第3章

 車窓を流れる景色の中に、大輪のヒマワリたちが一斉に俯く姿を見つけ、秋の訪れを実感する。厳しい残暑も幾分和らいだ九月中旬の週末、僕は府中に住む従兄のもとへ向かうべく、中央線の車中にあった。

 従兄の聡ちゃんと僕は、かつて、ひとつ屋根の下で寝食を共にした。僕が大学に通う四年間を、彼のアパートで過ごしたのだ。彼は今でもそのアパートで暮らしている。


 僕は中学を卒業すると、地元京都にある全寮制の高校に進学した。特別その高校に入りたかったわけではない。どころか、自分で選んですらない。担任から勧められて、なんとなく入っただけのことである。はやい話、どこでもよかったのだ。

 都内の大学へ進むことにしたのにも、さしたる理由はない。京都を離れたかったわけでも、東京に憧れていたわけでもない。恋人がいたなら多少躊躇ったかもしれないので、恋人がいなかった、というのは理由のひとつに挙げられるかもしれないけれど、主だった理由ではない。何年も前に滋賀県民をやめて都民になっていた聡ちゃんから、こっちへ来ないか? と誘われ、その誘いになんとなく乗っただけだ。

 彼にしても、なんとなく誘っただけだろう。はじめはそう思っていた。けれど、違った。

 聡ちゃんは怒っていた。僕に対してではない。法律に対して。行政に対して。そして、最も、犯罪者に対して。


 聡ちゃんは所謂活動家になっていた。彼は仲間を集め、市民団体となり、諸悪に向けてシュプレヒコールを上げていた。

 このことは、昔の彼──恬然として、冗談が好きで、いつも笑顔を絶やさない彼──をよく知っている僕にとっては、思いもよらないことだった。なにせ彼が上京した理由は、『漫才師になるため』のはずだったのだから。


 聡ちゃんは首都圏の国立大学に入学すると同時に、お笑い養成所に入り、そこで知り合った仲間と『甘茶蔓茶』というコンビを結成した。動画投稿サイトにアップされた漫才を、僕も何本か目にしたことがある。どのネタも全く違うスタイルで、奇抜な印象を受けた。お笑いのことはよくわからないけれど、新しいことをやろうという並々ならぬ意気込みが存分に伝わってきた。僕は見たことないけれど、関東ローカルのテレビ番組にも何度か出たという。「まずまずウケた」と本人は言っていた。

 早く全国放送で出ないかなあと心待ちにしていたところ、甘茶蔓茶は方向性の違いを理由に、結成から三年を待たずして、あっけなく解散してしまった。僕が聡ちゃんの部屋に転がり込んだとき、彼は大学院でゴミのイオン化分解の研究をする傍ら、ピンで細々とお笑い活動を続けているという状態だった。

 どうやら彼は、僕を仲間として(もちろん漫才師の相方ではない)招き入れるつもりだったらしい。そういう意図を持って東京に呼び寄せたのだと思う。


 もし彼が、反捕鯨とかオリンピック開催反対といった、僕の理解に苦しむ運動やテロ紛いの過激な活動をしていたとしたら、僕は即座に彼の許を去っていただろう。

そうしなかったのは、彼の活動が極めて理知的で正義感に溢れ、そして何より、彼が根本的には昔と何ら変わっていなかったからである。


 僕は、彼の思想や活動にある程度の共感を覚えはしたものの、仲間に加わりはしなかった。彼がやんわりと勧誘紛いのことを言ってきても、それと気付かないフリをし、彼が活動内容について語っても、失礼のない程度に興味のないフリをした。

 興味のないフリ、という表現は嘘になるかもしれない。実際、あの当時の僕にとって、彼の思想や活動内容は、興味の対象とかけ離れていたのだから。


 上京したての僕は、無気力の泥の中にいた。何に対しても興味が持てない、将来の夢も希望も、野望も持たない、持とうともしない。それが当時の僕だった。

 そんな腑抜けに見切りをつけたのか、彼は強引に僕を誘うようなことはしなかった。そういう活動をしている人には珍しく、物事に執着し過ぎるということがなかった。拘泥というものを一種の精神疾患とみなしている節さえあり、視野が狭くヒステリー気味にある仲間を窘め、穏やかに説得する姿を何度か目にしたことがある。

 いずれにせよ、おかげで僕はそこに居続けることができた。


 僕が上京した当時、彼が最も力を入れていたのは性犯罪に関する法整備だった。性犯罪者の去勢、脳手術(どちらも放射線照射による数分間の簡単な手術で、肉体的苦痛を伴うことはないらしい)、マイクロ認証チップの体内埋め込み義務化の必要性などについて僕も聴かされたことがある。特に去勢と脳手術について、これらは倒錯した性欲に苦しむ犯罪者たちを救うことにもなる、と力説していたことを憶えている。そして加害者の人権を尊重するという名目でこれらの手術に反対する団体に対して、深い失望と憤りを隠さなかった。


 メンバーの中には、身近な人がそういった犯罪の被害にあったという人、そして被害者本人も含まれているらしかった。彼が何故その活動に力を入れていたのか、僕は知らない。そんなこと訊けるはずもなかった。彼だけでなく、メンバーの誰についても詳しい経緯を知ってはいない。知るべきでない事実が潜んでいるかもしれないと思うと、詮索することは憚られた。



