することができる。もしかすると人間は、食物連鎖の頂点にいるが故に恐怖という感情が著しく欠如した、言わば異常な生物なのかもしれない。


 けたたましい「こわいこわい大合唱」の中、私は迷うことなくレンズ右上のボタンを押した。


 さて、聞こえてくる音もスッキリしたところで、まずは誰に話しかけようか。車輪の小さい自転車にまたがり、神奈川の街にペダルを漕ぎだした。


 あたりに聞こえる鳥のさえずりが、理解できる言語として聞こえてくる。恐怖の叫びに度肝を抜かれた衝撃で掻き消されていたが、動物の言葉が理解できるということへの感動がだんだんと込み上げてきた。


『今日は風が少なくてよかった。おかげで飛びやすい』

『例の食事場所はどうだったかい?』

『そりゃあもう、盛りだくさんですわ。あとしばらくすると持っていかれちまうから、今のうちだぜ』

『そうだな……じゃあもう少し休んだら』


 そんな極めて人間に近い知的な会話は、電線に止まった二匹のカラスのものだった。彼らは非常に頭脳明晰で、ゴミ置場の餌を物色する者と頭上から周囲に注意を払う者とで役割を分担するといったように、巧みな戦略で人間と渡り合うことで知られている。そんな彼らはやはり、会話のレベルも格上のようだ。


 自転車を止めた私は少しの勇気を出し、話しかけてみた。

「ごきげんよう、カラスさん」


 すると、カラス達は驚いたようにこちらを向いた。


『……あれ、今この人間が話しかけてこなかったか?』

『バカ言え、人間が俺たちに理解できるように話しかけてくるわけないだろ」

「いえ、私ですよ。私は動物の言葉が話せるんです」


 私の言葉を聞いた彼らは、信じられないといった様子で私を凝視する。


『お、驚いたな、まさか人間様が俺らに話しかけてくるなんて』

『僕らの言葉が解るんですか?』

「ええ。実は特殊な道具を使っていまして』

『へえ、やっぱり道具を使える人間様はすごいなあ』

「人間様だなんて、やめてくださいよ。人間は何も偉くないですよ」

『いやいや、僕たちは人間様無しでは生きていけませんから。僕たちがあなた方の食べ残しを頂いてるの、知ってますよね?』

『すみません、汚いことして』

「そんな、むしろお礼を言いたいくらいですよ。無駄な食べ残しをしてるのは人間の方ですから。それを食べて貰えるのは助かります」


 まさか動物から崇め立てられるとは思っていなかった。環境破壊を繰り返す人間に動物は憤りを感じているのかと思っていた私は、少し安心した。


『あなたはこの後、どこへ向かわれるのです?』

「私ですか? 私はこれから仕事に行くんです」

『え、仕事?』

すると、カラス達はなぜか大笑いし始めた。

『あっはっはっは、そうですかお仕事ですか! そりゃあ大変だ!』

『僕らなんかに構ってないで、お仕事がんばってください! 人間様!』

「は、はい……ありがとう」


彼らは『では!』とだけ残すと、私の行く道と反対の方向へ笑いながら飛び去っていった。

 ……動物の笑いのツボの位置が分からない。

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