「キュキュ。駅周辺でおいしいケーキ屋をおしえて」


「mimi 改札出たら、目と鼻の先にあるわ」


「評価は?」


「ネットの評価なんか、あてになるかいな。そんなん気にせんとき」


「う~ん、ま、いっか。店の名前は?」


「『フランボワーズ』や。わいと同じフランス語の名前やな」


 僕は携帯端末を機種変し、秘書アプリを変えた。いくつか試したのち、大阪出身のお笑い芸人『キュキュ』を模したアプリを正式採用とした。なにが正式なのか自分でもよくわからないけれど、とりあえず一年を目処に使うつもりでいる。


「おすすめは?」


「一番人気は、モカモンブランやな。和栗と和三盆糖を使った上品な甘さやて。中のモカクリームには、蒜山の放牧ジャージー牛の生乳と、スペシャリティのコーヒー豆をつこてんねんて。うおおおお! よだれ出てきた! わいにも一個こうてんか!」


 キュキュはうるさすぎるかもしれない。

 まだハーフサイズの胸像なので我慢できるけれど、これがもし実物大の全身像で、本物みたいに前傾姿勢になってお尻を突き出し、プリプリと左右に振られでもしたら、さぞかし辟易させられることだろう。


 聡ちゃんへのお土産にモカモンブランを買い、フランボワーズをあとして、駅前通りを西へ進む。七年前にはなかった建物があったり、あったはずの建物がなかったりした。三百メートルほど進み、左折してまたすぐ右折。古い建売住宅の列が途切れると、ことさら古い聡ちゃんのアパートが見えて……こないな。

 以前は駐車場だったところに、五階建ての瀟洒なマンションが建っている。外壁に沿って裏側へまわると、聡ちゃんの住む木造モルタル二階建てアパートは、ひっそりと隠れるようにしてまだあった。四方を自分より高いビルやマンションに取り囲まれた様は、逃げ損ねてどうしたらいいのかわからない、といったふうだった。


「キュキュ。これが昔、僕が住んでたアパートだよ」


「mimi」

 原付自転車の警笛に似た軽快な音とともに、キュキュが現れる。

「ザ・昭和っちゅう感じやな。大阪でゆうところの、文化住宅ってやっちゃ」


「文化住宅?」


「一九六〇年前後に、近畿で建てられた典型的な安アパートのこっちゃ。瓦葺の長屋で、各部屋にトイレがついとって──って、そんなんどーでもえーやろ! しょーもない説明さすな! アホんだら」


 キュキュは口が悪すぎるかもしれない。

 質問すれば一応答えてくれるけれど、仕舞いにはたいてい「くだらん説明させやがって!」とか、「ホンマにこんなこと知りたいんか!」などと悪態をつかれる。


「ずいぶん空き部屋が多そうだ。それに陽あたりが悪くなったからかな、雰囲気が違う」


 七年振りなのに、あまり懐かしくない。


「いま、入居してるんは、三部屋しかないわ」


「たった三部屋? 寂しいわけだ」


 聡ちゃんの住む一〇二号室の扉は、風通しのためか、半開きになっていた。約束の時間にはまだ少し早いけれど、扉の内側をノックし、返事を待たずに、隙間から身体を中へ滑り込ませる。途端、古い建物特有の匂いが微かに鼻腔へと流れ込み、僕はようやくほんの少し懐かしさを感じた。

 住んでいた時は気にならなかったけれど、ずいぶん個性的な匂いだ。似た匂いを探せば、農家の納屋、あるいはブルーチーズといったところか。お世辞にも芳しい香りとはいえないものの、決して嫌な匂いではない。懐かしさがそう錯覚させるだけなのかもしれないけれど。

 玄関の脇に風呂とトイレがあり、手前から奥に六畳間が三つ続いている。手前の部屋は台所になっていて、誰も居ない中、鍋が火にかけてあり、換気扇が回っていた。換気扇はやけくそみたいに激しい音を立てている。僕が住んでいた時よりもずっと大きな音だ。せめてこの騒音に見合うだけの換気能力があればいいのだけれど、残念ながら電気エネルギーはファンの回転には費やされず、そのほとんどが音エネルギーに変換されている。


 もう一度ノックした。しかし何も返ってこない。いくら耳を澄ましても、換気扇の音に邪魔をされて、奥の話し声や物音をうかがうことは出来ない。昔なら遠慮なくあがり込むところだけれど、今やそうもいかない。聡ちゃんには奥さんも子供もいて、ここで一緒に暮らしているのだから。僕はもう、この部屋の住人ではないのだ。


「mimi 聞こえとらへんのとちゃうか。でっかい声で呼んだりいな」


 デンちゃんと違い、キュキュは勝手に出てきて、勝手にしゃべりだす。いちばん言葉数の少ない〈寡黙モード〉にしているにもかかわらず。


「こんにちはー」


 大きめの挨拶を投げると、いちばん奥の間から「はーい」と返事があった。襖の床すれすれのところから、聡ちゃんが首を伸ばして顔だけ出した。


「やあ! いらっしゃい!」


 こちらを向いて相好を崩す聡ちゃんは、僕のよく知る、昔のままの溌剌とした聡ちゃんだった。先月、端末越しに見た、虚ろな目をした彼と同一人物だとは信じ難い。本当に嬉しそうに出迎えてくれるので、こちらまで嬉しくなる。


「いらっちゃーい」


 聡ちゃんの頭にのしかかるようにして、娘が姿を現し、かわいい挨拶をくれた。たしか来年の春、小学校にあがるのではなかったかと思う。端末越しに何度かその姿を目にしたことはあるけれど、こうして直に会うのは初めてだ。最後に見てから、かれこれ三年になるだろうか。僕の記憶にある従姪とはまるで違っている。子供の成長は早い、なんていうけれど、なるほど、納得である。

 続いておくさんが現れ、一揖しながら「どうぞ、あがって下さい」と言って、こちらへ歩み寄って来た。と思ったら、火にかけた鍋の様子を見に来ただけだった。

おくさんの横顔に「おじゃまします」と声を掛け、靴を脱いで上がった。布団が畳んで重ねてある仄暗い寝室を抜け、かつて自分の部屋だった奥の間へと歩み入る。


「よく来たね、いま昼メシの支度してるから」と言って、聡ちゃんが座布団を差し出してくれた。

「おかまいなく」と言って僕は、持参したモカモンブランの箱を卓袱台の上に置き、座布団の上に腰を下ろした。

 従姪は嬉々として、聡ちゃんの背中に自分の背中を擦り合わせている。僕は彼女に何かひと声掛けようとしたが、その時初めてこの子の名前を失念していることに気付いた。

 屈託なく聡ちゃんにじゃれる従姪を微笑ましく眺めるフリをしながら、僕は必死で名前を検索する。しかし、いくら頑張っても名前は出てこず、頑張った分だけ冷や汗が出た。

 結局、ぼろを出すのをおそれ、「大きくなったね」というなんの面白味もないひと言を絞り出すのが精一杯だった。


「忙しいなか来てもらって、わるかったね」


「忙しくなんかないよ。九月に入って、仕事も楽になったし」


「ああ、そうか。八月は毎年、並木の剪定だって言ってたね。そうだったそうだった。その褐色の肌は、あちこち遊び歩いたご自慢の日焼け跡ってわけじゃないんだ」


「事情を知ってる人はみんな、この黒い顔を不憫に思ってくれるんだけど、知らない人は妬ましく見るみたい」


「それにしたって、どうして八月なんだい? もっと涼しくなってからでいいだろうに」


「うちの区にはプラタナスが多いんだけど、あれはあまり丈夫な木じゃないんだ」


「なるほど、強風で倒れる危険があるから、台風シーズンの前に刈ってやらないといけないってわけか」


 聡ちゃんは話が早い。一を聞いて十を知る。


 西に面したガラス扉の外には、テニスをするには狭いけれど、バドミントンなら充分できる庭がある。ブロック塀の向こう側には、中堅食品メーカーの本社ビルが屹立している。

 二階の物干し台がせり出しているため、部屋の中から空はほとんど見えない。それでも今日みたいな、雲を散らした秋晴れの空模様なら、昔はもっとずっと明るかったはずだ。


「ずいぶん暗くなっちゃったんだね」


「南を塞がれたからなぁ。昼過ぎにはもう少しマシになるんだけど」


 ビル壁の鈍い照り返しだけでは明かりが不十分とあってか、天井の照明がその不足分を補っている。


「マンションの敷地を抜けて来たけど、よかったのかな」


「あそこを通らないことには、ここまで来れないよ」


「通るとき、なんだかちょっと卑屈になるね。お邪魔しまーす、って感じ」


「こそこそすることないさ。あのマンションとこのアパートは、オーナーが同じなんだ。あれはこのアパートの別館なのさ。こっちが本館」


 そう言って聡ちゃんは、悪戯っぽく笑った。冗談を言ったときに彼がよく見せる、嫌味のないしたり顔だ。


「いつ建ったの?」


「今年の春に分譲を開始した。ホントはここを取り壊して、もっとデカイのを建てる予定だったらしいんだけど」


「立ち退かなかったの?」


「うちは立ち退いてもかまわなかったんだ。ホントだよ。この子が幼稚園にあがる前の年に話が来たんで、時期的にもちょうど良かったし、少ないけど立退き料も出すって言うし」


 奥さんがやって来て、ペットボトルのお茶と氷の入ったグラスを、「どうぞ」と言って卓袱台の上に置き、すぐまた引き返して行った。


「二階のいちばん奥の部屋に、大家の息子が住み着いてるんだけど、これが出ないと言い張ったんだ。おかげで、今でもこうしてここで暮らせるってわけさ」


 どうやら皮肉であるらしく、またしたり顔を見せた。


「ここまで古い建物だと、維持費もバカにならないだろうね」


「そうなんだ。平成の中頃に耐震補強してるんだけど、それじゃ新しい基準をクリアしないらしい。ここに住み続けるには、また大掛かりな工事が必要なんだ。そう言って大家もずいぶんと息子を説得したって言ってたよ」


「たしか、昭和最後の年に建ったって言ってたから、かれこれ──」


「建ったんじゃない。リフォームしたんだ」


「え?」


「昭和六十三年にリフォームしたのさ。こいつが建ったのは昭和四十七年。とっくに還暦を過ぎてる」


 そう言って、聡ちゃんはまた笑った。こうして明るい彼を目の前にすると、あの憔悴した聡ちゃんはいったい何だったのだろうかと、ますます訝しく思えてくる。


「実はね、近々このアパートを出ることになったんだ。いよいよ取り壊すことが正式に決まったんだよ。一応ハルトくんにとっても思い出の場所ってことになるし、報告する義務があるんじゃないかと思ってね」


「ふうん。まあ、なんていうか、驚くべきことなんだろうけど……」


 還暦をとっくに過ぎたアパートに、いまだ人が住んでいることの方がよほど驚愕の事実のように思えたけれど、それは言わずにおいた。


「さっき話した二階の引きこもりがね、実家に帰ることになったんだ。といっても、隣の新築マンションなんだけど」


 帰るというのは当然、再び親と同居するという意味なのだろう。いったい幾つくらいの人なのか。何をしている人なのか。そして──

「どうして帰る気になったのかな」


 気のせいか、聡ちゃんの顔が強張ったように見える。

 彼は何も答えない。

 曇った表情で静止し続ける。

 

 この悄然とした様子には見覚えがある。

 お盆に話したときの聡ちゃんだ。


 僕は大家の息子に特別興味があったわけではない。どうして帰る気になったのかなんて、知らなくても全然かまわない。ただなんとなく訊いてみただけだ。僕にはどうでもいい質問だった。しかし、彼にとっては、どうでもいい質問ではなかったようだ。


 焦点を結ばない目で、聡ちゃんがペットボトルに手を伸ばす。キリリと蓋を捻って、僕の前に置かれたグラスに中味をなみなみと注ぎ、残りを自分でラッパ飲みした。

「ふぅ」と小さく息を吐いて、また少し間をとった後、聡ちゃんは呟くように言った。


「暇を持て余したのか……、単なる気まぐれなのか……。いずれにしても、悪い選択じゃないさ。状況の後押しがあったとはいえ、立派な決断だ。尊敬に値する」


 笑ってはいなかった。

 大袈裟な表現は冗談ともとれるけれど、したり顔を見せないので、冗談なのか本気なのか、判別しかねた。

 もちろん僕には、立派な決断とも尊敬に値するとも思えない。他に選択の余地がないだけだろう。


「ねぇ、そろそろ」


 台所からおくさんが呼び掛けてきた。


「ああ、わかった」

 聡ちゃんは、腰をとんとんと叩きながら立ち上がり、

「鯛を一匹買ってあるんだ。刺身にしようと思ってね。好きだったろ?」と明るく言い残して、台所へ姿を消した。


 いつの間にか庭に陽だまりができていた。僕は膝立ちして、天井の照明から垂れ下がった紐を引き、明かりを消した。自然光だけでも部屋の中は十分明るい。

 聡ちゃんの娘は僕に何の興味もないらしく、陽の迫った縁側に腰掛け、何やら口遊みながら足をぶらぶらさせている。人見知りをしているわけではなく、単に物怖じしないだけのようだ。おそらく、今でもここでグループの会合を開いており、普段から来客が多いせいだろう。


 僕は改めて従姪の名前を思い出そうとしてみた。珍しい名前ではなく、むしろありふれた名前だったはず。

 いつだったか聡ちゃんが、「自分も妻も、生まれた年で二番めに多い名前なんだけど、どうやら子供までそうらしい」と言っていた記憶がある。保険会社が調べた〈子供の名前ランキング〉を情報番組で見て知ったそうだ。


 僕自身は、生まれた年で最も多い名前である。学生時代、クラスには常にもう一人の『ハルト』がいた。そして知り合いの中には何人もの『ハルト』がいる。

 このことが、自分をごく普通の人間であると思い込ませるのに、ひと役かったかもしれない。どこにでもいる、ごくありふれた人間。それが僕の僕自身に対する評価だ。


 僕は従姪の名前を思い出すことを諦め、両手を頭の後ろに組んで仰向けに寝転がった。青春の一ページであるこの部屋でしばし懐古に浸って、胸を熱くするのもわるくない。と思ったものの、もともと昔を振り返って物思いに耽るタイプではないので、それも長くは続かなかった。そばで無数のセミが鳴いていたなら、また違ったかもしれないけれど。

 異常に集中力を高めるあの特殊技能は、夏が終わり、セミの声を耳にしなくなると、再現不能となった。年をおうごとに磨きをかけてきた技だけれど、どうしても季節の壁を越えることが出来ないでいる。あれは夏季限定の能力なのだ。


「mimi 退屈やったら、小噺でもしたろか?」


 いくらキュキュでも、そばに人がいるときに出てくることはない。僕は縁側にいるはずの聡ちゃんの娘に目を向けた。従姪は陽だまりの中を散歩していた。


「いや、今はいいよ」


「せやな。従兄の家で笑い死にしたら、迷惑かけてまうしな。わいの小噺は殺笑能力高すぎんねん。オモろ過ぎるのも困りもんや」


 秘書アプリの音声は指向性が高く、利用者以外にはほとんど聞こえない。とはいえ、キュキュの声の大きさと話の内容、それにこの神出鬼没なところは、僕をドキドキさせる。


「しばらく電源切っといた方がいいかな」


「ちょっ! ちょっと待ったりいな! そら殺生やで」

 ぶつぶつ言いながらも、キュキュは自らフェードアウトしていく。

「難儀なやっちゃ」


 部屋を見回してみて、テレビが無いことに気が付いた。処分したのだろうか。

 聡ちゃんが昔、「小さい子供にテレビばかり見せるのは如何なものか」と苦言を呈していたことを思い出す。「子供をテレビ漬けにするのは育児放棄に他ならない」、「小学校に上がるまでテレビは見せない方が良い」とも言っていた。

 それについて僕は、子供の頃の彼が大のテレビっ子だったことを憶えていたので、よく言うなぁ、ってな感じで聞き流していた。そんなわけで、本当に実践するとは一ミリも思っていなかった。


 聡ちゃんは台所から戻って来ない。僕はすっかり手持ち無沙汰になり、書架の中から『カムイ伝』を手にとって読んでいたけれど、しばらくしてそれが暇つぶしに読むものではないと判り、もとあった場所へそっと戻した。世の中には居住まいを正して読むべき本や、見るべき映画がある。久しくそういうものに出会っていなかったため、この厳かな感情をすっかり忘れていた。


「よいちょ」


 聡ちゃんの娘が戻って来て、縁によじ登る。部屋に入ったのも束の間、台所から奥さんのくすくす笑う声が聴こえて来ると、その声に誘われて走り去った。それを機に僕は庭へ出てみることにした。


 木製のつっかけは、僕がいた頃のものとよく似ている。カランコロンという小気味良い音を聞いて、そういえば昔も右と左で違う音が鳴っていたな、と七年前の記憶がよみがえった。

 たくさんあった鉢植えの数が半分ほどに減っている。あるのは日陰に強い草花ばかりで、苺が多かった。


 物干し竿を潜り、ブロック塀まで行って踵を返すと、塀に寄り掛かって建物全体を一望した。やはり、たいして懐かしくない。二十代の七年半なんて、あっという間なのだ。

 一階と二階に八部屋ずつあるが、聡ちゃんの一〇二号室以外でいま人が住んでいるのは、どうやら一〇五と二〇八だけらしい。その他の部屋はどこもピタリと雨戸が閉まっている。

 一〇五の住人は、僕が居たころと変わりなければ、ひとり暮らしのおばあさんのはずである。そして二〇八が、例の大家の息子なのだろう。

 僕は一〇五の方へ向かって歩いた。庭には仕切りがなく行き来が自由にできる。といっても、僕が住んでいた頃はまだ空き部屋の方が少なかったので、こんなふうに気儘に歩きまわることは滅多になかったけれど。

 一〇五の濡れ縁のそばには、茶色い素焼きの四号鉢が二つ置いてある。二つとも苺だった。これを見て、僕は自分の部屋にある苺の株が、おばあさんにもらったものであることを思い出した。

 いつから忘れていたのだろう。どうして忘れていたのだろう。自分の薄情さに少しへこむ。

 レースのカーテンを通して室内を窺ってみる。中はほとんど見通せないけれど、こうしてここに立っていれば僕の姿に気付いてくれるだろうと期待して、そのまましばらく待った。


「mimi そないじぃーっと覗いとったら、通報されんで」


「いないのかな」


「おらん」


「えっ! どうしてそんなことわかるの? まさか、違法アクセスとかしてないだろうね。そこらじゅうの防犯カメラに」


「そんなんするかいな。人工知能は法の忠実な飼い犬やで。室内に生体反応があるかどうか調べただけや」


「そんなセンサー、付いてたっけ」


「利用者のバイタルチェックする機能があるやろ? あれを使うねん」


「それって、やっていいことなの? 空き巣が悪用したら、被害が増えちゃうよ」


「大丈夫や。禁止される方向で動いとる。近いうちに法改正されるんちゃうかな」


「それじゃダメじゃないか」


「まったくや。この国の法整備は、いっつも後手後手にまわっとる。政治家の怠慢やでこれ、なあ?」


「悪用すんじゃないって言ってんの。まったく。こんなにモラルを軽んじる秘書アプリがいるなんて、信じられないよ」


「そんな悪い秘書アプリがおんのかいな」

 キュキュは何食わぬ顔で消えて行く。

「けしからんやっちゃ」


 僕とおばあさんが仲良くなったのは、僕がこのアパートを出る半年前のことだった。きっかけは、おばあさんが作った煮しめだった。

 おばあさんと聡ちゃんは、僕がこのアパートの店子となる前から親しい近所付き合いをしており、お裾分けをあげたりもらったりといったやり取りがあった。僕は自分が普段食べているおかずの中に、おばあさんからのお裾分けが含まれていることを、なんとなく知ってはいたものの、それについて特に思うところはなかった。味付けの感想も、感謝の気持ちも。


 ある日、聡ちゃんの留守中に、丼鉢を手にしたおばあさんが訪ねて来た。挨拶以外の言葉を交わしたのはこのときが初めてだった。丼を手渡された際には、聞き馴れた聡ちゃんの言葉を真似て、お礼を言った。

 おばあさんが帰った後、手にした丼に視線を落とした。丼はまだ温かかった。湯気で曇ったラップを剝がすと、なかにはたくさんの煮しめが入っていた。僕はその場でレンコンをひとつ抓んで口に入れた。いつもの冷えた煮しめとはずいぶん印象が違った。

 それまでの三年半は、スーパーで買ってくる惣菜となんらかわらなった。僕にとっては、流れ作業で作られる工業製品と同じだったのだ。それが、作り手と言葉を交わし、作り手から直に受け取ったことで、ただの煮しめではなくなった。

 そう感じた瞬間、僕は恥ずかしくなった。感謝の気持ちすらなかったこれまでの自分が。他人の言葉を借りて口先だけのお礼しか言えなかった自分が。

 もっとちゃんと目に見えるかたちで恩返しをしなくてはいけない、そう強く感じた。


 その日の夕方、さっそく聡ちゃんに相談し、彼がおばあさんのために普段何をしているのかを聞き出した。次の日からおばあさんの部屋に出向き、換気扇の掃除をしたり、天井の切れた電球を変えたり、買い物を代行したりした。以後、半年という短い期間ではあったけれど、僕とおばあさんの親密な交流が続いた。


 僕がここを出る日、おばあさんは僕に、タッパーに入れた煮しめと、苺の苗を持たせてくれた。その苺の末裔たちが、今でもうちの庭のプランターで元気にしている、というわけだ。

 ところが何故か僕は、おばあさんからもらったことをすっかり忘れていた。まったく薄情な話ではないか。


 それにしても忘れた理由がわからない。

 しいていうなら、あのときの僕は、別れを別れと思っていなかったかもしれない。またすぐに帰って来る、いつでも遊びに来られる。ちょっとした長期旅行にでも出発するくらいの軽い心持ちだった。だから、いつものお裾分けと同じ感覚で苺を受け取り、聡ちゃんに貰ったたくさんの苗のなかに紛れてしまったのだ。


 僕はまだ本当の別れというものを理解できていないのかもしれない。別れを実感したことがないのかもしれない。小学生のとき、実の祖母を亡くしているというのに……


 上体を反らして、二〇八号室に目をやった。日に僅かばかりの直射日光が当たっているにもかかわらず、窓には遮光カーテンが引かれている。世の中のすべての事象をシャットアウトするかのように。

 そんな男でさえも、実家に帰ることを決意したのだ。何かしら思うところあって。

 鑑みるに僕はどうだろうか。

 僕はまだ、親に対して、何の思いもない。



 朝飯を抜いて来いという聡ちゃんの忠告に従ったのは正解だった。卓袱台の上には所狭しと皿が並び、端に置かれたものはどれも落っこちそうになっていた。

 キノコたっぷりの鶏飯、鱚の天ぷら、鯛の刺身とそのアラで出汁をとったお吸物、カブの漬物、そして煮しめ。すべて僕の大好物だ。

 聡ちゃんは自分の前の煮しめに、これでもかと一味唐辛子をかけ始めた。奥さんも卓に着くなり、煮しめに七味を三振りした。娘もそれを真似るように二振りした。僕はどちらかというと辛いものが苦手なのだけれど、自分もかけなければ不審に思われるのではないかという変な気詰まりを感じ、娘が置いた七味を手にして軽く二振りした。


 どれもこれも美味しかった。美味しかったけれど、ひとつだけ残念なことがあった。煮しめの味が、奥さんの味付けに変わっていたことだ。聡ちゃんの味とも、おばあさんの味とも違う。もちろんこれはこれで美味しいのだけれど、思い出の場所から何か大切なものが消えてしまったような気がしてならない。

 食後のデザートにまだ巨峰とモカモンブランが待ち構えていた。食べ過ぎておなかが苦しくなるなんて久しぶりのことだった。



 昼食の後、陽のあたる縁側に腰掛けて、聡ちゃんと二人で語り合った。ビルの影はすでに庭を半分まで侵食している。


「で? 今は何をしてるの?」

 僕は訊ねた。


 彼は昔からちょくちょく仕事を替えていた。二年前に勤めていた会社を辞めたと聞いて以来、彼が何をして生計を立てているのか全く知らない。

 ところが彼は、僕の質問を違う意味で捉えたらしい。


「汚職」と聡ちゃんは答えた。


 どうやら今の活動内容らしい。


「こういう活動をしてるとね、団体同士、横の繋がりみたいなものができてくるんだ。以前うちのグループを支援してくれた団体があって、そこの代表が是非とも力を貸してほしいって言うもんだから、まあ、義理もあってね」


「汚職って、政治家の汚職?」


「そう。といっても、私はそっち方面にはとんと暗いもんでね。目下勉強中だよ。それにしても、あいつら酷いんだ」


 そう言って彼は、国政の闇、主に裏金問題について、ひとしきり語った。政・官・民の癒着、談合、違法献金、政治資金不正受給……


 この十年、彼の抗議の対象は、仕事以上にころころと替わった。そんな彼に僕は正直、節操が無いなあ、と心の中で非難した時期もあった。しかし彼について理解が進むにつれ、彼が怒りの矛先を頻繁に変える理由も分かってきた。


 昔、二人でニュース番組を見ていた時のこと。ゴミ処理施設の建設に反対する地元住民が建設現場を取り囲んで座り込む映像が映し出された。それを見て僕は、いま隣では聡ちゃんが、この人たちに仲間意識を持って熱くなっているに違いない、と確信していた。

ところが彼は、まったく予想外の言葉を口にした。


「この人たちはゴミを捨てないのかなぁ」


 僕は自分の耳を疑い、混乱した。

 しかし、聡ちゃんの考え方をより深く理解するにつれ、彼があんなことを呟いた真意も自ずと知れた。


 彼は何かに反対する際、闇雲に異議を唱えるのではなく、必ず代替案を用意する。ゴミ処理施設の建設に反対するのであればゴミをどう処分するのか、原発の建設に反対するのであれば不足分の電力をどう補うのか。その代替案こそが重要であり、代替案なくして抗議なんかすべきでない、というのが彼の基本姿勢なのだ。


 彼はたいてい、おおよそ解決したとはいいがたい段階で、ひょいとグループを離れ、次に取り掛かってしまう。あとは野となれ、とでもいわんばかりに。

 思うに彼は、正しい抗議運動の在り方というものを指南しているのではないだろうか。代替案の作成ならびに団体の方向性を正しく設定すること、それこそが自分の使命だと感じているのように見える。


 彼のやっていることはある意味無責任かもしれない。しかし、ひとりの人間が一生のうちに成せる仕事の量は限られている。彼の中の義憤は、彼が一生をかけても処理しきれないほどに膨大なのだろう。より多くの問題を提起して、自分が正しいと信じる解決策、あるいは妥協案を実現させるためには、こんなやり方でも仕方がないと割り切っているのかもしれない。あくまで僕の想像だけれど。


「お盆に電話で話したろ? あのとき何処に居たと思う?」

 聡ちゃんが、ふふっと笑った。


「まさか永田町あたりで、危ないことやってたんじゃないだろうね」


「大津だよ。帰省してたのさ」


 ドキリとした。

 僕が知る限り、彼は上京して以来、帰省なんて一度もしたことがないはず。

 僕らはお互い親の話なんてしたことがない。彼と、彼の両親との間柄について詳しく知っているわけではないけれど、だいたい僕のところと似たようなものだろう。僕の中では、彼と里帰りはまったく結びつかない。


「どうして帰る気になったの?」


 言ってしまってすぐにハッとした。

 この質問が、さっき長い沈黙を生むきっかけとなった質問と同じであることに気付いたのだ。

 まずいな、と思ったが、果たしてたっぷりとした沈黙が生まれた。おそるおそる聡ちゃんの方を見ると、彼は腕組みをして、自分の足先を見るともなしに眺めながら物思いに耽っている。


 聡ちゃんの里帰り──それは何を意味しているのだろう。


 さくらは、結婚式が親に会う最後のチャンス、と言った。だとすれば、結婚式を挙げていない聡ちゃんは、その最後のチャンスを逃がしたことになる。にしても、親に会うチャンスというのが、そもそも僕には理解できない。親に会うのにチャンスもなにもないような気がするけれど。

 そういえばさくらは、ただ顔を合わすだけじゃなく本当の意味で会う、と言っていた。膝を合わせてきちんと向き合う、と。

 聡ちゃんはその機会を逃がしたがために、今こうしてうな垂れているのか。

 あのとき電話の向こうで悄然としていたのだろうか。


 どうやら僕は、親と向き合うということの意味すらわかっていないらしい。


 親との再会──僕は親と別れたつもりがないので、再会とは呼べないかもしれない。


 親と別れたわけではない。確かにそう思う。しかしそれは、一〇五号室のおばあさんに対して思うのとは、微妙に異なっている。

 おばあさんに対して別れたつもりがないのは、またすぐ会える、いつでも会える、という意識があるからだ。しかし、親に対して別れたつもりがないのは、さくらが言うように、きちんと向き合ったことがないからではないだろうか。

 ただ顔を合わすのと、本当の意味で会うのとは違う。さくらの言うとおりかもしれない。


 ビルの影が聡ちゃんの爪先に掛かっていた。ふと自分の爪先に目をやると、同じ様に影が掛かっていて、咄嗟に足を引っ込めた。


「特別なことをしたわけじゃないさ」

 おもむろに聡ちゃんが口を開いた。


 自分のした質問がすぐには思い出せず、言ってる意味がわからなかった。


「特別なことにしたのは自分なんだ」

 質問をようやく思い出したころ、彼がまた言った。


「自分で特別なことにしたんだ」

 念を押すようにそう繰り返した。


 その後、僕たちの全身が影にのみ込まれるまで沈黙は続いた。



「スペ……イン」


 部屋に戻ると、聡ちゃんの娘が、大きな世界地図の上に腹這いになって、国名を一つひとつ読み上げていた。


「フラ……ンス」


 奥さんは台所で何か仕事をしているようだ。


 聡ちゃんがやおら書棚に手を伸ばし、原稿の束を掴んで僕に渡した。


「さっき永田町で何かやってたんじゃないのかって訊いたけど、あれ、まんざらハズレでもないんだ」


 僕は原稿をパラパラと捲ってみた。


「出版企画?」


「知り合いの団体の代表ってのが、実は元議員秘書でね、裏金工作やなんかにかかわっていたそうだ。で、なんでもそのことを暴露したいらしくて、手を貸してくれって言うんだよ。私も一時、ジャーナリストの端くれだったからね」


「その代表は大丈夫なの? 捕まったりしないの?」


「捕まるかもね」


「ポー……ラン……ド」


「実際、加担してたんだから仕方ないさ。それに、どうやら個人的な恨みが絡んでるらしい。その議員に対する恨みがね。肉を斬らせてなんとやらだよ」


「クロ……ア……チア」


「自分の過ちを悔い改めたわけでも、良心の呵責に苛まれたわけでもないんだよ。その代表もまたタヌキなのさ。ま、私にとっては公憤だろうが私憤だろうが、どっちでもいい」


「ブル……ガ……リア」


「団体の代表にもそんな人がいるの?」


「団体にもいろいろあるさ。彼らがうちのグループを支援してくれたのも、彼らにとってメリットがあったからなんだ。それは判ってたんだけどね。こっちも損得勘定を優先させなきゃならない場合がある。軽蔑するかい?」


「ねえ、これなんてよむの?」

 聡ちゃんの娘が顔を上げて、僕に訊ねる。


僕はどれどれ、と地図を覗き込み、従姪が指差す二つの漢字を一文字ずつ指し示しながら、

「黒い、海、と書いて、黒海って読むんだよ」と言った。


「こっかい……、くろいうみ……」


僕は原稿を聡ちゃんに返し、彼はそれを元あった場所に収めた。


「こっかいって、ホントにくろいのかなぁ」

 聡ちゃんの娘が、如何にも子供らしい疑問を呟いた。


 対照的に聡ちゃんは、如何にも大人らしい答えを呟いた。


「日本のコッカイほどじゃないけどね」



    *



 子供の頃の夢を見た。

 京都の家のダイニング。

 テーブルに着く小学生の僕。

 正面から差し込む稠密な日の光。

 掃き出し窓の向こうにあるはずの庭は、光にのみ込まれて白一色だった。

 壁が白いのか、光が壁に反射して真っ白に見えるのか。

 床が白いのか、光が床に反射して真っ白に見えるのか。

 テーブルクロスが白いのか、光が柄をのみ込んで真っ白に見えるのか。

 キッチンで誰かが忙しなく動きまわっているけれど、光の中にいて見えない。

 僕は俯いて、携帯メールの続きを打った。

 光の壁の向こうから誰かが出て来たけれど、気にしなかった。

 打っても打ってもメールは完成しなかった。

 光の壁に誰かが入って行ったようだけれど、どうでもよかった。

 さっきからずっと同じ文章を打っているような気がするけれど、かまわず打ち続けた。

 光の壁の向こうから誰かが出てきて僕の前に皿を置き、光の中へ戻って行った。

 ハンバーグの匂いがしたけれど、無視した。

 ふと隣に気配を感じた。

 小首を傾げて窺うと、お姉ちゃんが僕と同じ様に携帯端末をいじっていた。

 右手の親指でこね繰り回すようにボタンを押し続けている。

 プロジェクタから浮かぶ画面を見つめているけれど、僕の角度からは青白い線にしか見えない。

 僕は自分が手にする携帯の液晶画面に視線を戻した。

『ふへなぬこゆひつふけりろら』

 続きを打った。

『んはまひるろへこふはいほち』

 だんだん意味をなさない文字の羅列に思えてきた。

 だんだん夢であることに気付きはじめた。

 だんだんだんだん目が覚めた。


 カーテンが風にそよいで半分ほど開き、朝日が僕の顔にまともに当たっていた。時刻を確認するため、携帯端末を手にする。画面が浮かび上がった途端、さっき夢に出てきた端末の液晶画面を思い出した。そういえば昔、あんなスマホを使っていたな、と懐かしく感じた。


 ん?


 僕に姉なんていたっけ……


 数秒間、真剣に悩んでしまった。

 自分が姉のことを忘れているだけなのでは? と疑うと、背筋を冷たいものが走った。

 自分には姉がいないということに確信を持てるまでには、しばらく時間を要した。



 キッチンでコーヒーを淹れ、カウチに腰掛けた。

 僕は一人暮らしを始めて間もないころから新聞をとっている。といっても当初の目的は新聞ではなく、折り込みチラシの方だった。近所にどういう店があるか、どこのスーパーが安いか、といった情報を得るために一ヵ月だけでもとった方がいい、と聡ちゃんに勧められたのだ。そんなことはネットで簡単に調べられると思ったけれど、彼によれば、こちらが求める情報だけが、こちらにとって有益な情報とは限らない、という。

 僕は言われた通り新聞をとった。そして、言われた通り一ヵ月で解約する心算だった。ところが、七年経った今でもとり続けている。


 理由は二つある。一つは、目だ。

 僕の目は幼いころからブルーライトを浴び続け、良好な状態とはいえない。

 実際僕のまわりには眼病を患う人が多く、なかには将来の失明が不可避であると宣告された人もいる。僕はネットニュースの閲覧を制限することで、ブルーライトによるダメージを少しでも軽減したかった。


 もう一つの理由は、これまた聡ちゃんだ。

 彼は常時新聞を五紙とっていて、それまで新聞を手にする機会がなかった僕を驚かせた。紙の新聞なんてものは斜陽産業の代表という認識でいたので、世の中にこんな人がいるとは思ってもみなかった。

 はやい話、彼を真似たのだ。彼が僕に及ぼす影響はそれほどまでに大きい。


 一杯のコーヒーと新聞。今ではこの二つがないと一日が始まらない。

 日曜日の折込みチラシは相変わらず求人広告ばかりでつまらないな、と思っていたところ、八つ折りの特大チラシが現れた。家電量販店でもオープンしたのかと思いきや、そうではなく、カルチャーセンターの広告だった。

『俳句講座』

『陶芸講座』

『油絵講座』

『水墨画講座』

『話し方講座』

『笑い方講座』

 新聞をとる人に向けた広告だけあって、どちらかというと年配の人向けというか、昔ながらのものが多いようだ。


 そんな中、ひと際目を引く講座があった。

 僕の目は『帰郷講座』に釘付けになった。


     第三章 完

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